2005.11.4
過去・過去・過去

生きてきた過去を振り返る。十年単位で振り返る。
なんとなく10年という単位が、区切りよさそうに思うのだろう。
0才代の終わり、10代の終わり、20代の終わり、30代の終わり、40代の終わり、50代のおわり・・・
6つ目の終わりの<いま>だ。

生きること、生きてきたこと、これはいったい何だったんだろ~?!
肉体が生成し、衰退していく。この衰退期に入った<いま>自分の行為を振り返ってみたい欲望、欲求に苛まれている。
ヒトがそれぞれに、自分の痕跡を残すために金をつぎ込み労力を注ぐ、という実感がわかる。

この文を書いているときに郵便が来た。
ギャラリー新居にて、東松照明展、11/7~11/26の案内はがきだ。
見覚えのある執筆、彼の直筆である。

朝から、写真史のイメージをアルバムにアップしていたとき、彼のことを脳裏に描きながら、作業をしていた。
会える、と一瞬思った。
さてどうだろう、それは不明だけれど、見にいこうと思う。

写真は記録であり記憶を保持する。
82.6.26とサインされた東松照明さんとの写真。
ポラロイドで撮られた写真だから1枚オリジナルである。
奇遇といえば奇遇的に遭遇した東松照明さんだった。
過去の同伴写真をここに掲載することをお許し願います。

30代の後半の3年間。懇意にお付き合いいただき、それからボクの方から疎遠にしていました。
それから20数年という月日が過ぎ去り<いま>
いま出発しようとしているボクは、この頃に原点を置きつつあります。
作家しようと思う日々、残された時間のメインを、作家として生きたい。
どれほどの時間が残されているのか不明だけれども、だからこそ切羽詰るということも云える。
過去は循環し未来となる。

2005.11.7
東松照明展

そう、今日、大阪は淀屋橋にあるギャラリー新居まで行った。東松照明展のオープニング初日。東松さんは居なかった。

Camp カラフルな!あまりにもカラフルな!!
これが展覧会のタイトルです。撮影場所は沖縄。今回、基地の問題がクローズアップされている。
写真は1970年代の撮影から今年2005年撮影の写真まで。最近のは、デジタルカメラで撮られたと聞いた。
何十年と変わらない視線がある。東松照明という写真家のスタイルである。数十年前の写真と現在の写真と、撮影年が付記してなければ、判らない。

テーマがリアルな現実へ戻ってきた。太陽の鉛筆から京都を経てインターフェースへと辿ってきた写真の表面と、思想の在処が、一巡した感がある。
再びリアルな基地を、写真のテーマとして浮上させてきた。
展覧会から自宅へ帰ってきて、テレビをつけると、普天間基地の移転について、知事が反対声明とも取れる発言をしている。
世界軍事地図、そうしてグローバル化の中のアメリカ。生臭い現実が、ここに掉さされる。
風化する時。・・・かって長崎の写真群においてつけられた括りだ。取り扱う写真の問題は<いま>、生々しい世界、現実世界なのである。

2005.11.23
キリスト

イタリア旅行最初の訪問地はミラノでした。案内にはドゥオモと記してあります、聖堂です。そこで遭遇したのが、磔刑のキリスト像でした。
聖堂の中に入ると、なにかゾクゾクする感覚になる。高い天井、広い空間、入って右にはステンドグラス、左に磔刑のキリストの祭壇があった。照明が当てられ、蝋燭台があった。
仰ぎ見るようになる角度で、蝋燭台の前に立った。

ボクの知識は断片の繋ぎ合わせだ。むか~し聖書を少し読んだことがあった。はたちの頃だ。それからキリスト受難の物語は、遠藤周作氏の小説で読んだ。これはもう50になってからだ。マタイ受難曲がキリスト受難の音楽物語だというのもその頃だ。

ボクの記憶の断片を繋ぎ合わせても、まったく全体にはならない断片でしかない。書のなかで、写真で見たことがある。でも、ああ、そうか~って程度の認識でしかなかった。
ジッドの狭き門を数年前に読んだ。信仰に向かう気持ちを説いた小説だと思った。

目に見た磔刑のキリスト像。その飾り立ても影響しているのだろう、ボクは感動する。身体がゾクゾクと震える感覚だ。
ボクは、これまでイメージでキリストを描いていた。現実、現物を見たとき、立ち現れた感覚。これが信仰に向ける気持ちなのかも知れない、と思った。

最近、信仰ということに興味がある。芸術に向かう気持ちと信仰に向かう気持ち。この「気持ち」という感覚についての興味だ。理屈ではなく、感覚である。当然そこから写真のあり方につながる。

まったく未整理のまま、ボクの思いのなかに立ち現れた磔刑のキリスト像だった。いま、ここに、未整理のまま、言葉を羅列した。

2005.12.24
門が開くとき-1-

門は、向こう側とこっち側を区切る境界です。バリアーといえばいい。あらゆる物事に門がある、バリアーがあるといえば良い。
写真においても同じこと。発表できる、つまり人様に見せることができる写真と、見せることができない写真があるようだ。要するに話は、この境界を閉ざしている門のことだ。
この話じたい、危ういものだ。タブーといったり、禁句といったり、触りたいけれど触れない、そんな門の向こう側の話のことだ。

インターネットに繋いで2年少しが経った。自分でホームページを立ち上げ、ブログを駆使している。メールアドレスを方々で公開している格好だ。そういう前提に立って、現在のメール環境を見ると、俗に迷惑メールとして処理されるメールが、一日にどれだけ到着するのだろうか。

迷惑メールとして処理されるメールが100通以上だ。迷惑メールとして処理されないメールも、それくらいある。つまり一日200通以上かも知れない。これが現在の実態件数だ。
これらのメール内容が、ほとんセックス関連である。

セックス関連のことは、ヒトの興味をそそることだ。興味があるからこそ、それが産業となるのだ。かってインターネットがまだなかったころ、出版物、ビデオという代物であった。これがインターネット時代になって、このツールが使われるようになった。あたかもセックス関連の門が開かれたかのような状況が到来しているのだと、認定しだしている。

だからこそ、いまこの現状を避けて通れない門なのだ、と思うのです。
門の向うから、猛烈な勢いでサイバー攻撃してきてる・・・。国際情勢でいえば、アメリカの攻撃をかわすためのテロみたいな構図だ。
ボクはこっち側にいて、向こう側を撃墜できないから、ひとまづ融合しちゃおうと思う。無視するのは、ダメです。嘆くだけもダメです。禁止しても無駄です。だから、受け入れてあげて、融合してあげる。

敵にも理あり・・・。求める心があるから、やってくるんです。無駄な抵抗しないで、門を開いてあげればいんです。反撃するもしないも、ここから始まるのではないか、と思うのです。


2005.12.26
門が開くとき-2-

<男-女の軸>
世の中が男と女の区分軸で成り立っているとすれば、この男と女を取り替えてみれば、どのようなことになるのだろうか。これが興味の発端だ。男のなかの女性、女の中の男性。ボクの捉え方の根底に、男と女の身体的違いを外してみると、男から女へ、女から男へ、変わり得るのではないか、というより男と女のあいだはシームレスではないか、という想いがある。

この風土が、男軸と女軸に分割されてきた風土だとしたら、ここで、いちど融合できないかと考えるわけだ。女装する男がいる。男装する女がいる。身体と心が一致しない男女の性ということもある。ずいぶんと長いことボクは、自分のなかの男と女に着目している。どっちかといえば男的、どっちかといえば女的、社会の掟にしたがって男として生きているのだけれど、かいま見える女性。

ヴァーチャルな環境が広がってくるなかで、男が女に変わることが可能だ、と考えるようになった。女になりきる。これは現在的なテーマではないだろうか、と思い出してきたのだ。多かれ少なかれ、男-女軸風土のなかでは異性願望があるのではないか。そこでこの願望を願望でなく、実践していく、とこのように考えた。

そこでわかってくるものがある。男が女を見る視点ということだ。「或る女」を想定して虚構として創りあげていくことが、ヴァーチャル環境ではできる。そのように考えたのです。この実験はさまざまな誤解を招くと思っているのだが、目的は、男-女軸の見直しなのだと認定している。二分法から融合へ、である。あるいは混沌・・・「とりかえばや、男と女」河合隼雄さんの著作を読んだ。ヒントはこの中にあった。

男の立場で見ていた男や女の習性を、女の立場でみると、その習性がどのように変わるのか。男女の群れのなかにいて、どのような変化が起こるのか。それは自分の中の問題意識だ。


2005.12.31
門が開くとき-3-

門を開いた向こう側は、混沌の世界だと思う。分割整理されたこちら側には、苦しいけれど安定した領域だ。ところが、たぶん、向こう側は、不安定、混沌の世界だ。

ヒトの心のなかに、この混沌の世界があると思う。未分化領域、無意識領域、混沌領域だ。情が動く、情動という場所は、この混沌領域をねぐらにしているようだ。

男であることと女であることを、分割されたこちら側の区分だとすれば、男であり女であることは、向こう側の混沌の世界だ。いや、ここで男、女という区分を持ち出すことじたい、こちら側の発想だ。

このテーマを持ち出すのは、現在の写真表現の領域で、また文学表現の領域で、極私的視野が必要になっているからだ。情動はエロスである。極私的視野はエロス視野である。開かなければならぬ門は、エロスの門である。

情動はエロスだとすれば、この情動は封印されてきた。公共園という概念がある。この公共園のなかで封印されてきたのだ。封印を解くことは、もうひとつの公共園を、あるいはオルタナティブヴィジョンを立ちあがらせることだ。

この領域は妄想である。妄想の具体化は、たぶん反社会的なのだ。芸術は妄想の具体化。芸術が既存の領域を打ち壊すものだとすると、妄想の具体化は秩序を壊して混沌へ導くものになる。

科学がヒトを分析し、その身体構成をミクロな領域で解明していく。芸術は科学を超えた妄想だから、ヒトを科学を超えた妄想によってイメージ提起をしなければならぬのだ。