光の玉手箱(4)2005.8~
むくむく叢書のご案内


2005.8.31
ヒトの研究(1)
_20180819_124751
ヒトの研究、なんて大きなタイトルをつけたけれど、どっから切っていこうかな、と思うところです。ここで「ヒト」という単位は個人です。社会と個人、この対置法でいえば、社会とヒト、です。ヒトという単位、このヒトを中心に据えて、話を展開していきたいと考えます。

天動説と地動説。これは「地球が中心で宇宙が動いている」に対して「宇宙が中心であって地球も動いている」という発想の相違です。そこで、ここでの論法は、やっぱり個動説、社会が中心であって自分がいる、または、社会が動き自分も動く。社会とヒトの関係は、相対的な関係である。

ところで、ボクの興味は、ヒトの内部です。人体の内部ではなくて、ヒトの妄想や空想を生じさせる内部です。科学の領域で、体内器官や情報伝達物質の解明が進められ、記憶の発生構造や記憶がなすところの作用なども解明が進められている。としてもまだ不明なところばかりです。

ヒトの心には何がある?心の構造をモデル化しようとの研究もある。こうしてモデル化する科学手法があったとしても、その、なんと云うか、ね。「情」いうこと「情動」ということ、これですね、問題となる研究課題です。

情というモノが動いて「情動」。情が動く、情が動かされる。この状況をヒトの中に見出し、あれやこれやの言説を導き出したいと考えるのです。情が動いて言説化していくこと、言説化していくことで情が動くこと、これがスパイラル状で、ヒトの内部を構成する。

それから、身体と情の関係をも知りたい。身体と心、という言葉で括られる領域を、見つめてみたい。その実験材料は、ボク自身である。自分自身を実験材料として、「ヒト」というモノを考える。これが最初の切り口です。

2005.9.11
ヒトの研究(2)

<生きる力>

ヒトには、生きる力が備わっている。生命力といてもよいです。ヒトだけじゃなくて、生命体には、生きる力が備わっている。力はエネルギー。このエネルギーを燃焼させるためには、絶えざる燃料補給が必要だ、という前提での話です。

自然構造というか宇宙構造というか、ヒトが生きる力を持続させるのに、うまく循環できる構造になっていると思っています。ヒト→人→人間→人間社会、と言葉を変えて拡がらせていくと、人間社会ってのは、かなり無理をして<生きる力>を作ってるな~と思ってしまう。

人間→人間社会の範囲でいうと、年代区分として<近代>この400年を念頭に置こう。かなり無理してきたな~!本来の<生きる力>を覆い隠して、人工的<生きる力>を無意識化させてるな~!これが文化力だといえば、その恩恵を施されたボクは、感謝の至りだ~!と思いたいところだけれど、いま、そうは思わないんです。

今の<生きる力>には、逸脱して感じる<力>も必要だと思うのです。この<逸脱して考える>ことを封印されてきた近代を<発展>あるいは<進化>というのだそうです。この発展や進化は、生きる力を喪失させてきたのではないか?と思えてくるのです。

ヒトには逸脱する本性があると同時に、逸脱しないようにする本性がある。ホメオスタシスっていうんだそうですが、外界に対して自己保全する力です。このバランスの上に立って、エネルギーをどのようにして外化させていくのか。

生きる力は、身体を保持する(但し老化します)と同時に、それ以上の力で、外へ向けていくことができる。外へ向ける力は、集団力となり、家族共同体となり、地縁共同体となり、国家の形になってきた。国とは、囲いのなかに王がいて、<、>というものがある。<、>は国民のことなんだろうな~ふざけるな~っていいたいですね(笑)

生きる力の原点回帰現象が、最近顕著になってきてるんじゃ~ないでしょうか。
自然環境のなかのヒト、生態系のなかのヒト、循環系のなかのヒト、近代が作り上げてきた構造の恩恵を享受して、なお、この発想が生じているんです。やっぱり、これも発展、進化の一環として捉えるんでしょうか。

2005.9.20
ヒトの研究(3)

<情>

ヒトには情というものがある。情は、なさけ、気持ちを傾斜させていく。感情というのがある。情を感じるといえばいいのだろうか。情動というのがある。情が動くといえばいいのだろうか。
<情>を国語辞典で調べてみると、(1)物ごとに感じて動く心、とある。(2)なさけ(3)まごころ(4)男女間の愛情、と続く(昭和31年初版/角川国語辞典による)

この<情>に、最近関心をもっている。花を見て感じて動く心がある。ボクは男だから、女のヒトを見て感じて動く心がある。この動く心についての、思いなのだ。というのも、ボクというヒトの中に、算数や理科や国語の知識を教えられて、また学んできて、考えを組み立てる仕組みを持っている。ああすれば、こうなる、という推論を立てることもできる。この領域を、<理性>というのだと思うが、一方で<情>という対立項がある。

<情>はままならぬ。突然、襲ってくる哀しみの気持ちとか、女のヒトを見てワクワクする気持ちとか、とかくままならないのだ。理性で抑えられることは出来る。大人というのは、おおむね情を理性で抑えることに尽きる。とはいえ、身体の奥底、心と云われる得体の知れないところで疼く情を、どうにか開放できないか、と思うわけだ。

文学や写真を志向して、ようく考えてみると、この<情>をどのように扱うか、というのがテーマであるように思う。いやはや、どのように扱うか、ではなくて、どうして伝えるのか。これが、今求める、テーマである。
伝え方は、文章の場合は、文字(言葉)で状況描写と思う気持ちの描写だ。写真の場合は、具体的なモノの定着だ。その行為を通じて、情を伝える。

それにしても<情>とは、どのように定義すればいいのだろうか。

2005.10.5
ヒトの研究(4)

<情動>

ヒトの不思議なところは、情が動くという情動という現象です。いや~これはヒト特有の代物ではなくて、生命体の全てが持っている現象なのだと思うのです。
身体という有機体としての運動があります。受精から誕生して死滅するまでの時間、身体をもつわけだけれど、この間の運動の諸現象から、情が認知され、情動が認知されるのですね。

身体という個体となった自分の、身体が活動するときの気分というもの、その気分に言葉を当てはめて、ボクは表へ向けてあらわすことになる。楽しい気分、とか悲しい気持ちとか、いくつものカテゴリーに分けて、言葉を当てはめていくのです。
言葉では、母音、あいうえお、という発音があります。ボクは、この母音となる音、発声される音が、情動に密着した音だと思っています。

ところで「情動」、この不思議な代物の初元的な発生源は、食と生への感嘆だと思っています。食することで生を保ちことができる。それと生の営みに生殖というのがある。子孫を残すという本能です。
生の維持根源は、食欲と性欲。この二つをあげることができると思います。
ヒトを生命個体として捉えると、動物、植物との共通点をみることができます。
動物も植物も、全て、食し生殖します。それぞれの生命体が固有の方法で、食し生殖する。

ヒトの情動を研究することは、この動物・植物の共通点をベースにして捉えていくことから始まります。だから食し生殖する、ということに、興味を持って対することになる。
ボクが、食べ物とセクシュアルに関心をおく、理由がここにあります。
情動は、食べることと生殖行為をするために、持って生まれた本能だと認識します。

食べ物を見て、食べたいと思う。ヒトを見てセックスしたいと思う。食べ物には好き嫌いの嗜好があります。また、ヒトというのは、おおむね異性です。ボクは男だから、女のヒトを見て、セックスしたいと思う、ですね。
この二つを自分のものにしていくために、情動がある。このように解釈してよいのかな、と思っています。

2005.10.7
ヒトの研究(5)

<食欲と性欲>

食欲と性欲は、生命体維持のための本能に根ざしているように思います。ヒトの生存に、食べることは、絶対的必要条件です。これができないと、死滅してしまう。だから、生存のための根本的条件です。それとの関連でいえば、睡眠、これも必須条件です。

それと子孫を残すための生殖。これは性欲の領域です。食欲は、断ち切られると生存できないのですが、性欲は、断ち切られても、生存できる。生命維持する個体として、根本的な違いがここにあります。

とはいえ、食欲と性欲は、ゆうてみれば本能領域に属します。だから、身体は、これを要求します。
文化って、人間が作り上げてきた生活手法のうえに、成り立ってきたと思っていますがね。
ようく見ると、この食欲と性欲に根ざしていることが多いと思います。
マズローの欲求段階説だったかで、欲求の基本は安定でしたかね。
生存の危機に立たされると、生存のための欲求を満たしていきます。

生存の安定は、集団生活を求めます。
ここに生殖活動が起こります。
食欲と性欲を満たしていくために、様々なルールをこしらえてきます。
そうして現在の、ルールが出来ているわけです。
現在の食と性のありかたについて、どのように思うかと問われれば、良いことないです、と答えます。つまり現状認めて、それでより良いほうへと向けていく。
食欲と性欲を、よりヒトの原点に忠実に帰してあげよう、と思っているのです。

2005.10.15
ヒトの研究(6)

<光>

ヒトに必要なもの・・・その冒頭に<光>ってのをあげてもいいかな、と思ってる。
もちろん水も酸素も必要だけど、意識のレベルまで含めて、光、ひかり・・・
光とは太陽光線のことです。
生命維持の絶対必要条件です。

闇と光あるところ、最初に闇から明が分離する・・・
ヒトの内部でいえば、表に出せることと秘密の部分があり、その表に出せるところに光があたる。
でもね、闇の部分に光を当てて、闇を明にしてあげる。
この作業、行為がアートする意味なのかも知れない。

万物の初めは光あり!っていう解釈でよろしいんでしょうかね。
深海の魚たちって光がなくても生きてる。
そう考えると、光なしでも生きられる?!
いや~そりゃダメですよ、やっぱり光がないとダメです。
光があることを条件に生命が誕生してるんだから、光がないとダメです。

ヒトにとって光は絶対必要なものです。

2005.10.16
ヒトの研究(7)

<光をあてる>

ヒトの視覚は、光がないと成立しない。
光が当たった表面をヒトの眼(網膜)が受け止めて、光景を認知するんですね。
想像の領域では、光が作った光景の記憶を辿って、光の当たらない処を探索します。ところで、光は上から降り注ぎます。光が上から降り注いで、表面を照らす。そこから上方を目指すイメージで、脚光を浴びるとか、上昇するとか、高貴だとか、上級だとかのイメージが創られます。

ところで、光が当たらない内面という領域があります。
無とか闇とか云ってますけど、社会とヒトの関係のなかにも、光が当たらない処がある。
この光が当たらない処を、人間の好奇心は、見てみたいと思うんですね。
目に見えない世界を見ようとする。
それから社会秩序から、はみだす部分には蓋をしてしまう。
蓋をして見えないようにしてしまう。

アートの行為は、この見えない処を見えるようにする。
あるいは写真や映像のドキュメントってのも、そのことなんだと思いますね。
文学にしろ写真・映像にしろ、表現が向かう深層は、此処、ここです。
見えない深層に光をあてる。
無から有を生む、あるいは蓋を取る、といえばいい。
これが回りまわって、ヒトの研究テーマとなったのが現在だ!

光は、その根本原理をつかさどるもの、としてあるような気がします。

2005.10.21
ヒトの研究とは

ヒトの研究とは、つまり自分研究ですね。
自分のことを研究する。

ボクは、生命に興味ある。生きてることに興味ある。
そうして最大の恐怖、死ぬことを怖れます。
もうそこそこいい年齢だし、来年60歳、もうおったまげてしまします。
だから、もう素直になってあげましょう、自分に対して、自分の感情に対して。

生きてきた履歴とか、就いてきた役職とか、そんなんどうでもいいんです。
いま、ここにいる自分。この自分のことを研究しなくてはならないんです。
そうして、安楽を求める。
たぶん、安楽とは悟りではなくて、全てを出し切ることではないか?
そのように思うのです。

自分の内面の欲求を、出し切ること。
それは自分を開放し、恥も外聞も馬耳東風~!
それが理想の老いたる姿じゃなかろうかと思うのです。
もう認知症の一歩手前か、進行中!
瘋癲老人日記じゃ~ないけれど、身体のエロスを追及ス!
そうしてますます命が盛んになる、ってことはありませんかね。

まあ、執着してきたことを、あらためて執着しなおしてみよう。
これが、ヒトの研究の中味になってくると思うんだ。
いつ終わるか知れない生に悔いのないようにだ。