光の玉手箱2005.8~
むくむく叢書のご案内

2005.8.15
じゃ~閻魔さま
閻魔堂の閻魔大王

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今日の写真は閻魔さまです。
千本閻魔堂に鎮座されてる閻魔さま。
この世へ睨みを効かせる閻魔さま。
ようやく閻魔さまのお近くで、写真を撮ることができました。

今日は8月15日、第二次大戦後60年、戦争終結した記念日です。今日から写真批評を始めます。写真批評といっても、自作写真を自己批評するという、手法です。さて、どのような滑稽な批評になるのか、楽しみですね。
自作批評は、自己批評。自分を見つめる鏡として、写真を通して自分を語る。そうゆうことだ。
じゃ~物語の始まりはここからはじめよう。

2005.8.16
たった一人の叛乱

かって釜ヶ崎で取材していた当時、1978年から1983年のことですが、季刊「釜ヶ崎」という雑誌の発行に携わっていた。
そこで考えていた言葉に「たった一人の叛乱」というのがあった。
一人だけでも叛乱していく、かなり過激な言葉の意味ですが、そのように考えて行動していきたいと考えていた。

イメージとして。
体制の外側に位置する場所・トポスであった釜ヶ崎。
世間の裏側から現実をみて、決起せよ!なんて思っていた。
その延長線上で、ボクの制作態度やアクティブがあると思っている。
社会の中心を成す軸に対して、ヘッジ、マージナリーとでもいえばいい。
社会が蓋をしてきた領域へのアプローチ。
または、社会が蓋をしてきた領域からのアプローチ。

最近は人体&エロスに興味を持ってきた。
植物から動物へ、そしてヒト。
ヒトから動物へ、そして植物。
この生命体の循環のなかにおけるエロス。
ヒトは文化をもった。
この文化という衣を着せたところに見えるヒトのエロス。

写真や小説や評論の執筆、発表では、インターネット環境を活用しているところだが、ここに叛乱を企てる。

2005.8.18
井上青龍のこと

井上青龍と一緒に、最後に飲んだ場所は、大阪駅のガード下にあった飲み屋だった。井上青龍は写真家、ボクより一回りも年上の写真家だった。井上青龍の代表作は「釜ヶ崎」である。1960年代に釜ヶ崎の写真を撮った人だ。
実は井上青龍と知り合ってから、暫くは、彼の代表作品が釜ヶ崎であるとは、知らなかった。ついぞ最後まで、写真の被写体、釜ヶ崎について議論したことは、なかった。

1981年だったかに、京都で、写真シンポジュームを数人のメンバーと一緒に開催した。そのシンポジュームに参加して、喋り捲っていたのが井上青龍だった。
それから「東松照明の世界・展-いま-」の実行委員会が作られて、その流れのなかでボクは長堀のマンションの一室で、「ザ・フォーラム」という写真と映像の自主ギャラリーを立ち上げた。井上青龍は、このギャラリーの常連となった。

苦悩を一身に背負ったような風貌の井上青龍だった。破れかぶれな男、酒を煽っては管巻いていたイメージの井上青龍である。ボクの釜ヶ崎の写真スタイルとは、いささか違うのだが、それは時代の流れのなかで、テーマの置き方が違ったのだと思う。

ボクは、日常へ&都市へ、というテーマで釜ヶ崎に遭遇した。井上青龍は、何をどのように組み立てて釜ヶ崎を取材したのだろう。
釜ヶ崎は様々な表情を見せるトポスである。
暴動が起こり、世を唖然とさせたトポス。井上青龍の釜ヶ崎は、1960年代、暴動が頻繁に起こったころである。世間で異端なトポスとして、怖れられていた時代の釜ヶ崎である。
それから十数年の後、1978年にボクは釜ヶ崎取材に入る。現場で、釜ヶ崎イメージが大きく変換していくのを、自分は確認した。怖れる釜ヶ崎から、親近感溢れる釜ヶ崎へ、だ。ボクに数多くのポートレートを撮らせてくれた労働者たち。おどけたり、笑ったり、しかめっ面した労働者たち。それに女子供も沢山いた。
その後に釜ヶ崎を取材した写真を見かけていないのだが、井上青龍が深く関わったように、ボクも関わった。たぶん位相がだいぶんずれた関わりだったと思いますけど、ね。

2005.8.29
釜ヶ崎夏祭り

1979年8月、釜ヶ崎の三角公園で青空写真展を開いた。
釜ヶ崎で写真を撮りだしたのが1978年の秋からだった。およそ一年間に撮りためた写真を、撮影した現地で展示する。ある意味では、無謀な企てだった。
釜ヶ崎は、恐ろしいところだから写真なんて撮れないんだよ。それも正面から撮るなんてできない。
そんな言い方が巷に流布されていた釜ヶ崎だった。
当時、釜日労という労働組合があった。稲垣浩さんが委員長をしていて、炊き出しをやっていた。1979年1月3日だったかの餅つき大会で、写真を撮った。それから春までに、炊き出し風景など、精力的に撮っていった。
そうして撮りためた写真を、夏祭りに展示したいと云うと、OKとの返事があったので、日替わり写真展、写真あげます展、青空写真展・・・呼び名は様々だたけれど、現地で写真展をおこなうことができた。
ボクの写真を見つめる視点が大きく変わっていくきっかけが、この1979年8月の釜ヶ崎現地での写真展だった。

写真とは何か、という問いかけが、まだ有効な時代だったような気がします。1968年から10年も経った年だったけれど、ボクの中での問題はまだまだくすぶっていた。
たまたま「写真とは何か」という問いかけだったけれど、それは「文学とは何か」とか「哲学とは何か」とかと同義語だ。
よりラディカルに、より深く、より外部から、中心へ向かうための周辺を見つめていく考えが、まだ中心になっていた時代だった。

いま2005年、あらためて1968年の出来事や、1979年のボクの釜ヶ崎現地での写真展を思い起こしながら、現代の問題を整理しなければいけない、と思う日々なのだ。
その当時、釜ヶ崎の中で問題化されていた就労形態。手配師がおり日々雇い入れる労働の形態、日雇い労働者。それが現在では、表層イメージを変えながら、国土全体に拡げられた感がする。

グローバル化という名のもとに進む改革なるもの。もう歯止めが利かない世界潮流だけど、あえて抵抗する生き方もある。その視座を獲得せよ!なんて過激なことをいったってもう無駄なんかな~と思いながらも、だ。
ボクの思考の原点が、1989年夏の自分の転換にあるように考えるのだ。

2005.8.30
内灘のこと

内灘は金沢に隣接する砂丘海岸だ。
ボクがこの内灘に最初に触れるのは20歳のころだった。現代社会運動史の資料文献を漁っていた当時だ。
対日平和条約と日米安保条約が発効するのは1952年4月28日。政府は、翌年6月2日石川県内灘試射場を無期限使用することを閣議決定する。ところで地元や県議会は反対運動を展開します。戦後日本の社会運動の最初・原点がここにある。

1975年だったと思うが、ボクはニコマートというカメラを買った。モノクロフィルムで、最初に写した被写体、家族以外で最初に撮った写真。この被写体が内灘弾薬庫の痕跡だった。1975年の夏だったと思う(記憶が曖昧1976年かも知れない)

写真を撮りだす前は、文学、小説を書きたいと思っていた。高校2年の秋に何冊か詩集を作った。18の頃に小説を書きたいと思った。4~5人の友達で、専用原稿用紙も作った。何篇か、習作短編を書いた。発表は、ガリ刷りの同人誌まがいのものだったり、自作のペーパーだったりした。
事情で高校卒後、2年間働いたあと1年浪人し、21歳で大学へ入学した。1968年のことだ。
1968年は大学紛争の年だ。ボクはその冬を京都で過ごし、翌年東京の出版社へ勤務することになった。東京で仕事をしながら小説家になろう、と考えた。1970年京都に戻り、大学復学、そのころから再び、小説を書きだした。
その小説の舞台が内灘だった。
第一章、第二章を、同人誌「反鎮魂」に載せて、中断した。

カメラを持って家族と共に内灘海岸へ海水浴にいった。そのときに撮った写真が、いまここに転載した写真。
原版は見当たらない、映像情報の第一号の表紙に使った写真(1980年)が、これだった。この写真はコピーです。

1982年正月、内灘を撮ろうと思って取材に出かけたが、すでに弾薬庫跡は撤去され、何もなかった。東松照明氏と会うのは、その日の夜のことだった。

2005.9.11
自主ギャラリーの軸

1970年代半ば、写真展示の自主ギャラリーが開設されます。主に東京近郊にいた若い写真家たちが、運営母体となったギャラリーだ。「PUT」「CAMP」「プリズム」・・・。
この自主ギャラリーなるものを軸に少し考えてみたい。

1968年に創刊される写真同人誌「provoke」に始まる写真家と社会現象との関係を考えると、そこには、既存の制度「体制」を解体していくという幻想・妄想があった。と同時に、自己の内面をどのように処理していくのか、といった問題も浮上していた。

当時、一部の学識経験者、メディアの編集者、学生らの関心ごとが何かといえば、表層は、政治体制へのアンチ態度に収斂していくのだが、「個人」が様々な意味で、意識されていた。
たとえば、「provoke」同人で詩人の岡田隆彦は、<せつなさ>という感情を軸に論を立てます。解散時の1970年「まず、たしからしさの世界をすてろ」と題するエッセイ集を発刊する。
そのころ東大全共闘を中心とした「教育批判」の主張がある。これは「大学の帝国主義的再編」に対抗する「大学解体」をスローガンに掲げる。
作家高橋和巳は、ノンフィクション「わが解体」を著す。

1968年前後へのボクの見解は、「個人」と「個人を取り巻く社会」の関係についての論であると同時に、個人のあり方の論であった、と受け留めている。
この表立った運動が造り成し顕在化させた個人の二重構造性が、沈静化されていった後に、若い世代の写真家たちの意識・無意識下に成り立たせる要因になった、と見る。
もちろん、複合要素の結果だが、その底流の感情・情動、外に向けるエネルギーとして、結果した。そのきっかけを作った媒体は、「自主ゼミ」であり「ワークショップ写真学校」であった。

非常に乱暴なまとめ方だけれど、ボクはそのように見る。
自主ギャラリーは、既存の写真メディアに対する心情的否定と理論的否定から具体的な形として創出された場だった、と考える。
それから30年という歳月が過ぎ去った今、2005年だ。当時の運動の本質が、構造化される権力に、いかにして制度を流動的状態にするのか。または、流動的にさせることが出来るのか。このことだったとすれば、この30年間、権力が成しえた結果を、再検討する必要に迫られている。

2005.9.14
写真作業の覚書

写真に撮ることができるものは、現実に物質としてあるモノしか撮れない。どれだけ思い込もうとも、想像をめぐらそうとも、写真として写るのは、現実のモノの外観でしかない。

モノを前にした作家が、写真に定着するためには、それ以前の思想、思いが必要である。また、それ以後の思想的展開、思いの展開を想定することも必要である。

としても現実に写せるものは、目の前にあるモノでしかない。現前するモノそのものを、どのように撮るか、技術的、存在論的、そのモノの的確な自己主張を、どのように定着させるのかである。

ここに葡萄を撮った写真がある。
撮られた葡萄が、葡萄であると認知できるのは、先に葡萄という果物を知っているからに他ならない。見る人の経験によって、葡萄であることを認知される。ここに載せた葡萄の写真は、背景を省略してある。色彩効果を出すために器に入れられた葡萄である。

背景説明によって、撮られたモノの置かれた状況を説明することが出来る。そこには主題となるものが置かれ、主題を説明&物語る要素を組み入れることがおこなわれる。
もちろん主題と説明&物語を排除し、フラットな写真構成とする場合もある。その場合は、画面全体が主題とする。

中平卓馬が「写真は植物図鑑だ」と云い、東松照明は「記憶の像は写らない」と云った背景には、現実のモノしか写らない写真の宿命を言い当てたものだ。

ボクの試みている写真は、生活図鑑であり、目の前にあるモノを撮る、作業である。そうしてそのモノじたいが見る人の記憶に接合させることで、意味を紡ぎださせてもらいたい、との希望をもっているのだ。

生活図鑑であることの、自分なりの見解を申し立てることは、文章の力を借りようと思う。写真の置かれた現在点で、写真が語りだすのは、言語の力であるからだ。ボクが様々な世界を見る視点を、一定の方向に導くための思想を語り、書きこんでいく。

写真は思想を限定し、文章は写真によってイメージを限定し、そうして両輪でもって、一つの現実と空想の世界を創りだしていく作業なのだと考える。

2005.9.23
生命の記憶

今日は愛犬「ケン」の1年目の命日。
生まれて直ぐにやってきたんだけど、18年ほど生きたんです。犬の寿命としては長いようです、老衰です。

生命の記憶が、万物に備わっていると云います。
植物、動物、そしてヒトという動物。
遺伝子が記憶媒体なんだそうですが、今、科学は、この遺伝子を含む生命現象の解明に挑んでいるんですね。
生命を科学手法によって解明する。たいへん興味あります。
でも、一方で非科学って云って括られる領域にも、非常に興味がありますね。
そこで、科学と非科学の融合なんていう、科学手法が編み出されている現状です。

ボクは、この非科学領域を、感情の領域、記憶の領域、心の領域・・・つまり「感じる」ということにベースを置いた領域だと思っているんです。だから、科学的手法で解明できるのかどうか?未来のことは判らないですが、当面の問題は、この「感じる」ことをどう捉えるか、ですね。

愛犬「ケン」が死んだとき、そこには「哀しみ・悲しみ」と感じる心があった。密着していた生き物がいなくなる。ここに撮られた写真は、現物として存在した。その日、焼却されて消えていった。
たったそれだけの事実なのに、ボクの気持ちは「感じる」んです。1年前の記憶が、甦ってきて、感情が湧いてきて、哀しみ、悲しみ、の中にあります。

写真は記憶をとどめるためにある。撮られたときから時間が経って、写真はその時間を生き、未来によみがえる。
記録と記憶。写真は、表層の記録だけれど、本質は記憶に基づくのだと考える。生きた証、生命の記憶である。

2005.10.4
デジタル写真の未来

ボク自身が2年前から再びカメラマンをやりだしたんだけど、デジタルカメラです。つくづく楽やな~とおもっている。処理とかランニングコストという面で、です。
写真のテーマは、自分周辺のことに定めてるから、当分は金沢と京都周辺での撮影に徹します。

ところで、デジタル写真の可能性というのは、デジタルネットワークにおいて使いこなすことにある。インターネットで、写真を掲載して写真展を開く・・・。これが主たる使い方としてあるんだけど、これはボクの使い方です。

評論家として云うには、写真から映像に広がってメディアアートとかバーチャルアートの領域への展開でしょうね。
これまでフィルム時代に、写真が持っていた領域は、デジタルにおいてもそのままそっくり頂ける訳だしね。
だからデジタルカメラが基調になったとき、コンピューターと結びついて、様々な可能性へと拡がっていくのだ。

とはいえ写真という静止画にこだわるかぎり、写真は静止画として存在する。
そこで写真に撮られるテーマの中味に立入っていかなければならないのだ。
はたして、デジタルだからこそ、特有のテーマが導かれるのかどうか、という問いなのだ。

デジタル化による社会の情報環境が変わる。それに伴って、デジタル化特有の人格が形成される。デジタル世界の影響だ。
問題は、ここ、この社会環境の変化による人格の変化。それが作品としてどのように現れてくるのか、と云ったところだろう。

1、使われ方の変化
2、テーマの変化

欲望の処理装置としてのデジタル写真。欲望とは性欲を主体とした部分だ。
デジタルネットワークのなかで、情報が手に入る。具体的にいえば、アダルトサイトだ。アダルトサイトからの情報が、無差別に発信される。そうして無差別に受容する。
かって、インターネットのホームページが無かったころは、アダルト情報は、書店へ赴くかレンタルビデオ店へ赴くか、だった。自ら行動することで手に入れられた領域だった。いまや、インターネットで手に入れることができる。

かって大学生の頃にあったパートカラー映画。いまでゆうアダルト映像だ。映画館は文化会館というのがあった。チケットを買うときの気持ちは、ちょっと恥ずかしかった記憶だ。書店でアダルト書籍を買うといいうのも、かなり勇気がいった。

いま、インターネットが普及して、そんな状況が一変したようですね。だれでも手に入るのだ。これこそ革命に近い出来事ではないか。

2005.10.5
写真行為の原風景

ボクが写真を撮るとき、何を撮るのか、ということがあります。
そりゃ~好きなもの、興味あるもの、現実に存在するモノを撮ることになります。
興味の湧かないものを撮ろうとは思わない。

ところで、この好きなもの、興味あるもの、ってどうしてそうなるものがあるんだろう?
つまり、写真を撮る行為の原風景のことだ。
ボクの原風景は、どんなものなんだろう?これも知りたいところだ。心惹かれるモノのなかにあるもの。原風景とは、そういう代物なのかも知れない。

ヒトの生成過程の中で、生誕から死滅までの時間の中で、ヒトが固体としての知能の枠組み形成が、生誕後3年目あたりだといいます。つまり3歳です。そのころまでの体験の記憶が、原風景の基底にあるといえるのでしょうか。

ボクの生誕は1946年です。そうすると1946年から1949年までの3年間の、ボクの前に起こった現象に対して反応した記憶質、これが原風景を形成する要素かも知れない。
主には、母親との関係、それから社会風潮というか空気感というか、そういう感覚的なものです。

生命活動の終盤にさしかかった現在のボクが、興味を示すのは、食することと生殖することだ。
大地を撮り、空を撮り、花を撮り、食べ物を撮る。
それらへの興味は、生殖ということに由来しているように思われる。命が育まれる原風景あるいは、前風景といえる。
花を見ることは、女のヒトを見ることにつながり、大地を見ることは、母親を見ることにつながっているように感じる。
それも欲求不満や劣等感といった要素が、逆推進力となっているようにも思われる。

2005.10.6
日常の光景へ

カメラと自分の関係をみると、カメラは自分の分身のようなものです。
朝起きて、ひと仕事して、顔洗って、朝食とって・・・・という一日が始まり、そうしてなにやらかんやら時間を過ごして、夜になり、寝て、起きたら朝になってる。
なんともまあ、変哲のない、日常だこと、取り立てて大騒ぎするようなもんじゃない。
でもさ、こうした時間の中に、ちょっと気になることが起こる。
庭に花が咲いた。パンを焼いた。天気が良かった青空だ~。
別に、取り立てていうほどのこともないか~!
でもね、キミに知ってほしいって思うことが、いっぱいあるんだ。
たとえば、ボクの庭に咲いた花をお知らせしたい!
山へいったら胡桃が落ちてた!
朝にこんなもん食べたんだよ!
心で思ってて、人に言えないことも沢山あります。
この思ってて言えないことを、秘密といいます。
でも、この秘密たるものも、いつか秘密でなくなるかも知れない。
ボクの見たものをカメラで撮って、キミに見せたい。
ちょっと恥ずかしいけど、見てほしい・・・

写真が、コミュニケーションの手段とすれば、そのようなことだ。

2005.10.19
認める、認めない

自分か生きた人生を認めてあげようと思ふ。
そうでないと自分が可哀相じゃありませんか。
自分の人生を認めてあげようと思うようになったのは、ここ数年のことだ。
認めてあげて全肯定ですね。
この地平から出発しないとだめですね。
とはいいながら、認められないことがまだあった。

物事は時間とともに過ぎていく。
過去となるわけですが、この過去になる時間が、事柄によって様々だ。
物事があったとき、そこに感情が同居するじゃないですか。
その感情の整理がついた時点で、過去・・・
そのように考えると、16日のIMIでは、まだ過去になりきっていない以前の時間を自覚した。

気持ちなんて危ういものだ。
いつも変化しながら心を締め付ける。
その究極が死に至らしめる気持ちだ。
その一歩手前で踏みとどまった、その現場。
その現場が甦ってきたとき、それは拒否するしかなかった。

2005.10.28
日々過ぎ去る

日々過ぎ去るを追いかけない。
前をむいて歩いていくことを考える。
とはいえ、大事なことは、<いま>をどう生きるのか!

写真に親しんで30年、いまのメインの仕事としてある。
でも考えてみると、いろいろあったな~とつくづく思う。
達さんとの出会い、東松さんとの出会い、そうして同年輩の人たちとの出会い。
ヒト的交流の中心は、やっぱり写真を通じての関係だった。

いま、新たな出会いは、食と農。
3年前の出来事から、出発してきて、<いま>だ。
総合文化研究所とか、むくむく通信社とか、それまでの蓄積の上に積み上げられる枠組みではあるけれど、人的ネットワークは、新たに出来てきたものである。

そういいながら、日々過ぎていく・・・。