自写像の論/試論-1-

彼の芸術の美徳は、いかに喚起力に富むものであろうと描かれたイメージのすべては意識の錯覚にとどまるべきであり、生活への積極的介入の水準まで達してはならないという法規を犯すことにある。(アンドレ・ブルトン「ピエール・モリニエ」)


<終わりのない旅>

自分を撮る。自分を記述する。自分を描く。人間は芸術の歴史において、その制作主体たる自分をテーマに、様々な意匠をまといつかせて自分自身を記述し、描き、そして写真に撮ってきた。私はこの人間だけに与えられた自己表現の一形態を「表現論」として、また作家の「作品生成過程」についての断片をこれから記述していきたいと思う。

ここに記述されていくメインテーマは「セルフポートレイト」の全体を把握していくための一考察である。作家あるいは写真家が自分自身に向ける「まなざし」に対して、いくつかの視点から論究していこうとする試みである。

この作業は、直接には私自身の経験としてある私の記憶のイメージと、その記憶のイメージから生じる現時点でに新たなるイメージを、言語に置き換えていく作業である。これまでにも写真を見つめる機会があった私にとって、現在、この作業を進めていくことがいかなる意味を持つのかは、終わりのない円環を言葉で埋めていくことで、徐々にだけれど明確になってくることと思われる。

私は、新たなる写真の視座を求めて、エンドレスゲームを演じ続けている。かって私は「写真への手紙」と題する覚書をディスクールし始めた。ここに現わされるこの「セルフポートレイト論」ノートは、その覚書のひとつとして存在していくものである。

永遠に未完の覚書。私は旅に出たのである。「知識の羅列は無意味である」という定理をみずからにかせて、言葉によって「深淵の感性を呼び起こすためのイメージ化」を目論んで、写真の定理に迫る。

最近、写真によるセルフポートレイト作品を目にする機会が増え、また写真家の作品制作および発表の傾向が、よりプライベートな、家庭内あるいは同居生活者といった、これまで写真「作品」として呈示されてこなかった範疇にある私生活な部分で、撮影された写真が公開されるという現状がある。

私自身としては、同種のテーマとメンタルを内在させている私自身の問題として、この傾向を整理しておかなければならない必然に迫られていると云える。

セルフポートレイトの在処は、作品制作態度として、非常に際立った私性の極み、アンモラールとして私はとらえている。特に最近には、自分を被写体とする作品が多く発表されており、これまでの写真の歴史上には無かった写真群として注目されつつある。

しかし批評としては、写真の社会的関係性やフェミニズムの立場からの評論に終始しており、まだまだ基本的でなお全体的な捉え方が定着するまでに至っていない。

またこの現在にあって、みずからが被写体になることで、自分の置かれた位置を確認する行為とか、写真作家にとってみずから演じることで、被写体とのコミュニケーションが不要など、表層の実利的理由だけで論じきる視点からは、批評の展開発展は生じ得ない。

またこの傾向を作家自身がファッションとしてとらえ、その方法と技法のみを展開し、流行の表層を描写していくことに至っては、そこからは何の価値も生み出さない。

こういった様相がセルフポートレイトをとりまく背景の現状であろうと思うが、私はもっとグローバルな視点から、人間の本能から派生する表現の作家態度としてとらえる必要があると考えており、そこには作家の「生」の在り様を看てとらなければならないと考えている。

何よりも「芸術」あるいは「写真」と「私自身」の本質を極める行為に、この作業は在る。私のイメージの連なりとしての思考の断片を、言語でもってディスクールしていく。また、この行為は、私に与えられた私のセルフポートレイト創出の試みである。

<磁場>

かって、絵画における風景画・肖像画の創出や、音楽における宮廷音楽の創造は、権力(者)の所有欲や支配欲を満たすための一手段であった。また制作者はおおむね、権力(者)に従属しており、権力(者)の欲求を満たすことが第一義としての意味をもった。

この構造は、人間社会の細部で、それぞれの階層や人間関係の内部にまで、権力による支配関係を成立させた。そして人間が国家の形成と、それに内在する文化の創出及び享受のための構造を創った必然的帰結として、権力関係を内在化した文化を形成し、身につけたものとしてある。

おそらく古代には、この原則的支配関係が成立し、現在においてもなおかつ人間社会の主流としてある。またおおむね近代以降に現われる、批評としての論は、権力関係を自明の理として組成されており、それぞれ固有の文化内部での価値体系を構成している。

唯一、権力関係を持たない関係とは、自己内部における自分のイメージと、自分をこのようにして在らねばならないものとして喚起させるイメージとの関係であろう。私は、私内部での、この関係に注目する。この関係は権力関係ではなく水平関係、磁場あるいは波紋の関係とでも云えるであろうか。人間の新しい関係を考察する基本的な位置関係として、私はとらえる。

表現(作品制作という限定ではなくて)の精神史を振り返ってみると、それは個における自己表出過程の歴史であった。特に近代以降の芸術は、権力構造の中にあって「個」がテーマとして浮上してくる過程として、とらえることが出来る。

「個」がテーマとは、所有関係が明確になることである。近代は肖像画が描かれ自画像が描かれる時代となった。これは「個」の自立、つまり自我の目覚めとともに発生してくる絵画表現の一形態である。自画像には画家自身が自分を描くことで自己の存在を知る、あるいは自己を所有する認識の手段として、つまり自分を見つめ自分を解読していく行為として、その技法が発生してきたと云えるだろうか。

レオナルド・ダビンチに代表される西欧ルネサンス運動は、この「個」つまり自我の問題をテーマとしているし、文学におけるロマン主義からフローベルの自然主義へ、絵画における印象派からゴッホらへ、それぞれに個の自立と自己意識への洞察を中心として他存在、あるいは社会的風景を考察していくこと、に比重が置かれてきた。肖像画と自画像の技法確立過程は、個における自我が社会全体のテーマとして浮上してくる過程であった。

自分を見ることは、自分の社会的存在を認知することである。画家においては拠って立つ画家自身のステータスシンボルとして自画像が描かれた。権力構造の中にあって、自画像の存在価値は、画家の個人的なメッセージとして、権力構造への批判を描くということにつながるのであろうか。たしかに外部に対して自画像は、権力醸造のなかに対置させる自分意識の発露として存在することになる。

ところで描く自分自身の内面としては、どのような構造を持ったのであろう。あるいは感性の在処は、どのような風景であったのだろうか。そこには権力関係の介在しない自己対自己。つまり自分が自分であることを見つめる認識作業として、その行為が成立するように考えられるのだ、が。

1839年に写真術が発明されて以降、肖像画は写真のテリトリーとなり、写真術によって有名無名の人々のポートレイトが撮られた。ダゲールやタルボットやバイヤールなどに代表される写真創世記の仕事。20世紀初葉のステーグリッツにおけるオキーフのポートレイト。自画像、セルフポートレイトとしては、カニンハムやマン・レイなどがその痕跡を残している。

写真が撮りうる被写体は、抽象化されたものではない生身の像である。現代社会における私自身のつくられ方というと、マス・メディアから流されてくる画一の情報による、ステロタイプ化された私自身となることに尽きるだろう。こういったなかで異端になることは狂気である。

写真の現代の状況について、私はかって次のように記したことがある。
「問題は、こうした現在の私たちをとりまくところの商品価値としてしか存在しえない諸々の「もの」たちの深部にある。不可視の状況を創りなしている現在とは、こういった商品群に幻惑され尽くしている私たち自身が、私たち自身の内部の構造を問いかけられないことによっているのだ。」(現代写真の視座1984)

ドキュメンタリー写真のゆくえとして、写真が問題にすべき質は、個人の内面の構造を明らかにしていくこととしてあった。マス・メディアから流されてくる商品価値としての「もの」に取り囲まれた現状は、ステロタイプ化された人間を作り出すこととなった。こういう環境であるがゆえ、写真家はまづ自己の内部葛藤を獲得しなければならなかった。

写真家の視点が内部葛藤の現場から外部世界へ向けられたとき、写真表現の質は全く新しい形で、意味を組み替え、イメージを変換して、新たなる問題提起がなされてくるのだと想定された。

<セルフポートレイト>

1980年代以降に現われるドキュメントの潮流のひとつとして、セルフポートレイトによって私と外世界との位置関係の組み直しを図る視点がある。セルフポートレイトとして、自分を撮り、発表する、という写真の在り方をつかむ方法としてである。この在り方は、これまであった写真の価値の在り方を尺度としての計測では、価値の与えようがないものとしてあるようだ。

たとえばシンディ・シャーマン(CINDY SHERMAN)が、彼女が育った風土としてのアメリカの記憶を、彼女自身のの記憶とダブらせて呼び起こしながら、中産階級のレトリックを暴いてみせるフィルムスチールからの引用で、みずからがいつか観た風景を演じてしまう演じ方は、おそらくシャーマン自身の、豊かさのイメージをふりまいたアメリカという存在の場の、確認作業に他ならないであろう。

あるいはナン・ゴールデン(NAN GOLDIN)がみずからの生活の場、彼氏との愛憎関係の場をも含めて、フィルムに収めていくとき(写真集 THE BALLAD OF SEXUAL DEPENDENCY 「性的依存のバラード」として出版された)、そこには明らかに生活の心理採集、つまり風俗記録の終局にまで至っているように見える。

それらの写真作業が引きだしたものは、現代アメリカ文明の心理(内在者として生活する生活者自身の精神の襞)そのものであると解釈できる。このようにして現代写真におけるセルフポートレイト及び生活空間のドキュメントは、比喩と隠喩をはらみながら、私にその在処を指し示してくれている。そしてそれらの作品群が、多分に「セックスあるいはセクシュアリティー」の問題を、根底から彷彿させるものであることを指摘しておこう。