物語と評論集「覚書:写真物語-3-」
むくむく叢書のご案内
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2004.12..13~2005.2.5
  nakagawa shigeo

自分の記憶と記録の通史>

いってみれば、これは前口上、前書きです。ぼくが写真という代物の諸々のことに関心をもってかれこれ30年になります。いま、ぼくの年齢が58歳です。自分で微妙な年代だな~って思っていて、一定の整理をしようと思って、いくつかに分けて、ぼく自身の過去を読み直しています。写真の関係については、ここで、写真に興味を持ち出した1975年前後からの、記憶をたどりながら、書き進めてきています。

ほかに写真学校を作り出していますので、写真にまつわる評論とかカリキュラムとかを手がけています。これは、現在から未来に向けての仕事として考えています。58歳という年齢は、ひところならもう余命わずか、という年齢ですね。最近でこそ平均寿命が80歳前後までになっているので、ぼくもそれに合わせて、あと20年~30年位、生きてるやろな~との思いで、30年計画をはじめたわけです。でも、正直なところ、いつ終わるやも知れないな~との思いもあります。かなり強烈にあります。そのような年齢だから、ここで、ひと区切りのつもりもあって、日々やってるわけです。

で、写真についての話です。1984年にフォトハウスという枠組みを提案して具体化しようとしていろいろやったわけです。その具体化の中心が、写真ワークショップでした。それから20年経ったのが現在です、現在は、2004年12月13日です。なので、当分暫く、ここでは1984年を軸にして、その前とその後をたどっていきたいと思います。

それとは別に、-1968年の大学1年生-というタイトルでも書いています。そちらのほうでは、1968年前後から始めて1974年ごろまでを目安にしていこうと思っています。で、また別に、中川繁夫の管理メモというのを置いていて、そこでは、1946年から1960年代までの間を追跡していこうかな~と思っています。

こうして3つを平行して、3つの年代区分にしたがって記憶をとどめていこうとの魂胆なんです。この作業が具体的にはじまったのは、今年の夏以降です。2~3年かけて一巡目をやっておきたいと思っているんです。60歳という節目を前後しての作業となる予定です。

<現在から遡る>

2004.12.21、つまり今日から遡行します。現在進行形の現在、写真について限定すれば、あい写真学校と写真ワークショップ京都の企画を進行させています。という話から始めていきたいんですが、この企画はこれまでのボクのやってきたことの集大成みたいなもんです。というのも、20年前1984年にフォトハウス京都を打ち出して写真学校の原形を、写真ワークショップ京都という名称で主宰してきたんです。その後、1988年ごろまで稼動してたんですが、本業のほうで単身赴任なんかありましたので、中断しました。

その後1992年に写真図書館を畑祥雄さんとともに開館させて館長に就きました。それから1994年から日本写真映像専門学校、そのころは大阪ビジュアルコミュニケーション専門学校っていう名称でしたが、この学校へ副校長の肩書きで転職したんです。このことをもって、ボクとしては写真の専門領域での仕事の始まりだと判断しています。というのもそこで収入を伴わせる職業としての専門学校副校長ですから・・・。それから10年経過したのが、現在2004年12月21日の今日、いまなんですね。

ざっと年月を追いますと、1996年にインターメディウム研究所の設立に参加します。そこで取締役職で事務局長として6年間仕事をしてきたんです。そして2002年7月に退職しました。

それからOICP写真学校というところで、カリキュラム開発をも引き受けて2003年4月からやってきたんです。昨年の夏ごろから、通信制の写真学校と通学制の写真学校、つまり今に至る「あい写真学校&写真ワークショップ京都」の企画にのりだしたんです。ということでこの20年間の足跡をみると、教育という分野にかかわってきたことになります。組織つくりと組織内での仕事です。

どちらかというと仕掛け人の立場です。仕掛け人というと、その価値を測るのに判断されることは、お金をどれくらい動かせるか、っていうことのように思います。当然、資本主義、商業主義の世の中で、お金を動かすことで商売が成り立ってきます、だから必然的にお金を多く動かせるほど価値が高い、ということになります。

ボクは、そのことへの懐疑をいだいているんです。そのことでいえば1970年代の後半にかかわりだす釜ヶ崎、ここでの思考そのものが資本制への否だったように考えています。その後も含め、自己矛盾をかかえながらの生活人、職業人としてきたんですが、諸般の都合があって決断した2年前の夏以降、基本的発想は資本制の否定です。

この否定することは、よりつよく自己矛盾を抱えてしまうことになるのですが、この自己矛盾こそ大切にしたいコンセプトだとも思っています。負け惜しみとかじゃなくて、真摯にそう思います。この発想にたてば、これは孤立です、無援なわけです、孤立無援の立場です。生存のための自己矛盾を抱えながらの孤立無援という立場は、どうみてもさまざまに不利です。このような立場に現在はいるんだとの基本認識をして、ここからの出発なんです。この出発にあたって、このような文章を書く場を確保しようとの試みでもあるんです。今日は外観を羅列したんですが、追々、中身の検証に入れたらいいいな~と思います。

あい写真学校の開校

2004年4月28日はボクの58年目の誕生日でした。この日、総合文化研究所の設立とあい写真学校が開校した日です。本音のところは、いまさら何故写真学校なの?ってボク自身に問いかける最中なんです。というのも、写真ということにけっこうしがらみがあって、自分の気持ちとしては過去を一新したい!との思いもあったんです。

でもね、これから先、自分に何が出来るか、って問うてみて総合文化研究所の枠組みを作ったんです。でも、この枠組みがどこまで出来るかなんて予想つかないのが現実です。この企画のなかに学校機能があるんです。ボクとしても学校運営の経験がありますから、この分野は出来ると思っていて、写真学校にかかわってきた経験もあるから、写真学校ならできる、とまあこんな感じなんです。それで写真の新しい学校をはじめよう!って思っているんです。これは、現在進行形の真っ只中です。どちらかといえばコンセプト中心の学校。学校といってもワークショップ形式です。

この2年間というもの二転三転していまにいたっているんですが、けっきょく自分でやりだすしかないな~と思っているんです。人をあまり当てにしてもできないし、ましてや金儲けが優先することしか考えない人とは、一緒にやっていけないです。大分迷ったんです、お金儲けのこと。やっぱり生活していかなければいけないんだし、そうすると必然的にお金儲けをしなければやっていけないわけです。でも基本、お金儲けは切り離そう!そう決断したんです。これが今の偽らざる気持ちです。

お金を回していくことで事業は成立していく、という考え方もあります。お金が回らないと成す事もできない、という論法もわかります。でもそのことを乗り越えることが出来るかどうか。お金がなけりゃないなりに展開できる手法もあるんじゃないか。そんな思いです。

世の中の価値観からの逆行かも知れないんです、たぶんね。でもね、このことで培っていける関係に注目したいんです。お金が関係する関係じゃなくて、つまり損得関係じゃなくて、善意の関係。そこに見えるかもしれない人と人の関係に新たな学校のあり方を模索したいと思っているんです。

あい写真学校は通信制の写真学校です。E-ラーニングって通信教育の形なんですが、やっぱり業界はこの方法を金儲けの手段として活用しようとしています。それの逆手です。お金がないから設備ができない、だから何もないところからのスタートです。もうボクは開き直っていますね。自分の思う考えにしたがってやっていくしかないんだ、ってね。そういうことが今年4月から始まったんです。

写真へのはなし-2->

釜ヶ崎青空写真展-1979夏-

2005年になりました。ここではボクの写真履歴について、記憶をたどりながら書き進めています。といいながら、昨年10月、写真へのはなしを12回連載して、写真への覚書を5回連載して、その後しばらく連載を中断していましたが、今回、改めて「写真へのはなし」の連載を再開します。

1979年の夏、ボクは釜ヶ崎の三角公園で写真展を開催しました。その写真展のことを、青空写真展とか写真あげます展、そのように呼んでおりました。釜ヶ崎夏祭りが毎年夏のお盆に開催されているんですが、その催しの一環として写真展を開催するという内容です。その写真展は4日間のイベントです。壁面はベニヤ板4枚です。

最初の1日は、それまでに撮り溜めた写真200枚ほどを展示、自分の写ってる写真があれば持ち帰ってもらう、というものです。2日目以降は、釜ヶ崎で前日に撮った写真を展示するというものでした。

個展といえばこれが最初の個展です。当時、写真の在り方について、被写体の中へ写真を返していく、という方法を考えていました。撮影者と被写体の関係の再考といえばいいんでしょうか、家族写真の形式ですね。釜ヶ崎という家族にカメラマンがいて、パネルは写真アルバムである、という感じです。写真の在り方論です。

それから、当時、釜ヶ崎を撮るということは、怖い場所を撮る。この怖さというのは、カメラマンが拒否される、ということでした。カメラが入れない怖いところ、写真を撮ってると乱暴される、とか、カメラを盗られる、とかの感覚です。でも、ボクの感触では、そんなことはない!という感じがあったんです。取材を始めて1年近くたっていました。

釜ヶ崎労組メンバーの近場で撮っていたという関係から、労働者とのコミュニケーションができ始めてきた、ということもあったと思います。警察とヤクザさんと労働者。ボクの写真についてこの3方面からの反応があります。

警察に守られ、ヤクザさんにつないでもらって取材する、というような方式が公然となされていたんですが、ボクはその方法をとらなかったわけです。その頃には、プレスが中立だというような考えはもうありませんでした。つまり報道の中立性という議論です。中立性という立場が無いとしたら、ボクはやられる側にたつことしかなかった。青空写真展を開いて妨害があるとしたら、労働者の側からではない、という確信がありました。

すでに、警察からの妨害らしきものは春先に炊き出しを取材し始めた頃から感じていましたから・・・。それから路上賭博の周辺へはカメラを持って近づいてはいなかったですから、ヤクザさんの妨害もないだろうと思っていました。でも気持ちとしては、何が起こるかわからない、やられるかも知れないな~、なんて思っていました。何人かの協力もあって、青空写真展の当日がやってきました。1979年8月12日だったと思います。

その釜ヶ崎という場所は大阪市西成区にあります。その場所にある光景とゆうのがボクの写真意識のなかで繋がらないんです。写真の被写体を求めて、大阪の街を歩いてミナミの方へ行って、天王寺界隈から新世界界隈へと入っていったんですが、釜ヶ崎の光景は異質なように思っていました。写真が撮られ発表される被写体のある場所として、そこは空白地帯であるという感覚です。

ええ、釜ヶ崎はヘッジです、社会の縁です、そのような見られ方がされています。でも、ヘッジ、縁と見られている場所が中心となるとき、その他の場所が異色に見えてくるんです。逆説とでもいえばいいでしょいか、ボクの視点はヘッジがセンターです、縁が中心。それまで何百本と撮って来たフィルムの全てが、気持のなかではもう無効になっていました。

当時の意識を思い出します、俗に場末といいますが、そのような場所を撮って写真賞を取ったヒトの話題を見ました。アパートとか旧赤線地帯とかゆう廓跡とかの写真でした。でも当時、もうボクにはそんな写真が有効だとは思えませんでした、白々しい。釜ヶ崎にいく前には、天王寺から飛田への道筋を写真に撮っていました。それらの街の光景と釜ヶ崎の光景とが異質だったんです。ボクの感覚では、それよりも奥へ入っていた、ということです。

ボク自身を構成している価値観が崩壊していきました。崩壊したあとには夢のごとき意識だけがありました。もう全てが解体してしまったかのような感覚です。でも徐々にではあったけれど新たな価値軸が芽生えてきたのも事実だったと思います。

自分のいる場所がわからなくなる、まるで神隠しにあったような感覚とでもいえばいいのでしょうか、自分が何者で何をしていて、いま居る処がどこなのか、この場所感覚が欠落してしまった感覚です。目の前にある全てのものが遠い記憶のなかに収まりきらずに宙に浮いてる、異質な処にいる。

このような感覚が10代の終わりから20代の初めにかけてボクを苦しめたんですが、それから10年後の20代の終わりから30代の初めにかけて、再びやってきていたように思います。いわば価値の体系が壊れて、解体してしまった世界、これは死です。ヒトには死と再生の繰り返しがあるといいます。肉体の消滅は1回しか起こりませんが、心の消滅あるいは死は、人生において何度か起こるようです。この2回目の心の死が、釜ヶ崎取材のさなかで起こっていたんだと思います。

世の中への白々しさ気分、妻と子供を認知しているのに違和感を覚える。自分の暮らしている家へは身体は帰ってきていますが心は違和感を感じている。それ以外の他者へはもっと距離感を感じてしまう。もう正常とゆわれてる範疇を超えてしまった処に心が置かれていたかのようにも思います。うまく説明ができません、バスの中から街路の風景を見ていてちぐはぐ感を感じてる自分。そのような感情を疎外感と呼ぶんだとすれば、この疎外感が釜ヶ崎の光景の中に沈んでいったようです。

あるいは芸術や宗教が個人の内部に生まれてくる辺境の場所が、その感覚のあった場所だったのかもしれません。あるものへ傾斜していく自分の気持は、写真を撮る行為と文章を書く行為に集約されていきました。

自分の行動が過激になっていくことに気づいていました。もう怖いものが何もない気持ってわかりますか?怖いものがない気持とは死を恐れない気持です。死滅への恐怖感覚とゆうのがあります。これが平常時の普通感覚だと思います。そこには感情があってその恐怖を誘発する現象には嫌悪感をいだきます。ヒトの子の死をわが身にたって感じるとやるせない気持がでてきますでしょ、これは平常です。でも異常なときとゆうのは、そのような感情さえ感じない。感じないですがまるで人格が変わったように神懸り状態になっています。神隠しにあって神懸りになる。そうとしか表現できないような状態です。

非常に大きな異変に巻き込まれてしまったときとゆうのは、ヒトをそのような状態に置いてしまうのかもしれません。ヒトとゆう動物が基底にもっている神秘的現象との融合作用なのかもしれません。ボクの釜ヶ崎取材のころの気持を言い当てるとしたら、そのように書き表せるように思うのです。1979年8月12日から15日にかけての青空写真展へ結実していくボクの内面はそんな感覚でした。

1979年8月の釜ヶ崎は夏祭りが行われました。この夏祭りの会場、三角公園で写真展を開催します。釜ヶ崎の労働者は写真取材には拒否をする、とゆうことが公然と言い伝えられていました。だからボクはカメラを取り上げられて袋叩きにあってしまうかも知れない、とゆう不安がありました。ベニヤ板にそれまでに撮り溜めた写真を展示した初日の夕方あたりから、展示写真の前には沢山の労働者たちが集まってきました。

その場は、嫌悪な気配は毛頭なくて、ワイワイガヤガヤの和やかないい雰囲気でありました。釜ヶ崎で当地を撮った写真で写真展をやるなんて初めてのことだと思います。見物者たちは喜んでいるのです。この光景はボクはある意味でショックを受けました。釜ヶ崎の労働者に写真が受け入れられた、とゆう事実にショックを受けたのです。

西成署のおまわりさんが見に来ました。ヤクザさんが見に来ました。朝日新聞の記者さんが記事にするといいました。翌日の夕刊に12段ぶち抜きの記事になりました。「あ、わしが写ってる」とゆうようなタイトルだったと思います。そうなんですね、釜ヶ崎の労働者が自分たちの写真を受け入れたとゆう事実なんです。

ボクの釜ヶ崎への見方が一変したのです。あるいは写真とゆうモノについての新たな認識といえばいいかも知れません。釜ヶ崎は写真を拒否しなかった。そこからボクの写真への思考が始まりました。撮った現場へ写真を返す、とゆう言い方をしましたが、撮られた写真が何よりも被写体となった人が歓ぶ写真でないといけないとゆうことです。少なくともボクの写真の方法はプライベートな関係の中で生じてくるべきものでした。

ドキュメントを考えるときの要素として、撮影者と被写体の関係があります。当時においてボクはこの関係性を「家族写真」とゆう範疇でとらえていたと思うのです。写真のあり方が第三者関係ではなくて第二者の関係、もしくは一人称の関係で撮られるべきである、という立場です。

当時、場末とゆわれる場所を撮った写真家は沢山います。おおむね写真賞の対象になる写真のなかの関係は撮影者と第三者関係において撮られた写真群でした。あるいは自己と他者とゆう融合と断絶のハザマを彷彿とさせる写真群、あるいは白々しい風景群・・・

ボクの撮ろうと思う写真はいずれとも違うものでした。撮影者と被写体が同じところにいる位置関係です。まさに家族写真の枠組みだ!と思いました。釜ヶ崎夏祭り、1979年夏のことです。釜ヶ崎の現場で写真を撮って、現像してプリントして展示する。展示した現場で写真を撮って、現像してプリントして展示する。この繰り返しを3泊4日の行程でやりぬいた72時間のイベントです。体力の限界と同時に写真の成立する場の実験だったと思っています。

とゆうのもボクは作家であることを自認してました。発表の場とゆうのは美術館とかギャラリーです、それに写真集とゆう方法もあります。でもいずれも被写体とは関係の無い場所、第三の場所です。この写真家、被写体、発表の場、という三角関係の否定とゆうか懐疑だったんです。写真家と被写体と発表の場が直線関係、そおゆう場を想定したんです。これって家族アルバムの領域でしょ!この関係を持ちたかったんです。この関係をもってして、その写真が社会的意味を持つ関係、作家と写真の新たな関係です。それと写真家の新しいスタイルだとも思っていました。

このような思いをもっての釜ヶ崎夏祭り「青空写真展」の開催でした。写真界への反響ってのはまあ皆無に近かったとは思いますが、実感手ごたえはありました。ズシっとくるものがありました、感覚と感情的にです。そのころの問題意識ってのは、写真の成立する場、とゆうことでした。

その年の12月、季刊「釜ヶ崎」ってゆう冊子本の編集主幹をやります。写真を撮って発表媒体を創りだす必要があったわけです。カメラ雑誌がありまして、当時だったら「カメラ毎日」ってのが人気の雑誌でした。「アサヒカメラ」「日本カメラ」とゆう雑誌は今もあります。その当時、毎月三冊を定期購読してましたが、もうあまり見なかったですね。とゆうのも、内容が白々しく思えていましたし、むしろ中平卓馬氏の「なぜ植物図鑑か」とゆう評論集を読んだりしていました。青空写真展のインスピレーションもここから出てきたのかも知れません。

たった一人の叛乱なんていってまして、写真の可能性とはなに?って真剣に問い詰めていたように思います。もう反乱軍、とはいってもひとりぽっちでしたが、季刊釜ヶ崎編集部をつくって中心的に動きました。