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アートのかたち-1-
2006.6.6

アートまたは芸術と言われるものに、今様の形を当てはめるとしたら、どうゆう形がのぞましいのだろうと、考えてしまうわけです。というのも、かってあり、今もあり続けるアート作品または芸術作品と言われるものの、その制作プロセスを思うとき、世の中のツールが変化した現在、新しいツールをもってアートの形が生じると思うからです。

インターネットに代表されるコミュニケーションツールがあります。双方向のネットワーク、リアルタイムのネットワークです。これが最新のツールです。かってあったアートの形は、個人の営みが基軸にあり、個別性を持って作品世界を作り上げてきたものです。制作の現場は、個人の密室だったわけです。

たしかにコラボレーション、共同作業という場がありました。教会建築をはじめ、映画やTV番組や、その他、共同工房をもって作品群を生み出してきた場がありました。しかし、この工房の形は、トップがいて、末端がいるという構造であります。また、役割分担をして全体をまとめるという構造であります。

いま、ここで考察したいのは、インターネットに代表されるネットワーク時代に入り、新しいツールを手に入れてしまった個人の位置の確認作業から、その関係性を見てみたいと思うのです。個を越えるコミュニケーションの形、と表現すればいいかも知れません。

ヒトは個体です。人間関係は個体と個体の関係です。で、この関係を繋ぐものが何かとゆうと、コミュニケーションツールなのです。インターネットツールが、これまであった個人の関係から、関係の場の形が変化したと思うのです。この変化の中味が、何なのかということを、まづはテーマにしてみたいのです。

アートのかたち-2-
2006.6.8

インターネットがリアルタイムのネットワークだとしたら、そこに成立するコミュニケーションもリアルタイムに生成してきます。

かってアートは、成しえた成果物を介在させて、コミュニケーションを図ったものです。あらゆるアートの形が、作品というモノを介在させてきました。手に触ることが出来、見ることができるアート作品、それらは美術館に収められてきました。あるいは出版物として紙の上に書き置かれました。また、ある一定の時間と空間を共有することで、成立してきたアート作品。たとえば音楽、たとえば映画、演劇・・・。これらのアート作品が共有されるとゆうことは、そこに作り出したヒトと享受するヒトが、共感することを意味します。つまりヒトの心と心の共有・共感関係なのです。これはリアルです。

近年には、体感型アート作品というのがあります。ホロスコープとか立体映像とかミラールームといった装置を使った、身体で感じ、五感で刺激を受け入れるといった感じのアート作品です。また、参加者のボディから生じる電気信号を、数値に変えたり、音に変えたり、映像に変えたりするアートがあります。これは無限に、リアルタイムで生成・変化していくアート作品です。これはリアル体験です。

音・音楽・音声といった聴覚において感じるモノ。絵画類・写真・映像といった視覚において感じるモノ。文字という記号で記された文・文章を読むことでイメージ・像を生成させる詩や小説といった類のモノ。おおむねアート作品は、これらを単体または複合させた形で、成立するのです。

さて、この延長線上に、インターネットというツールが出現しているわけで、聴覚、視覚、読み取る、の三つの作業が実現することになります。でもこのツールは、先に見たリアルではありません。しかし、リアル体験は生成させることが出来ます。だとすれば、インターネットならではのリアル体験とは、どのようなモノをいうのだろか。

アートのかたち-3-
2006.6.30

ネットワーク・アートのかたちは、個人内部の営みが表出されて作品が作られるというこれまでの制作過程と作品の有り方とは違って、ネットワークという共同体のなかで形成されていくかたちです。究極には、個人の作品というより匿名性です。とはいえ作業(制作と操作)をする個人がいるわけで、この個人を、コンピュータ(ロボット)が代替していく未来があるかも知れないです。コンピューターがアートするということは、大いにありうることです。

アートのかたちが、出来上がったモノではなくて、制作のプロセスだ!という捉えかたがあります。これは個人の営みの過程そのものを重視する捉えかたです。出来上がってきたモノは結果であって、プロセスに立ち会う個人の心のありかたそのものに重点を置いた捉えかたです。ネットワーク・アートというかたちは、その生成過程に携わる個人の心のありかたを重視する、というヒントを提示していると思われます。

またパフォーミング、演劇舞台、音楽舞台など、上演されている時間をもって、かたちが存在するものもあります。しかし、ここには演じる側と鑑賞する側という区別がなされます。もちろんその場に居合わせる観客をも巻き込んで、かたちになるというのも成立します。かって東京ミキサー計画なんてパフォーマンスがありましたが、これなど典型だと思います。

プロデュースし演じる主体があって、これを個人またはユニットの作品として認めるかたちから、匿名の作品としていく方向が、ネットワーク・アートとしては、いま求められている考え方です。個人の著作権利主体の現行システムでは、これはアートの範疇からはみ出してしまう概念です。アートのかたちが、変容していくとすれば、この匿名性を容認できる心理変容が求められると思います。

このようなネットワーク環境の変化は、一方で、アートという概念を変えていかなければならない時代です。詠み人知らず、作者不詳・・・。かってある作品の制作者が、その後にいたって判らない作品があります。個人名と作品が直結し、ユニットと作品が直結する時代から、いまや匿名性の時代へ、アートのかたちは移行しはじめているのです。

アートのかたち-4-
2006.7.10

ここでの問題は、アートしている場で、個を超えることができるかどうかです。あるいは<個を超える>とはどういう状態をいうのかです。個を超えるとは、トランスパーソナルということです。

この前から、アートのかたちを、想い、考えてきても、基本的には個人が個としてあることが前提の、上位的組み合わせ、あるいは下部的組み合わせの論でしかないように思えています。個を超えるとは、自我を消去することにつながるのだとの想いですが、個という意識のバリアーを外していくことなんですね。もともとこの自我たるもの、これを自分の中に確立した後に、消去していくことになります。こういう論議は、個の内面問題だから、系列化し比較対照し、推し量ることができない領域だと思うんです。

でもヒントがあるんです。つまりトランス状態になった個というもの。この状態をもって、個を超えた状態だと想定することができる。儀礼における特異な心の状態。これなんかが、ヒントになるかも知れないです。それと儀礼行為といえるかどうかはわからないんですが、セクスの最中の心と身体のありかた。トランス状態に入ったような儀礼の場です。

心理的には、日常でない状態にある心の状態。いよいよややこしくなってきたけれど、バランスが崩れた心の状態。もちろん感じるものだから、言葉でいい表すことがちょっと無理目なんだけど、そうゆう状態にあるとき、個を超えている、といえるのかも知れない。

何が言いたいのかといえば、ネットワークアートの生成過程において、結果として個の営みが基底にあるにもかかわらず、この個を消去することができるのかどうか、という問題なんです。アートしている、あるいはアートの真っ只中にいるときの、個のありかたなんです。というのも、現在のアートには、享受者にトランスパーソナルな状態に至らしめることを目的とする形があると思っているんですが、この場合、作り手としてのアーティストは、あいかわらず個としての存在のように察するからです。

では、作り手自身もトランスパーソナル状態になり、享受者もトランスパーソナルな状態になるアートの形とか、どんなものか。とか、このトランスパーソナル状態を、ライブに交信できるアートの形とは、どんなものか、とかを考えているのです。なんやそれやったらセクスの最中が、個を超えたアートやないか、と短絡的にはいいませんけれど、です。

アートのかたち-5-
2006.7.19

<写メールアートの試み>

最新の身近なハード環境を使って、写メール交換をおこなって、そのなかにアート性を見い出そうとの試みを始めています。すでに日常的に、ごく普通になされている行為を、写メール交換者は、これはアートだと思うことで、フィクション化しようとの試みです。つまり、意識的に写メールを交換することになります。

個人が個人の想像により全体を創りだし、それを他者に公表する、発表するということで成立してきたアート作品に対して、写メールアートの形式は、相互交換日記です。作品を構成する作者は、複数です。現在は二つの主体が受発信しています。

この受発信された写メールが、セットになってブログにアップされます。二つの主体間にて交換された画像と文章が、公開されるのです。この受発信された写メールが日々増殖していくという作品です。

ボクは、この写メールアートに参加しながら、その周辺にて批評・評論を試みています。このコーナーもそのひとつです。アートの世界には、作家と批評家、作品と批評、という関係があります。作品に批評が与えられることによって、作品の価値を定着化させる関係です。作者自身が批評者になる。近代アートにおいて、これまであった形式を分解し、ミキシングし、新たに生成させることを目論んでいます。

近代的自我とゆわれる個。この個を超えることができるか、という思いがあります。さて、どうなんでしょうね。自我・個が解体されるとは思えない。むしろ自我・個という自覚をベースに、クロスオーバー、あるいはオーバーラップ現象が生じるかも知れない。そういう予感なわけです。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖