自分というかたち-1-
2006.8.5
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昨日から夏の取材に入っていて、今日は北野天満宮へデジカメを持って撮影に出かけました。北門から入り、大樹の梢を撮り、巫女文子(アヤコ)の祠を撮り、本殿まわりに設えられた神々の末社を撮り、本殿を撮り、そうして石畳の参拝道へと降りていきました。

天神さんと呼んでいる境内は、子供のころの思い出がいっぱい詰まった場所です。ボクは、記憶を甦らせ、記憶の像を描き、その場所を求めていきました。夏休みになると、この境内でサマースクールが開かれていました。管内の小学生が沢山あつまっておりました。ラヂオ体操から始まり、もう忘れてしまったけれど、なにやら催しがなされていました。

その頃から数年後になると思います。1950年代後半のことだから半世紀前の出来事です。石畳の参拝道の、そう、写真のこの場所に、縁日には母が店を出していたのです。そのとき、この場所で、何を並べていたのか覚えていないのだけれど、縁日のお客だったボクは、そこに母を見つけて、見ていたのです。

遠い記憶の残像が、木漏れ日にゆらめく地面に立ち昇ってきたとき、ボクは、そこに母がいて、円満な微笑をボクに投げ返してくれている母のイメージを描きながら、カメラを向け、シャッターを切ったわけです。半世紀前の記憶の場所に立ち、いま、その場所を写真に撮る。痕跡と名づけるシリーズの、これは一枚として収められる。自分という「かたち」を求めて、ぼくはしばらくのあいだ、この世をさまよおうと思うのです。


自分というかたち-2-
2006.8.8
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1983年だから、もう23年前のことですが、<夢幻舞台-あるいは、わが風土->という写真とエッセイをまとめた本をつくりました。この取材に入る日、思い出したかのように、その本を取り出してきて、目を通しました。ああ、これの続きだな、そう思う気持ちが、沸々と湧いてきました。お盆のこの時期、2年前の2004年に写真を撮り、「夢幻舞台」とタイトルしたアルバムをつくりました。ふたたびデジカメを持って写真を撮りだした初めての夏です。

その本には、12葉の写真と4編のエッセイが載せられているのですが、ボクはこれを定本に、細部を埋めていこうと思っているわけです。京都シリーズの第一巻として1983年に夢幻舞台が発行されているのです。その延長線上にて、ボクのかたちを作っていく作業が始まるのだと思っています。その試みをあらためて認識したわけです。

自分というかたち、というテーマを設けています。履歴という年代記を軸にしながら、その時々の気持ち、考えていたこと、それらを今に引き寄せて、記憶を辿るという風に、作業してみたいと思っているのです。かなり強い衝動として、ボクの気持ちのなかにあります。

今日も朝から、千本えんま堂へ、取材にいきました。地域限定です。3回目のお盆行事だから、おおむねの細部はわかります。写真の撮り方も若干変わってきていると思っています。たぶん残された時間、生涯つきあうことになると思うボクのトポスです。


自分というかたち-3-
2006.8.11
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この夏の盆を取材中に、ボクはボクの墓所へいきました。ボクのお墓は日蓮宗本山本法寺の中にあります。昭和49年(1974年)に建立された墓で、墓石に刻まれた建立者の名前はボクです。平成元年(1989年)の春に亡くなった母(おふくろ)が、ボクたちの墓がなかったので、墓をつくってもらったということで、真っ先におふくろが入ってしまったのです。

本阿弥光悦の菩提寺という本法寺の正門は、上京区小川通り寺の内上がる。茶道の家元、表千家の狭い道を挟んだ前にあります。どうしてボクのお墓所が此処にあるのか、その経緯をボクは訊ねたことはありません。でも、おぼろげながら、積み重ねられた記憶を整理することで、その輪郭がわかるような気がします。ボクの素性、身柄というもの、血縁というもの、それを描いてみたいと思うのです。

ボクの父(おやぢ)の母、つまりボクの祖母のことから書いてみます。たぶん明治の後半生まれの祖母(おばあちゃん)は、ボクが高校一年(昭和37年、1962年)の秋に亡くなりました。おばあちゃんは西陣織の織子で、旦那の正妻ではない女性でした。大正九年に男を産んで、その後に女を産んだヒトです。旦那の家の名前は忘れましたけれど、この旦那の家の墓所が、本法寺なのです。

だからボクのおやぢ方の父にあたるヒトは、西陣の織物産業に関係していた家のヒトだと推測しています。戸籍上でおやぢは認知されているから、おばあちゃんは俗に言う二号さんだったのでしょう。ボクが今住んでいる場所に、おばあちゃんは戦争前から住んでいました。おばあちゃんは、手機を織りながら、三味線なんかを持っていました。けっこう風流ってゆうか、囲われ女だったのかと思います。

おばあちゃんが亡くなって、遺骨が旦那の家の墓に居候するかっこうで、納められていたようです。そこでおふくろが中川家の墓を持つために、旦那の家やお寺に掛け合って、建立者としてボクの名前が刻まれた墓があるのです。ボクが28歳のときに建立されたとき「繁夫の名前にしておいた」と云っていたおふくろの言葉を思い出します。


自分というかたち-4-
2006.8.12
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数年前の話しですが、ボクはボクの家系図というのを作りました。ボクを中心として、記憶を辿りながら、おふくろやおやぢの叔父さん叔母さん、それにボクのおじいちゃん、おばあちゃんの親戚とか、ボクの知る範囲での家系図でした。

ボクが生まれたのは1946年4月です。いま現在住んでいる場所で生まれたといいます。いまボクが住んでいる家屋は、おばあちゃんが住んでいた家屋の隣です。おやぢの母親の実家で、ボクは生まれたのです。おふくろの母は、末っ子を身ごもっており、おふくろの世話ができないので、おやぢの実家で生まれたのだろうと、推測しています。

ボクが幼少の頃、小学校へあがる直前まで住んでいた所は、中京区壬生馬場町。おふくろの父が烏丸六条で和漢薬店を営んでおり、今流にゆうなら、ボクの親は、そこで和漢薬壬生支店の店長だったわけです。おやぢの母、つまりボクのおばあちゃんが、その店を一度だけ訪ねてきた記憶が、おぼろげにあります。黒いマントを着た男のヒトが同伴していて、そのヒトのことを「おっさん」と呼んでいたんです。その「おっさん」と呼ばれたヒトが、おやぢの父親だったと、思うわけです。墓の持ち主だったヒトです。ボクからいえば、父方のおじいさんにあたるヒトです。

家系図のなかで、父方のおじいさん、それにボクのおばあちゃんの系図は、そこでぷっつり切れてしまいます。ボクを可愛がってくれることになるおばあちゃんの素性は、いまのところ全くわからない。何処で生まれたのか、何処でおっさんと知り合ったのか、名前はセイといい、カタカナとひらがなが読み書きできただけのおばあちゃん。いわば何処の骨とかわからない素性の孫が、ボクだったってゆうわけです。これが父方の家系なのです。


自分というかたち-5-
2006.8.26
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母方の系図ってのはどうなんだろう。おふくろの旧姓は井上、ボクから見ておじいちゃんの姓名は井上安蔵。烏丸六条に井上和漢薬店を営んでいました。たしか丹波の出だと、おふくろから聞いたように思うが、丹波笹山近くに住んでいたおふくろの叔父さん叔母さん、苗字は岡沢と名乗っているから、ボクのおばあさんの出生地だったのかも知れない。おふくろの生年は大正12年(1923年)だから、おばあちゃんの生年は、1900年ごろと推定できます。

おふくろとおやぢの結婚は、ボクの生年月日から推定して、昭和20年(1945年)まだ戦争が終わっていない時だと思います。仲人を介しての結婚だったと聞いているから、何かの縁あって所帯をもったのだ。新居は、壬生馬場町、朱雀第一小学校と壬生車庫の真ん中あたりの向い側、市電の走っていた道路に面した花屋さんの後の家屋だった。おやぢもおふくろも、市井の生活者という無名の男女だった。おやぢは建具職人で、おふくろは理容免許を持っていた。戦後の1946年に生まれたボクは、小学校に入るまでの7年間を、壬生馬場町で過ごすことになります。

自分というかたちを、ボクが知っていくための家系を詮索しているのですが、こうしてみると、ボクっていう身体の存在の輪郭が、おぼろげながら形作ることができるように思います。父方のおばあちゃんの素性、おじいちゃんの素性、母方のおばあちゃんの素性、おじいちゃんの素性。ボクには父がいて母がいる。父と母にも、それぞれ父と母がいた。ボクの祖先の直系は、おぼろげだけれど、そこまでしかわからない。それも記憶を辿ってフィクションしているにすぎない。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖