光の玉手箱(15)2007.1.5~
むくむく叢書のご案内

元旦の閻魔さま
2007.1.5
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元旦の閻魔さま。ぼくが閻魔堂へいったのは、大晦日の午後11時50分くらいでした。除夜の鐘を突きにいったのだけど、閻魔さまの扉が開かれていました。今年の初撮りはこの閻魔さま。午前0時をまわった時間に、写真に収めたから、撮り収めではなくて撮り初めです。

除夜の鐘を突くのに整理券をもらい、行列に並んで、山伏たちの般若心経を耳にして、鐘を、ご~~~ん!と突いて、元旦をむかえたのでした。目で見て、耳で聞いて、鐘の綱を手に握って、線香の匂いがして、突き終わったあとには糟汁をいただいて・・・。五感まるごと預かってもらって、ひとときの魔界体験だったのでした。

生きることはえろす
2007.1.8

生きてるってことはやっぱりえろすやで、おとこがおっておんながおって、それにねえ、食べるもんがいっぱいあって、光が燦々、海の潮が満ちてきて、月が満ちてきて、おとこがおんなを求め、おんながおとこを求め、そうして生きてるこの世は満ち満ちて、ぷりぷり、ぶるるん、むくむくなんがええのんやなぁ。

豊穣する心、弛緩する心、どっち取るってゆうたら、そりゃぁ豊穣する心やで、里山の静けさかネオンサイン煌めく猥雑さか、どっち取るってゆうたら、そやなぁ、どっちも欲しいなぁ。欲張りじいさんが花を咲かせてあげようと、さっそく持ち出したのが桜のお花。真っ赤も真っ黒もどぎつすぎて、うすいピンクがほんのり豊か、これがええねん、京都やから、ね。

それにしても年々歳々、からだが縮んでいくのが悲しいので、その分こころを膨らませてあげようと思っているんやろなぁ。初々しい、水分タップリ、リンゴを割れば蜜のかたまり、レモンを匂うとすっぱい、思い出すことが多くなった幼年期のころです。そして、生きることはえろすやなぁ、生きるかぎりはえろすやなぁ、お正月からぶつぶつと、ひとりごとを呟いているわけだ。

今様源氏物語
2007.1.18

なんで提灯は赤いんやろ、うんぬ白もありまっせ、ともあれ赤い提灯がやたらと目につく今日この頃なんよね。目につくことを意識してるから目につくわけで、今更赤い提灯が出現したわけではないのです。ぼくの意識には、赤ってゆうのは情欲系やと感じているわけで、燃える情欲、むしろ怖い感じがしているんです。桃色、あの桃の色。色でゆうたらちょっと赤みがかった桃の色ってとこがいいですね。ぼく、源氏物語って読んでないんです。そやのに源氏物語ってのが、意識にこってりへばりついていて、瀬戸内さまの現代訳のんでも読む必要がありますよね。谷崎訳のんは昔ちょこっと読んでそのままやけど、これは手元の全集の中に四巻あるので、と思いつつ、読みきれへんなぁ。

さておき、この正月から、紫式部とゆうおひとのことが気になりだしてきて、恋心やないけれど、ちょっと詮索したくなってきて、供養塔へ行き、お墓地へ行き、そうして雲林院という場所へ行き、恥ずかしながらここに文章してるわけで、まるで恋しだした青年ウエルテルみたいな感じで、おるのです。うんうん、昨年秋ごろから<神>のことについて、あれこれと想像してきて、千年ほど前に系列が分岐しているような気がしていて、その一系列の元祖が源氏物語あるいは紫式部というおなごのように思えてきているのです。

脈々と物語成立から千年、来年が千年目だそうですが、今様、インターネット環境で、ブログとかソーシャルネットワークサービス(SNS)の環境を想うにあたって、そのコンテンツの源流が、紫式部あるいは源氏物語にあるようにもイメージしているのでございます。ああ、直感、なんの根拠もありません。たわいない戯言の類で、瘋癲老人の独り言でござるけれど、ちょっと連載しちゃおかなぁ、そんな気持ちもあって、この文を書いているとゆうわけ。

着物の色
2007.2.1

どう見ても、どう考えても、どう思っても、女性着物は悩ましく、情緒があって、艶っぽい代物です。どうなのでしょう、そのように見て考えて思うのは、ぼくが男だからなんでしょうか。つまり写真で見る限りにおいて、女性着物を、そのように感じてしまうのです。そうしてその根底に、えろす感情が潜んでいることを確信してしまうのです。フロイトさんは、夢や幻のなかに、性衝動を見ていたように記憶しているのですが、ぼくのばあい、やはり着物の写真は、それをベースに組み上げるイメージ世界なのです。

天と地、大樹と根。それらの具体的な写真を撮りだして、一方で女性の着物や桜の花などの写真を撮りだして、それらのイメージは、色彩だけではなくて、いいや色彩そのものかも知れない、情を感じるのです。ぼくは大胆にも、男えろす、女えろす、分類し始めているのですが、前者の類は男えろす、後者の類は女えろすだと思うのです。さて、この分類、この思うイメージ、言葉で区切る作用は、たぶんに世の中が培っている価値感に則しているのではないかと思っています。

封じられてきたえろすの世界。封じられてきたえろすな心。ぼくの関心ごとがここ、封じられてきたという、ここにあります。着物が醸しだすイメージえろす。ヒトのこころを豊穣にとらえる術として、ぼくは着物を撮っているのではないかと考えているところです。

えろすの氾濫
2007.2.6

えろすの世界は泥沼やねぇ、って誰かが言ってたんですけど、そう思えば思うほど、際限なくぼくのドロドロな内面を反映している世界のようやなぁ、と納得してしまうわけです。えろすは、ヒトの感情に直接リンクしている内世界、なのかも知れないとも思うのです。ぼくが気になるなかに、R・メープルソープの写真群があります。 奥ゆかしくて美しい国のなかでは、美術館の壁面に飾られることもないけれど、彼の写真群の一角を占めるハードコアな写真は、えろす世界のひとつの極みを撮ったものだと思っています。

1980年代にビニ本とゆうのが流行りました。写真雑誌も流行りました。それらの被写体は、おおむね女性であり、男性は顔を隠すという代物でした。写真を撮り始めたころにはヘヤーの露出はタブーだったのが、次第にヘヤーが露出されるのは公然のこととなってきました。ビニ本にも裏本、温泉街で売られる裏写真、つまり無修正写真のことで、それらが公然の非公然としてありました。それらは印刷物として、制作されて流布されてきた代物でした。

さて、現在、インターネット、WEB環境のなかで、えろすの氾濫がすざましい勢いで進んでいる実感があります。あえて意識化して思えば、この半世紀のぼくのまわりにあった、えろす表現物の実態を辿ってみて、いまネット社会に突入して、おおきく様変わりしたと思うのです。SNS大手のmixiにおいても、かなりのコミュニティがあり、盛隆しているところです。そうして類似のSNS、アダルト専門SNSが乱立しているのが現状としてあります。いいわるいは別にして、この現状を、それから後を、基本認識しておく必要があると思っているのです。

演歌
2007.2.9

最近はたまにしか聴かないのですけれど、歌謡番組で演歌が流れてきます。ぼくはこころうっとり聴きこんで、和服をきた歌手の身のこなしに、ある種の美を感じてしまいます。かっては、いまほどではなかったけれど、演歌を聴くと、やっぱりこころがしんみりしてくるのでした。そりゃあ何がしかの感動を、つまりこころを揺すぶることのプロフェッショナルが、仕立て上げるショーなのだから、それに乗せられているにすぎないとしても、そのあっぱれさには敬服してしまいます。演歌は艶歌、そして恋こがれる歌詞、おとことおんなの悲哀を綴ったものが多いように思います。

和の旋律、切々と謳う女ごころ、聴くのは男、立身出世、企業戦士、熾烈な戦いの中で、束の間の安息。まあ、構図的にいえば、そんな男の日々に亀裂を生じさせて、うっとり聞き惚れるのかも知れないなぁと思ったりします。その当時、つまりぼくがまだ、そういう場所にいたころの、カラオケなんてのは、もう演歌ばっかり、それで浮世の哀れさを身に滲みて、ちょっとまどろんでいたような感じですね。

悪の華
2007.2.21

シャルル・ボードレールが著わした詩集に<悪の華>と題されたのがあるんだけど、といいながら、今時の<悪の華>とは、なんやろう、もしそう題するとしたら、どうゆう内容の詩集あるいは写真集になるんやろなぁ、と思ってしまうわけです。何に対して<悪>なのか。悪があるからには<善>があるとおもうけど、今時のこの<善>とはなにを指すのやろ、と、まあ、言葉遊びをしているわけだ。

善悪ってゆうけど、ぼくの感覚でゆえば、戦争、武器をもって戦う、これが善であるわけがないんです。でもね、これ、悪だ!とも、いちがいには、言わないんですよね。必要悪!そんな言い方ってあるかよぉ、なんて憤慨してみてもしやないけど、これは善なのです、聖戦なんていってるけど、善の範疇に入れちゃうんでしょうね。美しい日本、これは真善美の最高に集約された状態をいう、なんてぼくは抽象的に解釈したりしているんだけど、これも変な話です。

悪は犯罪です。だから悪の華は、犯罪の華です、なんて言ってみても、何に対しての犯罪なのか。人を殺傷することは断じて犯罪です。人を欺くことも断じて犯罪です。どんな手段を取るにしても、この二つは犯罪です。つまり<悪>です。このように規定しておいて、さて、今時の<悪の華>とは、いったいどのような内容を言い当てれば、いいのだろうかと、やっぱり螺旋階段、スパイラル状態で、ぼくは、考え思索している感じです。

えろす表現
2007.3.2

写真とか文章をもって表現を試みる一角にいて、もどかしい気分になるのが、えろす表現ということです。えろすを表現する。ええい、そんなの無視していけばいいんや、とは昔の自分であって、今の自分は、そうではないんです。文化の枠組みを想い描いて、美術や文学なんかの置き方をみて、綜合文化研究という試みをやりはじめて、えろす表現というものが、自分の問題として無視しえなくなってきたと思っているのです。

どちらかといえば軟派に分類されるえろす表現だと思うんだけど、そうゆうことでいえばぼくなんかは、硬派で通してきたわけで、いまも多分写真の被写体であれ、農事にかかる文章であれ硬派の部類だと思っています。でもしかし、みづからが表現対象として扱うか否かは別として、興味の程は、なくはなかったわけだし、タブーという境界線があるなら、そのタブーを守ってきたわけで、タブーとゆうからには、そのタブー視された領域への興味も深々やったということです。

うう~ん、ぼくも年老いてきて、心残りはタブーへのチャレンジかなぁ、と思う日々です。たとえば釜ヶ崎に関わった過去には、表層的にそれは硬派としての、タブーへのチャレンジだと認識していました。それとは別に、ヌード作品をつくったこともあったし、白虎社取材の写真なんてのも、かなり、えろす表現であって、あれから二十年の後にぼくの作品としてHPに掲載したところです。

つまり、ぼく自身が心残りなことは、ある意味、たたかう表現者としての表現行為という問題なのです。何に対してたたかうのか、といえばタブーに対して、タブーを打ち破るべく思考すること、そうして実戦交えること、そのことなのです。ちょっと困ったジレンマやな、とぼくはいま立ち尽くしているところです。

えろす感
2007.3.8

生きている、そのこと自体が、えろすです。えろすとは、からだが活動していること、それ自体を言い当ててるんや、と思います。なんとまぁ、この肉体とも身体ともいわれている物体、これ自体が相当なえろすなわけで、狭義な意味では、男と女の関係のなかに生成するものがえろすと解釈しますが、もっともっと、生きてること自体、それがえろすだと認定してあげる。

えろすはからだの欲望です。食欲、性欲、からだの器官が要求する欲望です。金儲け欲とか支配欲とかは、あとからつけられてくる欲望ではないかと思います。ぼくはお酒を飲まないたちだから、甘いスイートが無性にほしくなるときがあります。たぶん身体が糖分を欲しているからだと思います。赤い苺がのせられたショートケーキを食べる。食べるまえに見る。ちょっと幸福な気分になる。

食欲か性欲か、どっちが優先なんやろな?なんてふつふつと考えながら、甘いショートケーキを食べ始め、そりゃぁ食欲やろなぁ、と思ってしまうわけです。なんてったって食欲が満たされることが優先だよ、って考えているんです。まあ、こんなことを考えているってことが、つまり、食を満たすことができているからなんでしょうね。ということで、ぼくは、基本に食をとりあげて、その次に性をとりあげて、えろすの全体像をつくろうとしているんです。

春めきて
2007.3.20

ことしの春ってのは、けったいな春やなあ、冬に季節に春があり、春の季節に冬があるってな感じで、今日は3月20日、いよいよ気温が上昇してくるという予報です。なにかと、春という季語は、こころが浮き立ってくる気分で、生きる力が目覚めてくるような感じになって、ほんわかな気持ちです。

最近はご近所を、カメラをもって散歩することが多い日々です。目の前に現れる光景を見て、生きている喜びみたいな感じが立ち昇ってきます。いわば老体の域に入ってしまった自分があって、この世の見納め的な驚きかと思ってしまいます。空を見上げて、雲間から光が射しこむのを見て、天がはじけるそのときを想い描いて感じたり、地を見て岩石土をみて、奇妙な愛着を感じたり、けったいな感じです。

花の色には特に感動、こころ揺すられてしまいます。ご近所を散歩していると、京都の旧市街だから特に、各町内にお地蔵さんがあって、花束が飾られていて、その色彩に目を奪われてしまいます。これからはそれら置かれた光景の、襞となる細部をじっくりと、観察しながら写真にしよう。そのことに専念しようかと思う日々です。うんうん、生きてるってこうゆうことなんでしょうね。

春の色に
2007.3.24

今日は春雨、気象予報がいうとおり、先ほどから雨が降ってきています。春は曙ようようたなびく・・・、春雨じゃ濡れていこう・・・、なんて春をあらわすことばが、ふつふつと湧いてきて、まったり時間をすごしてしまいます。一年の季節のなかで、春という季節が、やっぱりいいですね。なによりも萌えだす季節だからかしら、気分もうきうき浮き立ってきます。

年とともに、年々歳々、時季に感じるこころを、大切にしたいなと思いだしています。命ということへの執着がでてきているんやろな。おとろえゆくからだと反比例するかのように、春という季節を思う気持ちが昂じてきます。素直に喜べばいいのであって、なにも偏屈になることはないんです。かなり自然体で、その日その時の空気感を味わう。いいじゃないですかねぇ、えろ爺さんといわれても、いっこうに差し支えないと思いだして、こんな日記をつけているというわけです。

自分が撮った写真は、だれのためよりも自分のためにある。そのように思いだしている昨今です。お商売に使う写真でないなら、それはなによりも自分が見て楽しくなる写真であるほうがいいのです。気に入った光景を、まるでこの世の見納めのような感じで見てしまって、カメラを持ち出して撮っていく。街の光景も、社寺仏閣の境内の光景も、空を見上げりゃ空があり。地を見下げれば大地があり、大樹に草むらに花に・・・、なによりも人間に・・・。

祭りの日
2007.4.1

お祭りというのは、参加するにしろ見物するにしろ、こころうきうきするものです。ここは京都のわら天神宮。安産の神さまとして知られているお宮ですけど、毎年4月第一日曜日がお祭りの日なので、今年は今日、4月1日というわけです。京都に多数あるお祭りでは、ここが春祭りの最初ではないかと思います。

ここはぼくの氏神さまではないけれど、散歩の途中になにかと立ち寄るお宮ですから、今日はカメラを持って出かけていったというわけです。お稚児さん、女の子がおめかしして、可愛い冠を頭にのせて、可愛い美しいの一日となる。そのスナップ写真です。この年頃の孫娘をもつ身として、愛着を感じるわけです。

神社
2007.4.15

神社は神が宿る処です。この四月は、例年のことながら桜取材で毎日のように神社へ出かけて桜の写真を撮っています。桜を撮っていると、まま、その前に美女が現れます。巫女のようにも思えて、おもわづシャッターを切ってしまう。なになに、それはおとこ心で、覗いてみたい欲望なんだとおもうけれど、神さまを仲介してくれる巫女だと思おうと思っているわけです。

神さまなんて、見た人だあれもいないと思うけど、でも、だれもが見たいと思うのだと思っています。当然ぼくも神さまを見たいわけで、見るとしたら、対面した人のその中に見たいと思うわけです。熨斗がつけられた箱のなかではなくて、生きた女性のその中に見てみたいと思うのです。

花嫁衣装
2007.4.16

結婚する男女の女を花嫁と呼ぶんですね。花嫁衣裳を着けた女は一生に一度の、であってほしい晴れの日の衣装ですね。4月15日の日曜日の午前、平野神社での神殿結婚式に遭遇して、記念写真を撮った。まったくぼくとは無縁な関係です。この二人、あたらいい日々が始まる門出の日なんやなぁ、古いぼくの頭は、そのように思ってしまいます。

さくら
2007.4.23

まあ、さくらっていう花は、女の子イメージですね。さくらの花と向き合って、さくらの花を撮っていて、そのこころは、細部をじっくり観察するために写真に撮ってると、まあ、そんな気持ちがふつふつと湧いてきていました。今年のさくらをどのように撮ろうかしら、と思いながら、けっきょく最短で最大限明るく、というのが撮り方になってしまいました。ここに載せた桜なんて、撫子って名前がつけられていて、なんとまあ、かわいいじゃありませんか。光をたっぷり注いであげて、その細部をじっくり見てあげて、ぼくのコレクションとするために、写真を撮っているんです。やわらかえろすのこころですね。

花をじっと見つめていると、けっこう嬉しい気持ちになってきます。もちろん花の種類や形によって、嬉しい気持ちも微妙に違ってきます。これ、れんげつつじなんかは、清楚なキリッと締まった表情の美少女を見るような感じがしてきて、こころが洗われる気分です。

認識のしようによっては、花は生殖器だからそれだけでエロスティックな匂いがただよってきて、光に向けておしげもなくその姿をさらしているのだから、それはあっぱれだと思ってしまいます。花を見て、鬱になることなんてありゃしない。美少女の微笑みのような清楚な花にあっては、なおさらのことです。