ものがたり・日々雑感「ものがたり-1-」
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ものがたり

-1- 2016.5.30
心象風景を画像にするとしたら、どのようなコンセプトが必要か。
ついつい物事を難しく考えたがる世代なのかも知れない。
資本論なる書物を手放すことにした。
愛着があったというより特別記念物みたいな書籍でした。
まだ二十歳になるまに部分読みしているけど、全部は読んでいません。
なんだか生きていくための底本みたいに思えていた書籍、全四冊です。
行き先が決まって、記念写真にしてあげたところです。

-2- 2016.5.31
共同幻想論なる単行本が出た。
1968年だったか大学紛争の最中でした。
何かを得ようとむさぼり読みしていたようにも思います。
当時の愛読書といえば太宰治とか高橋和巳を読んでいました。
それらから半世紀が過ぎて、まだ生きています、懐かしい。

-3- 2016.6.17
1974年だからもう40数年前のことですが、次女が生まれた。
生まれた日に買って一句書き留めておいた本がこれ。
福永武彦氏に小説「廃市・告別」でした。
書架に収められて長年、色褪せてくるまで眠っていました。
整理のつもりで記念すべき本を写真に撮って残す。
そういう作業を進めだしているところです。
本のどこかに日付とともに文を残しているのが何冊かあります。
それはまた別の機会に載せようと思います。

-4- 2016.6.20
ワグナーの楽曲
リヒャルト・ワグナーの藝術、という分厚い書籍が手元にありました。
何十年もぼくの手元にあった本ですが、ほかの音楽書籍と一緒に処分しています。
その本のイメージははっきりと思い出すことができますが、中は読めていない。
ワグナーの音楽もほとんど聴くことがなかった作曲家、オペラ曲でしょうね。
そのワグナーの楽曲をアイチューンのプレイリストにまとめました。
総時間19時間ほどあり、トリスタンとイゾルデ他全四曲あるのですか。
意識して聴くのは初めてです。
戦争を賛歌する音楽として使われた?というような記事を読んだ記憶があります。
だから、あまり、話題にはならない、演奏も行われない、ホントかウソか。
いまさら、この歳になって、じっくり聴き込むには、時間が無いです。
十代の終わりごろに聴いていた曲は、いまでも聴きなれていて、親しみがあります。
親しみがあるというより、こころを締めつけられる記憶の淵へと誘われます。
いいです、いま、聴きだしたところですが、バックミュージックにいいなぁ。
十代の頃、指揮者になりたいと思っていて、気持ち的に音大をめざした日々。
茨木の音楽教室へピアノを習いに二年間、週に一遍、レッスン通いしました。
暗い、街灯がなくて暗い街かど、国鉄の快速電車、冬の特急白鳥、ピアノ。
いまさら、どうなるものでもないけれど、記憶の淵に立たされるそれら楽曲群。
ワグナーは、そのころから聴いていた仲間に入れてあげてもいいのかな、と思う。
レコードも、書籍も、おおよそ処分した後だけれど、まだぼくの人生続くから。

-5-
音楽・音の連なり
そういえば、音楽を聴くという習慣は、父親に教えられたのかも知れません。
小学生の頃には、レコードプレーヤーを真空管ラジオにつなげて聴いていました。
78回転のSPレコードで、軍歌やワルツや軽いクラシック音楽、でした。
ドナウ川の漣とか、シュトラウスのワルツとか、軍歌もありました。
別のところで只今「記憶の記録」作業をやっていますが、この記事はその関連です。
またここでは「京都物語」作業をすすめていますが、それらはいずれも写真付きです。
音楽のここでは関係ある写真イメージがないから、ここにその一環を書いています。
音楽のことを書くには、イメージや言葉ではないから、ブログ記事にはふさわしくない。
そう思いながら、音楽にまつわる記憶をたどって、年寄りをやろうとしているんですね。
高校を卒業するころ、18歳のころ、ぼくは音楽学校へ行きたいと思っていました。
音大へ行って作曲とか指揮法などを学びたいと思っていました。
どこまで本気だったのか、でも二年間、音楽教室へピアノを習いに行きました。
音大入試のための必須科目が、ピアノソナタが弾けること、だったと思います。
それからもう半世紀にもなりますが、生きてきたことと音楽とは切り離せない。
自分の崩壊感覚を下支えしてくれていたのが、音楽・音の連なりだったと思う。
文学と音楽、社会生活する、生活のための仕事・金儲けを支える精神ツール。
いま、そのことに、気づきます。
芸術を享受することは、生活を支える経済活動の周辺に必要条件としてあるのです。
でもぼくは、享受するにとどまらず、その芸術を制作しようと思っているんです。
そのための模索を、やっていると思っているんですが、たわごとでしかないのかも。

-6- ものがたり
1979年の夏だから、もう37年も前のことですが釜ヶ崎で青空写真展を開催しました。
それは日替わりで、今日撮ったものを明日展示する、という写真展でした。
四日間で総計千枚を超えた記憶がありますが、釜ヶ崎当地で撮った写真展示です。
そのころはフィルムで撮影、現像、プリント、と徹夜に近い四日間の作業でした。
ふっとそんなことを思い出しながら、それに近いことはできないか、と模索。
iPhoneで撮った写真を、写真店の自販機で本に仕上げる、即日性に至りました。
昨日、実験的に、iPhoneをもってヨドバシのプリントコーナーへ行って本を作成。
ここ数日に撮った写真から12点を選んで、自動編集にかけ、製本まで1時間半。
<写真集「風景論001」>と名付けられたオリジナル2冊の写真集を完成させました。
ひところ<写真行為論>なるものを考えていたことがありました。
写真を撮る行為と表出される写真、写真の意味を行為と共にとらえる、ということ。
撮る行為から完成させるころまでの総体として、写真の在処を探ってみる、ということ。
もちろん、一枚一枚の写真の意味を求めることは必要、そこにプラス行為で包み込む。
アクティビスト、行為者、写真行為とは何か、それの現代版といえばよいか。
多岐にわたる意味論のひとつとして、この行為が成立してくるとしたら、いいのだが。
まあ、まあ、まだ身体が動くから、動かせられるから、この行為ができるというものだ。

-7- 夢・幻
今年も夏、8月にはいりました。
日々、過ぎていくのが早い気持ちです。
もう、ここへ、来ることも、どうしようか、と思う。
思い出が詰まったブログだからです。
振り返ってみて、まだ、過去にはなりきっていない。
もたもたの人生、うろたえてしまう。
いったい、なに、してる、んやろう。
何かに駆り立てられて、作業をすすめています。
iPhoneで撮った写真、空の写真、これ、載せます。
写真集を作っていて、風景論、4号まで発行したところです。
二部だけの限定だから、手元と図書館に一冊ずつ、です。
ツイッターとフェースブックに投稿しないを選びました。
ここだけの、記事です。

-8-
今日は8月15日、お盆の真っ最中、終戦の日、です。
敬老プレゼントを町内からもらう歳になっています。
このあともらいにいきます。
歳とともに、瑞々しいことに、興味が向いてきています。
枯れていくからだが、瑞々しいからだを追い求める。
いけないこと、と思う反面、衝動的に撮ってしまう。
いつか、どこかで、訴えられるのかも知れない。
なにをしているのか、自分でわからないのが、現代の人間なのか。
現実と非現実のはざまで、夢幻のなかにいる気分なのだ。

-9-
お盆が終わって、夏が終わったという感覚です。
今日は文字さんとあべのハルカスへ行くことになっています。
家を出るまで少し時間があるので、これを書いています。
思い出す、あれから一年、みゆき、いま、なにを考えてるの。
いろいろと思うことがあるけれど、もう、終わったとおもうけど。
終わったとおもうことが、辛い気持ちにさせる。
ここにあげた画像、二枚、パソコンで編集した最後のもの。
iPhoneで撮ってネットにあげることが多くなっています。
写真集を作っていて、五冊目をおととい作った。
私家版、知った人だけに見せて、見てもらう。
今回は三冊、図書館、ギャラリー、自分の手元、とした。

-10- 2016.8.23
久しぶりの日記
暑くて午後は外出
ビブレに来て散髪してもらう
イタリアントマトでコーヒータイム
思い出すけどもう大丈夫です
今日は休みかもしれないですね
会いたい

思い出すのは一年前の出来事たちです。
思い出すと同時に感情がついてくるから困ります。
ぎゅ~っと心を締め付けられる感覚です。
恋してた、その痕跡が残っている。
そうなのかも知れない、未練でしかないですね。
いまさら、どうにかなるものでもない、ですよね。
涼しくなった。
もう8月が終わる。

あれから一年、一年が過ぎる。
まだ、過去にはなっていないようだが。
記憶が迫ってきたり遠くにあったり。
もう、会うこともない、とは思いたくない。
また、会える、なんてことも起こらないだろう。
町中で見かけるよく似た子、今の流行の子なのか。
夏が終わり、風景論を語らなければいけない。
風車、水子のところにあるイメージなのか。
やっぱり其処だった、松ヶ崎大黒天の境内。
今日、第六号をヨドバシカメラで作成してきた。
ここ一年は、この制作を続けようと思う。

-11- 2016.9.14
美しいお姿をしていらしゃる。
いよいよ、もう終わりに近づきました。
さようならをいう時なのかもしれません。
あれから一年がたちます。
アルバムにあなたの写真がありました。
もう過去のこと、とも思える気持ちです。
区切りをつけないといけませんね。

2016.9.19
気分転換にアイチューンでマーラーの交響曲を流しています。
ほとんど聴いたことがないマーラーですが、スケールが大きい。
ぼくとしては、バッハ、ベートーベンといった処だから、領域が違う。
結局、音楽家になんてなれなかったけれど、聴く、愛好家ですね。
嵯峨野のブラバン、音楽家文字さん、近くになったとはいえ、です。
70歳になって、区切りをつけて、再出発です。
その最初に、音楽はマーラーのシンフォニー、これは一番だとか。
このブログには、いろいろと心のケアをしてもらったと思っています。
辛かったときのつぶやく場として機能してもらったと思う。
その子のことは、もう、終わったから、心の中でも終わる。
図書館の辞任は、その子との思い出を消すため、ともいえる。
それが踏ん切りの大きな要因なのかも知れない。
新しい日々をつくっていこうと思う。

-12-
17日の土曜日、新しくギャラリーがオープンしました。
ギャラリー176という名前で、主宰者は友長勇介さん、IMIの5期生。
知らなかった、そんなこと、知るひとなどいないだろ、どうしようか。
招待してくれたのは杉さん、知合いのような知合いでないような女子。
ちょうどぼくは今居る処から新しい処へいこうと決意したところです。
とはいっても、そこへ参入することなどは考えていいないけれど。
いろいろと自分の過ごしてきた出来事を思い出すところです。
京都ではDOTでやっている京都写真学校、二年間ブランクですが。
25日にはセミナーを開催、今回は結局、あの子へは呼びかけていません。
あの子のことが、忘れられないという底流があって、ぼくの行動がある。
図書館を辞める、たしかに、彼との確執があるからではある。
でも、一番深いところでは、あの子がいない処には、もういられない。
それほど切羽詰まった気持ちではないから、いまなら辞められる。
辞めたときには、あの子にもお知らせしておかなければいけないな。
図書館へ来るかも知れないと、待ったが、来ないから、あきらめです。
もう、会うこともない、と思っているほうがいい、まだ未練があるのか。
新しいギャラリーに行ってみようと思う。

-13- 2016.9.28
梅田に出てきて、ヨドバシでアルバムを作っている。
時間待ちで天丼を食べてコーヒータイム。
終わりの日です。
最後の日です。
あなたとも、終わりにします。
虚しい気持ちばかりでしたね。
恋の終わり、ありがとう。
さようなら!

2016.9.30
あれから一年、最後にお会いしてから半年がたちました。
その思い出残る場所から、ぼくは昨日立ち去りました。
これですべてが終わったのだと思います。
あなたがいない場所、あなたがこない場所、もう会えない場所。
なにもかもが終わって、あなたのことも終わって、過去となる。
あなたに恋したのだと思っています。
あたらしいところへあなたが行ったように、ぼくも行きます。
思い出のなかに、あなたの最後に向きあった、姿を残します。
黒いワンピで向き合ったギャラリー、さようなら、あなたは。
そうでしたね、憂えたような表情で、ぼくを見つめていた、と思う。
静かな朝です、静かな音楽が流れています、ヴァイオリン。
つらくなるから、もう、このへんで、書くのを止めます。
さようなら。

-14- 2016.10.3
おわってしまって、それでも思いだしてしまいます。
時間が、月日が、過ぎることで消えていくと思うけど、まだ、だめ。
一年、半年、そうして、あなたといた処から、ここに来ています。
あなたのまえに、いくつかのベールがかぶさるようになりました。
今朝は、このベールが剥がれてしまって、あなたのお顔が浮かびます。
なにしてる?、今日は月曜日、仕事はお休みか?
会いたい、顔を見たい、会いたさに、こころ迫られます。

お元気にしていらっしゃいますか。
ぼくは9月末で図書館をやめました。
あなたがいらっしゃらない所にとどまっていられない。
あれから一年、最後にお目にかかってから半年。
少しずつ、あなたを思う気持ちも、静かになってきています。
思い出をいっぱい、ありがとうございました。
またお会いできるかと思ったりしましたが、終わりにします。
あなたの前途、幸せな人生を、歩んでくださいね。
ありがとうございました。

ほんとうは、とっても苦しくって淋しいんです。
でもそんなこと言葉に出して言えないじゃないですか。
ぐ~っと詰まって固まったような感覚が満ちてくるんです。
あの人のお顔がちらちら脳裏にあらわれて消えていきます。
いけない、16歳の感覚と同じ質のように思えます。
疼いているんだ、こころが疼いているんですね。
恋して、もう頭の中いっぱいで、何も手が着かない恋のすがた。
原因があるとは思うけど、結果として失うしかなかった。
成熟させられないから、いっそう深く恋したのかも知れない。

この一年と半年、なにしてのだろうと思った。
とくにこの一年、なにをしていたんだろう、もう終わり。
仕切り直しのとき、あたらしく始めようと思う。
これまでのことは、これまでのこと、気持ちを改めます。
アイフォーンをやめる、やめればいいと思う、その気になった。

-15- 2016.10.16
なにしてるんやろな、意識がはっきりしない、というか混沌。
価値観が総崩れという感じで、とっても不安定な気分といえばいいか。
ピアノの音を大きくして聴いています。
ベートーベンのピアノソナタ第二番とか、聴き慣れてない。
あのいまわしい出来事から、こころは落ち込んで、締めつけられています。
気を紛らわすことができるなら、それもしたい、あれもしたい。
スマホを新しいのにして、なにが変わるのか、変わるのは自分だ。
風景論の制作は中断、エロス系ブログも中断、そのほかも自粛です。
ちょっと自分の時間を見つめなおすのがいいと思うようになった。
今日は、このあと、金沢へ出発します。