中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

カテゴリ: 写真物語

ぼくの写真史-1-

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2004.9.16~10.27
  nakagawa shigeo

ボクが写真というメディアに興味を持ち出してかれこれ30年が経ちますね。
1975年頃でしたね、大学卒業した直後にニコマートを買ったんです。子供が4歳と1歳、わが子の写真を撮る、っていう目的だったですね。

1965年頃から文学に興味が出てきて、小説家とか評論家になりたいな~なんて、本気で考えていたこともあってね。大学入学した1968年には、大学のサークルに入って同人誌に文章を発表したりして、1974年頃まで文学研究会とか定例読書会とかに参加してましたね。で、そのころってけっこう行き詰まっていて(気分的にです)、もう文学できないな~、そんな心境でしたね。

そこでカメラを手にして、自分の子供を撮ったり、家族旅行の記念写真とか撮ったり。写真が文学に替わる興味になってきたんです。ここではボクの個人史を記しておこうとの目論見があるんですが、その最初を、このあたりから掘り起こしていきたいな~って思ってるわけです。

もうひとつ別に、「苔の私日記」と題したのもあるので、二本立てで、やっていこうかな~、というのも一本だと前後の文脈があるから、別角度へ飛べないですから、当面、ここでは写真の方へ30年の個人史をやろうかな~。

写真が文学に替わる興味になってきた頃の話から、掘り起こしていきたいですね。ということで、ほんのお遊びこころから、写真の魅力?とりつかれていくプロセスを記していきたい。それは、内面史というより外面史を中心に、と思っています。

-内灘砂丘の弾薬庫跡-

その当時の夏、8月の初め、金沢へ家族とともに帰省したんです。金沢は彼女の高校卒業まで生まれ育ったところです。その実家へ帰ったときに海水浴にいったんです。場所は内灘、金沢市内から北鉄の電車に乗って20分ぐらいですね。内灘の話は追って書きますが、まだ結婚する前に何度か行ったことがありました。

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その内灘の浜に、コンクリートの塊、弾薬庫の跡がいくつかあったんです。その弾薬庫の写真を撮った、数カットですね、子供たち以外に被写体を求めた最初の写真でした。その後、この写真は「映像情報」創刊号表紙に使いました。

小説を書いていた頃の最後の作品(未完)の冒頭がここ、内灘の光景から始まっていました。何かしら因縁というんでしょうか、金沢・内灘というのがボクにはあるんです。家族の海水浴のスナップと同じネガに収められた内灘の弾薬庫跡の写真。ボクの写真への記憶の最初は、ここなんです。

内灘の弾薬庫跡の写真を撮ったときには、まだフィルムや印画現像は全て写真屋さんに頼んでいました。そのころは伏見郵便局というところで働いていて、京阪丹波橋の改札を出て少し西に下ったところにキングカメラというお店があって、そこに頼んでいました。そうそう、カメラは上田カメラ店の出張販売の際に買い求めました。内蔵露出計つきのニコマートでした。

この郵便局の職場にカメラクラブがあって、誘われてクラブにはいりましたね。田原さん、長島さんという先輩がおられて、彼らはモノクロ現像の経験者でした。この場所がボクの最初のトレーニング場となりました。そのうちフィルムはネオパンsssというフィルムを使うようになりましたし、自宅に暗室機材も揃えました。引き伸ばし機はラッキーのものでした。

一番最初の印画紙、家族見ているところで、マニュアルどうり露光して現像液に漬けました。するとどうしたことでしょう!真っ黒。印画紙全面真っ黒。つまり露光量が多かった、レンズの絞り開放のまま、何秒間か露光していたのでした。失敗ですね、これが自分でやったプリント現像の最初の失敗談です。

そう、小説書いていたころがもう遠くにいってしまって、写真に夢中になり始めたんです。1976年の節分の日に千本釈迦堂の節分祭を撮影して、そのなかから一枚を、なんだったかのコンテストに応募したんです。「京の冬の旅」写真コンテストだったかも知れないですね、明確に覚えていません。そしたら、佳作というのに入ったとの通知がきたんです。それで表彰式が京都会館の会議室であるとのことでしたので、行きました。写真で最初の表彰、賞状をいただいたんです。そりゃうれしかったですね、思い出しますその気持ち、そっからですね。

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朝日新聞の社告に全日本写真連盟の写真サロン展ですね、その出品案内が載ってた。それで地場のやすらい祭りを撮った写真を個人会員ということで審査会場へもっていきました。蒲生さんでしたね、そのときの審査員のせんせ、ボクの写真を一目見て、まあいいか、これ、てな具合でOK。写真展は京都市美術館で行われるんです。美術館へ自分の写真を飾るんですよ~ヤホヤホ!ところが搬入当日、もう大ショック、落ち込みました。いわゆる作り写真ですね、もうボクには訳わからない落ち込みの気持ちでした。

やすらい祭りの鬼が素直に踊ってる写真、それでも手に入れたばっかりの24ミリレンズ使った写真だったんですが、そんなストレート写真なんて、なかったですね、みんなむちゃくちゃ上手いじゃないですか~ということしか言えなかったですね。


-達栄作さんのこと-

達さんとの出逢いは1976年夏の終わりだったと思います。全日本写真連盟京都支部(写連)が主催した宇治でのモデル撮影会の帰り道、京阪電車の中でした。先にボクは写連の個人会員となって京都写真サロンに出展しましたが、それが初めてのモデル撮影会の参加でした。

その撮影会の指導員してたのが達さん、まあ、先生ですね。電車の中で挨拶しました、たぶん、こんにちわ、程度のあいさつ。クラブ、クラブって言ってますけど、どうしたら入れるんですか?っていうような質問をしたと思うんです。達さん、クラブやってるから来るなら来たらいい、との返事だったですね。

それから、事務所兼自宅が藤森にあるから・・・ということでボクは達さんの自宅を聞き出して、後日訪問することを言いました。ボクのその頃って、職場で写真クラブに所属しており、カメラ雑誌が先生的存在でした。アサヒカメラ、カメラ毎日、日本カメラの三誌ですね、古本を1冊50円程度で買ったり、新刊本を買ったりして、むさぼり読んでいたと記憶しています。

カメラのレンズの記事とかボディの記事とか、まあ、ハード環境の話題ですね。それからコンテストの項ですね。いろんな写真が載っていましたね(今現在も同様ですね)。ストロボの使い方とか、広角レンズ、望遠レンズの違いとか、いってみれば作画のためのノウハウですね。そんな話題ばっかりでしたね。

電車の中でお会いしてからしばらく後に、達さんの家を訪問したんです。京阪藤森駅から徒歩で、聞いていた方向に行き、目的地、京都国立病院のそばまで行って、達栄作さんの家を探しましたが見つかりませんでした。そして公衆電話からTELしましたら、もうお家のすぐそばからのTEL、教えてもらった場所に和風のお家がありました。

玄関は道路に面しており、格子戸を引くと三帖ほどの土間、左に応接間、前が台所につながる戸です。典型的和風庶民の民家作りです。応接三帖間に茶色のソファーセットが置かれ、壁際に書棚、窓辺にトロフィーと奥さんの入院ベッドのうえでの写真(その後奥さんが癌でお亡くなりになられていたことを知りました)、そんな部屋でした。達さんには、にこやかに迎えていただきました。緊張していたボクの気持ちをほぐすように話かけていただいたと記憶しています。

光影会という名称の写真クラブでした。それからボクは週に1回以上、達さんのお家を訪問することになります、ボクの最初の先生ですね。また、達さんのお家は、ボクの写真についてのお勉強の寺子屋でもありました。達さんは、当時、二科会会友の肩書きをお持ちでした。それから光影会の会長、シュピーゲル写真家教会の会員・・・その他あったんでしょうけどね。光影会は、以前、京都シュピーゲルとの名称だったそうです。

木村勝正という写真の先生がシュピーゲルの会員で、大阪が中心なので、京都で旗揚げしたんだそうです。大阪に岩宮武二、棚橋紫水、堀内初太郎さんとかがいて、浪速写真クラブとか丹平クラブとかがあって、そんなのの選りすぐりがシュピーゲル写真家協会ってのを立ち上げた、その中に木村勝正さんもいて、京都グループを形成した、その中に達栄作さんがいた。

木村勝正さんがお亡くなりになって、その後、光影会と名称を変更、達さんいわく、シュピーゲルって名前は木村勝正に貸した名前だから使ってはならぬ、と大阪グループから言われたんで、光影会に変更した、とのことでした。そうして達さんと知り合いになって、光影会の例会や撮影会に参加するようになり、写連の月例にも応募しはじめました。

ドキュメントという話をよくしました。達さんの書棚に写真集がありました。カメラ雑誌系のものが多かったですが、ウイリアム・クラインの写真集「ニューヨーク」と「東京」がありました。それから岩宮武二さんの「佐渡」なんかもありました。それから当時発売されたばかりの土門拳さんの全集ですね、そんな写真集を見ました。

ボクの方はカメラ雑誌では、カメラ毎日に載っていた東松照明さんの「太陽の鉛筆」、アサヒカメラに載っていた北井一夫さんの「村へ」ですね、その他大体の有名写真家の写真を、主にカメラ雑誌を中心に見ておりました。森山大道さんとか中平卓馬さんの写真には、あまり関心が向かなかったですね。

達さんは、奥さんを癌でなくされた後だったようでした。そのときに撮った写真が病院ベッドでの写真で窓辺に飾ってあったんですが、この写真を渡辺勉さんという写真評論家がほめてくれた、とのことで、その褒めの内容がプライベートドキュメントだというんですね。その当時は、ボクはそんな言葉は知りませんでした。達さんも何故褒められたのか、十分には理解されていませんでした。でも、記録の方法としての写真ですね。記録とは何か、です。

一緒に撮影にも出かけました。その当時、達さんは琵琶湖の北にある「余呉湖」を取材していました。日帰りでいったり、泊りがけでいったり、頻繁にいきましたね。教わったのは撮影現場での撮影の仕方ですね、ボクは見習いカメラマンでした。写連の例会とかコンテストで入賞したりしだして、盾やらトロフィーやら賞状の類が増えていきました。大体の合同写真展、関西二科、写真サロン、選抜展、光影会展・・・会場は京都市美術館とか府立文化会館でしたかで、諸先生方と同じ壁面に写真が並びました。

「こうして先生と呼ばれるようになるんやな~」って思い出したんです。文学でモノにならなかったボクは、写真の簡単さにうぬぼれていましたね、ホント。その後1978年秋頃から、少しづつ疎遠になっていきます。達さんはボクが舞鶴に単身赴任中にお亡くなりになりました。1990年の年末頃だったと思います。訃報の連絡をいただきましたが、参列できませんでした。

ぼくの写真史-2-

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<気儘な日々へ>
2004.9.29記
この日記帖は、おもにボクが写真を始めたころの記憶を辿りながら書き進めていこうと思っています。ボクが写真に興味を持ち出すようになってから30年近くの年月が過ぎてしまいました。ということで言うと今年、ボクは58歳になっています。自分でも信じられないくらいなんですが、30年の歳月をぐるりと回ってきて、いま、また写真を撮り出しました。ほんの興味本位で手にしたカメラでしたが、写真というものにのめり込んでしまった結果がいま、ここにあります。この痕跡を少しまとめておきたいな~というのが率直なところです。

現在、いくつものホームページとブログを手がけています。外向けのもの、自分の作品的なもの、自伝的なもの、それぞれ使い分けして、全体をひとつのものにしていく目論見でもあります。

ここでは、写真を始めた最初の頃の話から掘り起こしています。今は亡き達栄作さん、途中から智原栄作さんと名前を変えられたけれど、思い出多い先生です。当面は、この達さん率いる光影会に参加したころの思い出話をまとめてみたいと思っています。だいたい1976年から1980年ごろまでです。カメラを持ち出しての5年間です。一気に駆け抜けた5年間だったうように思います。

1978年の秋に取材地を大阪に求め、「都市へ」との命題をもって歩み出したころから、少しずつ達さんとは疎遠になっていきますが、写真の基本を教えていただいた恩師だと感謝します。毎日のように達さんの家へ行き、家族のような振舞をさせていただいた記憶です。その当時の関西写壇といわれていた状況、もちろんボクから見た状況ですが、その写壇に決別するようにして抜け出てしまいましたが、若さの至りとでもいいましょうか、達さんには、失礼なこと多々あったものと思っています。

その後の恩師としては、東松照明さんを挙げたいと思っています。彼が京都取材の3年間、1981年から1984年までの間、ご一緒させていただいたことで、今の写真、それに留まらずに社会の見方などもベーシックには学んだものと思っています。

その後、1985年ごろから1988年ごろまでは、フォトハウス写真ワークショップを主宰していた時代。平木さん、金子さん、飯沢さん、島尾さん・・・、東京在住の人たちとの交流がありました。

1991年頃から畑さんとの交流とご一緒した仕事、写真図書館の設立、専門学校副校長、インターメディウム研究所事務局長・・・。そうして由あって、2002年の夏に身を引き、現在に至ります。それぞれの場面で懇親を重ねた人たちへの感謝を込めて、自分史を少し手がけてみたいと思っています。

<同人雑誌・反鎮魂>

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写真のほうへの話で、文学から写真へ移行するあたりへもう一度もどします。写真のほうへとボクの気持ちが徐々に傾斜していくのは、1975年ごろでした。その頃って、ちょうどボクは7年かけて大学を卒業した年なんです。現代文学研究会っていうのを友達とやっていましたね。頻度は忘れていますが、日曜日の午後から開始でした。場所は、北白川に近い研究会メンバーのアパートの一室でした。

1972年ごろまで、ボクたちは同人雑誌を発行していたんです。雑誌の名前は「反鎮魂」といいました。同人は7~8人だったと思います。ボクはそこで小説を発表していました。そうですね、長編小説。その第一章を第3号、第4号とふたつに分けて連載しました。

そんな同人も大学を卒業することで、解散となりましたが留年組の3人、近藤君、落合君、ボク。ちまちまと研究会を続けていたんです。もう解散する直前の作家研究テーマは夏目漱石。やっぱり夏目漱石を研究しとかんとあかんやろ!っていう程度のノリであったかも知れません。1975年というと、もうボクたちのこころは伸びきっていたように思います。学生運動が退潮していき、セクト間の内ゲバの時代でしたね。

ボクたちはセクトには属さない、ノンセクトっていう部類でしたし、運よくパクられたこともありませんでしたから、終わってしまった感覚ってのは、空しさいっぱいだったように思います。

ボクは1970年4月に結婚して子供も上が4歳下が1歳になっていました。家庭作りに専念するのも気分悪いものではなかったですが、でも空虚感というのがありました。文学への未練というか、もうやってられないな~、という感じですね。子供を写す目的で、学費が要らなくなったそのお金でカメラを買ったんです。

その頃の年だったですね、10月21日に仕事の帰り道に京大の時計台まで赴きました記憶です。20人程度の集会が開かれていました。肌寒さが身にしみてきました。現状はこれなんやなあ~って思いながら、ボクも参加者の一人となりました。もう終わった、終わったんや~、って思うと、ちょっと涙ぐんでしまいましたね。一方で、ニコマートに標準レンズをつけて、子供たちを写しまておりました。ネガカラーでとった記念写真です。

ボクは郵便局勤務の公務員、彼女は内職を夜な夜なやっておりました。ニコマートに標準レンズをつけて、ボクは家族の写真を撮りだして、アルバムをつくりました。そのうちに職場の人たちから写真の技術を教えてもらうことになったんです。職場へ出入りの写真屋さんが、唯一、少しは高度な知識を伝授してくれました。フィルムメーカーが主催するヌード撮影会にも参加しました。冬時に大阪のデパートで開催されたカメラショーに行って、モデル撮影会に参加しましたね。ニコンのカメラを買ったんで、ニッコールクラブですね、入会しました。

伏見桃山城で行われたニッコールクラブのモデル撮影会にも参加しましたね、記憶にあります。・・・というように、ボクはアマチュアカメラマンとして出発船出をしたんです。その頃です、全日本写真連盟に参加して、宇治の撮影会にいっての帰りに、達栄作さん、後の智原栄作さんを知ったんです。

小説を書くという、密室作業ですね、夜な夜なホームコタツのなかに足を突っ込んで、原稿用紙に字を書いていたことが、遠くの記憶へといってしまいました。でも、光のもとで写真を撮ることって、健康的やな~って思いだしました。もちろん写真家になろうなんてことは、夢夢思わなかったですね、その頃・・・。カメラ雑誌、ニッコールクラブの会報、それがボクの先生でした。

<達さんのこと>

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達さんのことで思い出すのは、余呉湖への撮影随行です。伸子という当時高校生の子がよく被写体になりました。達さんが著した限定版「信仰のすすめ」は、その伸子さんにあてた手紙形式で書かれていました。撮影のときのボクの仕事は、レフ板もちでした。ベニヤ板に銀紙を貼った手作りのレフ版でしたが、このレフ版を使ってキャッチアイですね、目に光を当てたり、影を薄くする技術なんかを教えてもらった。先輩と撮影の現場に立つというのは、勉強になるのもです。

同じ被写体を写して、出来上がった写真をみると、ちょっと違うんですね。まあ、構図とか光の入れ方とか、微妙に違う・・・そういう勉強をさせていただいたですね。そのころはまだ余呉湖は北陸本線の駅でした。夕方にはジーゼルカーの列車が到着します。ボクは伸子さんを望遠でトンネルから出てくる列車をバックに、毎度の事ながら撮影しました。月例用の写真作りです。

達さんとは、ドキュメント写真についてよく話をしたと思います。達さんは土門拳さんの、リアリズム論をよく引き合いにだされていました。その後ボクは1977年の秋から都市へとのタイトルで、大阪シリーズをはじめたんですが、達さんは、宇多野にある病院で、筋ジストロフィーの子供の取材に入られました。「天使のほほえみ」という写真集にまとまりましたが、ボクとの話の筋道ででてきたテーマだったようです。

その後、ボクは釜ヶ崎取材にのめりこんでいき、少しづつ疎遠になっていきますが、達さんは、その頃に、「難民」フォトフォリオを限定版で制作されます。キリスト教者だった達さんが、教会を通じて、カンボジアの難民キャンプへ行き、写真を撮られたものです。達さんは、けっきょくそれまで名を連ねていた二科会会友や写連役員などを辞めます。

ボクは、大阪取材から1年を経て、1978年9月2日から本格的に大阪取材に入りました。そしてその年の11月には釜ヶ崎の三角公園にたっていました。大阪取材へのきっかけとなった出来事があります。

その頃は、全日本写真連盟に加盟していて、月例をもやっていました。カメラ雑誌では、アサヒカメラに、北井一夫氏が「村へ」という作品を発表していました。ボクは、この「村へ」の作品群を、解体していく農村の記録・ドキュメントとして捉えており、大変興味をもって見ていました。まあ、好きな作品群であったわけです。その頃の写連の写真の傾向っていうのは、今もあまり変わらないですね。綺麗な写真、モデル写真etcなんかですね。

関西写壇というのがある、その京都代表が丹平クラブ、ボクの所属クラブ光影会は2番手との評価でした。その丹平のセンセが、北井氏の「村へ」の作品群について「わからん写真や~、な~みんな!」っていう評価を下したんです。ボクは、アホか!!って思いましたね。空しい気持ちがこみ上げてきました。これが最後でした。

もうそれなら自分でやるしかない。光影会の例会には出席しておりましたが、気持ち的には少し遠のいてきていました。カメラを持って大阪へいきました。
「街へ」がテーマでした。1977年の秋ごろからだったと思います。京阪電車で京橋までいって下車、それから梅田界隈へいきました。毎週土曜日の午後を撮影日と決めて仕事場のあった丹波橋から大阪への撮影取材でした。

もうその頃は、自宅に暗室を作っておりましたし、カメラもニコンF2を使いだしましたし、引き伸ばし機もオメガに替わっておりました。オメガは達さんから買い取ったものです。このオメガの元の持ち主は、木村勝正氏が生前使っておられたものだったそうです。

こうしてカメラと現像機材を俗にゆう一流品にして、自分に言い訳できないようにして、大阪取材をしはじめたんです。でも、何をテーマとすればいいのかわからないなかで、梅田に残っていた「どぶ池」界隈を撮影したり、新しくできつつあった駅前ビルの建設現場などを撮影しておりました。1回の撮影に2~3本のフィルムを使う、という量でした。

ひとりで立った大阪は、中学生の頃に何度か一人で遊びに来た記憶がありました。大阪の南、新世界界隈です。ちらちらとその記憶を思い出しながら、でも足はまだ梅田界隈でした。そのうち春が過ぎ、夏前になってきて、もう撮影をどうすすめたらいいのかわからなくなっていました。その夏は、久しぶりに原稿用紙に向いました。もうかれこれ30歳を過ぎていましたしね。

で、文章は、-私写真論-写真以前の写真論と名づけて、記憶と感情とのことを書いてみました。こうして夏を過ぎて1978年9月2日。再び大阪へ取材にいきました。この日から、大阪日記と名づけた取材メモを書き始めました。
<1978年9月2日土曜日(晴れ、薄曇)京橋から片町線で放出駅前、天王寺、山王町、飛田へ、鶴橋駅前。フィルム、TriX6本、ASA400、ノーフィルター、ノーファインダー28ミリ・・・>このようなメモが手許に残されています。このようにして、ボクは大阪取材をはじめました。


ぼくの写真史-3-
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<1970年代の写真をめぐる動きについて>

ボクが写真を撮り出したのが1976年頃からだ、と前に書いていますが、その当時のボクの写真への感触を書いておきたいと思います。ボクの意識のなかには、京都を中心として、その周辺に大阪がありました。それとは別に、東京という場所がありました。

ボクの東京住まいは1969年の2月ごろから10月末までに約9ヶ月ほどありました。それから6~7年ほどたっていましたが、なにかにつけて意識は東京にむいておりました。ワークショップ・写真学校というのがあることを知ったのはカメラ雑誌の記事でした。1975年に始まり1976年に終わる1年間の学校でした。

ボクの意識としては、そんなのがあるんやな~遠いな~・・・という感じでした。この東京での、ワークショップ・写真学校を通過した同年輩の人たちと知り合うようになるのが、1982年ごろなんですが、写真に興味を持ち始めたばかりのボクには、それは遠い存在だったんです。

そのころの近辺の話題といえば、写真の中味の話はさておいて、京都には、京都丹平という写真クラブが有名でしたし、大阪では、シュピーゲル写真家協会とか浪速写真クラブとか、そういった集団の関係図式ですね、力関係、そんなことばかりの話題だったように思い出しています。

京都では、関西二科展に始まる写真関係の展覧会が、4月から8月にかけて開催されていました。岡崎にある京都市美術館、広小路にある府立文化芸術会館。ぼくのグループ展発表の場は、そのふたつでした。会員だれでも出展できる京都写真サロン、それからちょっと選りすぐりメンバーの関西二科展、写連の選抜展、所属クラブの展覧会。この4つの写真展に名を連ねていました。

写真やりだして3年目ぐらい経ったころですね。先生と呼ばれている人たちと同じ壁面に写真が並びました。それから、当時は京都新聞社主催の月例がありました。ボクはこの京都新聞社へは、1回だけ例会にいきました。沢山の人が参加していました。そこでは、例会に提出された写真に順位が決められて、一席になると京都新聞におおきく紹介されるんですね。朝日新聞の方は、月例の一席だけが新聞紙上に載ったんですね。だから京都新聞社のは参加が多かったけれど朝日新聞社の方は参加者が少なかった。

ボクの写真は、朝日新聞に何回か載りました。コンテストにもけっこう応募して、そのたびに盾とか賞状とかもらいましたね。最初の頃の話ですが、推薦に選ばれました、っていう通知をもらって、推薦の位置がわからなかったんです。それで知り合ったばかりの達さんに、「推薦って何?」って聞いたら、一等賞やっていわれましたね。

こんな写真初心者のボクが、クラブに所属したということで交友が広がり、あれは二科会のパーティです、蹴上の都ホテルでのご宴会パーティー、こんなのにも出席できましたね。そうなんや~こうして先生って呼ばれる人になっていくんや~!えらい簡単やな~、京都写壇で名がとおり始めたボクは、そんなことに関心しておりました。で、冒頭に戻して、ワークショップ・写真学校。カメラ雑誌で見かける名前の先生、東松という人、荒木という人、森山という人、深瀬という人、そんな人が先生やってる学校なんですね、それに生徒さんの写真もカメラ雑誌に載っていましたね。ちがうんですね、写真が・・・、京都で、またコンテストで、上位に選ばれる写真とちがうんですね。

なんでやろ~っていう疑問がありました。でも、カメラ雑誌のほうの写真のなかに、何か魅入る写真がありました。

写真へ傾斜していく頃の記憶を辿っています。1976年から1978年までの3年間という期間は、写真制作技術を手に入れることに専念していた時期です。
ある種伝統のあるアマチュア写真、それも関西写壇とゆわれるところの入り口にいたんですね。3年間のそのころには、そこそこ有名になっていたようですが、それを越えていくパワーというのは、一体なんだったんでしょうかね。たぶんその頃を遡ること10年前の出来事が、多分にボクを追い詰めていたんだと思っています。

あれから10年、お前は何してるんだ!っていうような脅迫観念ですね。そんなのがあったようです。もらった賞状とか盾とかを目の前から消して、最初の一歩だ!って思って大阪は梅田駅に降り立ったことを思い出します。そして釜ヶ崎の三角公園に佇んだ1968年の11月、32歳になってしまった自分を確認し、えらい遠いとこまで来てしもたな~、そんな言葉が出てきていました、秋風吹く寒さが滲み始めた頃です。

<写真のテーマ>

日常生活のなかに写真を取り込むこと、なんて命題をだしていました。多分にカメラ雑誌から得る東京情報だったのかもしれませんね。日常・非日常なんていう区分のしかたじたい、時代的背景をもっていたんじゃないですかね。写真への傾斜は、遡ること10年前の遣り残し感が多分にありました。そして立った場所が釜ヶ崎という処だったんですね。

天王寺から飛田へ向いそこから堺町筋をこえて萩之茶屋3丁目に至ります。そこに三角公園があるのです。毎週土曜日の午後3時ごろ、その公園までたどり着いて、気持ちは空漠感に満ちておりました。なにか得体の知れない重石がからだの中にうずくまっておりました。たったひとりになった、という感覚ですね。赤電話がありました。この赤い電話はどこに繋がっているんやろな~、京都の自宅に繋がるなんて想像できなかったです。ああ~こうしてヒトは行方不明ってゆわれたりするのかもしれんな~なんてこと想像してました。

泊まり込まないこと、路上に座り込まないこと、酒を飲まないこと。この3点を守ろうとひそかに決意しました。何だったんでしょうね、その頃の自分って、何を思い、何を考え、何をしようとしていたんですか?いま思い起こそうとしても、朦朧ですね。脅迫観念に迫られていた気持ちは蘇えってくるんです。

写真を撮りだして、写真クラブから飛び出して、カメラを持ってひとり大阪の地にに立った頃、1978年ですね。その頃に考えていたことですが、モノを作る作家活動ですね、音楽家であれ小説家であれ、それなりのトレーニングが必要です。

10代の後半は、音楽家をめざしたこともありました。20代の前半は小説家をめざしたこともありました。ボク自身としては、音楽にも文学にも、それなりにトレーニングしたつもりでした。音楽は中学生時代のブラスバンド、それから十字屋楽器店の技術部に2年間勤めて、ピアノレッスンを受けました。文学に興味を持ち出して小説書こうと思ったのは、高校生の3年生、1964年、いまから40年も前です。

その頃から1975年ころまで、正味10年間、それなりのトレーニングをやったように思います。しかし、音楽も文学も、いずれもモノにならなかったです。ところが写真を撮り始めて5年で、それなりのことが出来るようになった。先生と呼ばれる人たちと一緒に展覧会に出品するようになりました。

コンテストに写真を出せば、何らかの賞が当るようになりました。この出来るようになった、と思うことへの疑問があったのです。表現というものがこんなに簡単に出来る筈がない。写真だから簡単にできるんかも知れないけれど、これはおかしい、絶対おかしいよ。そんな思いがわいてきていました。

後になって、実はそのとおりだったのですが、それが引き金だったように思います。カメラはニコンF2、引き伸ばし機はオメガ。一流品とゆわれる設備をそろえて、自分に言い訳できない仕組みをつくりました。写真作りの技術的なこと、技法は、おおむねマスターしたように思います。でもこれも、後になって出鱈目だと理解しましたけれど・・・。そうなんです、写真って簡単そうに見えてますが、実は奥深くて難解な代物だったんです。


ぼくの写真史-4-

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2004.11.3~2004.12.6
  nakagawa shigeo

<近況まで>

最初に写真に興味を持ち出して、実際に写真を撮り始めてから、すでに30年を経過しつつあります。1975年の春に大学を卒業して、学費が要らなくなったお金で、ニコマートを買ったんです。でもこの30年の間、ずっと写真を撮っていたかとゆうと、実際に撮ってたのは1984年までの10年間です。

1984年から2003年までの20年間というのは、写真を撮ってないです。1984年3月の最後の週に、大阪現代美術センターで「写真の現在展’84」というグループ展があって、この展覧会出展を最後に、写真を撮らない宣言(とういっても自分だけの宣言でしたが)をして、10年間休止を決めたんです。ええ、その間は旅行の記念写真も撮らなかったです。人にシャッター押すのを頼まれても断りましたね。

それから10年が経った1994年8月、いまボクの撮影現場になっている金沢の山手に家を建て、そこではもっぱらビデオ撮影をしました。2000年になって、ネガカラーでぼちぼち気の向いたときに花の写真を撮る、程度のことをしていました。再びの撮影開始は2003年10月です。キャノンのデジタルカメラを買ってからです。それから1年が過ぎました、今日は2004年11月3日です。

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ざくっと写真撮影の自分史を記しましたが、写真へのかかわりというか、写真への思いは、消えなかったですね。1984年11月に「フォトハウス」構想を打ち出しました。1985年の夏から約4年間、フォトハウス主宰のワークショップを開きました。1992年10月には、大阪・南森町に畑祥雄さんと共同で、写真図書館を創って、この図書館を運営する会社、写真文化研究所の設立にあたり株主となりました。1994年4月から1996年3月までの2年間、大阪ビジュアルコミュニケーション専門学校の副校長となりました。公的には写真教育の現場に出たわけです。つまり写真の業界に入ったことになります。

そうこうしている2年間でしたが、1995年の春に新しい学校、大学院レベルのアートスクールを創る話が持ち上がりました。そして1996年4月、インターメディウム研究所・IMI大学院講座が開講します。IMIの株主兼取締役の事務局長として2002年7月までの6年間を執務したんです。このIMIでは写真から一気に、現代アート領域にまで拡大しましたが、写真図書館が併設していたこともあってか、自分の足場は写真だ、という思いがいつもありました。

2002年の7月に、訳あってIMI辞職を決意してフリーになりました。そのときにはすでに、綜合文化研究所と、新しい写真学校を創りたい、との思いをもっておりました。新しい写真学校は、写真単独で存在するのではなく、また、アート領域だけに存在するのではなく、もっと広い視野から写真を捉える学校として構想しておりました。こうして2004年4月には通信制の「あい写真学校」を開校し、10月にはギャラリー・DOTの岡田さんと共同で「写真学校/写真ワークショップ京都」の開校にこぎつけました。これがボクの現在地点です。この30年間の詳細は、ぼちぼちまとめていきます。

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<釜ヶ崎のこと>

少し、釜ヶ崎のことについて記していきたいと思います。1978年の秋のことです。ボクは「都市へ」をテーマに、大阪の町を撮影にでかけました。郵便局に定職をもっておりましたから、撮影は土曜日の午後です。天王寺から飛田を経て釜ヶ崎に至る。取材時間は午後3時ごろから5時ごろまでの2時間程度でした。

もう何遍も釜ヶ崎の三角公園界隈でカメラを持ち出して写真にとった頃、11月だったと思います。若い人に声をかけられました。名前は岡さん、といいました。岡さんは、この地でケースワーカーをしているとのことでした。不就学児童のケースワーカーです。そうなんです、学校へ行けない児童の相談員です。彼はボクを近くのアパートへ連れていってくれました。3畳一間で日払い500円、月換算で15000円です。ホームコタツがあり、それだけでもう部屋は満杯状態です。その部屋は近くの子供たちのたまり場でもありました。

今池こどもの家、という児童館がありました。そこが閉館になった時間以後、O\岡さんのアパートへ押しかけてくる。小学校3年生から6年生までの女子が数人やってきました。そんな場所に居合わせたボクは、少し面食らった記憶があります。それまでは、浮浪しながらおそるおそるの気持ちで写真を撮っておりました。で、岡さんと知り合うようになって、再々そのアパートを訪問するようになりました。Oさんから、釜ヶ崎の中の出来事や問題点を聴くことができました。

そのうち越冬闘争がはじまりました。越冬闘争というのは、労働組合やキリスト教関係者などが組んで、冬の期間中、夜回りをしたり行き倒れ一歩手前の人たちを救済していく組織というかグループが行う、やはり闘争ですかね。行政へのかけあいなどもやっていました。ボクとしては、この越冬闘争の取材をやりたいと思い出しました。

そうですね、気持ち的には、遠いところに来てしまったという感触をぬぐうことができないままでした。世間での釜ヶ崎イメージ、多分にボク自身が抱いていたイメージ、怖いところ、特別なところ、あいりん地区と行政が名づける町、かって暴動があった場所・・・。この場所、釜ヶ崎に関する書籍が何冊か書店に並んでいましたので、購入して読みました。こうしてボクの釜ヶ崎取材の第一歩が始まりだしました。  

写真を撮る被写体として、偶然というか必然というか、釜ヶ崎の人たちを撮ることになっていくんです。なにか魔物がボクのこころの糸を引っ張るように、感じていましたね。最初ってのは、怖いもの見たさ、みたいな心情もありましたけれど、岡さんと知り合うようになって、現場を見て、もう宿命のような感じだったですね。被写体との巡り会いっていうのは、何かの縁ですね。

そのときの気分と外風景とが絡み合うんですね、きっと・・・。ボクには、だんだんとのめりこんでいってしまう習性があるんですが、釜ヶ崎へののめりこみは尋常じゃなかった。なんなんでしょうね、釜ヶ崎の魅力あるいは魔力といってもいいんですが、メンタルの交差ですね。人にはだれにもあるメンタルだとは思えないんですが、釜ヶ崎はもうどろどろの魅力、魔力で、ボクを引き入れたようです。

ものの見方が一変したのも事実ですし、日々の生活空間が虚ろで陽炎のようにも見えていました。そこから見えてきた世界というのがあるとすれば、人の内面深くの世界だったのかもしれません。そこから見えてきた外の世界は、アラブとかアフガンとかの世界ですね、そこにリンクしたい!そんな感触と、現実の生活との微妙な駆け引きでした。

剣の刃先を渡って歩いているような、何度か、このままここに居ようか、なんて誘惑もありました.でも、生活現場の現実、妻があり子供があり失ってはダメっていう信念みたいなもんに、引きあげられたというのが実感です。

そんななかで写真を撮ることを選択してしまったボクは、もう何処へ行くのか判らなかったです。いまある生命観というか生活観の大半が、そのなかで紆余曲折しながら、造られたのかもしれないですね。都会のなかの田舎。人間の中の魔物が頭をもたげる。もうそれ以上、この世では行く場所がな場所。そんな感じがしていました。

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1979年正月、地区の労働組合委員長の稲垣さんと出会いました。釜ヶ崎の中にある、希望の家というキリスト教の施設においてでした。委員長逮捕される、なんて正月早々の新聞に載っていたヒトでした。初対面、温和な感じのやさしそうなヒト、という感じを受けました。

お会いしたのは偶然の出来事です。警察から解放されてそのまま来た、といってました。そこで、ボクは稲垣さんに自己紹介をしたと思います、そこからいろいろとお世話になることになります。翌日が、恒例餅つき大会だったと記憶しています、三角公園での餅つき大会を取材しました。なにか稲垣さんの取材OKの返事をもらって、こころ強くなったことを覚えています。

翌日は正月3日、朝からいい天気で三角公園には、労働者がいっぱい集まってきました。労働者のみなさん、みんな明るい顔していました。ボクは壇上から、つきあげられた餅が、集まって行列をして待つ労働者に配られる光景を写真に撮りました。

このようにして、ボクの釜ヶ崎取材が事実上始まりました。前年の秋から、カメラを携えて釜ヶ崎の地へ行きだしてから、ケースワーカーの岡さんと出逢い、稲垣さんと出逢い、そうして世間では思いもつかない釜ヶ崎の現場写真を撮ることになってきました。 しだいにのめりこんでいくことになるのでした。

1978年から1980年前後の、ボクの写真への考え方というもの。写真をどのように捉えるかということですね。その当時に日記(大阪日記・釜ヶ崎メモ)とか、文章をけっこう書いていました。それらの文章を、後1982年ごろに映像情報や冊子「いま、写真行為とはなにか」にまとめてあって、いま2004年ですね。それから20年以上が過ぎ去って、読み返してみると、けっこう気負っていたな~って思います。30代前半の年頃でした。

ドキュメントとはなに?っていう設問があったように思います。いまも有効なのかどうかは、あらためて検証しようと思っていますけれど、ドキュメント、あるいはドキュメンタリー、「記録」ということですね。社会のなかの諸問題を告発する、なんて視点を考えていたと思います。

それと写真の方法が、プライベートな日常を撮ること、なんて命題もあったと思います。つまり、ボクは釜ヶ崎を取材するようになるんですが、そこに日常生活を置くこと。そこから社会問題として写真を撮る、まあ、こんなことでしょうか。実際に、釜ヶ崎に住み込んだわけではありませんでした。でも、気持ちの中でボクの日々の大半を占めていたのは事実です。

後になって、釜ヶ崎での取材方法なんかを問い直していくことになるんですが、当時は、社会問題として捉える釜ヶ崎の写真と文章、という位置づけがありました。それから、そこに住まうひととの個別の関係、個人関係を結んでいくなかで、写真の被写体として登場してもらうポートレートですね。「無名碑」シリーズなんですが、この方法が当時の写真の最前線、なんて思っていました。この当時、ボクはまだ写真家としては単独行動でした。

当時の写真界の動向なんて知るところではなかったですね。「季刊釜ヶ崎」を創刊し、「映像情報」を創刊していくなかで、写真をやっている同世代のひととか、若い世代の人たちと知り合っていくようになります。

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当時の同世代の写真指向は、すでにボクのようなドキュメントをするひとは少なかったように思います。シリアスフォトという手法があって、そういう手法に対してボクは、あまり興味なかったです。1970年前後に学生運動に参入してから10年が経っていました。その当時は文学に傾斜していましたし、文学での政治参加なんてこともありましたから、そこからの延長上に写真を捉えていたと思うんです。自分なりの写真論(笑)ですかね。

そうこうしているうちに、プロヴォーグの作家たちの写真を見たりしていました。それらはアレブレの写真でしたが、ボクの写真作りは、リアルであることでした。シリアスフォトの写真は静的でしたが、ボクの写真作りは、動的であることでした。当時ボクの周辺にあったといっても、カメラ雑誌で見る写真の反対側を指向しました。反面教師って云うんでしょうかね。たった一人での叛乱!なんてことも思ったりしてましたね~。

ここでは、ぼくの写真の外見の履歴を、ノンフィクションとして書き出しています。だいたい1970年代の中頃、ぼくが30歳前後の頃からの体験を書き出してきて、1979年のお正月まで書き進んだように思っています。この年のお正月は、大阪市西成区にある釜ヶ崎、行政ではこの町のことを、あいりん地区なんて呼んでいる場所です。そこへカメラを持って写真を写していました。

それから四半世紀の時間が過ぎ去って、ぼくの中ではすでに過去になっているつもりで、記述しはじめたんですが、しかしですね、まだ、ぼくの中で過去になりきってないですね。つまりどおゆうことかとゆうとですね、思い出すんです、その頃の気持ち。

ぼくのいまある考え方というのは、それからも変化・変容を続けてきて、その当時の考え方よりもフラットになってきています。もっとおおらかになってきた、とでもいえばいいかも知れません。でも、気持ちっていうのは、感情のレベルですね、これってあまり変わらないのかな?って思っています。

その当時っていうのは、ぼくの家庭はぼくたち夫婦と女の子2人の4人家族です。彼女はぼくより2歳若い、子供は1971年生まれと1974年生まれですので、当時8歳と5歳。収入面も含め、標準家族構成の標準世帯でした。そとからぼくをみるかぎり、忠実な標準生活者だったと思っています。でもね、後悔しても始まらないんですが、家族に対してはすごく後悔の念を抱いています。というのも、ぼくの写真と釜ヶ崎へののめりこみ方というのが、相当なものだったからです。

ぼくが浮遊しているように思うのは、外の光景がいつも信じられなかった感じがしていたことです。お金をもらえる仕事場にいても、家族と一緒にいても、もちろん写真を写している自分の姿を想像しても、常に場違いな感覚をもっていたものです。最近、はたけ耕したりしはじめて、かなり密着感を得てきたように感じていますが、もう、いつもぼくを遠くから眺めてる自分があったんです。あるときなんかは、訳わからなくなります。手に持ってるもの、目の前に見えてるはずのもの、それが何なのかわからなくなってしまうような感覚だったんです。釜ヶ崎でのぼく自身、いつもそのような感覚に見舞われていた記憶があります。

目の前に赤電話がありました。この公衆電話器からダイヤルすれば職場や自宅につながる、このことが信じられなかったんです。電車にのれば梅田へ出て京都に帰れる、このことが半信半疑だったようなんです。いま、その頃の記憶をたどってみても釜ヶ崎でのいくつかの特徴的な光景の記憶以外は、ほとんどありませんね~。ただただ、写真に撮られた光景だけが、記憶に残ってる。写真をみれば、その撮影時の気持ちまでよみがえってきます。これが写真の魔力というものかも知れません。そういったことを思い出してしまったから、まだ過去ではないと思うんです。

ぼくの写真史-5-

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2004.11.3~2004.12.6
  nakagawa shigeo

<R・バルトの「明るい部屋」>

写真についての覚書、っていうと思い出すのがロラン・バルトが著した「明るい部屋」という文章。1970年代の後半から1980年代に入って、ぼくが写真論に興味を持ってくるなかで、いちばんインプレッションを与えてくれた評論です。

そこには、針の挿し穴、とでもいえばいいのでしょうか、プンクトウムという言葉がありました。こころを刺してくるもの。一枚の写真の見方、読み方の方法を説いた論説です。写真を見て、こころに感じるもの、これが解析の糸口になる。

それからぼくは、写真への手紙・覚書という(未発表)文章を書きました。書き始めは1988年、書き終わりが1994年、あしかけ6年の時間をかけて、何度か書き直して、いま手元にあります。何人かにこの文章を読んでいただいて明確な返答はございませんでした。でも、一人だけ、感じてくれたヒトがありました。感じたショックで言葉が出なかったといいました。2001年のことです。ぼくの写真論の基本的発想は、この文章のなかにあります。いずれこの論、写真への手紙・覚書が成立してくるいきさつを書き記したいと思います。

新しい世界が目の前にきています。この新しい世界到来の予感を察知します。まだ言葉にならない感じ、感覚なんです。来るべき言葉のために!なんて中平卓馬氏がいったのは、1970年だったかしら?もう35年前ですね。そのころ彼が予感したもの、それがいま到来しているのかも知れません。

ぼくが1968年にこだわるのは、この新しい言葉が生み出せるかどうかを試し、知りたいからです。でも、1968年を捉える視点が定まらないまま、いまにいたっています。

写真を撮る、単純な作業といえば単純なんです。なのに写真をなぜ撮るのか?なんて考え出すとけっこう複雑になってきますね。こんな単純な写真を撮ることについて、ぼくって単純なことなのに、こだわってしまう癖があるようなんです。

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<出発は、写真は記録だ>

写真を撮りだした最初のころ、1975年ごろから1978年ごろまでの3年間ですね。このときっていうのは、写真を撮る技術処理に熱中していたようです。でも、何を撮るか、というのが伏せられたまま、写真雑誌に載ってる写真を真似してみたり、先輩たちの写真を真似してみたり、修練の場は撮影会であったり、月例に出して順位をつけてもらったり、そんなこんなの混沌としたなかで、写真というものと向き合っていたようです。ぼくの出発は、写真は記録だ!というところからです。

名取洋之助という人が書き表した「写真の読み方」だったですか、岩波新書の本。この新書を何回も読み直していたように思います。それから達栄作さんとの会話というか議論というか、この場でしたね。写真は記録である、と思っていました。この記録である、は今のぼくの基礎概念でもあると思っています。

でも現代の写真って、それだけでは理解できないということもあります。現代美術という範疇での写真の捉え方です。実際には、現代美術っていうのがよくわからないんです。よくわからないから、自分で理解していくために文章を書いています。でも、その世間の評論世界でいわれている現代美術についての理解ができないんです。現在の写真をどう理解したらいいのか、ということも正直、わかりません。わからないから、ああでもないこうでもない、こんなことやろか、なんて思いながら文章にしているんです。

ぼくの中にイメージがいっぱい沸いてきます。そのイメージの原形は、これまでに見た写真であったり映画であったりTVでみた映像であったり、です。現実に目でみた記憶もありますし、絵本や絵巻物、絵画というのもあります。文章を読んで、そこからイメージされるものも、原形はそれらのイメージの組み合わせです。文章または言葉とイメージが交錯してアニメーションのようにぼくの頭の中をめぐっています。そのイメージを言葉にまたは文章にしていこうとしています。イメージ全体の部分を言葉に置き換えていく作業とでもいえばいいでしょうか。

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写真イメージはそれらの一部です。過去に捉えられたイメージを紡ぎ合わせながら、現在の文章を書く原形イメージを作り出しています。そして枠組みをつくって、その枠組みに見合う写真を選び、文章を書いているのです。いつも何をしているのか不明です。明確なことは、今時点の時間は、この文章を書いています。それ以外に明確なことはありませんね。文章を書いていますが、その書いている自分の根拠がないんです。こういうなかで写真を撮ります、文章を書きます。

今日は、午後から田舎へいきます。明日の昼には近江町市場へ買出しにいきます、夜には義妹が訪ねてきます。明後日の夜にはこの場所に戻ってきます。この2泊3日の行程中にぼくは写真を撮ります。どんな現場があるかはいってみないとわかりません。でも、いく現場は確定しているんです、ぼくと彼女の田舎の住いです。そこにある木々や草のたたずまい、この季節だからだいたいの予測はイメージできます。その場所を記憶してますし、この季節を何遍も経験してるから。

一定のカテゴリーに収めて枠つけて、その範疇で行動しようとしています自分です。ぼくの意識と現実目に見える光景とのはざまで、ぼくは何をしようとしているのか?わからないですね~、ホント。

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ぼくの写真史-6-

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2004.12..13~2005.2.5
  nakagawa shigeo

自分の記憶と記録の通史>

いってみれば、これは前口上、前書きです。ぼくが写真という代物の諸々のことに関心をもってかれこれ30年になります。いま、ぼくの年齢が58歳です。自分で微妙な年代だな~って思っていて、一定の整理をしようと思って、いくつかに分けて、ぼく自身の過去を読み直しています。写真の関係については、ここで、写真に興味を持ち出した1975年前後からの、記憶をたどりながら、書き進めてきています。

ほかに写真学校を作り出していますので、写真にまつわる評論とかカリキュラムとかを手がけています。これは、現在から未来に向けての仕事として考えています。58歳という年齢は、ひところならもう余命わずか、という年齢ですね。最近でこそ平均寿命が80歳前後までになっているので、ぼくもそれに合わせて、あと20年~30年位、生きてるやろな~との思いで、30年計画をはじめたわけです。でも、正直なところ、いつ終わるやも知れないな~との思いもあります。かなり強烈にあります。そのような年齢だから、ここで、ひと区切りのつもりもあって、日々やってるわけです。

で、写真についての話です。1984年にフォトハウスという枠組みを提案して具体化しようとしていろいろやったわけです。その具体化の中心が、写真ワークショップでした。それから20年経ったのが現在です、現在は、2004年12月13日です。なので、当分暫く、ここでは1984年を軸にして、その前とその後をたどっていきたいと思います。

それとは別に、-1968年の大学1年生-というタイトルでも書いています。そちらのほうでは、1968年前後から始めて1974年ごろまでを目安にしていこうと思っています。で、また別に、中川繁夫の管理メモというのを置いていて、そこでは、1946年から1960年代までの間を追跡していこうかな~と思っています。

こうして3つを平行して、3つの年代区分にしたがって記憶をとどめていこうとの魂胆なんです。この作業が具体的にはじまったのは、今年の夏以降です。2~3年かけて一巡目をやっておきたいと思っているんです。60歳という節目を前後しての作業となる予定です。

<現在から遡る>

2004.12.21、つまり今日から遡行します。現在進行形の現在、写真について限定すれば、あい写真学校と写真ワークショップ京都の企画を進行させています。という話から始めていきたいんですが、この企画はこれまでのボクのやってきたことの集大成みたいなもんです。というのも、20年前1984年にフォトハウス京都を打ち出して写真学校の原形を、写真ワークショップ京都という名称で主宰してきたんです。その後、1988年ごろまで稼動してたんですが、本業のほうで単身赴任なんかありましたので、中断しました。

その後1992年に写真図書館を畑祥雄さんとともに開館させて館長に就きました。それから1994年から日本写真映像専門学校、そのころは大阪ビジュアルコミュニケーション専門学校っていう名称でしたが、この学校へ副校長の肩書きで転職したんです。このことをもって、ボクとしては写真の専門領域での仕事の始まりだと判断しています。というのもそこで収入を伴わせる職業としての専門学校副校長ですから・・・。それから10年経過したのが、現在2004年12月21日の今日、いまなんですね。

ざっと年月を追いますと、1996年にインターメディウム研究所の設立に参加します。そこで取締役職で事務局長として6年間仕事をしてきたんです。そして2002年7月に退職しました。

それからOICP写真学校というところで、カリキュラム開発をも引き受けて2003年4月からやってきたんです。昨年の夏ごろから、通信制の写真学校と通学制の写真学校、つまり今に至る「あい写真学校&写真ワークショップ京都」の企画にのりだしたんです。ということでこの20年間の足跡をみると、教育という分野にかかわってきたことになります。組織つくりと組織内での仕事です。

どちらかというと仕掛け人の立場です。仕掛け人というと、その価値を測るのに判断されることは、お金をどれくらい動かせるか、っていうことのように思います。当然、資本主義、商業主義の世の中で、お金を動かすことで商売が成り立ってきます、だから必然的にお金を多く動かせるほど価値が高い、ということになります。

ボクは、そのことへの懐疑をいだいているんです。そのことでいえば1970年代の後半にかかわりだす釜ヶ崎、ここでの思考そのものが資本制への否だったように考えています。その後も含め、自己矛盾をかかえながらの生活人、職業人としてきたんですが、諸般の都合があって決断した2年前の夏以降、基本的発想は資本制の否定です。

この否定することは、よりつよく自己矛盾を抱えてしまうことになるのですが、この自己矛盾こそ大切にしたいコンセプトだとも思っています。負け惜しみとかじゃなくて、真摯にそう思います。この発想にたてば、これは孤立です、無援なわけです、孤立無援の立場です。生存のための自己矛盾を抱えながらの孤立無援という立場は、どうみてもさまざまに不利です。このような立場に現在はいるんだとの基本認識をして、ここからの出発なんです。この出発にあたって、このような文章を書く場を確保しようとの試みでもあるんです。今日は外観を羅列したんですが、追々、中身の検証に入れたらいいいな~と思います。

あい写真学校の開校

2004年4月28日はボクの58年目の誕生日でした。この日、総合文化研究所の設立とあい写真学校が開校した日です。本音のところは、いまさら何故写真学校なの?ってボク自身に問いかける最中なんです。というのも、写真ということにけっこうしがらみがあって、自分の気持ちとしては過去を一新したい!との思いもあったんです。

でもね、これから先、自分に何が出来るか、って問うてみて総合文化研究所の枠組みを作ったんです。でも、この枠組みがどこまで出来るかなんて予想つかないのが現実です。この企画のなかに学校機能があるんです。ボクとしても学校運営の経験がありますから、この分野は出来ると思っていて、写真学校にかかわってきた経験もあるから、写真学校ならできる、とまあこんな感じなんです。それで写真の新しい学校をはじめよう!って思っているんです。これは、現在進行形の真っ只中です。どちらかといえばコンセプト中心の学校。学校といってもワークショップ形式です。

この2年間というもの二転三転していまにいたっているんですが、けっきょく自分でやりだすしかないな~と思っているんです。人をあまり当てにしてもできないし、ましてや金儲けが優先することしか考えない人とは、一緒にやっていけないです。大分迷ったんです、お金儲けのこと。やっぱり生活していかなければいけないんだし、そうすると必然的にお金儲けをしなければやっていけないわけです。でも基本、お金儲けは切り離そう!そう決断したんです。これが今の偽らざる気持ちです。

お金を回していくことで事業は成立していく、という考え方もあります。お金が回らないと成す事もできない、という論法もわかります。でもそのことを乗り越えることが出来るかどうか。お金がなけりゃないなりに展開できる手法もあるんじゃないか。そんな思いです。

世の中の価値観からの逆行かも知れないんです、たぶんね。でもね、このことで培っていける関係に注目したいんです。お金が関係する関係じゃなくて、つまり損得関係じゃなくて、善意の関係。そこに見えるかもしれない人と人の関係に新たな学校のあり方を模索したいと思っているんです。

あい写真学校は通信制の写真学校です。E-ラーニングって通信教育の形なんですが、やっぱり業界はこの方法を金儲けの手段として活用しようとしています。それの逆手です。お金がないから設備ができない、だから何もないところからのスタートです。もうボクは開き直っていますね。自分の思う考えにしたがってやっていくしかないんだ、ってね。そういうことが今年4月から始まったんです。


ぼくの写真史-7-

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釜ヶ崎青空写真展-1979夏-

2005年になりました。ここではボクの写真履歴について、記憶をたどりながら書き進めています。といいながら、昨年10月、写真へのはなしを12回連載して、写真への覚書を5回連載して、その後しばらく連載を中断していましたが、今回、改めて「写真へのはなし」の連載を再開します。

1979年の夏、ボクは釜ヶ崎の三角公園で写真展を開催しました。その写真展のことを、青空写真展とか写真あげます展、そのように呼んでおりました。釜ヶ崎夏祭りが毎年夏のお盆に開催されているんですが、その催しの一環として写真展を開催するという内容です。その写真展は4日間のイベントです。壁面はベニヤ板4枚です。

最初の1日は、それまでに撮り溜めた写真200枚ほどを展示、自分の写ってる写真があれば持ち帰ってもらう、というものです。2日目以降は、釜ヶ崎で前日に撮った写真を展示するというものでした。

個展といえばこれが最初の個展です。当時、写真の在り方について、被写体の中へ写真を返していく、という方法を考えていました。撮影者と被写体の関係の再考といえばいいんでしょうか、家族写真の形式ですね。釜ヶ崎という家族にカメラマンがいて、パネルは写真アルバムである、という感じです。写真の在り方論です。

それから、当時、釜ヶ崎を撮るということは、怖い場所を撮る。この怖さというのは、カメラマンが拒否される、ということでした。カメラが入れない怖いところ、写真を撮ってると乱暴される、とか、カメラを盗られる、とかの感覚です。でも、ボクの感触では、そんなことはない!という感じがあったんです。取材を始めて1年近くたっていました。

釜ヶ崎労組メンバーの近場で撮っていたという関係から、労働者とのコミュニケーションができ始めてきた、ということもあったと思います。警察とヤクザさんと労働者。ボクの写真についてこの3方面からの反応があります。

警察に守られ、ヤクザさんにつないでもらって取材する、というような方式が公然となされていたんですが、ボクはその方法をとらなかったわけです。その頃には、プレスが中立だというような考えはもうありませんでした。つまり報道の中立性という議論です。中立性という立場が無いとしたら、ボクはやられる側にたつことしかなかった。青空写真展を開いて妨害があるとしたら、労働者の側からではない、という確信がありました。

すでに、警察からの妨害らしきものは春先に炊き出しを取材し始めた頃から感じていましたから・・・。それから路上賭博の周辺へはカメラを持って近づいてはいなかったですから、ヤクザさんの妨害もないだろうと思っていました。でも気持ちとしては、何が起こるかわからない、やられるかも知れないな~、なんて思っていました。何人かの協力もあって、青空写真展の当日がやってきました。1979年8月12日だったと思います。

その釜ヶ崎という場所は大阪市西成区にあります。その場所にある光景とゆうのがボクの写真意識のなかで繋がらないんです。写真の被写体を求めて、大阪の街を歩いてミナミの方へ行って、天王寺界隈から新世界界隈へと入っていったんですが、釜ヶ崎の光景は異質なように思っていました。写真が撮られ発表される被写体のある場所として、そこは空白地帯であるという感覚です。

ええ、釜ヶ崎はヘッジです、社会の縁です、そのような見られ方がされています。でも、ヘッジ、縁と見られている場所が中心となるとき、その他の場所が異色に見えてくるんです。逆説とでもいえばいいでしょいか、ボクの視点はヘッジがセンターです、縁が中心。それまで何百本と撮って来たフィルムの全てが、気持のなかではもう無効になっていました。

当時の意識を思い出します、俗に場末といいますが、そのような場所を撮って写真賞を取ったヒトの話題を見ました。アパートとか旧赤線地帯とかゆう廓跡とかの写真でした。でも当時、もうボクにはそんな写真が有効だとは思えませんでした、白々しい。釜ヶ崎にいく前には、天王寺から飛田への道筋を写真に撮っていました。それらの街の光景と釜ヶ崎の光景とが異質だったんです。ボクの感覚では、それよりも奥へ入っていた、ということです。

ボク自身を構成している価値観が崩壊していきました。崩壊したあとには夢のごとき意識だけがありました。もう全てが解体してしまったかのような感覚です。でも徐々にではあったけれど新たな価値軸が芽生えてきたのも事実だったと思います。

自分のいる場所がわからなくなる、まるで神隠しにあったような感覚とでもいえばいいのでしょうか、自分が何者で何をしていて、いま居る処がどこなのか、この場所感覚が欠落してしまった感覚です。目の前にある全てのものが遠い記憶のなかに収まりきらずに宙に浮いてる、異質な処にいる。

このような感覚が10代の終わりから20代の初めにかけてボクを苦しめたんですが、それから10年後の20代の終わりから30代の初めにかけて、再びやってきていたように思います。いわば価値の体系が壊れて、解体してしまった世界、これは死です。ヒトには死と再生の繰り返しがあるといいます。肉体の消滅は1回しか起こりませんが、心の消滅あるいは死は、人生において何度か起こるようです。この2回目の心の死が、釜ヶ崎取材のさなかで起こっていたんだと思います。

世の中への白々しさ気分、妻と子供を認知しているのに違和感を覚える。自分の暮らしている家へは身体は帰ってきていますが心は違和感を感じている。それ以外の他者へはもっと距離感を感じてしまう。もう正常とゆわれてる範疇を超えてしまった処に心が置かれていたかのようにも思います。うまく説明ができません、バスの中から街路の風景を見ていてちぐはぐ感を感じてる自分。そのような感情を疎外感と呼ぶんだとすれば、この疎外感が釜ヶ崎の光景の中に沈んでいったようです。

あるいは芸術や宗教が個人の内部に生まれてくる辺境の場所が、その感覚のあった場所だったのかもしれません。あるものへ傾斜していく自分の気持は、写真を撮る行為と文章を書く行為に集約されていきました。

自分の行動が過激になっていくことに気づいていました。もう怖いものが何もない気持ってわかりますか?怖いものがない気持とは死を恐れない気持です。死滅への恐怖感覚とゆうのがあります。これが平常時の普通感覚だと思います。そこには感情があってその恐怖を誘発する現象には嫌悪感をいだきます。ヒトの子の死をわが身にたって感じるとやるせない気持がでてきますでしょ、これは平常です。でも異常なときとゆうのは、そのような感情さえ感じない。感じないですがまるで人格が変わったように神懸り状態になっています。神隠しにあって神懸りになる。そうとしか表現できないような状態です。

非常に大きな異変に巻き込まれてしまったときとゆうのは、ヒトをそのような状態に置いてしまうのかもしれません。ヒトとゆう動物が基底にもっている神秘的現象との融合作用なのかもしれません。ボクの釜ヶ崎取材のころの気持を言い当てるとしたら、そのように書き表せるように思うのです。1979年8月12日から15日にかけての青空写真展へ結実していくボクの内面はそんな感覚でした。

1979年8月の釜ヶ崎は夏祭りが行われました。この夏祭りの会場、三角公園で写真展を開催します。釜ヶ崎の労働者は写真取材には拒否をする、とゆうことが公然と言い伝えられていました。だからボクはカメラを取り上げられて袋叩きにあってしまうかも知れない、とゆう不安がありました。ベニヤ板にそれまでに撮り溜めた写真を展示した初日の夕方あたりから、展示写真の前には沢山の労働者たちが集まってきました。

その場は、嫌悪な気配は毛頭なくて、ワイワイガヤガヤの和やかないい雰囲気でありました。釜ヶ崎で当地を撮った写真で写真展をやるなんて初めてのことだと思います。見物者たちは喜んでいるのです。この光景はボクはある意味でショックを受けました。釜ヶ崎の労働者に写真が受け入れられた、とゆう事実にショックを受けたのです。

西成署のおまわりさんが見に来ました。ヤクザさんが見に来ました。朝日新聞の記者さんが記事にするといいました。翌日の夕刊に12段ぶち抜きの記事になりました。「あ、わしが写ってる」とゆうようなタイトルだったと思います。そうなんですね、釜ヶ崎の労働者が自分たちの写真を受け入れたとゆう事実なんです。

ボクの釜ヶ崎への見方が一変したのです。あるいは写真とゆうモノについての新たな認識といえばいいかも知れません。釜ヶ崎は写真を拒否しなかった。そこからボクの写真への思考が始まりました。撮った現場へ写真を返す、とゆう言い方をしましたが、撮られた写真が何よりも被写体となった人が歓ぶ写真でないといけないとゆうことです。少なくともボクの写真の方法はプライベートな関係の中で生じてくるべきものでした。

ドキュメントを考えるときの要素として、撮影者と被写体の関係があります。当時においてボクはこの関係性を「家族写真」とゆう範疇でとらえていたと思うのです。写真のあり方が第三者関係ではなくて第二者の関係、もしくは一人称の関係で撮られるべきである、という立場です。

当時、場末とゆわれる場所を撮った写真家は沢山います。おおむね写真賞の対象になる写真のなかの関係は撮影者と第三者関係において撮られた写真群でした。あるいは自己と他者とゆう融合と断絶のハザマを彷彿とさせる写真群、あるいは白々しい風景群・・・

ボクの撮ろうと思う写真はいずれとも違うものでした。撮影者と被写体が同じところにいる位置関係です。まさに家族写真の枠組みだ!と思いました。釜ヶ崎夏祭り、1979年夏のことです。釜ヶ崎の現場で写真を撮って、現像してプリントして展示する。展示した現場で写真を撮って、現像してプリントして展示する。この繰り返しを3泊4日の行程でやりぬいた72時間のイベントです。体力の限界と同時に写真の成立する場の実験だったと思っています。

とゆうのもボクは作家であることを自認してました。発表の場とゆうのは美術館とかギャラリーです、それに写真集とゆう方法もあります。でもいずれも被写体とは関係の無い場所、第三の場所です。この写真家、被写体、発表の場、という三角関係の否定とゆうか懐疑だったんです。写真家と被写体と発表の場が直線関係、そおゆう場を想定したんです。これって家族アルバムの領域でしょ!この関係を持ちたかったんです。この関係をもってして、その写真が社会的意味を持つ関係、作家と写真の新たな関係です。それと写真家の新しいスタイルだとも思っていました。

このような思いをもっての釜ヶ崎夏祭り「青空写真展」の開催でした。写真界への反響ってのはまあ皆無に近かったとは思いますが、実感手ごたえはありました。ズシっとくるものがありました、感覚と感情的にです。そのころの問題意識ってのは、写真の成立する場、とゆうことでした。

その年の12月、季刊「釜ヶ崎」ってゆう冊子本の編集主幹をやります。写真を撮って発表媒体を創りだす必要があったわけです。カメラ雑誌がありまして、当時だったら「カメラ毎日」ってのが人気の雑誌でした。「アサヒカメラ」「日本カメラ」とゆう雑誌は今もあります。その当時、毎月三冊を定期購読してましたが、もうあまり見なかったですね。とゆうのも、内容が白々しく思えていましたし、むしろ中平卓馬氏の「なぜ植物図鑑か」とゆう評論集を読んだりしていました。青空写真展のインスピレーションもここから出てきたのかも知れません。

たった一人の叛乱なんていってまして、写真の可能性とはなに?って真剣に問い詰めていたように思います。もう反乱軍、とはいってもひとりぽっちでしたが、季刊釜ヶ崎編集部をつくって中心的に動きました。

中川繁夫<写真への手紙・覚書> 2006.4.28編集

ぼくの写真史-8-

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<写真ワークショップ京都>

写真ワークショップ京都は写真学校です。昨年の10月、京都に新しく作った写真学校です。写真ワークショップ京都は、ギャラリー・DOTとフォトハウス京都の合同企画です。既存の写真学校では出来にくい個別対応型の写真学校です。2004.10から月1回のセミナーを主宰していますが、今年の4月から本開校です。本開校後の4月からは、ゼミ、綜合ゼミ、特別ゼミ、テクニカルレクチャー、セミナーと5つの枠の講座を主宰します。

フォトハウス京都の設立は1984年、それからもう20年が過ぎたところです。このブログの「写真へのはなし」連載は、フォトハウス京都設立以前のことを書いていますから、この話題はここでは初めてですね。

1989年まで断続的にワークショップを主宰していたんですが、ボクの本業で単身赴任があって休眠、1992年には大阪で写真図書館を作ります。それから十数年大阪を中心に,写真専門学校の先生やったり芸術系学校の事務局長をやったりしてきたんですが、故あって独立、フリーになって、再びフォトハウス京都の名称で、写真学校の企画をやっていこうと思っているんです。

ここにも断続的に写真学校/写真ワークショップ京都の話題を折り混ぜていきます。もうひとつ通信制あい写真学校の話題も取り上げていきます。よろしくご愛読ください。

1枚の写真へのこだわり>

1976年の夏だったと思います。彼女の実家金沢へ毎年夏には家族で帰省しておりました。その帰省中の一日は金沢市内から一番近い海浜へ海水浴に出かけていました。その場所は内灘、金沢駅から北鉄の電車で20分ほどのところにあります。その年の夏には、ニコマートをもってわが子のスナップ写真を撮っておりました。内灘へもニコマートをもっていきました。

内灘は、アメリカ中心の占領軍から独立した1952年に米軍試射場として軍事訓練が実施された場所です。その内灘には弾薬庫の痕跡が残されていました。学生のときから現代史に興味を持っていたボクは、家族の海に入っている光景とともにその弾薬庫の痕跡を数枚撮影しました。家族以外にカメラのレンズを向けた最初の1枚です。砂浜に朽ちたコンクリートの塊が数個ありました。それまでにもカメラを持たずに何度か訪れた場所だった内灘砂丘でした。

1980年に映像情報とゆう個人誌を編集発行しだしますが、この創刊号の表紙にこのとき撮った内灘の写真を使いました。1982年の正月3日、再度撮影に内灘を訪れましたが、そのときはもう弾薬庫の痕跡はありませんでした。いまボクの手許には、残された数カットの写真プリントで編集した映像情報だけがあります。ボクの記念碑としての写真だと思っています。

フリースペース聖家族・1980年>

ボクの初個展は1979年12月、河原町蛸薬師にあった「パブ・聖家族」で写真展タイトルは「ドキュメント釜ヶ崎」でした。小さなスペースのパブ・聖家族の壁面と天井に8×10のモノクロ印画紙で200枚ほどピン張りで展示しました。美術館やギャラリーでの合同展に多く出品していましたけれど、写真の見せ方、見せ場所とゆうことを考えていて、飲み屋の壁面を選んだのでした。写真が巷の中に飛び出していくことを狙ったんです。写真の被写体が釜ヶ崎の労働者だったこともあって、話題を呼びました。

当時、自主ギャラリーを持ちたいとゆう若い写真家たちがおりました。1976年ごろに、東京で「写真ワークショップ」とゆう写真学校が主宰され、そこに学んだ若い連中が自主ギャラリーを作って運営しておりました。

関西では、まだ自主運営のギャラリーはありませんでした。ボクの気持は、自主ギャラリーを創りだそうとの思いです。ボクの個展を1979年12月と1980年3月に開催して、その年4月から「フリースペース聖家族」との名称で、自主ギャラリーが運営されだしました。

若手の古手も含めて、写真愛好者の皆さんの運営参加はありませんでした。何人か知り合いのメンバーに声をかけましたけれど、まあ、ね、いろいろといちゃもんつけてましたね。「フリースペース聖家族通信」を月刊で発行しましたけれど、8月でパブ聖家族の閉鎖休業となって、このスペースも休業しました。

4月に始まると、当時の情報誌「プレイガイドジャーナル」俗に「プガジャ」っていってましたけど、何度か記事を書いてくれて、若い人たちが集まってきました。写真展だけではなくてビデオ上映、パフォーマンス、その空間を使ってできることをやろう!とゆう人たちが集まりました。詳細は別途書きたいと思っていますが、関西発の自主スペースでした。


聖家族のこと>

聖家族って、キリスト教の館じゃなくて、飲み屋です。集まってきた連中ってのが、当時の言葉で、ヒッピーですね。まあ、自由人の集まる場所とでもいえばいいのでしょうか。バラック小屋の3坪ぐらいのスペースだったような、とにかく狭かったです。石山昭さんとゆうのがマスターで、毎麻新聞なんて発行してたかな~。

お店開いてもお金がないから事前買出しが出来なくって、最初の客が500円出す。そのお金で、スーパーへ食料品を買出しに行く、新京極のサカエへよくいきました。酒のつまみになるようなものを買って帰って料理して、出すんです。そうすると100円で仕入れたものが300円になって帰ってくる、それをもってまた買出しに行く~~そうなんですね、毎日が自転車操業ってゆうんです、こういうの。でもおもしろいシステムでしょ、仲間同士助け合い、互助精神みたいな~。そこでフリースペースやったわけです。

もうわいわいがやがや、みんなよく飲んで喋って憂さ晴らししてたのかな~。ここでけっこう80年代初めの社会勉強をさせてもらったと思ってますね。勉強させてもらったのは、なにより人の生き方のスタイルです。釜ヶ崎のおっちゃんたちと聖家族に集まる姉ちゃん兄ちゃんたち、みんな真面目に生きてんのよね。真剣ですよ、世のサラリーマンごときじゃない真剣さです。真剣さのあまりはじき飛ばされたってこともあったのかもしれないですけど、ね。

白虎社の存在を知ったのは、この聖家族に写真が貼ってあったのを見たことからです。釜ヶ崎が写真撮影の現場だったとしたら、写真運動につながる現場が聖家族でした。1979年&1980年とゆう年は、ボクの思い出深い年です。ターニングポイントになった年です、そのように自覚しています。

無名碑のこと>

1980年は、フリースペース聖家族を作りいくつかのイベントや写真展をプログラム化しましたが、一方で、写真のテーマについて記していきたいと思います。当時、釜ヶ崎の労働者の取材をしていましたが、写真の流行にポートレート手法がありました。

もともとポートレートは肖像画から写真へと移ってきたものですが、撮られる被写体は有名人とか資産家とかです。また、花嫁のアメリカとか、蘭の舟でしたか、日本とアメリカとの関係の中で生じた人間模様を描き出す手法として、訪ねてポートレートを撮るとゆうポートレートもありました。このへんがヒントになっていたんだと思います、釜ヶ崎の労働者のポートレートを撮ろうと思いました。無名の人々です。イメージ的には底辺を生きてきた人たちの群れです。ボクもいってみれば、同じような人です。

前年の夏に、釜ヶ崎の三角公園で青空写真展をやりましたが、その延長でポートレートを撮り始めたんです。被写体にある人の過去を語ってもらって記録する。写真は現在を写します。過去は物語ってもらうしかなく、その組み合わせで作品として残していこうとの思いでした。無名の人々の歴史です。およそ100人ほどのポートレートが撮れました。その写真は順次「映像情報」に連載していきました。

季刊釜ヶ崎の発行>

1979年12月、季刊釜ヶ崎第1号が創刊されました。発刊の言いだしっぺはボクの発案です。夏祭りで青空写真展を開催して好評を得ましたが、写真家の仕事として、撮った写真の発表場所を考えていました。ギャラリーや美術館の展覧会に出品するということは考えられなかったし、雑誌に掲載といっても、巷にある釜ヶ崎のイメージをなぞっていくような目的の写真じゃなかったし、それなら自分でメディアを創りだすしか方法がありませんでした。

秋に稲垣浩さんに企画を話し、釜ヶ崎の内部から発信する雑誌として機能させようとの合意で、稲垣さんが発行人、季刊釜ヶ崎編集部が設営しました。創刊号から4号まで、編集コンセプトや内容の企画し、ボクは釜ヶ崎写真レポートを連載することにしました。

1979年12月第1号発行と同時にけっこう話題になりました。紀伊国屋や旭屋書店などの書棚に並び、自費出版物やフリーペーパーを扱う店へ置いてもらい、発行部数3000冊が売れていきました。創刊号はその後も増刷されて約1万部を発行したと思います。

このときまで各都市にある労働者の町、東京は山谷、大阪は釜ヶ崎、名古屋に笹島、横浜に寿町、その内部からの雑誌としてはありませんでした。当時、いくつかの印刷物が刷られて発行されています。釜ヶ崎では「労務者渡世」というミニコミ誌が発行されていました。全ての記事にひらがなルビを入れて発行するのが通例でした。季刊釜ヶ崎はひらがなルビなし、漢字はそのままで発行しました。

書店で売れる季刊釜ヶ崎、買うヒトはたぶん行政関係や警察関係者が多かったのではないかと思います。学者先生が論文として、内容は理論中心の差別論文しかなかったなかで、内部者の声が赤裸々に語られるている雑誌だっかからです。

ボクは写真の記録性、つまりドキュメントの方法を考えていましたし、それの定着方法をどうするかとの問題に直面していたんです。写真が時代の記録として残る残り方の問題だったんです。その後、記録とは何かという問題にぶつかりますし、写真の方法がアート領域に合流する時代を迎えて、ボクの写真作業も頓挫してしまうわけですが、1980年初めは、かなり核心をもって発行に携わったわけです。

季刊釜ヶ崎は全10巻、別冊「絆」を発行して1984年冬号(1985.1.19発行)で終えました。

2004.12..17~2005.4.28
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ぼくの写真史-9-

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1980年の私的な出来事>

1980年という年は、ボクが精力的に仕事を拡大していく年でした。1979年12月にパブ・聖家族での個展をやり、季刊釜ヶ崎を創刊しましたが、80年には4月からフリースペース聖家族の運営を開始し、8月には写真雑誌(フリーペーパー)映像情報を創刊します。季刊釜ヶ崎は1980年中に第4号まで発行します。映像情報は第2号を1981年1月1日付けで発行します。

ボクの内部では、この二つの雑誌はボクのメディア戦略として位置づけていました。その発端は釜ヶ崎地域に対する世間が捉えるイメージの転換を図っていくことでした。ボクたちのイメージを定着させていくマスメディアに対して、ボクら自身のメディアを創っていくことを命題として掲げていきました。遡ること10年前の1970年にいたる2年間の一連の外化したムーブメントを経験したことが、再燃したとでもいえばいいのかも知れません。

1968年から1970年のムーブメントに対して主体的に関わったとは決して言い切れない自分への呵責、あるいは挫折からの立ち直りを意識していたと思います。その頃はまだ、権力に対抗できる権力の樹立なんていう夢想も残っていましたし、かっては文学の可能性なんて考えていたことが、写真の可能性について考えるようになっていました。写真は社会改良の手段となりうると確信して、これを公的には全面に押し出す格好で、自分を運動体に仕立て上げようと試みたのです。

一方で個人の内面の問題があり、日常生活と写真活動、常にアクティブな行動と共に、絆を求めていたように思います。個人が孤立する時代感覚です。メディアによって集約されていく個人の感覚や趣向に対して、そうではない自分の取り戻しとでもいえばいいかと思います。日常生活や社会制度のなかでのボク自身の立場に対して、内面のボク自身の居場所を求めていたのかも知れないです。

既成の組織やものの見方に対する内面の反発とでもいうのでしょうか、いつも既存の枠組みを突き崩したい衝動にさいなまれていたように思います。

季刊釜ヶ崎は、この公式な展開の場であろうとしました。ここでの写真の発表は、ルポルタージュ、あるいは社会的風景へのドキュメント的態度でした。一方で個人的な関係を結んで写真と文章を作品として定着させるべく無名碑シリーズを映像情報誌上にて展開していきます。ボク自身としてはこの無名碑シリーズが写真態度の本命でした。

その頃はまだ、写真は記録であるということに何の疑いもありませんでした。勿論、写真の多義にわたる系譜は理解していたつもりですが、ボクの写真テーマは、時代の記録としての写真、それもプライベートな立場での記録でした。カメラを持ったボクは、被写体になる人の記録の代弁者であることでした。

歴史の成立は権力者の歴史を意味するこの社会で、被権力者の歴史を書き撮り置いていくことでした。まあ、理屈としていえばそのようになるかと思います。そのことを実現するために、自分の内面の弱さを克服していかないとダメ!なんてことも思っていました。

このように捉えると、写真発表や雑誌発行は、自分自身との戦いであったのかも知れないです。文章を書くことを一時断念していたのですが、1978年9月から大阪日記をつけ始めたのがきっかけで、再び文章を書くようになります。写真と文章の並立です。

大阪日記は、大阪取材メモ1978年9月2日に書き起こされる取材日記です。その日は、京橋駅から環状線に乗って天王寺までいき、そこから歩いて飛田までいきます。そうして取材のたびにこの日記が記されていきます。後にこの日記は、映像情報の無名碑と同時に掲載していくことになります。翌年の8月の夏祭りに、釜ヶ崎三角公園で青空写真展を開催するまで、この日記が書かれて、夏祭りで終わる約1年間の取材メモです。

1979年の釜ヶ崎夏祭り以後は、季刊釜ヶ崎の編集と写真レポート執筆に専念する。1980年4月から、「フリースペース聖家族通信」発行しはじめ、8月から「映像情報」を発行することになります。1978年秋から1979年夏までの取材日記をつけるかたわら、少しまとまった評論文を書いておりました。1981年に「いま、写真行為とはなにか」という評論集にまとめることになる文章です。

評論というより状況論とでもいえばいいんでしょうか。写真の現状、社会の現状、釜ヶ崎の現状等に材をとって、文章化していきます。このように1980年は、再び意識して文章を書くことを始める年でした。1980年と今2005年です。

1980年のころを思い出しながら、私的な出来事を書いていますが、その頃のメディア環境と今2005年とを対比させながら、見てみたいと思います。1980年にいくつかの雑誌媒体を発出しましたが、その代表に、季刊釜ヶ崎と映像情報があります。

季刊釜ヶ崎は、印刷媒体です。まだワープロが出現していなかった頃です。文字はタイプライターか写植です。和文タイプライターで打ち込まれたゲラを校正して、版を作り、印刷機にかけるという方法です。

映像情報は、ボクの手元で極力つくる手作業でした。1号と2号は手書きでドラムで版下を作って輪転機にかけて帳合してホッチキスで止める。3号からはタイプ文字になります。簡易和文タイプライターです。事務機器として市販されていたタイプライターで17万円ほどした記憶があります。これで、コツコツと一字づつ打ち込んでいって、版下用紙に貼り付けていきました。写真を掲載するのに網をかけるんですが、これも引き伸ばし段階で、網目を入れていたように思います。コピー機がありますが、等倍コピーで1枚20円。拡大や縮小ができないコピーです。

このようにして、季刊釜ヶ崎も映像情報も、ほとんど手作業の結果生み出されてきた印刷媒体です。ワープロが出てくるのが1984年ごろだったと思います。それ以前は高価なシロモノです。1台数百万円で、一字づつ画面にだしていくワープロです。ボクが最初に買ったのは、キャノワードという機種です。60万円が半額で出ていたのを買い求めます。そのころからワープロを使い、パソコンに切り替えて使ってきました。パソコン通信が始まったのが1985年頃だったと思います。試しにニフティとPCの会員になって、BBSを少しやった記憶があります。

今から10年ほど前、1995年か1996年頃にインターネットというものがあることを知りました。デジタルカメラはリコーというメーカーのカメラだったと思います。1995年頃に4万円台で売り出された。このころからですね、デジタルで写真やビデオ映像が記録されるようになる。

インターネット環境が簡単に廉価で、ランニングコストも安くて運用できるようになりました。まだまだ技術的には改善がなされて、高速で大容量のデータがやり取りできるようになる。携帯電話で全てが出来るようになるでしょうね。で、ここで大事なことはなにかというと、メディアの形態が10年前から変わった。いや、新しいメディアが誕生してきたといえばいいのかもしれないです。つまりインターネット環境を私的にゲットして、個人情報が発信できる環境である、という点です。

1980年当時、ボクはたまたま同人誌やミニコミ誌の経験から、発信手段を模索してきましたけれど、大方の人は、発信ツールは持たなかったです。それが現在2005年、このブログもその一つですが、インターネットを通じて、情報が簡単に発信できるようになった。ただし、このインターネット環境は、完全管理下に置かれた環境であることです。

このようにメディア環境が変わった。インターネットを介在させるツールは、新しいメディアです。つまりマスメディアしかなかった環境に、パーソナルメディア環境が誕生したんです。つい最近まで、ホームページは雑誌媒体のネットワーク版の様相でした。商売の広告ツールとして、マスメディアのネット版としてありました。それが、個人の創意によって内容が創られる時代になってきたんです。確かにフォーマットやシステムはプロバイザーに規定されますが、コンテンツは個人のものです。新しいメディアの使い方は、これから作られていくのです。

<写真ワークショップ京都の開校>

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2005年4月28日 記念日に。

今日4月28日は、いくつかの記念日が重なっているんです。ボクの誕生日。結婚記念日。綜合文化研究所設立記念日。写真ワークショップ京都とむくむく通信社の設立記念日。

昔といっても1952年だったか、日米講和条約が締結された日が4月28日。名目上、戦後日本が独立した日とゆうことです。通信制あい写真学校の開校は昨年の4月28日です。一年後の4月、つまり2005年4月、通学制の写真学校「写真ワークショップ京都」を開校させました。今年は、いろいろとチャレンジします。

米つくり、小説書き、写真学校ディレクション、そのほかにもいろいろありそうです。今日は、そんな、記念日の日だと明記しておきます。


ぼくの写真史-10-
2005.5.9~2005.10.21

<東松照明さんとの出会い>
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写真家東松照明さんとの最初の出会いは、1982年1月6日の夜9時、京都・三条河原町の六曜社という喫茶店でした。東松照明さんの作品群として発表されている「京都シリーズ」取材のために京都へ来られた数日後のことでした。

当時、「東松照明の世界・展いま!」という全国巡回の企画展の話があり、1981年の夏ごろだったと思います、大阪実行委員会なるものが組織され、ボクもそのメンバーの一員になりました。そういう関係で、東松照明さんが京都在住のボクのことをお知りになったのかと思います。

最初にお会いした当日、ボクは金沢は内灘へ写真を写しに行っておりました。かってあった弾薬庫の跡を撮ろうと思っていた。ところが内灘には、もう弾薬庫の跡が撤去されていて、写真に撮ることが出来なかったのです。内灘取材を終えて、京都の自宅へ帰りついたのが午後8時ごろだった。その数分後だったと思います、東松照明さんから電話がありました。

そりゃもう、びっくりしました。で、京都に来ているが会えないか、というのです。そうしておよそ1時間後に、お会いしたわけです。約2時間、六曜社でお話をし、四条木屋町の宿まで歩き、そこで別れました。東松照明さんとお会いした記憶は、ここから始まります。その後、約3年間にわたって、京都で、東京で、お会いすることになりました。

写真というものに関わりだしておよそ30年の年月が経った。こう書き出すと、もうこの時間の長さというものが、自分の人生のなかの半分を占めてしまっている。けっきょくのところ、表現するツールとしての写真が、ボクの人生のメインたるものに当たることにきずく。

写真を撮る、写真学校をつくる、写真の評論をする。ボクのやってきたことが、単に写真を撮ってたしなむ、ということだっだったのなら、単なるアマチュアカメラマンとして、趣味の段階でとまっていただろう。しかし、そうはならなかったようなのです。写真ということにまつわって、様々なことがあった。

そうしていま59歳になって、あらためて写真っていったい何?と問うことでしか始まらないような気がしているのです。たしかに、写真を撮りだした30年ほど前、年齢的には20代後半だった。そうなんだ、人生の謎なんだ!

形象として写真というモノを選んでいるが、根本は、謎なんだと思う。生きてることの意味を掴むこと。様々なきり方があって、そのきり方に照らして自分の意味を見つけ出すという順当な方法が、出来かけては崩れ、出来かけては崩れてきたように思う。結局、経験というモノが豊富になった程度で、根本のことは判らないままなのです。

写真の撮影技術のことは判る。写真の歴史というのも概略わかる。じゃ~何がわからないのか?それは、日々生きるのに必要な技術は判る。大きな歴史の概略もわかる。でも、何のために生きてるのか?それが根底わからない。この判らないことと同義なんだろうと思う。

どうしようもない苦痛と苛立ちがあります。それは限られた生の時間。その時間の持分が大分少なくなってきていることだ。海の上をどんどんと先の方へいくときのイメージ、いつ絶壁のような滝に落ちるんだろうと思いながら、どこまでいっても水平線があって、その向こうに陸地がある。というように人生もそうであって欲しいが、それはもうありえなくて、いつか死滅するということが判っている。この判っていることへの苦痛と苛立ちなのであります。

この苦痛と苛立ちの限界に対して、写真がいかなる意味をもつのだろうか?単なる暇つぶしなのかもしれないんです。この単なる暇つぶしかも知れないと思う、この思い方には、やっぱり苦痛と苛立ちが伴う。表層、モラルに鑑みて生きていけばいいんだ~とも思えない。でも、表層をモラル的に生きていくことしかできないのだとしたら、ああ~もう!落ち込むしかないじゃ~ありませんか?!

写真という表現手段において、なにをどのように捉えるか、ということがあります。便宜的に分ければ、ドキュメント手法とアート手法があるかと思っていますが、いま気になるのは、その根底を支えているヒトそのものです。

ヒトには感情があり、情動と呼ぶものがあります。写真って、結局、理屈じゃわかりきれなくて、この感情や情動というレベルで、捉えることが必要なんじゃないか、このように思うわけです。

写真をつくる技法があり、写真を見つめる歴史的観点、現代社会的観点といろいろな角度からの分析、論理化が必要とされます。ところで、その論理化だけで、写真を見ることで十分なのだろうか?と考えるわけです。

写真を見て感動する、もちろんそこには記憶が呼び起こされ、そこに触れることで、感動になる。このようにも論理化できるのかも知れない。だからヒトの記憶のメカニズム、あるいは人体のメカニズムを解析すれば、写真を解明できる。このようにもいえるのかも知れないですね。

でも、どうもそれだけではないらしい。ヒトが感動、つまり心を揺り動かせられる、を体験することって、いったい何が作用しているんだろう?このことなんですね。

かなり最近まで、ものごとは全て論理により解明できる、ということを信じ疑わなかったんですが、最近は、ほんとうにそうだろうか?と思ってしまうんです。理屈では解明できないような心の動きがある。このことをも科学的手法によって解明しようとしているのかも知れないんですが、現在時点では、これは不可解な領域に属している。たとえば、男が女をみて反応する、女が男を見て反応する。こりゃ生命現象の本能なんだ、と言葉でいってみても、たぶんなんの解決にもならない。心が動いてしまう、という現象を肉体的に解明できるかも知れない、とは思います。で、そのことを理解したとしても、です。感動のレベル、質、傾斜していくことを、理解したことにはならない。

論理化できない心の衝動や情動のレベルを、ヒトは知覚として知ってしまった。さて、言葉では言い尽くせない、そのこころをどのように、外へ向かって伝えるのか。ここなんですね、問題なのは。写真と云う手段は、この心を伝えることが出来るんじゃないか?と思うわけです。論理的じゃないんですね。論理化できない領域と部分。これを伝えられる可能性としての写真。イメージの投影で、感情、情動を伝達する。

あえて論理化できないものを論理化しなくてもいいのではないか、このようにも思うのです。ただ、ヒトの進化の道筋で、いま論理化できなくても、将来論理化できるかも知れないとは思います。でも、いま論理化できないことを、無理に論理化して一定の枠に収めてしまうより、論理化という枠をとっぱらってしまう。そこで感じること。そう、感じること。この感じることを大切にしてもいいんじゃないのかな~って思うのです。



ぼくの写真史-11-
  2005.5.9~2005.10.21
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「写真の現在展’84」という合同写真展が、1984年3月26日から3月31日まで、大阪府立現代美術センターにて開催された。関西に在住の若手写真家49人の合同展でした。いまボクの手元に、その展覧会のカタログがあります。展覧会の連絡先は、スタジオ・シーン。スタジオ・シーンは、季刊写真誌「オンザシーン」を発行していた。当時の、関西におけるインディペンデント系写真家のグループでした。

この1984年3月というのが、ボクにとってのターニングポイントだったとの認識があります。映像情報誌の発展的廃刊と、フォトハウス京都の設立呼びかけを行う年でした。ボクは、この写真展「写真の現在展’84」に、釜ヶ崎の写真を出展しました。キャビネ版で270枚を割り付けられた壁面に張り巡らすという展示方法をとりました。この展示方法は、1979年8月に釜ヶ崎三角公園で、夏祭りの参加展示で、青空写真展を開催した形式を、そのまま美術館の壁面に再現しようとしたものでした。

ボクは、この写真展参加をもって、作家活動を休止しようと決意していました。そうしてこの展覧会の最終日、つまり1984年3月31日をもって、写真作家活動の一切を休止しました。 

今日、この写真展に展示した写真を、デジタルカメラにて複写しました。撮影現場は、1979年8月13日から15日だったかと思いますが、それから26年が過ぎ去った今日です。写真発表から21年余りが過ぎ去った今日です。

昨年、釜ヶ崎ドキュメントの一部を、HPに掲載しました。また今年になって、無名碑の一部を掲載しました。今日、複写した写真もHPに掲載しようと思っています。取材から25年前後の歳月が過ぎ去って、ボクのなかでは、ようやく過去の記録になりつつあります。

写真の現在を考えるなかで、経過する時間というもの、残された画像と自分を、再検証する材料として、あるように思います。というように、作家の態度のなかには、撮られた時間と、経過した時間、そうしてあらためて発表される。このようなサイクルのなかで、作家は存在する。写真を巡るドキュメントという問題の状況です。

 この6月から7月にかけて、写真史のレクチャーを2講担当しました。「ドキュメント写真」という切り口で、1回目は、アメリカを中心とした世界のドキュメント写真の概観。2回目は、日本の1950年代以降のドキュメント写真の概観。果たして「ドキュメントとは何か」ということをあらためて捉え直して見ようとの試みです。

表現の領域が極私的レベルにまで拡げられてきた現在の状況があります。オーソドックスなドキュメントの方法を云えば、社会との関係性を、場所と時間の枠で表出した写真をいう、とレクチャーでは仮説してみました。

そうするとドキュメントから外れる写真の群がでてきます。1968年当時、プロヴォーグの作家たちが試みた写真解体のムーブメントがあり、それ以降に垣間見える写真があります。主観的直感による作品提示。たとえば森山大道という作家が発表する写真群など、等々。

2005年の現在、あらためてドキュメント写真とは、どういうことなのかを問おうとしています。というところで、この問題の立て方自体が有効なのかどうなのか、との問いがボク自身のなかにあります。ひょっとしたら、もう問題の立て方自体が、無効なのではないか、このように思うわけです。

現代写真を巡る位相は、もう別の位相から論じないといけないのではないか。
それでは、論理化する方式を無効化したときには、何をもって論理化すればよいのか?ここから導かれる解は、直感によるインパクト、なのかも知れないと思ったりします。論理化すること自体に無理がある。もう論理で割り切り、構築できる写真は、「過去」なのかも知れない。

本音、立ち止まって思案してしまうのは、こういう局面に立っている自分の言葉への不信感なのです。

写真について語るということは、実は漠然としています。写真の何について語るのか、を決めなければいけませんね。写真の技術について、とか、写真の歴史について、とか、ですね。それから、写真の勉強について、なんかもテーマになりますね。

あい写真学校と写真ワークショップ京都の写真を勉強する枠組みを作っています。前者は通信制、後者は通学制。拠点は、京都です。最近は、写真史、写真技術、写真論、そうして作品作り、学校の枠を作って、その中を埋める作業をやっているんです。どこまでやってもきりがないな~って思っています。なにかうわべだけを滑っているようで、空しいような気持ちもでてきます。そんな日々を送っています。

<再生フォトハウス京都>

フォトハウス京都を再開させて1年が経ちました。昨年の4月から、通信制の写真学校「あい写真学校」を開校し、10月からはギャラリー・DOTと共催で、「写真ワークショップ京都」を主宰しています。

思えば1984年11月に、フォトハウス京都の設立準備に入り、1985年8月に「ゾーンシステム講座」を中心に開催しました。オリジナルプリント制作の基礎講座といった内容ですが、日本で初めての本格的な公開講座でした。

2004年4月に開校した「あい写真学校」は、デジタル写真時代の新しい写真学校として、通信で学ぶカリキュラムです。そして10月に開校の「写真ワークショップ京都」は通学制。通信と通学を組み合わせて学ぶ写真学校を誕生させたわけです。

新しい写真学校は、写真表現の方法を学ぶ学校として特化させています。ともすれば商業主義に取り込まれていくアートの世界ですが、そこを一旦解体してしまう。たしかに今の時代は、商業(経済)の枠組みを離れては、全ての価値が定着しない様相を示します。つまり、アートする心、写真を撮る心、そのものが商業ベースで成立するかのような現状です。

いま、必要なことは、一旦リセットすることなのだと考えています。現状を分析・理解するためにも、価値観をリセットすることから始めなければ、新しい写真を撮る・作る価値が見出せない。アート全体が商業化されたことで成立する時代。人の生活様式が見直され、新しい人間観をつ作りだそうとの機運を捉えて、写真を一旦商業枠から外してしまう。いま新たに起こる人のあり方を、写真という側面から捉えてみようと思うのです。

新しい写真学校、あい写真学校&写真ワークショップ京都です。フォトハウス京都は、様々な状況とリンクしながら、写真の領域で立ち上げるセクションだと思います。

ぼくの写真史-12-
  2005.5.9~2005.10.21
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原点について-1->

原点についての考え。

いくつかの原点がある。自分が生まれたときを、一つの原点軸とする。自分があるきっかけで、興味を持ち、スパイラルを描きながら今もって興味がある、その原点。自分の思考の軸を構成する、原点。

ひとつ原点志向で、物事をとらえる試みをやっていこうと思う。

生まれは1946年4月、京都だ。京都のいま住んでいる場所。父の母の、つまりボクのおばあちゃんの家だ。そうして幼年、小学校へ入る直前まで、中京区壬生馬場町という大通りに面した家屋に住んでいた。

数週間前、三条商店街を、千本通りから御池までを自転車で通った。幼年期の記憶を辿りながら、現在のトポス確認、とでもいえばいいかも知れない。
1982年ごろに、カメラを持ってその界隈を取材したことがあった。原点回帰。確認を含めた写真作業だった。それから20数年を経て、今回はカメラを持たずに彼女と一緒に自転車で通過しただけだ。

昔、映画館だった角のビルが、スーパーに変わっていた。がらんとした商店街だった。土地勘はある。大宮通の角の公園お記憶。そういえば、1969年12月、東京から京都へ戻ってきた直後の数ヶ月?スーパーが開店するというので、テナントの家電量販店へアルバイトで雇われた。そんな諸々の記憶が甦ってか消えていった。

ボクの原点と思えるいくつかのポイントがあります。そのひとつに1968年というポイントがあります。

1968年は、ボクが大学へ入学した年です。結局、ボク自身は運動の中心にはならなかったのだけど、学生の手によって大学封鎖がおこなわれていた年です。3年遅れで大学生となったボクは、もう21歳だった。高校で同じ学年の友達が4回生、1年下の後輩が大学の先輩としていた。ボクが入学した学校は立命館大学二部文学部でした。自分の稼いだ金で学生生活をしなければいけないので、結果としては、学費も安く、昼間仕事をしていても通える条件です。

入学してまもなく、フランスはパリで大規模なデモがおこなわれているというニュースが、TVをにぎわしていました。フランスの革命、第五共和国になるんですね、そんなニュースでした。いや~遠い世界の出来事です。社会経験もそんなになかったし、全体状況がつかめるわけがないわけですが、雰囲気を受け留めていたと思います。日本の各地の大学が紛争状態になり、学生による封鎖が方々でおこなわれていた。

ボクはといえば、アルバイトをしていた。いまのようにフリーターなんて言葉と枠組みがない時代です。就職してるか学生か、この二者択一です。だからアルバイトというより正規社員で週48時間労働です。そうして夏休みが終わり秋になったころには、ボクはもう学校へはほとんど行かなくなっていた。ただ、文学がやりたかったから、小説を書くこと、これは意識していました。大学のサークルで機関誌を出してましたから、その編集をやったり、小説を書いたり、です。
そのうち大学が封鎖された?のだったか、全学集会なるものが開かれた。野次馬の一人として参加した、というのが本当のところです。この一連の学生ムーブメントの中で、その後に繋がるいろいろな議論に参加し、行動に併走した。

いま、1968年に創刊された「provoke」という写真同人誌をめぐって、写真領域で新たな議論が起こっています。ボクも、10月10日、これをテーマにレクチャーをします(写真表現大学の写真史講座)。ボクのなかにも、1968年問題として、今に繋げる取っ掛かりをつかみたいと思っているのです。

あの時代、なんて括る1968年からの数年間。ことが終わって静けさを取り戻したころから、ボクの中で問題意識化されてきた。その後において、自分の思想的背景を思うとき、1968年に立ち返る。そういう意味で、1968年というのは、ボクの原点のひとつだと認定するわけです。

ボクの写真現場について>

ボクが写真を撮る現場は、生活周辺、直接に生活をつくりだす現場です。ボクの行動範囲、活動範囲、生活範囲、空想・想像範囲において、カメラを向けて写真化しています。なおかつ撮った写真は、トリミングしない、加工しない、を原則としています。

居住空間は、京都と金沢です。だから、それぞれの自宅の中、つまりボクの所有する範囲で写真を撮る。だから写ってくるモノは、ボクの所有物であります。それは、生活のための道具であったり、花や草木といったものです。

外に向けた行動範囲は、ボクの生活空間の範囲に限定していく。ボクは京都の北西に居住しています。神社仏閣といえば、北野天満宮、平野神社、千本閻魔堂、釘抜き地蔵、といったところです。氏子となる祭りは<やすらい祭り>、これは玄武神社の祭事です。町並みは西陣界隈。ちょうどボクの居住地は、洛中と洛外の境界線の洛中側にあります。北に向いて右が洛中、左が洛外となります。

活動空間は、直近なら、京都農塾、写真ワークショップ京都、彩都メディア図書館&IMI、びわこほっと関連、こんなところでしょうか。それにパソコンがあります。パソコンでは、外部情報が手に入ります。様々なイメージが手に入ります。このイメージを写真化して使います。CTR画面に写しだされたイメージを撮っています。これがボクの写真撮影の現場です。

 じゃ~なぜ、この生活空間に限定しているのか、ということを述べなければいけませんね。写真が遠くのモノを近くへ移送する手段だったとしたら、ボクの写真は、近くのモノを遠くへ移送する手段ではないか。

日常の生活空間と離れた場所で写真が撮られてきたとするなら、生活空間その場で写真を撮ろうと思ってる。生活空間にあるモノをとることで、際限なき想像空間を表出できないか、との試みでもある。外在者によって記録行為がなされてきたとすれば、内在者が記録行為者であることを試みる。いま、即座に思いつく理由は、こんなところでしょうか。


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