2005.9.23
生命の記憶

今日は愛犬「ケン」の1年目の命日。
生まれて直ぐにやってきたんだけど、18年ほど生きたんです。犬の寿命としては長いようです、老衰です。

生命の記憶が、万物に備わっていると云います。
植物、動物、そしてヒトという動物。
遺伝子が記憶媒体なんだそうですが、今、科学は、この遺伝子を含む生命現象の解明に挑んでいるんですね。
生命を科学手法によって解明する。たいへん興味あります。
でも、一方で非科学って云って括られる領域にも、非常に興味がありますね。
そこで、科学と非科学の融合なんていう、科学手法が編み出されている現状です。

ボクは、この非科学領域を、感情の領域、記憶の領域、心の領域・・・つまり「感じる」ということにベースを置いた領域だと思っているんです。だから、科学的手法で解明できるのかどうか?未来のことは判らないですが、当面の問題は、この「感じる」ことをどう捉えるか、ですね。

愛犬「ケン」が死んだとき、そこには「哀しみ・悲しみ」と感じる心があった。密着していた生き物がいなくなる。ここに撮られた写真は、現物として存在した。その日、焼却されて消えていった。
たったそれだけの事実なのに、ボクの気持ちは「感じる」んです。1年前の記憶が、甦ってきて、感情が湧いてきて、哀しみ、悲しみ、の中にあります。

写真は記憶をとどめるためにある。撮られたときから時間が経って、写真はその時間を生き、未来によみがえる。
記録と記憶。写真は、表層の記録だけれど、本質は記憶に基づくのだと考える。生きた証、生命の記憶である。


2005.10.4
デジタル写真の未来

ボク自身が2年前から再びカメラマンをやりだしたんだけど、デジタルカメラです。つくづく楽やな~とおもっている。処理とかランニングコストという面で、です。
写真のテーマは、自分周辺のことに定めてるから、当分は金沢と京都周辺での撮影に徹します。

ところで、デジタル写真の可能性というのは、デジタルネットワークにおいて使いこなすことにある。インターネットで、写真を掲載して写真展を開く・・・。これが主たる使い方としてあるんだけど、これはボクの使い方です。

評論家として云うには、写真から映像に広がってメディアアートとかバーチャルアートの領域への展開でしょうね。
これまでフィルム時代に、写真が持っていた領域は、デジタルにおいてもそのままそっくり頂ける訳だしね。
だからデジタルカメラが基調になったとき、コンピューターと結びついて、様々な可能性へと拡がっていくのだ。

とはいえ写真という静止画にこだわるかぎり、写真は静止画として存在する。
そこで写真に撮られるテーマの中味に立入っていかなければならないのだ。
はたして、デジタルだからこそ、特有のテーマが導かれるのかどうか、という問いなのだ。

デジタル化による社会の情報環境が変わる。それに伴って、デジタル化特有の人格が形成される。デジタル世界の影響だ。
問題は、ここ、この社会環境の変化による人格の変化。それが作品としてどのように現れてくるのか、と云ったところだろう。

1、使われ方の変化
2、テーマの変化

欲望の処理装置としてのデジタル写真。欲望とは性欲を主体とした部分だ。
デジタルネットワークのなかで、情報が手に入る。具体的にいえば、アダルトサイトだ。アダルトサイトからの情報が、無差別に発信される。そうして無差別に受容する。
かって、インターネットのホームページが無かったころは、アダルト情報は、書店へ赴くかレンタルビデオ店へ赴くか、だった。自ら行動することで手に入れられた領域だった。いまや、インターネットで手に入れることができる。

かって大学生の頃にあったパートカラー映画。いまでゆうアダルト映像だ。映画館は文化会館というのがあった。チケットを買うときの気持ちは、ちょっと恥ずかしかった記憶だ。書店でアダルト書籍を買うといいうのも、かなり勇気がいった。

いま、インターネットが普及して、そんな状況が一変したようですね。だれでも手に入るのだ。これこそ革命に近い出来事ではないか。


2005.10.5
写真行為の原風景

ボクが写真を撮るとき、何を撮るのか、ということがあります。
そりゃ~好きなもの、興味あるもの、現実に存在するモノを撮ることになります。
興味の湧かないものを撮ろうとは思わない。

ところで、この好きなもの、興味あるもの、ってどうしてそうなるものがあるんだろう?
つまり、写真を撮る行為の原風景のことだ。
ボクの原風景は、どんなものなんだろう?これも知りたいところだ。心惹かれるモノのなかにあるもの。原風景とは、そういう代物なのかも知れない。

ヒトの生成過程の中で、生誕から死滅までの時間の中で、ヒトが固体としての知能の枠組み形成が、生誕後3年目あたりだといいます。つまり3歳です。そのころまでの体験の記憶が、原風景の基底にあるといえるのでしょうか。

ボクの生誕は1946年です。そうすると1946年から1949年までの3年間の、ボクの前に起こった現象に対して反応した記憶質、これが原風景を形成する要素かも知れない。
主には、母親との関係、それから社会風潮というか空気感というか、そういう感覚的なものです。

生命活動の終盤にさしかかった現在のボクが、興味を示すのは、食することと生殖することだ。
大地を撮り、空を撮り、花を撮り、食べ物を撮る。
それらへの興味は、生殖ということに由来しているように思われる。命が育まれる原風景あるいは、前風景といえる。
花を見ることは、女のヒトを見ることにつながり、大地を見ることは、母親を見ることにつながっているように感じる。
それも欲求不満や劣等感といった要素が、逆推進力となっているようにも思われる。


2005.10.6
日常の光景へ

カメラと自分の関係をみると、カメラは自分の分身のようなものです。
朝起きて、ひと仕事して、顔洗って、朝食とって・・・・という一日が始まり、そうしてなにやらかんやら時間を過ごして、夜になり、寝て、起きたら朝になってる。
なんともまあ、変哲のない、日常だこと、取り立てて大騒ぎするようなもんじゃない。
でもさ、こうした時間の中に、ちょっと気になることが起こる。
庭に花が咲いた。パンを焼いた。天気が良かった青空だ~。
別に、取り立てていうほどのこともないか~!
でもね、キミに知ってほしいって思うことが、いっぱいあるんだ。
たとえば、ボクの庭に咲いた花をお知らせしたい!
山へいったら胡桃が落ちてた!
朝にこんなもん食べたんだよ!
心で思ってて、人に言えないことも沢山あります。
この思ってて言えないことを、秘密といいます。
でも、この秘密たるものも、いつか秘密でなくなるかも知れない。
ボクの見たものをカメラで撮って、キミに見せたい。
ちょっと恥ずかしいけど、見てほしい・・・

写真が、コミュニケーションの手段とすれば、そのようなことだ。


2005.10.19
認める、認めない

自分か生きた人生を認めてあげようと思ふ。
そうでないと自分が可哀相じゃありませんか。
自分の人生を認めてあげようと思うようになったのは、ここ数年のことだ。
認めてあげて全肯定ですね。
この地平から出発しないとだめですね。
とはいいながら、認められないことがまだあった。

物事は時間とともに過ぎていく。
過去となるわけですが、この過去になる時間が、事柄によって様々だ。
物事があったとき、そこに感情が同居するじゃないですか。
その感情の整理がついた時点で、過去・・・
そのように考えると、16日のIMIでは、まだ過去になりきっていない以前の時間を自覚した。

気持ちなんて危ういものだ。
いつも変化しながら心を締め付ける。
その究極が死に至らしめる気持ちだ。
その一歩手前で踏みとどまった、その現場。
その現場が甦ってきたとき、それは拒否するしかなかった。

2005.10.28
日々過ぎ去る

日々過ぎ去るを追いかけない。
前をむいて歩いていくことを考える。
とはいえ、大事なことは、<いま>をどう生きるのか!

写真に親しんで30年、いまのメインの仕事としてある。
でも考えてみると、いろいろあったな~とつくづく思う。
達さんとの出会い、東松さんとの出会い、そうして同年輩の人たちとの出会い。
ヒト的交流の中心は、やっぱり写真を通じての関係だった。

いま、新たな出会いは、食と農。
3年前の出来事から、出発してきて、<いま>だ。
総合文化研究所とか、むくむく通信社とか、それまでの蓄積の上に積み上げられる枠組みではあるけれど、人的ネットワークは、新たに出来てきたものである。

そういいながら、日々過ぎていく・・・。