光の玉手箱(14)2007.4.1~
むくむく叢書のご案内

沸々と湧き出る
2006.11.5
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もう十数年まえのことになりますが、性器を被写体にした写真集が日本語において出版されたことがあります。ぼくは書籍コレクターだったし、その手の小説とか画集とか写真集とかを集めていたので、この本もコレクションされたわけです。写真において、ヘアーヌードがあらわれ、セクシュアルなイメージが一般化してきたなかで、性器を被写体としたこの本は、話題になった部類です。

性器イメージの公開展示&出版は、すでに半世紀ほど前に、読売アンデパンダン展で展示されたものの撤去されたという記憶があります。1980年代には月刊誌写真時代誌上にてそれとわかるように掲載されたという記憶もあります。そういう流れのなかで、発行された本が、それだったように捉えています。

それから十数年を経たいま、インターネットを介して、カラー化された画像が手元に入ってくる時代となっています。ことの良否は別として、男と女の欲情の、隠すべきモラルが一変してきた感があります。だれでもがアクセスできるということではないけれど、いまや書店等を介さなくても、手元における時代なのだ、という認識です。

幻想即興曲
2007.11.14

たまたま、いまこの記事を書こうとしてPCに向かっているわけだけれど、聴こえてきてるのがショパンの幻想即興曲なのです。テンポのはやいピアノ曲です。CDジャケットには、ピアニストはウイルヘルム・ケンプ、1958年3月録音とあります。なんと半世紀も前に演奏された原盤から収録されたCDからパソコンに取り込んで、いま、ぼくが聴いているというわけです。

そう思えば、ぼくが生きてきた時間のなかで、音楽、とくにピアノの音に傾斜していたことがあります。この幻想即興曲の収録がなされたとき、ぼくは11歳です。小学校の5年生にあたるころです。そのころ、ぼくはピアノの音に魅了されていた記憶があります。なぜか知る由もないけれど、学校の講堂にあったピアノを弾く女の先生をステキだと想い、ピアノの音がこころに滲みた記憶です。

高校を卒業して就職して、初めて貰った給料で、なぜかシュナーベルのベートーベンピアノソナタ全集を買っているのです。たしか一ヶ月分の給料に近い金額の全集だったです。いまも手元にあるエンジェルの赤盤、これの録音は1930年代前半です。ここで歴史背景を語るつもりもないので、年代だけに留めておきますが、そうゆことでいえば、ぼくのピアノ曲を聴く、原点はベートーベンのソナタです。

幻想即興曲はショパンの曲です。ショパンのピアノ曲を聴くようになるのは、ずっと後のことになります。そのなかに幻想即興曲があるというわけで、ショパンの甘くて切ないピアノを集中的に選ぶ日々と、ベートーベンの重くて苦しいけれど希望を与えてくれるピアノを選ぶ日々と、入れ替わりながら、いままで続いているのです。ああ、これは思い出綴りですね。

花と情
2007.11.23

今年、初めて花を咲かせた山茶花です。ぼくは開きかけた蕾を手に取り、じっくりと眺めています。真っ白な花弁に少しだけ淡い紫をもった山茶花の蕾です。翌日には花弁をひろげて雌蕊雄蕊を花の真ん中に、誇らしげに見せてくれます。

花は女性の象徴だと感じています。ぼくの愛でるかたちは、その花が女性器を彷彿させるところにあります。そのように想うと、なんともエロティックな情感が湧き出てくるのです。ぼくは、じっと花弁の中心に見入ります。 なんとも愛らしい、なんとも艶やかな、なんとも清楚な、なんとも美しい、ぼくの情が移りいきます。

もみじ-紅葉-
2007.11.30

紅葉は紅の葉、楓の葉です。秋の風情を、紅葉によって、感じるようになったのも、からだが年老いてきた証なのかも知れない、とつくづく思いながら、先日は下鴨神社へ、今日は上賀茂神社へ赴いていったのです。そこが神域だとは思ってもみなかったことだけど、なるほど、神が宿る処だな、と想う思いがふつふつと湧いてくるのでした。それは想いのなかであって、具体的な形をもった神がいらっしゃるとは思いませんが、情のレベルで、何かしら感じる、畏怖といったような戦慄が、生じていたように感じたのです。紅葉は表の感情で、畏怖を感じる感情はもっと深くて、ぢめぢめした苔と根のあいだへ入り込む光のことでした。

神がいらっしゃる(1)
2006.12.4

具体的な<神>のかたちがあるとは思わないのですけれど、この写真のような光景は、神がお入りになっている器だと解釈してもいいかと思います。見える、見えない、ということでいえば、見えないものです。ボクはその見えないものを、見ようとしているわけです。文学という文字とか言葉を使うか、映像という写真とか動画を使うか、音楽という音を使うか、それぞれを組み合わせて使うか、いずれにしても、ボクは見えないものを見ようとしているわけです。

イメージの最たる頂点が神のイメージのような気がします。神聖な場所へ入っていって、研ぎ澄まされた感覚をいただくような感じで、そのような感じを受ける処に神がいらっしゃるような、つまり、感じになるわけです。いいえ、言葉で、ひとことで伝えられることでもないし、写真で単純に伝えられることでもないし、音の連なりで伝えられることでもないと思うけれど、なにか感じて仰ぎ見る感覚をいただける処があるようにも思えて、ボクはその場所を探しているのかもしれないなぁ、と思ってみたりしています。

神がいらしゃる(2)
2006.12.8

神社には神がいらっしゃる。神はお名前をお持ちになられて、ここはスサノオノミコトさまがいらっしゃった処だと書かれております疫神社です。疫神社に有らしめるこれは石でございます。疫神社は今宮神社の一隅にございます。造営は、ああ、もう千年も昔の出来事でございます。

京都という地域の風土に興味をもって、生まれ育った京都を還暦を迎えた今年から、ちょっと散歩してみようかいなとも思って、ごく最近になって、あらためて神社仏を訪れていくようになったのです。どちらかとゆうと神域に興味があって、その神域に足を踏み入れて、無礼とは百も承知でカメラを向けているのでございます。

神域は、侘び寂びかと想いしや、なあに、決して決して、わたしにゃあえろすであるように想えて仕様がないのでございます。熨斗あり、赤あり、白ありで、紅葉があって、苔がある。根っ子があって、穴祠がある。なんとまあ、神域にてお受けする情感は、とっても若くてピチピチに甦る処でございます。

神がいらっしゃる(3)
2006.12.10

神が、おとこかおんなかと問うのは不埒でばかげていることかも知れないけれど、あるいは、おとことかおんなとかを超えた性だと、いいえ性なんてないのだと、このようにとらえるのがいいのかも知れないけれど、やっぱりボクはそれにこだわっているわけです。

熨斗で封印されたむこうにいらっしゃるようですけれど、その封印された熨斗からむこうには、なにがあるというのでしょうか。石に宿る神、樹木に宿る神。熨斗で封印した箱のなかだけではなくて、あっちにもこっちにも神がいらっしゃるようにも思えてきます。

巫女はゆうまでもなくおんなです。白装束に赤い袴を穿いたおんながいらっしゃる。それがおんなだとすると、交感するあいてはおとこなのかなぁ、そうすれば神はおとこということにもなるなぁ・・・。

神がいらっしゃる(4)
2006.12.18

初めの神の名は、天之御中主神-あめのみなかぬしのかみ-だと古事記では記述していて、この神は、天の中央にあって、天地を主宰する神の意、だといいます(古事記全訳注・講談社学術文庫・全注訳/次田真幸氏)。この神は、古事記編纂のときにあらたに設けられた抽象神・観念神だとの注釈もあります。ボクは、これを学術研究しようと思うわけではなくて、イメージとして描いてみたいとの試みで、不埒だとはおもいながら、写真制作とこの文章を綴っています。

というのも、神の初めが心世界の初めだとする想いに、かなり共感していて、信じるとか信じないとかを超えて、イメージとして、今現在を想い見る創作を試みたいと思っているわけで、いま、ボクの興味が、生命体としての雌雄にむいていることもあり、神が男なのか女なのか、とボク自身に問うているわけです。専門領域の研究のなかでは、どのように解釈されているのかは知らないのですが、ボクには、神の初めは、男でもなく女でもなく、男でもあり女でもあり、つまり雌雄の全体としてとらえればいいのかな、と発想しているところです。

つまり、つまりですね、ボク自身のボク自身をボク自身が問題化していく取っ掛かりとして、ボクをして男と女の関係をイメージのなかに感じていきたいからだと仮説しておきたいと思います。生物科学的にみると男・雄体であるボクの感じ方というものが、ボクの外にある男女の区分であるとか、境界線であるとかのイメージと対照してみて、どうもその区分と境界が混沌・朦朧としているんですね。

そうしていま、神と名づけるイメージにむかっていて、感情の内に生成させたい、あるいは確認させたいと思っているわけで、ああ、これはちょっとやばいなあ、とも思いながら、模索しようとしているところなのかなあ・・・。つまり不可思議な生命というもんだについての、自己質問なのだと解釈しているのです。

神がいらしゃる(5)
2006.12.20

ヒトが死して神におなりになるとか、ヒトが生きたままで神であられるとか、ぼくには信じがたいことなのですが、そういう神のありかたではなくて、神のかたちについて想いをふくらませているのでありまして、白と赤の色彩に目をうばわれているぼくがいます。

ヒトが意識を育ませるようになって、ヒトが意識のまわりにバリアーを張ることで、安定する気持ちはわかります。そのバリアーの外になにがあるのかといえば、見えない存在への気持ちの傾斜であろうと思うのです。

怖れおののき、得体のしれない不安に苛まれる。この情の領域において体験するそれらの蠢く動きにたいして、それらを鎮めるための作用が必要であり、その作用をイメージ化したものが神という抽象なのかな、と思えてきたりします。

榊と稲藁をつかい、白と赤をつかう、この道具と色彩というのは、目に見える装置としてぼくのまえにあります。それは境界、バリアーであって、そこから、ぼくは、その向こう側をイメージ化しようとしているのですね。つまり、神がいらっしゃる、という神という非存在について・・・。

ピンクの山茶花
2006.12.15

冬ざれた風景には、山茶花がひときわ鮮やかに目に映ります。 赤から白のグレードにピンクの花弁をつけた山茶花です。最近、新しいシリーズで、空地海苔根葉と続いて、いよいよ花の痕跡を残していくこととしたんです。現代の写真はカラーで、色彩が感情を揺する大きな要素だと思っているので、ここにいたって、ようやく暖かい感じがしてきています。

花が咲く地上は、この世の楽園とでもゆえばいいのかも知れないなぁ、って色づいた花を見ながら想います。空にしたって朝焼け夕焼けに感動するんだし、葉も紅葉すると感動させてくれます。そうゆうことでいえば、花の色形は、感動の、情動の、源流にあたるのかも知れないですね。

赤と黒
2006.12.24

赤と黒なんてゆう小説があったと思うんですけど、その小説の赤は革命、黒は軍だったように記憶しているんですが、どうなんでしょう、赤と黒、この赤と黒は、平野神社にある稲荷社のミニチュア鳥居です。赤い色は情欲を感じるんですよね。そういえば稲荷社とゆうのは、商売繁盛の神さまですよね。商売繁盛も情欲も、よく似た欲望であるようなイメージです。いえいえ、欲望のかたち違いですかね。

チョコバナナ
2006.12.26

この世には男と女がおりまして、消費する代物を吟味していくと、その根底にえろす気分を充足させる装置が仕組まれているようにも思われて、おとこらしく、おんならしくと、おおむね区分されているように思います。おとこらしさとおんならしさを、無意識レベルに喰いこませていくこの世の装置を、ぼくも喰いこまされてきたのだな、とつくづく思ってしまいます。

バナナにチョコレートをかぶせて、きらきら星をまぶしてある棒を、だれが頬ばるのかとゆうと、女児から乙女が頬ばるのです。煌びやかなようなグロテスクのような、チョコバナナを、いかにもおいしそうに口に頬ばり、もぐもぐと食べるのです。夏には冷凍バナナを、冬にはナマバナナを、自然のなりわいに応じて工夫されたこの食べ物はこどもたちの人気商品でもあるのです。