自分自身研究室-1-
2006.10.8

ここに至って自分自身を研究する枠組みをつくっていこうと思ってしまって、自分自身研究室なるものを作り出したというわけです。
そこでなにをするのかとえいば、悟る、悟りを開く、そのための心を養うために、わけのわかったようなわからないようなことを言い出したわけです。

外向けにいろいろな仕掛けをつくって、その仕掛けを動かしていくことを、これまでにいくつか携わってきたんですけど、いつも気になっていた自分自身という器です。
自分が自分を研究するなんて、どうしたらええんやろ、なんて思いながら、恥ずかし気もなく、自分自身研究室なんて設定してしもた、というのが実態で、中味はこれから、考えていくことにします。

綜合文化研究なんて枠をつくり、地域文化研究の枠をつくったんですけど、どうも腑に落ちない、いったい自分は何なんだ、という疑問について少し思いをめぐらせてみようとしているわけです。ある意味、いまどきのテーマだと思っているわけで、ここにのろしをあげたような次第です。

掲載の写真、ぼくのいちばん古いぼくが写った写真。二歳から三歳くらい、いや一歳かもしれない、いちばん古い写真です。いまにいたる面影があるなぁと思っています。
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自分自身研究室-2-
2006.10.9

自分自身への興味を分けると、ひとつは身体のこと、ひとつは心のこと、この身体と心への興味です。
ぼくの身体は男体です。機能的に男体です。偽りなく男体です。
生まれてきて、成長してきて、生殖機能が成熟してきて、生殖させて、その機能が衰えてきて、そうして死滅していく最中にあります。
このように身体についての区分は、単純明快なわけだけれど、心っていう領域を想い描くとき、そこが混沌としているんです。

男らしさ女らしさとゆうときの「らしさ」のことです。
男は男らしく、女は女らしく、この「らしく」を含む「らしさ」です。
ここに世の中へのエージェンシー、コミュニオンが関係してくるんですね。
世の中での見かた語られかたと自分の心のありかたとの関係です。
ぼくはいったい男なのか女なのかと質問して、返る答えは、男らしくもあり女らしくもある、という感じなんです。
こういう質問と答えは、ぼく自身を混乱させ、錯乱させてしまうのですが、自分自身研究の入り口が、ここにあるような気がしているんです。
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自分自身研究室-3-
2006.12.5

自分自身研究室を開設してはや二ヶ月が経ったんですけど、いっこうに進展しない現状です。そりゃそうなんです、自分自身研究なんて言ったって、何をどのようにしていけばよいのか、迷ってしまうんですね。本音で、こころのなかを開くと、たぶん発禁になっちゃうだろうし、そうかといって履歴的なことを書いてもしやないし、なんて思っているところです。

でも、自分自身研究室を立ち上げたことによって、意識の上で、変化が起こってきてるようにも思えるんです。それまででも、自分って何?なんて自問してきたとこだけど、あらためて、考えたり、思ったりする機会に恵まれてきて、文章にはでけないけれど、写真が撮れるようになってきたと思っています。

ここに載せた写真は、今日撮った写真で、木の根っ子です。地面から、地中に根を張り、地面から、地上に幹を立てる樹木です。イメージとして、これは男イメージなんですけど、この地面の上下の様子が、何かしら自分を研究するヒントを与えてくれているような感じだといえばいいのでしょうか。まあ、まだ始まったばかり、とはいえ、デカルトさんとかカントさんとか、一生懸命考えてこられた経緯もあることだし、少しずつ紐解いていくしかないなぁ・・・。
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自分自身研究室-4-
2006.12.26

別の場所で、日々淡々と流れる、なんて書いていますけど、それはウソで、日々が淡々と流れているわけがない、と内心は思っているのですけど、血みどろだというほどの過激なものでもないな~、ただ怖さはあるわけで、過ぎ去ってきた過去を思い出すこともしばしで、特に少年期の出来事を思い出すことが多くなってきて、あるひとがゆうには、死期が近づいているのでは、なんて脅かされると、もう必死な気持ちになったりするから、やっぱり血みどろなのかな~、と過激に思ってみたり、つまり、ぼくの意識というものが醒めてあるとき、いつも網膜に映る光景を見ていたり、目を瞑っているときには、妄想が湧き出てきたり、それといっしょに感情が浮いたり沈んだりしていて、もう始末に負えないんですよね。

始末に負えないとはいっても、どっかで辻褄合わせをしていて、決して狂気のなかにいるとは思ってないから、読んだり聞いたりしてきた過去の記憶のなかに、ぼく自身がなにものであるのかを知る手立てとして、写真を持ち出してきて、自分の痕跡をたどってみたりを試みているんですね。ここに三枚目の写真、ぼく自身が保有している、ぼく自身がストレートに映っっている写真があります。向かって左がぼくで、右が弟で、いくつのときだろう?小学生になっていたのか、その前だったのか、記憶はあいまいだけど、撮られた場所は西本願寺の門を潜ったところで、そこにカメラを設えた写真師さんに撮られたものです。覚えているんです。写真師さんが鳩を呼び寄せるために餌をまいて、鳩が足元に寄ってきたところを撮ってもらった。

この写真なんかの場合だと、ストレートにぼくが写っているから判りやすいんだけれど、記憶のなかの光景を求めて、記憶の現場に立って写真を撮っても、ああ、そのときこそ淡々とした写真でしかないように思えるのです。いいえ、ぼくにはその淡々風景が、記憶の光景とダブっているから、まだリアリティがあるように思えるんだけど、他者においては、なんら意味をなさない、淡々とした光景でしかないと思っているのです。自分自身研究の切り口は、ここかもしれへんなあ、小説を書いたり、写真を組み合わせて物語を作ったりして、フィクションする原形が、ここにあるのかも知れないですね。
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自分自身研究室-5-
2007.5.6

写真の右下に1955.8とあるから、ぼくが9才のときです。今を遡ること52年前ということになります。男の子も女の子も浴衣すがたで、記念写真を撮ってもらった写真です。この写真は、ぼくの手許のものではなくて、知り合いが持っていらしたのを、複写させてもらったものです。この写真があったことは、記憶にあります。

写真を見ていると、記憶が甦ってきます。かなり具体的な記憶が甦ってきます。それらの日々が写真を見ることによって、甦ってきますから、写真は記憶を甦らせる誘発剤ですね。それと同時に、そこに定着された自分の姿が、9才だったときの自分の姿が留められているんですね。自分が自分であることを、こうして写真を介して確認するんですね。

自分が自分自身であること。この自分自身とは、いったいなんなんやろなぁ。浮遊して、前後の見境がつかなくなって、自分のいる場所がわからなくなってしまうことがままあります。現実の世界と虚構の世界を区別することができなくなってしまうことがままあります。そうゆうときに<時>を序列化し、現実を立体化させて虚構を排する作用を、写真が持っている。そうしてノスタルジックに、自分を安定させてくれます。
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<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖