まどろみの中/試論-2-

<記録の解体>

それらの日々から三年、もうカメラを持たない、何も撮らない、何も書かないでおこうと思った。こういう言い方は自分の意志による廃業宣言のように受け取られてしまう。もう何も撮れない、何も書けない、終わったのだ、と言い聞かせるしかなかったのだった。

その前の年の夏、私はあたかも旅行者の風を装って、私の風土、京都の夏の行事を撮って歩いた。その秋には、私によって撮られた何十本かのフィルムから、「ミイラ」になってしまったSへの鎮魂歌として「夢幻舞台」と題する写真とエッセイをまとめたささやかな本を出版した。この撮影のなかで、すでに地獄絵図が撮られていたのだったが、これが次第に私のこころを傾斜させていった。

その光景は、遠い記憶の像に結びついており、私を構成している原体験のルーツとしてあることを発見していた。死後、肉体は屍となり風化して土に帰る。あるいは地獄にて喘ぐ死者たちの群れ。私自身の風土を形成している原形が、ここ地獄絵図にあるようにも感じられたのだった。

カメラは自分をみつめる手段としてある。とするならば、カメラを持ち続けることを放棄しようとしていた私にとって「地獄絵図」はどうしても私自身の記録として残しておかなければならない最後の被写体だった。「地獄絵図」にまで行き着いてしまった「記録」の方法として、写真を撮る「行為」「姿勢」「言動」「思考」などの延長線上ではもう写真を撮り続けることなどできない、どうしようもないな、といった思いに至った。

「地獄絵図」を撮影していた夏の夜、<遠いところまで来てしまったな>とつぶやき、そのように感じていた感性(感情)は、すでに、人を失うに至った「記録」写真の在り方に対して、来たりくる新しい時代の潮流を予感していたのかも知れなかった。

それからかれこれ三年が経った。もう過去はすっかり私の内部で風化してしまった。この三年間、私の経過してきた過去の一切を反故にしてきた。その後の周辺で起こった新しい友たちのなかで、過去の話題には固く言葉を閉ざした。あたかも失語症の子供が口をつぐむように、小鳥がさえずりを失うように、もう語ることもなければ書き表すこともないだろうと思っていた。

それにしても、あのSが自死したという事実が私に突きつけてくるものは、何なのだろうか。来たりくる表現の方法、あるいはまなざしを、Sは時代をさきがけて得てしまったのだろうか。結局、時代の感性がおもむくままに行動してしまったSの「まなざし」が過去の累積から派生し、いまを組み立てる「方法」の論を超えてしまったのだろうか。

彼女が見てしまったものは、-夕焼けー沈みそうで沈まない真赤な太陽の贈り物。豊かな時代に生まれてきた飽食時代の「美しさ」感覚が崩壊し、新たなる感性、新たなる美、そこは花園、聖母マリアに目をあげ祈るーささくれたった地獄の美しさー(さみしささみしく支えるものは何もなく)裸の自分だけを見てしまったのではなかったか。

鎮魂。言葉は次第に私から遠のいていった。狂気の季節が去りていったのだな、とひそかに歓んだ。組織におけるアジテーターとして、あるいはオルガナイザーとして、自分の意志において選択した新しい道程を下部から支える統率者としてあろうとした。後退の瀬戸際に立った私にとって、どうしても護っていかなければならない私の構想。

全く新しい地平で事が始まらなければならなかった。私は一面、健康体となった。庭に植物を愛で、血縁家族に傾斜しようとつとめた。抱擁すべき制度の知恵は、人を軽やかな幸福で満たしてくれる。そう、自分の過去は年寄りじみて甘酸っぱく語ればよいのだ。いつもノスタルジーを大切に抱きしめていればよいのだ。

おおむね人の生とは、このようにして年月の起伏を経過させていくべきものなのであろう。
否、私はこの流れに逆らい、竿を差さねばならぬ。
風化する私の時計を逆転させていかねばならぬ。
この逆襲の手懸かりを、いまつかみ始めている。

この手懸かりは、私のプライベイトにおける対決であり、個の起立における挑発である。あるいは個と個の深い関わりからの相互挑発作用である。生活道具の豊かな所有は、すでに見てしまったがゆえに、私の内面を孤立化させ、飢えさせるもののようなのだ。

<創世へ>

こういった経過のさなかの最近、ちなみにひところの自分が書き記したとりとめのない評論形式の文章や、巷の光景を撮った写真を読み返していた。と同時に私の周辺を埋め尽くしていた知識の源泉とでもいうべき資料の整理を行っていた。

私が書き記した文章で、不特定多数の他者へのメッセージとしたものの多くは、当時個人誌として発行していた冊子「映像情報」、また実質的発起人として編集に携わった「季刊釜ヶ崎」に記載された内容そのものだったが、これをとりとめなく何回となく読み返していた。

「季刊釜ヶ崎」について。

1979年12月に創刊されて通巻10号までと別冊「絆」が発行された。釜ヶ崎現地からの外部に向けた定期刊行物は初めてとも云われ、私は「写真レポート」の連載を載せた。
70年代の運動思想で色濃く染められたセクト運動家たちの間にあって、写真の自立と感性の起立からイメージの定着を目論んだ私は、ひとりよがりながらも写真論を展開しようと試みた。

私は当時、美術館における展覧会あるいは出版社から発行される写真集という、写真と文章の発表媒体としての既成メディアを拒否し、私独自のメディア創出へとの思想の展開過程の具体化として構想されたものであった。
つまり、既成の枠組みにより構築された釜ヶ崎のイメージの転換組み直しを目論み、私の「見た」釜ヶ崎イメージを「見せる」ためには独自のメディアを必要とした。

「映像情報」について。

1980年8月に創刊され、1984年1月まで通巻12号まで発行された冊子である。
当時、私は集中的に取材地「釜ヶ崎」に関わっていた。いま、読み返してみると、そこには私が背負っていた既成組織へのやるせない反発と、反発に対するリアクションによる行き場のない感性の閉塞状況を読み取ることができるだろう。

打ちのめされる私性を回復する手だてとして書き、撮り、発表する。たった一人で行う編集作業は苦渋にみちた肉体的な反復行為としてあった。表現者の手段として、それは個人誌とはいえ出版というパブリックな形式をとっていた。しかし制作過程の率直な感情といった観点からとりあげてみるならば、その方法は、非情にプライベートなものだった。

成熟しない愛の変形として「映像情報」はあった。乾いた感性、ささくれた人間関係、言葉という文化をもつがゆえに同一化しえない個別の人間関係へのいらだちから、それは発生していた。あえてストイックな方法で、硬質な論戦を張る。一方で破綻をかいま見せる。コミュニケーションの方法として、知を持つがゆえにとらざるを得なかった表現の方法としてあった。

また、それ以前から当時まで(1975年頃から1980年頃)毎月毎月購読していた「アサヒカメラ」や「カメラ毎日」「日本カメラ」といったカメラ雑誌に発表された写真の切り抜き(年に一度、雑誌から必要と思われるページを切り抜いていた)などが気になって整理しはじめていた。

積み上げられた印刷物の束をファイルに入れた。総計二千頁をこえる分量があった。それぞれの印刷物には、写真が印刷され、あるいは活字となった文章があった。そこには、それぞれ写真家の思いを込めた写真が発表されており、また熱っぽく語る評論家の肉声があった。

私の手元にあったそうした私へのメッセージの群れを視る限り、ひとつの時代が多分に熱っぽい雰囲気を持っていたと感じずにはいられない。しかし、自分が記した写真や文章については、千日以上の日々が経ったいまとなっては、その思い入れた気持ちも過去の産物となった。

私は久しく写真を撮っていないし、文章も書いていないのだったが、最近になってあらたな模索をはじめようと思いはじめた。新たなる試みがどのような形態によって成されるかはまだ未定としても、よりフランクに、よりナチュラルに、より自然体としてありたいと思うところだ。ひところのような、攻撃的な論調、語り口はもう持たないでおきたい。また、もっともっと平坦なことばを使って、なおかつ」最高の伝達を試みる。

いま再び私は、私にとって「写真とは何か」といった問いかけを考察のメインテーマとして価値の中軸としなければなるまい。未生の今後にとって写真というものの在処を、今一度問い直してみなければならないときだと思う。

<決別>

写真術が発明されたときから、写真はドキュメントつまり「記録」という幻影を持った。絵画が持ってした写実を写真術が奪ってしまった。カメラオブスキュラ「暗箱」は社会への窓であり、肖像は写真の専売特許となった。目の前に存在するものが即座に定着されるという驚異は、その時代:主に十九世紀ヨーロッパ:の文化形態に一大革命をもたらした。すでに絵画が確立してきた様々な技法、つまり遠近法を、肖像を。

たとえばボードレールの肖像写真は、絵画における肖像においては持ち得ないリアリティを私の前に呈示する。また坂本龍馬の肖像写真は現在においても色あせない。また幾多の戦において、従軍画家がなしえてきた作業は、従軍写真家において実現されてきた。

ジャーナリズム勃興から全盛への歴史は、世界のまだ見ぬ地域の風俗や世俗の深部へと探検していった。それが捉えた世界観は、写真の文化史的側面と質をもって成立してきた。そして、おおむね、その中心となるテーマは「人間」であり「外化した人間」を中心にすえた視野の獲得であった。

一方において写真は、絵画の内面史と平行して、その視野を共有してきた。「芸術」写真は、絵画術とはおのづと異質な手段によって構成されるが、手法と表現の方法は絵画と同様のスタイルを採った。写真の発達史を概観すると、このふたつの方向が相互に絡み合いながら、現代に至っていることに気づく。

このように写真が平面(二次元)での表現であり形態が絵画と酷似するゆえ、それまでもちえた絵画による記録性と芸術性を、写真の特質とするところから写真史は開始された。そしてその時代の風俗を印画紙のなかに定着させ、人々の欲望を充足させていった。

記録という概念を主体とする写真。行き着くところまで行ってしまった記録の方法。

次に続く言葉を模索しながら、私は絶句し立ち止まってしまった。空しさが胸につかえていた。私は「知識」をベースとした評論といったものを書こうとしていたが、すでに私にとって、こういった言葉を連ねていくことの空しさが明確になってしまったのだ。自己洞察のない写真との決別。私は決別する。

私が決別しようとするのは、記録の概念により生じる思考方法である「方法の問題」だ。言語に従属する記録写真の概念は、いま私によって否定される。そして写真は「方法の問題」から「まなざしの問題」へと移行する。

まなざしとは、感情の交換である。そこに存在するのは差異。新しい写真とは何かと問うとき、そこには感情の流れそのものの定着、カメラを持たないときに感じる「愛するひと」を前に置いた感情による撮影。

これまであった写真の累積は、被写体と鑑賞者との間に存在する自己(写真家)の位置関係であった。この位置関係を新たな関係として組み直すこと。新たなる美の創造と永遠の母の像を求めて・・・・・・。被写体と自己がダイレクトに結びつくとき、まなざしは自己の内側へと侵入する。私は何を見るか。

時間の流れの中で、私はたえず心的な状態として感性の流出の中にあった。ときにはこの状態にある私を内省し「空しい」とつぶやき、あるいは「切ない」とつぶやき、あるいは「うれしい」とつぶやくのだが、感性は決して、こうした形容のなかに収まるものではなかった。