光の玉手箱(19)2006.4.3~
むくむく叢書のご案内

雑感シリーズ 1~20
 2007.2.28~~2007.6.12

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<生きて、いること>

生きているのが恥ずかしい、と思うことがままあるんですけど、きっとこれは若いときに愛読した太宰治の影響が色濃いとおもっていて、ふっとそんな気分になって、死のうと思っていた、なんて書き出しではじまる冒頭を思い出したりしてしまうのです。どちらかとゆうと、そのほうに近いところに自分がいるような気になる、てゆうのも太宰文学の影響なんだと思って、まあ、あんまり表面だって人にはゆわないわけです。

このまえには、鶴瓶の番組をみていたら、斜陽館の映像がテレビに映ってきて、行ったこともない津軽、つまり地名などが出てきて、懐かしい思いにふけるのでした。思い出のなかに、行ったこともない土地の地名が出てきて、あたかもその土地を知っているような感じがして、そういえば斜陽だったと思うけど、西片のお屋敷、って表記だったかどうかは定かでないけれど、この西片という地名にも郷愁を抱いてしまうのです。田端、日暮里なんてゆうと、室生犀星の小説を想い起こすし、神田のニコライ堂なんてゆうと、やっぱり太宰を想い起こすし、なにかこの年になって、郷愁という気持ちが、ひしひしと迫ってくるわけです。

そんなとき、そうゆう過去をもったことが、恥ずかしく思えたりするんです。全然、脈絡のつかない話を、ここにこうして書いているとゆうのも恥ずかしい気分です。

<春の訪れ>

春の訪れとともに、気持ちもむっくむっく、むくむくした気持ちになってきます。むくむく通信社なるものをバーチャル設立して3年になります。むくむくとは、無垢と無苦を連ねて平仮名表記にしたところが語源です。土の中からむくむく顔をだす虫。器官がむくむくと疼いて頭をもたげるわたし。まあ、春っていうのは始まりの初め、なにかが終わって、なにかが始まる、そんな予兆の足音が聞こえるようにも思ってきます。

ここに載せた写真とは、無縁な文章、いいえなんとなくむくむくと感じる写真です。写真のなかに写真があって、その写真は、ん?何?。記念写真屋さんのショーウインドウに飾られた記念写真。こうゆうたぐいは、お見合いに使うとか、成人の記念にとか、そうゆう写真なんですね。顔を見せるのか着物を見せるのか、その両方の相乗効果で、わたしに写真を撮らせたのか。うん、まあ、見ていてたのしいじゃないですか、ねぇ。

はなしを元にもどして、無垢無苦なんていうけれど、手垢に汚れた苦悩の真っ只中にいるわけです。

<お守り>

ヒトとは、どうも自分を守ることに、あの手この手をつかうように思います。いつのころからお守り札が出てきたのかは知らないけれど、神社へお参りして護身をお願いし、その形として神さまの分身を肌身につける。肌身につけないとしてもそばに置いておく。そういう習性を身につかせてしまったようです。

いいえ、人間なんてもろいもんで、一人ぼっちでいると、平衡感覚がなくなってしまうように感じられて、拠ってすがるものを必要とするんだと思います。ヒトには裏切られることがあるので、あんまり信じないでおいて、神さまはこちらが善行ならば、裏切らない存在だから、ついつい神頼みしてしまうのも習性なのかも知れません。

お守りいただけるってことが、ほんとかうそかは知らないけれど、最近なら交通お守り花盛り。それも赤色系のお守りがあって、女の子を意識した神さまが、その身をお守りしてあげようとの魂胆なんでしょう。でもね、信じることで全てがはじまるわけで、信じないとご利益ないように思うから、まあ信じる心をつちかっていかないとあかんなぁ、そう思うわけです。

<春の色>

 春はさくらの花が咲きます。春の色はさくらの色です。ピンク、白いピンク、赤いピンク、緑のピンク。ピンクは桃色、桃の色です。いや、桃より桜の色です。これからはピンク色のことを、桜色といいましょう。

<桜の花を背景に>

まだ満開とはいえない桜ですけれど、今年もまたデジカメを手に持って平野神社へと赴いています。桜の色めかしさと陽気に浮かれているわけではないけれど、桜の花を背景に、記念写真をお撮りになっている若い子をみると、ついついカメラを向けたくなって、斜め前から撮らせてもらう。さすがに京都やなあと思うのは、旅行客が多いこと。旅の記念に写真を撮るのはあたりまえですから、どこもかしこも記念撮影現場です。

<桜>

桜の花が咲く頃になると、それは春爛漫、陽気な翳り心を感じるんです。楽しくていい思い出も、忘れてしまいたい思い出も、桜の頃の思い出がよみがえってくるからです。最近は、体力の衰えを感じるようになって、萎えていく肉体に、心だけでも若返ろうと無駄な抵抗をしているような気がして、桜の花を写真に撮って、このようなコメントをつけているわけです。

それにしても情を揺すぶる桜の花、春爛漫です。 桜にまつわる小説もあれば、日本国の象徴のような存在感をかもしだすこともある桜です。ともあれ、情を揺すぶる桜の花は謎の花です。かっては遠くに見ていた桜の花でしたけれど、けっきょくはめぐり巡って桜の花を愛でる昨今でもあるのです。そんな自分の経緯を振り返るときが、思い出のよみがえりなのです。

<お稚児さん>

年に一度のお祭りに、おさなごがお化粧をして冠被って、よそ行きの顔になるお稚児さん。桃の節句もそうだけれど、お宮の氏子としておめかしする女の子です。今日はわら天神宮のお祭りで、カメラを持って出かけたら、このお稚児さんに出会って、写真に撮ったというわけです。

昔から潜在していたとは思うのだけど、最近はとくに色艶あるモノに惹かれる心です。春はなにかと新しい命を感じます。梅から桃に移って桜が咲く頃、ちょうど今の時期、気候もよくなり萌える日々です。たぶん自分の未来が少なくなっていることへの反動だ、と感じているしだいです。

<桜の季節>

今年の春は、桜の開花を追いかけて、毎日のように写真を撮っています。主にはご近所の平野神社です。自宅から歩いて5分、デジタルカメラをポケットに仕舞いこんで、現地へ入る前後から写真を撮りだして、メモリーがなくなるかバッテリーがなくなるか、そこまで撮って、だいたい一時間ほどの滞在です。

桜の季節は春で、美しいのは桜だけではなくて、おなごさんも美しくなっているようで、どうも目移りしてしまいます。着物の女性がおりまして、写真を撮りたいといえばこころよくOKしてくれて、まあ、記念写真というわけで、ぼくのアルバムにはいるだけのことです。

<巫女>

神に仕える女子を、巫女さんといえばよろしいのでしょう。神社の境内で、白い着物に赤い袴姿の女子を見るにつけて、なにやら魅力を感じてしまいます。生きた神さまのお使いであるような気分になってしまうのです。神官にはそれほどの情はわかないけれど、巫女には情がわいてきます。

神の世と此の世をつなぐ境界があるとすれば、巫女はその境界にいる生きた女子のようにも思えて、神聖な気分になっていきます。いいや、ここで神聖な気分と記したけど、それっていったいどんな気分なの、って思っているわけで、撮らせてもらった写真を一枚、見ていて、ふつふつとわいてくる情です。俗聖と神聖の微妙な境界感情ですかね。

<桜がおわり>

今年は桜をたんと撮ったと思います。三月中旬から四月中旬まで、おおむね1ヶ月の間、毎日のように桜を撮りました。桜の花に魅せられて・・・なんていうとありきたりな句になってしまうのですけど、やっぱり魅せられてるんやなと思っています。桜を見るときって、なんてったって気持ちが浮かれてくるじゃありませんか。おとこ心でいえば、おなごの艶を見ている感覚ですね。桜取材の最中には、おなごの姿がかいま見えてきて、ついついシャッターを切ってしまったのも印象に残っています。

さて、桜の季節がおわってきて、早くも新緑の季節がやってきていて、数日前から薄緑の芽吹きだした葉を撮りだしているところです。ピンクからグリーンの季節へと変容していく地表の出来事ですね。浮かれ立った桜の季節がおわって、可憐な花と新鮮な緑の季節がやってくる。カメラをもって写真をとっている自分、いったいなにやってるんやろ、って苛立ちの気持ちも同居しているんですね。トップ写真は、平野神社の突羽根桜です。

<若葉の季節>

桜がおわると若葉の季節となってきて、薄紅のつややかさから、黄緑の清楚さに変化していきます身辺です。自然の営みは循環していて、一年のサイクルで移ろいでいきます。手許に瀬戸内寂聴さんの源氏物語があって、昼間に、若菜の帖を読んでいたところです。

<ぼたん>

立てば芍薬、座れば牡丹、なんていい方があったと思うんですけど、その牡丹です。ぼくはその重量感といえば、牡丹にまさるものなし、と思っています。そのぼってりした花。魔をもって魅了させる花。 ぼたんです。

<葉を外側から見る>

外側から眺める、外側から見る、外側から観察する。どうもなにをしても、なにを見ても、外側からというイメージでしか見れないんですね。そもそも<見る>ということじたい、目の前にあるものを見るわけだから、自分の外側でしかないわけです。5月にはいって若葉の季節になって、うすい緑の葉が萌えだしてきて、ああ、新鮮な思いでそれらの葉を見つめているけれど、しょせん外側から眺めるしか手立てがないんです。

<白い花弁>

凛とした顔立ちの白い花、その花弁。なんとはなしに白い花は死霊を連想させてきて、あまり好む花の色ではないんですけど、ときにはうっとり見とれてしまうことがあります。白無垢は、花嫁衣裳にもあるから、いちがいに死霊を連想させるだけではなくて、清楚な無垢を感じるところでもあります。自分のなかでの感じ方だから、その気分とゆうのは表現しにくいです。なになに、だから文学って領域があるんです。その気分は、文章で伝えなければいけないのかも知れませんね。

<葵祭>

とくにぼくの氏神さまでもないので、行列を見にいくつもりはないけれど、今日は葵祭りです。源氏物語の<葵>の帖が、この祭りを背景にした記述ですね。源氏の子を身ごもった葵の上が見物にいき、六条の御息所はお忍びで見物にいき、場所取りで争いが起こる。それと源氏の君は、行列のメインどころです。いやはやおよそ千年前の物語のなかでの出来事です。

先日、祭礼をひかえた上賀茂神社と下鴨神社へ行ってきました。神域シリーズの一環としての撮影取材です。縁起を担ぐ気がないといえばウソになって、なにかと縁起を担ぎたい心境の今日この頃です。いまの時間、祭りの行列が町中をすすんでいるのでしょうね。ぼくは縁起を担いで、この記事を書いています。源氏物語にひっかけたたわいない試みですけど、ね。

<女の子写真>

写真に<女の子写真>、こんなジャンルがあるようですね。どう解釈するのが正当なのかわからないけれど、女の子が撮る写真というのが筋なんでしょうか。それとも女の子が写っている写真をいうのでしょうか。最近は、女性がカメラを持つのがあたりまえで、携帯とかデジカメとか、ほぼ全員が持っていて、写真を撮っているんですね、ファッションです。

それとは別に、女の子が被写体になった写真が、氾濫しているんですね。かなりエロティシズムを醸しだすピンナップもそうだけど、ほとんど無修正、無修正、ってのも氾濫しだしていて、そうゆうことからいえば、ぼくが撮る写真なんてたわいないものです。女の子写真のプロでもないので、まあ、町角でスナップする程度です。流行といえば流行で、その表層を記録している、といえば面目立つかな、と理屈をつけています。でも、それはまやかしですね。

<おみくじ>

これからの先行きがどうなるのかを知りたい、と思う人間の習性がそうさせるのか、お宮とか神社のおみくじは盛況のようですね。 おみくじは占いのひとつでしょうね。ただし、たまたま引いた籤が目の前にあらわれて、偶然とはいえ籤の中味を読んで喜び悲しみ、我が身の成り行きを想いうかべるわけだから、まるで宝くじ感覚なのかも知れないですね。

ここは北野天満宮。おみくじを引いて、こっそりたたずんで読んでいると、友達がやってきて、見せて見せて!ほれ見て見て!運勢を共有するのはいいことで、金運、恋愛運、その他諸々、まあ人生、生きていくうえで喜び悲しみを先取りすることで、生きている証拠を掴もうとしているんやろね。

<意味ある場所>

ストリート・フォト。路面スナップをしていると、通り過ぎる場所、立ち止まる場所によって様々な記憶がよみがえってきます。また記憶が記憶を呼び起こしてきて、つぎの場所へと誘っていきます。まるで夢宇宙をさまようかのように、記憶の場所へとおもむくのです。ここはぼくが通っていた中学校から通りへ出た場所です。いまは「きぬかけの道」と呼ばれているそうで、このポイントの緑のむこうは大学構内です。手前に堂本印象美術館があります。

1960年に中学入学だったと記憶しています。この道路が造られていた光景、工事中の光景がよみがえってきます。金閣寺から竜安寺へ至る観光道路です。土塁を運ぶ木製のトロッコがあった。ブラスバンドの路上行進練習を、その工事中でこぼこ道路でやりました。それからおよそ半世紀が過ぎたいまです。広小路が中心にあった大学が、ここにあります。そういえばこの大学敷地で体育祭があって、ぼくは子連れで参加したものでした。路上スナップポイントは、おおむねそういった記憶のポイントです。

<修学旅行の京都>

デジカメを持ってお散歩ぶらぶら、いまの時期、京都を訪れる修学旅行の生徒さんにお目にかかります。金閣寺から西大路通りを南下して、何処へいくのか自由行動の時間だと思います。修学旅行に京都を訪れるのは、中学生と高校生です。観光バスで金閣寺や北野天満宮へ来る修学旅行の生徒さん。個人タクシーで5人程度がグループで、観光地をまわる修学旅行の生徒さん。

ぼくなんか、修学旅行ってゆうと、もうかんなり前のことですが、こうして修学旅行中の生徒さんを見かけるたびに、小学校では伊勢神宮へ、中学校では箱根から東京へ、そして高校生のときは南<洛中洛外>

京都には御土居(おどい)というのがあって、秀吉のころ、京都の町を土手で囲んでしまったのです。東西南北、京都の西には紙屋川というのが流れていて、この川を境に東側を洛中、西側を洛外と区切られたわけです。 現在は、都市開発のなかでほとんどが壊されて住宅地になっています。その痕跡には史跡碑がたてられ、区切られて保存されています。京都生まれで、京都にこだわるぼくの気持ちのなかに、この洛中洛外観念が色濃くあります。

写真を撮るとき、ああ、ここは洛中、ここは洛外・・・と必要以上に意識しています。境界線に立って、カメラを向けることがよくあります。北野天満宮が洛中、平野神社は洛外。この橋は洛中と洛外をまたぐ橋です。この位置でゆうと、左が洛中、右が洛外です。洛中から洛外へ、自転車に跨った女子が通り抜けていきます。この位置から、左に北野天満宮、右に平野神社があります。