写真記録論/試論-1-

ここかしこに木の枝に色づいた葉が残っている。私は樹の前に足をとめてしばしば物思いにふけったものだ。私は私の希望をかけて一枚の木の葉を見守る。その葉に風がたわむれると私は身も世もなく身体をおののかせる。
(シューベルト「冬の旅」ミュラー詩「最後の希望」)


<さすらい>

さすらい放浪してきた写真の本質は、つまるところ生の本質である。私がつねに遭遇する私の外世界(目の前に実存するもの、あるいは情報として疑似体験させられるもの)との対話から、私の脈々と流れる内面の感情と交差する言葉との対話へ。私の視点、無垢から透過していく写真の本質、つまりの生の本質は、制度内部の視点からどれだけ裸眼でありえるか、ということが必要とされる。私の写真行為、撮る、観る、語る、書くといった行為の全ては、つねに神経をはりつめ尖らでてインテリジェンスへの昇華を目論まなければならないのであろう。

「写真とは何か」との設問の仕方は、永遠に解決の糸口が導きだせない問いかけの本質として認定していかなければならないのであろう。私は、私の感性を掻きむしってくる一つひとつの写真の選択と、その写真の連なりからくるイメージを大切にしようとしている。そして、来たりくる新しい感性のあなたと写真イメージの交換をしたいと願望している。私は物思いにふけるだろう。谷間の高台に広がる無垢な感性を持って「写真の意味」を問い続けるだろう。

私にとってその出逢いは、突然ひとつの季節をひらかせるかのように、偶発的に起こった。季節は冬。永遠の旅に出はじめたあの時。行く先定まらずに朦朧としていた私の神経。そのとき目を閉じていたなら、その光景にはきっと出遭わなかっただろう。またあの場所を通過しなければ、やはりその光景には出遭わなかっただろう。その出遭いは旅する私にとってほんの些細なことからはじまった。

その光景、谷間の高台にまだ色づいた葉が何枚か残された樹の前に佇んでいるあなたの光景は、私のイメージのなかに「記憶の写真」として強烈に焼き付いてしまった。「あの時あの場所」のイメージとしての残影、時の経過とともにしだいに消え失せていくものが、永遠のイメージタブローとして私の記憶に定着されてしまう。この定着された記憶は、いつしか忘れ去ってしまうものであっても、何かのきっかけでふっと湧き起ってくる感情のなかに呼び戻されてくるだろう。

きっとこのようなあなたとの出遭いは、写真と記憶という私の内部での写真の在り方について解明していこうとする、私の、イメージ体系への針の刺し方、あるいは磁場・波紋の描き方、にも結びついていくように思われる。「写真と記憶」についての私の考察は、つまり写真における記録・ドキュメントと、私の精神構造における記憶の関係である。写真は記録・ドキュメントであるという説が崩壊すれば、その関係である。

ある一枚の写真を介在して、私とあなたが言葉を交わすこと。あるいはその一枚の写真を共有したなかで、私とあなたが向き合い、見つめ合うだけで、私とあなたの心に響く感情の高まり。この共有関係がどのような概容を持ち個別の内容を持つものなのかはわからない。この私とあなたの共有関係を解析していくことは、これまであった認識論とか記号論といった知の体系に照射しながら、考察していくことになるのだろうか。

それともそうした論の枠をつけ、共有関係の範囲を規定し限定していく方法から飛翔して、新しい独自のイメージ発生論を展開していくのか。私は私の希望をかけて一枚の写真を見守る。これから来たりくる私の写真の解析方法は、写真全体ではなくて個別に興味をひかれる写真についての論究であろう。この方法は「渇望する愛」をどのように成熟させていくか、あるいは私の恋愛をどのように客体化し、その状態にある私を解析するか、と云った私自身のみつめ方そのものに至るだろう。これが私の写真に対する興味を掻き立て考察する唯一の方法となるのだろう。

私はいま、これまであった幾多の写真論から自由の翼を得ようとしている。とはいえそこには、写真を論じる以前の基本認識としてのものの見方・捉え方の視点、教養文化に立脚した個の確立とその視点が、必要となるのであろう。で「論」は自らの罠にはまってしまうのだ。

一体、私は何処へ旅立とうとしているのだろうか。かって辿ってきた冬の旅。吹雪く海岸は横殴りの風。遠い記憶はさすらう。思い出という言葉で語られる記憶のイメージと甦る感情。万葉の時代から凍えているのに何かしら、ほのぼのとしたイメージを培ってきて、いま私と私を突き刺し胸をしめつける一枚の写真がシンクロする全体として、私のこころの解明として、新たなる写真の捉え方が出来ないのだろうか。

写真と私の関係は、愛の関係とでも想定しよう。この愛を成熟させる地点から、未知の領域に向かって言葉を重ねていくことは、つまり「永遠の愛」の模索である。この模索の方法は、まず私と私の目の前にある一枚の写真との、こころ(精神、意識、感情、それらの個別とすべて)の所有の構図(位相の移動関係または磁場・干渉しあう波関係)およびそこで描かれた白地図を塗りつぶしていくことから始まる。それはあなたとのこころの所有関係の構図そのものでもあるだろう。

いままでの私の生、生活とこころの構図の全ての経験は、本当に短いものだとしても人の知は、何千年と累積され「いま」に至っている。それらの累積を受けて、私は日常、複雑怪奇な生を営んでいる。そういった中でのあの日の記憶。私の前で立ち尽くした(ようにも見えた)あなたの姿と、前にも後ろにも行けないけれど、立ち止まってはいけないといったような、困惑したあなたの表情に、私はプンクトウムを得てしまった。

あなたが立ち尽くしていたその場所は、かって時代の挫折と抑圧に対して、どうしたらいいのかと私自身が立ち尽くした場所。毎日毎日むなしくてせつなくて仕方がなかった気持ちを綴りながら立ち尽くした場所。愛が不在だった場所。その位置から見たあなたとその場所の構図、かよわくて風に吹き飛ばされそうにも感じられたあなたが、どうしようもなく、私の心を掻きむしっていった。


かけがえのない一枚の写真には、記憶がいっぱい詰まっている。それはパンドラの箱のように。一枚の写真は、マテリアルとしては、薄っぺらな紙にしかすぎないが、一枚一枚それぞれに記憶の詰まり方がある。私はその写真と巡り会って、きっとパンドラの箱のいちばん奥深い底からの記憶を呼び覚ましたようだった。

写真は私の想像力をかき立てる。その写真を見た私には、もう忘れられてしまった記憶がよみがえってきて、悲しくも楽しくもさせる。そして物思いにふけるのだった。なによりも希望を見つけ出すために。記憶は小憎らしいほどに美しいもの。どんなに悲しい記憶でも、記憶のかぎりにおいて私を美しく感動させる。私は好きな写真を目の前にして、また気に入った文章を読んで、慟哭とまではいかないけれど、美しい涙を流してしまう。

類型からいかにして裸眼でありえるか。これは制作者、つまり作家や批評家の立場として、まず何ごとにも感動することから始まる。そこでの問題はやはり「私」の問題となる。一枚の写真を見ることで感動し、刺激を受け、挑発され、こころを掻きむしられ、生きていることの不安定さを感覚で受けとめる。

それは狂気としての認知であるのだろう。しかし、この私はすでにインテリジェンス(永遠の苦悩)の入り口に立ってしまっているので、いつも宙ぶらりんの自分感覚と、より研ぎ澄まされ深化する感性、あるいは螺旋階段を上がったり降りたりする自分の感性をみつめていくしかないのだ。知識人の苦悩・メランコリーと自我の確立、つまり自分発見である。

<記憶>

私が遭遇する一枚の写真は、私の記憶に残る。また私が遭遇する一枚の写真によって、記憶を呼び起こす。また私が遭遇したかけがえのない一枚の写真が撮られた背景を知ることによって、より大きな感動を私の内部に生みだす。

写真は見せるひと(撮影者)の記憶と見るひと(鑑賞者)の、記憶の出逢いの関係そのものである。また「写真の本質」は、この出逢いの関係における感性の統合こそ本質となりえるのではないだろうか。一枚の写真が写真としてある在り方は、私とあなたが、この関係をどのように創っていくのか、ということが問題となる。

一枚の写真を見て感動するわたしの感動の仕方という感性の在り様の波形を、私自身のものとして解析分析していくこと。あるいは感情の流れるままに感動を、感動としてひとまずは、処理していくこと。この感動の仕方は私が世界を見つめることの基本条件でもある。創造者となることの条件は、つまりインテリジェンスへの条件としての見方の基本を、感性のなかに取り込むことにある。

かって私は、「記録とは方法の問題であり、見つけることに重点を置く」という記述を引用したことがある。当時には「見つけることのなかに難解な問題が横たわっている」としているが、最近ではこの難解な問題は、自分自身の問題として捉えていくことで解決していくのではないか、と考えている。

自分自身の「生」の生きざまを全的に捉えること、そのこと。「作る」ことに重点を置く(この人々を総称して私は偽表現者という)のではなしに、「見つける」ことに重点を置くことは、風俗表層の現象をすでに世俗の常識としてある価値観でなぞっていく(つまり作る)のではなしに、表現行為そのものが自分を見つめる鏡として、そして反復し表現行為を継続していくなかでの自分の発見と、すでにある価値観(世俗の常識は、いまのところイメージで捉えるしかない)に対する変革のまなざし(これもイメージで捉えるしかない)であろう。

表現行為(体制変革)をあくまで自分自身の問題として捉えること。このことの繰り返し行為そのものではないかと思われる。そこから「見つめる」ことは「見つける」ことにつながっていくのではないかと思われる。ここまできてもまだすっきりしない部分「見つめる」と「見つける」の間の乖離あるいは止揚をどのように実践で埋めていくかの問題として「方法の問題」が残されているのだが。

人間にはイメージと感情しかないのではないか。ここではイメージと言語(言葉、写真。絵画)の関係をどのように捉えていくかが必要となってくる。この「写真への手紙・覚書」は未知のこれからに向かっての、イメージ構築のためのものである。

<愛の形>

一枚の写真を見て、「理解」できるという状態を言い当てるならば、一般的には、その写真が指し示す「意味」が理解できることである、といえるだろう。また意味を理解することとは、人間が歴史的に培ってきた「写真」の見方・読み方であり、撮られたイメージを言語に置き換えていく作業を通じてであるだろう。

写真の捉え方というのは、写真という形式の中で形になったイメージ、おおむね撮影者の目の前に存在したもの、あるいは撮影者が創作したもの、およびその配置(視角)としての「もの」の有り様を知覚によって見る行為そのものであり、そこに私の認識、つまり「もの」が写っているという確認行為の連なりとして見る(読む)ことから、始まるのだ。

見る側・写真の読み手の私は、その写真に表出された物のイメージから、私の体験とその追想、つまり記憶の呼び覚ましのなかで、私のイメージを喚起し、その写真を撮った撮影者が撮る必然を覚えたイメージと、そのイメージに私が指し示す意味(何故撮られたかという撮られた必然)を受け取るのだ。連想、比喩、隠喩、反対概念といった芸術表現にはつきものの表現方法を、パズルを解くように解読しながら、私は言葉以前のイメージとして捉え、理解しようと努めるのだ。

その写真に指し示された意味を真に「理解」することは、私がこれまでに培ってきたその物に対するイメージ全体を、引き裂き解体しなければならないのではないだろうか。その一枚の写真に表された全体は、私の外世界との対面における感情の振幅が、感情総体の深淵までの深くを覗き込む、とでも表現できるようなものであり、私における体験の度合いによって、イメージの喚起力が豊富になるのではないだろうか。

かけがえのない「一枚の写真」に出遭うことは、まるで私にとってのバイブルとなるもの。生きることの宝物。苦悩の泉。日々の生活空間からイメージを飛翔させ、生活の根底を揺すぶられるイメージで私を刺すものなのだ。それは、かってあり、今後もあり続ける私の「愛を注ぐまなざし」としての写真に写された被写体への感情を、思い起こさせるものであるだろう。

一枚の写真が、ともすれば怠惰な日常生活、感動する感性のない与えられる経験の中でのみ生活を営むことに埋没してしまう、感性の起立のためとして存在するのは、私には刺激的である。その一枚の写真からほとばしり出るインパクトは、非日常の出来事であっても、私の内面全ての価値を逆転転倒させるほどにわがままで始末におえないものとしてあることだった。その一枚の写真は、私の愛をもって受けとめ、愛を経て、愛のありうべく形を追想のうちに迫り、ふたたび愛を恋い焦がれさせるものであった。

たとえば私はあるひとから、ヘルムート・ニュートン(HELMUT NEWTON)が撮影した「リンチ(DAVID LYNCH)とイザベラ(ISABELLA ROSSELLINE)」の写真を見たとき、今は別れてしまった二人の関係を思い出し、二人の愛の破局について涙した、写真には記憶がいっぱい詰まっている、という話を聴いた。そこから私の、写真と記憶の関係についての考察が始まった。

私の目の前に提示された一枚の写真には、私の記憶、リンチとイザベラが恋人同士であったことがいっぱい詰まっているが、実は、写真それ自体はただの紙切れにすぎない。これはリンチとイザベラが写った紙切れの写真に対する鑑賞者としてある私が、その背景を「どのように見たか」というイメージであり、本質はこの「リンチとイザベラが写った写真」に対する鑑賞者である私の「リンチとイザベラがかって恋人同士であった」ことを知っていることで、涙したことなのだ。

それがあたかも写真に記憶が詰まっているように見えた。私自身に記憶がいっぱい詰まっていて、一枚の写真を見ることによって、その記憶の一断片が呼び出される。写真が媒体の役割を演じているのだと云える。このことは私自身のこだわりとして「自分」つまり私の問題となるのである。

鑑賞者である私の気持ちとしては、対象物の写真に記憶がいっぱい詰まっていると見るほうが、豊かな気分になってくるものだ。また写真は所有する客体としてあるほうが幸福を感じる。恋人の写真を目の前に置くという私たちの習性。ここには一杯メモリアルが刻まれている。ふたりが共有する思い出が宝物として、そこに凝縮している。写真や日記がなければ、きっと記憶は薄れ消えていくもの。むしろ写真や日記に写され記された光景が、記憶として残っていくのではないか。

もちろん、写真には写されていないが私のこころに強烈に、焼き付けられた光景がある。それと意識しているわけではないが毎日見る光景が、いつの間にか無意識のうちに、記憶に残されていて、ふとしたときに思い出されてくる、というのもある。夢のなかで、無意識のうちに記憶に残された幻影が甦ってくることがある。ひとそれぞれに違った形で。

写真は「愛の形」である。写真は、かって膨大に撮られ様々な意匠を着けて私のまえに存在している。これらの写真をどのように捉えていけばよいのだろうか、と私は途方にくれる。冬の旅にうたわれる詩人ミュラーの句を拝借して、私は愛するひとに、つぎのように語ろう。

私は私の希望をかけて、一枚の写真を見守る。その写真に愛がたわむれると、私は身も世もなく、身体をおののかせる。・・・・・・・・