愛と癒しの「そのころ近況-1-」
むくむく叢書のご案内
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そのころ近況-1-
1~12 2010.4.29~2010.10.30

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そのころというのは、1969年から1970年にかけて。
いまからいえば40年以前のころのはなし。
大学の夜間部に入学したのが1968年。
ちょうど学園紛争の真っただ中で、ぼくの学校もそんな感じ。
生活費としてのお金を稼がなければならなかったから。
2年目になって、待望の出版社に就職できた。
出版社にとはいっても、営業補佐くらい、見習です。

京都は百万遍のそば、京大北門の前にその出版社があった。
いまは、別の名前の出版社が、あります。
たまたま、昨日、通りがかって、思い出した。
そこが出版社の京都支店というか営業所。
どんな本出してたかというと、法律関係。
それとちょっとえっちな感じの本、二本立て。
安保肯定論ってのが、売れ筋とか。

そうなんですね、安保。
日米安全保障条約、いま軍事同盟なんていってますね。
日米軍事同盟、普天間基地をどうするか、もめてる最中です。
安保反対どころか、容認したうえで、どこに米軍基地を置くか。
なんと、時代の変遷ってのを感じるところです。
まあいいや、そのころの話です。
ぼくは、大学に休学届をだして、東京へ、東京本社へ配属。
東京大学の正門と赤門の間の正面が、出版社があった場所。

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それから10年後になっていた、1980年前後5年間ほど。
写真を撮りだし、ひとりで作業を進めていたころに。
出会ったのが中平卓馬という人物。
出会ったといっても、面識ができたわけではなく、写真と評論に触れたわけ。
カメラ毎日って雑誌だったかも。
それから書店、四条河原町にあった京都書院で。
そこの書籍棚で、なぜ植物図鑑なのか、ってタイトルの本を見つけた。
けっこう、読み進み、ある感動を覚えた。
たぶん、写真に関する思い、考え方、など示唆されたと思ってしまう。

その後、東松照明さんに出会って、写真についての様々なことを、教わった。
教わったというより、影響を与えられた。
いま、こうして、記憶をたどりながら、ぼくとの関係を考えると。
この二人の人物に、おおきく由来していると思えます。
もちろん、多くの人との接触があり、そのつど影響されてきたわけです。
でも、とりわけ、ぼくが意識し、その中心となった人物といえば、この二人。
とくに、そのなかでも、東松照明さんには、傾斜してしまいまいた。

いま現在、2010年ですが。
ぼくの写真作法の原点は、上記二人の影響が大きいと思ってる。
その二人の人物が、1968年から1970年にかけて、何をしていたか。
1968年という年ににこだわりたいぼくは、そこをまず明確にしたい。
ぼく自身は、大学へ入れた年、すでに22歳になる年です。
文学をめざし、小説家を夢見ていた、まだ夢を見れた年です。
プロヴォーグっていう写真同人誌のことを、知るのはまだまだ後。
東松照明さんのことを知るのも、まだまだ後。
1968年という年は、大学紛争、そのまっただなか、でした。

-3-
近況 2010.5.31

この五月、なんか日々過ぎるのが、遅い気がしています。
いくつか、身の回りの出来事があって、思い出が多いからか。
五月連休に子供家族と一緒に田舎へ。
小学校4年C組の同窓会。
それから父の入院。

父の入院には、こころが沈みます。
ウツ状態といえます。
まあ、自分で言うから、病的じゃないと思う。
気持ちの落ち込みっていえばいいでしょうか。
まあ、気分爽快じゃない。

ここの日記風エッセイも、ご無沙汰気味。
文章を書くってことが、億劫になってる心境。
どうしたことか、失語症。
いいえ、そうではなくて、こころが重い。
思い出して書きたくない、そんな気分。

今日は、朝いちばん。
いま、朝飯前、ぼくとしては公的ブログに、記事を掲載。
その流れで、ここにいます。
ええ、どこで終わろうかと、イライラぎみ。
文章を書くことを、意識しています。

-4-
6月5日は、ミニ同窓会。
小学校4年生の同窓生で、琵琶湖の蓬莱。
そこにヨットを置いている同窓生の計画。
ヨットに乗る。

男女合わせ8名。
若くはないですね、悠々自適族?
まだお金儲けで働いてるメンバーもいる。
そんな旧友とたのしいひと時を過ごす。

還暦過ぎて、初老の年代になっていまごろ。
昔、10歳前後のころに、一緒に勉強し遊んだ人たち。
不思議、ほんと、なかよしともだち、そんな感じ。
まあ、こんなこと、できること、素直に喜びましょう。

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一か月ぶりに、ここに参上。
最近、この数年、こうゆう状況が続いています。
毎日、パソコンの前に、座っているのに、です。
写真を撮ることも、減退している。
集中できない。

この原因は、父の介護関係、町内の関係。
これで気持ちがそがれてる。
なにかと気がかり、手間がかかる。
だから、自分の作品つくりに集中できない。
文章を書くのが、億劫だ。

介護環境のことが、わかってきます。
現状の老人介護のことが、わかってきます。
当事者になって、わかってくることがあります。
たしかに、もっともっと環境整備をしてほしい。
消費税もさることながら、介護の現場を充実してほしい。

老人施設をもっとつくれ、とか。
医療費をもっと安くしろ、とか。
年金の受給額レベルで、介護を受けられるように、とか。
とかく、やっぱり、自分の将来の、不安材料ですね。
参議院選挙、実践している政党に、投票します。

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もう今日は8月7日、夏の真っ盛り。
昨日は琵琶湖の花火大会に行ってきた。
おとといは、墓参りに行ってきた。
父がいま入院中、昨日医師と面談。
今後のこと、ケースワーカー氏がアドバイス。
双ヶ丘病院を最後の病院として、それまでの策を考える。
なにかと、死にいたる手続きだけに、気が重い。
身内ってこと、意識してしまう昨今です。

月記となっているこの場所。
最近、日記体のこういう文が書きずらい。
もちろん、ほかのまじめな文章も、書きずらい。
ちょっとイライラっとしてくるのです。
そういう時期、波の最中なのかも知れない。
といいながら、もう64歳となっている自分。
なんとも、いえない昨今です。

このまえ、7月24日、小浜へ塩をつくりに行って、写真を撮ってもらった。

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この夏は、気を病むことが多い夏です。

第一に父の介護。
今年5月22日に脳出血が発症、3カ月がたちました。
脳専門のシミズ病院へ運ばれて入院1か月。
そこから民医連中央病院へ転院40日。
そして8月13日に上京病院へ転院となりました。
この28日には双ヶ丘病院への受け入れが決まった。
このことが、いちばんの出来事です。

夏、今年も、祇園祭り、地蔵盆、送り火、そうして、いま。
琵琶湖の花火大会を、見に行った。
祇園祭りは、山鉾巡行を四条烏丸で見ました。
夜には、幸い、神幸祭を取材しました。
こうして、もたもた、夏が終わっていきます。

あまり、作業が進まない。
夏の暑さ、猛暑日、熱帯夜、それが影響しているのかも。
まあ、あんまり焦っても、しやないなぁ。
そんな気持ちにもなっているところです。
もう、なにもかも、いいじゃないですか。
いまさら、怒っても、悔やんでも、どうなるものでもない。
なりゆき任せでいいのでは。

-8-
昨日、8月28日、双岡病院へ入りました。
入院手続きを終え、今日は二日目。
今日は日曜日だから、家庭裁判所へは、明日。
保護者申請をする?
診断書には、出血性認知症とか、書いてあった。
それで、本人が法的行為ができないから、代理人。
いろいろ、知ることが多いです。

今日も、自転車で、病院まで、行って帰ってきました。
も45年も前、高校が嵯峨野だったから、そのへん土地勘あります。
帰り、妙心寺の丸太町側で、池垣って家、確認しました。
ひょっとしたら、まだあるかも、記憶をたどっていきました。
あったけど、誰が住んでるのかな。
池垣先生は国語の先生、あくろう、悪郎ってあだ名。
なんか、家へ入り浸ってた。
東京オリンピックのテレビ映像、そこで見てた。

この話は、近況というより、そのころの内容ですね。
双岡病院は、精神科の病院、そのイメージがあるんです。
でも、設備というか、環境いいですよ。
病室、明るい、看護師さんなんかも、親切です。
こころ救われる感じがします。
ターミナルケア、終の棲家。
マザーテレサの死を待つ人の家。
その、気分って、いま、なんとなくわかります。

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9月になって、涼しくなると思ったら、今年は残暑厳しい。
35度を超える猛暑日、25度を下回らない熱帯夜が続いています。
なんか、地球温暖化が、加速してるということでしょうね。

命、人間の命について、いろいろと思うことが多いです。
高齢の父を抱えて、病院に預けて、顔を見に行くだけ。
それでも、親子のつながりで、それでよい。

今年は、国勢調査の年にあたっていて、その調査員になった。
町会長に当選した流れで、そのように任命された。
なにかと煩雑、というより手間がかかる。
9月中旬から、10月中旬まで、用事が多い。

昨日、今日とアルバムを作っています。
ニコンのピクチャータウン、2010年、今年撮影の写真。
なにしてることかと、自分でも、説明がつかない日々。
これが、生きてる証拠、ハンドルネームでは、物足らないけど。

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9月中旬、かなり涼しくなってきた感じですが、暑い。
なんか、地球が異変してる。
昨日、さんまの寿司を買ってきた。
四切れで約400円、かなり高価なにぎりずし。
さんまが、捕れないらしい。
昨年は一匹100円、今年は400円前後。

そういえば、イカだって、日本海、金沢近郊の海、捕れてない。
なにかしら、魚場が、移動してるらしい。
海水の温度とか、クラゲとか、いろいろな事態があるみたい。
ひとつひとつ、関心ごとのように書いているけど。
ぼく自身、いま、そんなこと、関心の中心ではありません。
関心の中心でなければ、なにが中心なのか。

なにが中心なのかと問われてもぉ。
明確に答えられないじゃないですかぁ。
いやいや、明確に答えるには、ちょっとお恥ずかしい。
食べるモノのこと&セクシュアルなこと、このふたつですけど。
いずれも生存に欠かせない、いやはや後者は人類存続。
生命を維持していく基本でありかる重要なことなのです。

老いていくということ。
これって、関心ごとですけど、食べること、生殖すること。
二大関心ごと、動物として生存するための、条件です。
これが、老いということで、変化していくということ。
これ、食べ物については、語ること、できます。
でも、生殖のこと、なかなか、論ずるの難しいですね。

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昨日2010年10月1日は、北野天満宮のずいき祭りでした。
ずいき祭りに、特別の思い入れがあるわけではないけれど、取材に行った。
北野天満宮、なにかしら、記憶に残るスポットなんです。

その第一は、もう60年近く前、小学校にあがるまで、壬生にいたころの話。
父に連れられて、北野天満宮の縁日に来た。
御前通りをあがっていって、そのままいけば、祖母の家。
そこへ行くのかといえば、今日はそこへは行かないと言った。
その後、小学校にあがるとき、その地へ引っ越してきた。
現在も居住の地、ぼくが生まれた生誕地、いまはない家屋があった。

その第二は、子供のころの遊び場として、北野天満宮の参道界隈。
毎月25日には、縁日で、おこずかいをもらって、遊びに行った。
コルク玉の射的、見世物小屋、口上語って品物を売る男。
食べ物では、お好み焼き、串カツ。
小学校の4年か5年のころ、母が露店を出しだした。
お正月、25日の縁日、参道中ほどの鳥居の近く、西側。
その場所が母の店がある場所でした。

中学生になると、天満宮の記憶は薄れて、千本今出川から中立売の記憶へ。
千本は繁華街、映画館とか、喫茶店とか、飲食店があった。
今もあります、その痕跡、そこを訪ねて写真を撮っている。
この話は、別途、書くことにして、北野天満宮。
ぼくの<京都>の中心スポットであるわけです。
掲載の写真は、2010.10.1撮影、ずいき祭りの行列。

-12-
ここで物語をつくるつもりは毛頭ないけれど。
語ること、書くことが、まるで物語なのです。
そのように思えてくるんです。

10月30日、土曜日の今日。
朝から、金沢発、高速道路つかって、京都へ戻ってきた。
妻が、左太ももの骨を折って、浅ノ川病院に入院している。

それは10月14日の午前10時半ごろのことです。
それから、今日まで、もう二週間以上が過ぎてしまった。
なにかまだ、現実の実感が、わかないんです。

ここで、日記を書き、過去を語ろうとの思いがあります。
なにから書こうかと、思う。
そうなのです、結婚40年が過ぎた。

愛情、そりゃそうゆう感情のものです。
怪我とはいえ、入院ですから、心配します。
いっしょに生活していたわけだから、困ります。

アクシデント、父が双岡病院に入院中。
妻が、金沢にて入院中。
ぼくは、アクシデントに見舞われている。

今日は、光影会の例会、久々に参加させていただいた。
写真って、なんなんでしょうね。
写真を介して、ともだちつきあい、なのでしょうね。

明日はグランドゴルフ大会とかで、参加します。
初めての参加で、老人入りを認めてあげます。
地域にもなじんで、京都の写真集を作っていきます。