ものがたり・日々雑感「気ままに-2-
むくむく叢書のご案内
2016.2.15~2016.11.30 photo 2018.9.1
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気ままに-2-

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2016.2.15
布団から出たのが4:40、パソコンはベルディのレクイエム。
聴き惚れていきます、でも、あたまのなかは別の音楽。
中島みゆきの別れ歌でしたっけ、道に倒れてだれかの名を。
呼び続けたことがありますか、このフレーズが昨夜から。
その光景がイメージが、あたまのなかを駆け巡っている感じ。
壮絶な、恋するこころの終わりを受け入れる光景、でしょうか。
この歌はもう当分は聞かない、ここにあるのに、聴けないなぁ。
撮った写真をセレクトしなくちゃ、一週間分ほどたまってる。
今日は陶芸へ行ってみよう、昨年10月だったか以来だ。
もたもた、この数か月、いや半年、一年、何してるんやろ。
浮遊した、乖離した、へんてこな精神、精神なんて言葉じゃなくて。
お叫びでもなくて、こころのさま、見えないけど見える様。
壮大なレクイエムの音を聴きながら、夜明け前の朝を迎えています。

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春らしい光なのにまだ寒さが残っています。
こころが開放されていくのにうら悲しい淋しさに見舞われます。
青春ならぬ晩年なんでしょうね、肉体晩年心青春、そういうこと。
晩年というと太宰の処女作品集じゃないか、晩年、死のうと思っていた。
それはべつにいいとして、結局のところ、精神の本質は情でしょう。
情なんて、若きも老いもなく、混沌としていて、つかみどころなし。
情は成熟するんでしょうか、純粋な情は、身体の成長にゆだねられる。
ほんとうかな?ほんとうかもしれない、うそかもしれない。

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今朝は起きようとおもいながら起きられなくて二度寝でした。
バッハのオルガン曲
Bach: Leipzig Chorale, BWV 662, "Allein Gott In Der Hoh Sei Ehr"
ずっしりとした音色、オルガンは重たくってあまり聞かないんですが。
昨日の写真は弁財天、今日の写真は鬼子母神、いずれも大徳寺で撮影です。
気分が落ち着かないです、そわそわしてる感じに思えます。
どないしょうかなぁ、なにを?どないするん?、なんてことを。
わけもわからず、思案にくれる、だめですよね、こんなことでは。
ああ、もういちど、やりなおしたい、10年前に戻れるか。
切羽詰まってきて、過去の出来事ばかりがよぎります。
これはフーガ、ぐるぐる、ぐるぐる、まわっている感じです。

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なんかしら、もう、しんどなってきたわ、なんて思ってしまう。
八方ふさがり的な感覚になっていて、立ち尽くしてしまう。
別離、別れ、お別れ、そうして再開できる日が、可能性としてある。
生きている限り、可能性はある、とはいえ、ほぼありえない。
ベートーベンの曲にも、別れのタイトルがあった、あじゅあX。
中平卓馬の本のタイトルになってたやつ、あばよ、さようなら。
まるで喜劇の中のセリフのように、わらって、あばよ、ですよね。
では、また、お会いできたら、お会いしましょう、あばよ!

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2016.3.4
もう3月、はやいなぁ、これが口癖、早いなぁ。
なにしてるこっちゃ、わけわからん、なんて言葉がでてきます。
生きてるんです、命を保っているんです、生きているんです。
なに、あほなこと言ってるん、なに考えてるん、なんて問われてる。
小説とか、非小説とか、文字を連ねていこうと思っているん。
それに静止画イメージ・写真を連ねて物語にしようと思ってる。
このことを、だれかと共同作業にしたいと思ったり.
刹那、という二文字があって、このイメージが不思議を醸します。
瞬間とか、あっと思ったとか、刹那、せつな、切ない、ではない。
あらかじめ予定されて、想定されて、そのように作っていく。
これの真逆といえばいいか、制作の手法の話ですが、刹那的な。

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このさきどないしょうかと途方に迷う。
とはいってもからだの行動がかわるわけではなくて。
こころの成り行き、そうしたらいいのか、途方に暮れる。
消滅しそうなこころ、激しい下痢が止まらない。
思い悩みによる体調の変調なのか、これまでにはなかった。
古希という年齢からくる鬱とでもいえばいいのかもしれない。
体調の変化を、つまり老化していくからだを感じます。
こんなこと言っていても始まらないけど、言うことで救われる。
イメージ的には下支えする器、とでもいえばそれが消滅していく。
泥沼へぶすぶすと沈んでいくような感覚、いけない、いけない。
こうしてここに書くことで、かろうじて均衡が保てる感じ。
黙っているのが辛くって、こうして吐いていくことで救済される。
カレンダーには次々と予定が記入されていくのに、こころが迷う。
まだ、だいじょうぶ、雲隠れするほど弱ってはいないから。

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優しさの美学、なんて言葉がぽろっと出てきたりしてます。
虚構の彷徨だったか、間違ってたらごめんなさい、太宰の小説。
心中しようとして海に入ったけれど、女が死んで男が生き残った。
男は警察の取り調べとかに対応するんですが、なんともみっともない。
光景を想起しても、滑稽というか悲惨というか、なんとも言えないけれど。
生き残ったという男の心情を想定して思ったら、これは優しい男の悲惨な美学。
胎内に、羊水に包まれたからだ、海はそれを想起させます。
生と死、愛するやつが死んで、おれは生き残った、海から上げられたからだ。
哀れといえばこんなにも哀れな男はいないやろなぁ。
でも、現実に、心中ではなくても、こういう事態はままあり得ます。
優しさの美学は、哀れさ、悲惨さ、心の崩壊を感じさせるんですね。

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2016.3.14
ということで、マーラーのシンフォニーを聴きだしてています。
スケール感がありますね、スケールを容量といいかえましょうか。
器が大きい、たくさん入る、ビッグ、そんなイメージでしょうか。
でも、音楽について、言葉を連ねるなんてばかげたことですよね。
音楽は音楽、イメージはイメージ、言葉は言葉で、それぞれ表現。
音楽を聴きながら、自分の中に蘇生してくる感覚が、言葉があります。
なんかしら、もういちど、最初からやり直し、自分構築をと思うんです。
昨年から今年にかけて、自分の枠が崩れていくのを確認した感じです。
その崩壊感覚を、つなぎ合わせて次の器に盛っていかなくちゃ。
そんな前向きな意識が、今朝、芽生えてきているのを感じます。

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いよいよ桜の季節がやって来るんですね。
巡り巡って一年、京都では三月の後半には桜が開花します。
昨年の写真を使って、前宣伝、ことしもまた桜の季節です。
毎年、毎年、桜の季節ですが、身の回りが変化しています。
気持ちのあり方も変化しています。
谷崎の細雪でしたか、桜をめでる光景がありましたね。
大覚寺の大沢の池?でしたっけ、姉妹が和服でお花見。
桜の花、お花見が楽しみです。

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今日は春分の日の振替休日とカレンダーに書いてある。
青空ですけど、時折、強い風が吹いています。
今日は、これから、お出かけします。
アベノハルカス、大阪へ、いきます。

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思い出は狩りの角笛、風のなかで声は死にゆく、なんて句が脳裏をかすめる。
されどわれらが日々、という小説のなかに紹介された詩句でした。
アポリネールだったか、正確には思い出せないが、詩人の詩の部分です。
高校三年生の時に、芥川賞に選ばれた柴田翔氏の小説です。
感動したというか、びっくりしたというか、現代文学に触れた最初。
なんでいまこんなことを思い出すんだろ、そうしてここに書いているんだろ。
どうしてだかわかららないけど、ノスタルジックに、感傷的になっています。
おわり、おわる、おわった、そうしてはじまる、そんな予兆です。

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2016.3.23
やばい、やばい、ちょっと言葉が多すぎます。
悲しみを隠そうったって、そうはいかないからね。
悲しみという字より哀しみ、川端康成風がいいかも。
そういえば、川端康成氏はノーベル文学賞を受賞されています。
なんとなくムード的な哀しみといえばいいのかなぁ。
といってもそんな感覚になっていく、論理的ではない。
やばい、やばい、というのは、論理的をめざしている感じだから。
それがやばい、って思っているわけです。
論理を抜いたところで成立する交感を求めたいのに、です。
ずっと、ベートーベンのシンフォニーが聞こえています。
これは、第三番、英雄、エロイカっていうんですね。
なんだか悲しいです。

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2016.3.26
安部公房っていう作家の小説に「燃えつきた地図」というのがあります。
なぜ、いま、突然に、こんなタイトルの本を思い出したのか。
都会の真ん中、行き先を失った青年?
公衆電話ボックスの中、青年は救いの言葉を発信しようとしていたのか。
作中のイメージがよみがえってきて、どうしたことかとうろたえます。
地図が見えなくなった、読めなくなった、ふっとそんな気持ちになります。
フォーレのエレジー、悲歌って表記すればいいのか、聞こえています。
バッハのパルテータに切り替えました。
相野さんっていらしたんですけど、お亡くなりに成られた、と聞いた。
アルバムを見ていたら、彼とのツーショット写真が見つかりました。
もう20年ほどもまえのショットですが、どこかのギャラリーで撮られた。
迷路にはまってしまったいま、どないしてこの後の地図を作成しようか。
もう、そんなに、時間がないんだから、との思い。

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2016.10.19
高さ20メートルの石で作られたお釈迦様、インドから運ばれて来られたとか。
明日香のはづれになるのでしょうか、壺坂寺の境内に設置されている石像です。
とにかくスケールが大きいこと、ぼくの好みではないんですが。
個人差があるかと思いますが、こころ癒される仏像は、もっと小ぶりな方です。
半跏思惟像とか、十一面観音贈とか、阿弥陀如来像とか、人間の大きさ程度。
ちょっと、仏像の名前とか、神様の名前とか、知らないなぁ、不見識ですが。
人間性を入れ替えて、もっとまともな見識を持った老人にならないといけない。

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秋晴れで、散歩にと思ってバスに乗り、広沢の池で降り、そこから北嵯峨へ。
行き当たりばったりですが、ひとつの目的があったといえばありました。
高校三年の深い秋の夜、単車の後ろに彼女を乗せて、家まで送った記憶です。
北嵯峨名古曽町、地名は京都市広報版があって、その下部に住所が書いてある。
それが見つからなかった、それにしても、もっと山際だと思っていたけど。
古民家で藁葺ではなかった瓦屋根だったと思うけど、そんな感じの家でした。
どないしてるんやろ、あれから半世紀以上が経ったわけで、生きてるのかなぁ。
学年がちがうから、消息をたどることも困難、当時の顔だけが浮かんできます。
そういえば11月には同窓会がある、出席する、旧友と顔を会す、それだけですが。
当時のマドンナ、高嶺の花だった女子と、その後、話ができるようになった(笑)

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2016.10.27
このまえ、壷阪寺へ行って撮らせてもらった仏像のひとつです。
怖い顔してる方ですが、お名前がわかりません、ごめんなさい。
スマホはアンドロイドのほうに変えたけど、電池の消耗が早い。
半日、持たなかった、昨日は、午後二時ごろに、使えなくなった。
それと、写真を撮るのに不自由なので、撮るのを控える。
風景論の写真集は、24巻の予定でしたが、第9巻で終えました。
中川繁夫のホームページです
ホームページの表紙も変わっています、もっと変えたい、単純化。
2004年ごろから構築してきた内容を、見直してリニューアルしたい。
ブルックナーのシンフォニー、スケールが大きいね、

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終わって始まる。
世界の転換点に立っている自分を見つめます。
なにができるか、新たな世界のはじまりです。

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2016.11.4
ぼくらの世代を団塊世代とゆうみたいです。
でも厳密にいえば団塊世代まえですが戦後生まれです。
なにが欠落していた時代かといえば信仰心が欠落の時代かな。
日本の風景、その感性が形成される時代の底流、ぼくの底流。
戦前なんて神の国として教育されたってゆうじゃないですか。
戦後、ぼくの小学校入学は1953年じゃないかと思うんですが。
むしろそのころってぼくの環境はむしろ左翼的だったように思えます。
神の領域を右翼なんていわないけれど、いまは、そこに興味がある。
脈々と流れてきたこの風土の底流としての感性は何か、という問い。
日本という範疇は、ネット時代で国境ボーダーレスになっていくことでしょう。
その一線に枠をはめる作業として、アイデンティティというか、です。

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アメリカの大統領にトランプさんが当選したというニュースで賛否両論です。
マスコミ含めトランプさんが悪者のように扱っていたふしを感じます。
未知のものに警戒する保守そのものじゃないですか。
変動してる世界情勢です。
なによりも虐げられる人々がなくなる政策を実行してほしい。
載せた写真とは、関係のない話かもしれませんが、巫女さんです。
神頼みとはいわないけれど、神に頼むことがあるんじゃないですか。
やばいですけど、ね。

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2016.11.14
突然にヘビーなイメージの写真を貼りつけてしまったけれど。
悪夢を見ていたのか目が覚めて無性に空しい感覚に襲われてきたんです。
昨夜は頭がふらついて、倒れてしまうのかと、安静にしていたところ。
夜が眠れなかったような感覚で目が覚めたら六時半それからもたもた。
フォトアルバムをめくっていたらこのイメージに出くわしてしまった。
コピーして、ここにアップして、際立たせてしまおうとの魂胆。
これは1979年の2月でした西成市民館前での夜の炊き出し光景です。
ことばに詰まってしまいます、顔を洗って朝にしようと思います。

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鳥居のある風景を、最近、撮りだしています。
これまでにも神社を撮ることが多々ありましたが、その延長です。
神社を撮るといっても、そこにあるものしか撮れないんですが。
なにか我らの、自分の、こころの原点を、そこに見出そうとする。
そういう魂胆でもあったけど、そんなの、できないよなぁ、と。
日々、いろいろと思うところですが、カメラはあるものしか撮れない。
鳥居を撮るということは、神社の外にいる立場で、撮っている。
わけのわからない日々を、つくづくと感じながら、撮りだしたようです。

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朝からもたもた、なにをしてるのかといえば、整理をしている。
音楽はフルトベングラー指揮のベートーベン交響曲一番から順次かけている。
これは第三番、英雄、沈思黙考してるイメージ、迷ってるんだな。
ここのタイトルやプロフィールを変更しておりました。
個人的な、プライベートなことだけど、この後どう生きていこうかと。
昨日先輩大八木さんと神戸のギャラリーから異人館のところへ行った。
ギャラリーで展示してるひとは高濱さん、どうしても行きたかったから。
写真も撮らせてもらったし、ちょっとつながった気もして、ほんわか。
撮った写真の整理が進んでいない、最新のがここに載せられない。
新しい学校の企画を作ろうと思って、頭の中だけ動いてる。
今年は流動的な年、世界が揺らめくようにぼくも揺らめいている。
あと40日もすれば今年が終わるじゃないですか、早いですな。

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スマホの写真、いまauとsonyでコマーシャルのエクスペリア。
これの写真かも知れない。
iPhoneでは撮った画像をUSBコード挿し込めばパソコンに取り込める。
アンドロイドでは、これができない、グーグルのアルバムからダウンロードです。
それにしても、便利というか、簡単というか、最先端、すごいと思います。
京都市美術館で二科展を見に行きました。
絵画部の絵画と写真部の写真、ポスターなどを見ました。
写真では知った名前が偉い人になっておられて、飾られていました。
そういう世界もあるんだ、と思う次第で、自分が情けなくなりました。
ということで、つまらないことをつぶやいて、頑張っている人に申し訳ないです。

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2016.11.27
なるようにしかならない、少し、ゆっくりと、気を落ち着けてみようと思った。
もたもたと思う感覚を、ゆったりしてるという感覚に変えればいいのだと思う。
あせったって、死に急ぐだけだったら、一日一日をかみしめて、生きていこう。
雷鳥は国鉄の北陸本線を走っていた電気特急でした。
大阪発で金沢や富山方面へ行っていた特急列車でした。
いまはサンダーバードで、金沢止まりです。
なつかしい国鉄時代、それからJRになって、あまり乗らなくなった。
高速バスの便があり、乗用車で動くようになったから、です。
そろそろ年だから、またJRの電車に乗って行こうかな。

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2016.11.30
まるで別の世界へ誘われたように思います。
昨日は11月29日、奈良は大和三山のひとつ天香久山へ昇りました。
音楽家の文字さんに導いてもらって、山の中を巡りました。
載せた写真は国常立神社の祠です。
古事記に描かれるイメージ世界が、目に見えるようにされている感じ。
国常立と書いて「くにとこたち」と読み国土形成の神といいます。
この祠に並んで、「おおたかかみ」という竜王神、これは水の神かな。
この神のもと、手前には伊弉諾神社、伊弉冉神社という祠もありました。
国造り神話を信じてるわけではないけれど、イメージとして感動もの。
とはいえ古事記という書の記述は、権力を正当化するということのようです。
それはともかく、我らの精神文化を形成する枠組みが、ここにあるとも思います。
もうあんまり難しく考えないで、感覚の流れるままに、東松さん流でいこうか。
俗世のことがうとましい、隠居しようか、それがいいのかも知れない。