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<手記>という熟語に文学的な匂いを感じている自分がいます。
なにか秘密めいた隠し事を表に出す、みたいな感覚があって、戸惑ってしまいます。
日記とか記録とか記憶、<記>という文字が含まれる熟語にはあまり抵抗はありません。
ドストエフスキーだったかに、手記という熟語がはいったタイトルがあった。
そんな闇の中からの記憶が立ち昇ってきて、なにか感情をゆすぶってくるんですね。

手記っていうと、自分の生い立ちとか、性関連とか、性癖とか、そういうのを暴露する。
私研究という枠組みならば、肉体に関する諸般の見識、とかを話題にするべきか。
なんてむつかしい言葉を使って、考えようとしているけれど、もっと単純ですね。
掲載の写真は、昨日食べた、天ぷら定食の膳です。
食べ物の話でいくと、そこにも変質者の趣向みたいな匂いがしてきます。

生きるってことが、実はかなり変質だと思うのは、自分が自分と向き合うからかも。
なにが良質で、なにが変質なのか、この境界線なんて、曖昧だし、一線は引けない。
社会で、表現や行為が許される範囲というか、枠があるじゃないですか。
そこを外れると犯罪というレベルになるという境界線のことです。
心のなかでは犯罪していても、行為しなければ許される、というのでしょうね。