中川繁夫写文集

カテゴリ: 写真物語

ぼくの写真史-16-
  2005.11.7~2006.3.16

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2006年です、早々に一言
あけましておめでとうございます。2006年ですね・・・ボクは1946年生まれだから、60歳になる。何かしら自分で信じられないな~という感じです。いつまでも若いままでいたいですが、身体のほうは老化しているのがわかります。でも、気持ちのほうは、ますます若くなっていくのかな、なんて思っています。

綜合文化研究所なるもの、構想からおよそ5年が経ちます。最近、その構想の細部をWEB上、そして現場を作りつつありますけれど、ちょっと自分でも混乱するくらい、多岐にわたってしまったようです。綜合文化研究の各パートを少し整理整頓しないといけないのかな~と思ったりもしています。それと個人的作品制作、今年は作家をやろう、と正月早々思った。

ボクが展開しているWEB戦略・・・多岐にわたって、迷路のごとくなってしまったHPやブログ。全体像を把握されないように迷路のようにしているところもあるんです。現代社会が迷路のようになっていて、全体像がつかめないようにです。ただ、いえることは、資本に対抗する、このことです。ひとりの人間が成し得ることなど、ちっぽけな、たかが知れたことです。WEB上で全方位から押し寄せてくる情報に対して、全方位に情報を対抗させていく。そんな無謀な試みを、けっこう面白がってやっている自分を発見します。

1月3日、綜合文化研究所を中心とした展開マトリクスを書面化してみた。学校、生産、発信、交流の四つの分野に分けてみて、それぞれが入り子状になっていて、相互関連を持っている。世の中の表と裏、ボクの表と裏、それらを全体として現代文化として捉える試みだ。グローバル化への対抗軸。心の抑圧からの開放軸。大きくはこの二つの対抗軸をもって、各パーツを動かしていく。このような基本設定が見えてきたといえる。

ここでは、この軸の具体的な展開を整理していきたいと思っている。けれども、浮気性なボクは、あっち行ったりこっち来たりで、まだまだ定まらないです。その時々の興味で、動いているんです。まあ、今年も何かとよろしくお願いします。
☆文学・小説を手がける
文学とえいば、ボクは高校2年のとき個人詩集を発行していました。「そなちね」という名前の詩集で、ガリ版刷りの詩集で、3号まで発行して終わった。俗にいう3号雑誌です。その後、1年間浪人生活をしていたころ、1967年前後には、小説家になりたいという意志をもちました。大学へ入り、文芸サークルに入部し、何点か短編を載せ、文学論を交わしていました。1970年を越えた頃、同人「反鎮魂」というグループをつくり、毎週日曜日の午後に読書会、そうして同人誌を発行していきました。ボクは、けっこう硬派な小説を書いて発表していました。

1975年か76年頃には、小説を書くということに閉塞感をいだいており、その頃から写真に熱中しだします。高校時代から大学を卒業する約10年間が、いわばボクの小説家をめざした年月でした。その後も、文章を書くということは、かなり断続的ではありましたが、写真評論を手がけたり、写真情報誌「映像情報」を発行したりしてきました。文学というには遠い感じがしていて、もう詩や小説を書くこともあるまい、と思っていました。

再び文章を書くことを手がけたのは、2001年の秋前後からです。その2年程前から、読書を始めた。手当たりしだいに興味分野の書籍を読み・・・とはいっても哲学系原書には及びませんですが・・・小説を読み直そうと思い出してきたのです。五木寛之のエッセイ、遠藤周作の小説をまあ、徹底的に読破しました。そのほかにも傾斜していった作家もありますが、現代の流行作家の小説もいくつか読みました。

2002年にそれまでの仕事をやめ、その前後に構想した綜合文化研究所の設立を着手しだしました。2004年4月にWEB上にホームページにて設立し、最初の現場は写真学校を作ることから始めて、文学校、農学校、自然学校なんてヴァーチャルですが枠組みをつくりました。評論を手がけて、猛烈な勢いで文章を書いた。難しい理論はさておいて、自分の思いを文章化していくというものです。そういうなかで、フィクションを書きたい、つまり小説形式の文章を書きたいと思うようになってきました。

現在、えろす領域をテーマにした小説を書くようになり、写真評論や社会評論とは別枠で、展開しだしているところです。本題はまた別途、書いていきます。

☆まるエコ塾
滋賀県のプロジェクトにこんなのがあって・・・と、昨年の春先に菱川さんから話を聞かせてもらって、興味をもったのが始まりで、当初10月開塾予定が12月になったものの、計画は着実に進められたと思います。菱川さんの<情報ボックス>プロジェクトのラフ案をみたとき、ボクなりに全体像が見えた感じがした。

ボクの企画プロジェクトは、綜合文化研究所を想定し、WEB上で設立させたのが2004年4月です。学校機能を軸において、生産、発信、交流の三つの領域をクロスさせていくマトリクスを描いたものです。あい写真学校と写真ワークショップ京都は、学校機能の柱です。むくむく通信社は発信機能の具体化です。

生産にこだわるボクは、京都農塾の塾生となった。そこで知り合ったのが菱川さん。ネットワークつくりに精力的にエネルギーを注いでらっしゃる人です。ボクのほうは、見る前に跳べ、だからミーティングに参加させてもらって、まあ、好きなことをぺらぺらと喋っていました。そうしてボクは、まるエコ塾長ということになり、まるエコ塾の基本ラフ設計をやりだした、というわけです。

まあ、ある種、戦略的アイデアをもって、イメージを作っていって、内容を固めていく・・・。ボク自身が批判する<ハリボテ構造>と同じような構造だと思いながら、反ハリボテ構造を作ろうとしている、と自負しておきます。

まるエコ塾は、写真塾と記者塾、つまりボクの領域と菱川さんの領域が、ひとまず開塾したというところです。ほんとうは生産する塾が優先的に立ち上がるべきだと思っています。でも、今年、プレ開塾にまで作れると思います。追ってまた企画を進めて、ここに書きつけていきたいと思います。

☆まるエコ塾 2005/2/9
まるエコ塾が始まって、6回目が昨日2/9開講しました。地域ジャーナリスト養成講座としているのですが、昨日の塾では、この地域ジャーナリストの枠つくり。一般にジャーナリストというと、事件やイベントがある地域へ赴いて、取材し、メディアを通じて公開するというプロセスです。歴代のジャーナリストから、キャパさん、サルガドさんの取材方法と作品を見ながら、では、地域ジャーナリストとは、どういうことをするの?という問いかけをしてみました。

歴代ジャーナリストは、おおむね自分の生活圏とは違った場所で、取材活動をします。通過形、滞在形と取材の形は違いますが、生活圏外で取材します。そうしてそれらの写真や記事は、メディアを通じて公開されます。ここに取材者と非取材者、撮る側と撮られる側があり、見る人は第三者という図式です。この形が一般的なジャーナリストのありかたです。

ボクの立場でいうと、1978年から取材に入った釜ヶ崎で、この形を変形させようと思った。撮る側と撮られる側、それに鑑賞する人の関係を、一体のものとする形です。でも、そのときのボクには限界がありました。そこに生活する人ではなかったわけです。

地域ジャーナリストへの試行がその当時に思考され、いま、あらためて枠組みをつくっていこうとしているわけです。被写体となってきた人が、みずから記録者になる。それも生活圏において・・・。地域ジャーナリストの枠組みは、このことを実践する人のことをさします。このように考えているところです。

☆春に想う
毎日の過ぎるのが早い。そのように思う日々です。この前、この日記をつけたのが2月10日とあります。今日は3月16日だから、一ヶ月以上も放置していたことになります。

春です、昨日、桜を撮りにいきました。平野神社です。一昨年、昨年と2年にわたって、平野神社の桜を撮りました。今年は3年目になるのだけれど、この2年は、桜花のピークを中心に撮ってきたんです。地域の文化をみつめる。地域文化研究という枠を課しているんですが、その実行ということも意識しているのです。桜にもいろいろな種がある。ソメイヨシノが意識の中心だった。桜といえば、それをさしているような感覚だったのが、最近は、そのほかの種、昨日は桃桜、-とうおう-っていうんでしょうか、春一番の桜花。

きらびやかな光景に気持ちが向いていくのは、身体が衰退していくことに原因があるのかな、と思う。昔読んだ、谷崎の細雪のなかに、広沢の池あたりで四姉妹だったかが花見をしている描写があったことを思い出す。和服と桜と京都の光景だ。ボクの最近の興味も、そこに至っているんです。

桜にまつわる記憶は、東松さんの桜取材だ。もう20年以上も前の話だけれど、東松さんの桜取材に同行して、一緒に桜を撮らせてもらった。そのとき、ボクは桜をアップで撮った。東松さんは、そんな写真は撮らない、ということを言った。その後、桜の写真集を出版されたけれど、桜花のアップ写真はない。

固守するわけではないけれど、ボクは桜花のアップ写真を撮る。キャノンのデジカメで、マクロではないレンズだから、おおむね最短で撮る。そのように最近は思っています。花そのもののディテールなのです。これはテーマ自体に由来する撮り方だと思います。東松さんは、たぶん、文化という枠組みで桜を捉えられたと思うのだけど、ボクは情の枠組みで捉えようと思っているのです。



 写真への手紙・覚書/写真物語-6- 2006.4.28 nakagawa shigeo

ぼくの写真史-14-
  2005.11.7~2006.3.16

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☆東松照明展
東松照明さんの写真展が今日から始まるというので、大阪まで見に行った。
淀屋橋にある「ギャラリー新居」。東松さんと会えるかも知れないと期待しながら行ったけれど、今回は来られないとのこと。図版を買い求め、芳名帖に名前を書いて、数枚、会場の写真を撮らせてもらった。

京都市バスで四条河原町まで行き、阪急に乗って梅田へ、地下鉄御堂筋線一駅、淀屋橋まで。ギャラリーの所在がわからず、2回、淀屋橋から新御堂まで行き来してしまった。三和銀行旧本店、瓦町という表示板。かって行き来した場所へ、久しぶりに赴いて、複雑な気持ちになった。会場には10分ほど滞在したと思う。コーヒーでも飲もうかと思いながら、やめて、そのまま京阪特急に乗り込んだ。京阪電車、これも思い出多き電車だ。淀屋橋の階段降り口で、もう30年も前だな、長女を連れて写真材料の買出しにいった。そのときの光景をふっとよみがえらせていた。

四条で降りてそのまま市バスを待ち、乗り込んだ。四条のバス停で、四方の風景を写真に撮った。家を出てから帰りつくまで、5時間の行程だった。 

☆エグザイルギャラリー
エグザイルギャラリーは、北白川にある。西澤豊さんが主宰しているギャラリーだ。今日、そこへ行ってきた。1999年オープンで、これまで5回写真展を開催したという。今日は、松井洋子さんという人の写真展。目的は、西澤豊氏に会うことだった。

もう10年以上も前のことになるという、表現大学へ西澤氏が受講しに来ていた、税理士さんだった。同じ京都に住んでいて、いわば様子伺いといった訪問だった。綺麗なギャラリー空間だった。顔を合わすなり、西澤氏も気づいてくれた。ボクが京都で、DOTと一緒に写真学校を始めたことなどを話した。共同作業ができないかなとも思ったのだったが・・・。

自転車で、出町柳から百万遍へ、そこから北白川のギャラリーを探しながら行った。そうして西澤氏と会話して、また自転車で・・・今出川通りへ出た。京大農学部前、そこでカメラを取り出して、シャッターを切った。路上を撮った。1969年春先の光景が、脳裏に甦ってきたのだった。

路上バリケードの前で、投げられた火炎瓶のガソリンが燃え盛っていた光景。機動隊が催涙ガス弾を打ち込んだ光景。昨夜のニュースで、フランスで暴動が起こっているという光景を見た。それが誘引となったのかも知れなかった。1969年春の光景が、目の前に妄想されたのだった。

平和だな、と思った。自動車が行き交い、自転車に跨った学生とすれ違った。光景は、ボクの妄想にしか過ぎないのだ、と思った。ちょっと憂鬱になった。理由はわからないが、メランコリー。晴れた日の午後の時間だった。
☆写真ワークショップ京都11/12
昨日、11月12日は、写真ワークショップ京都の11月セミナー&ゼミの日でした。4月に開校して8ヶ月、今回のWSには、新しい参加者が2名、見学されました。写真の勉強をしたいと、やる気満々の二人、男の人と女の人。毎回、参加者の顔ぶれが定まらないんですが、内容的には、まだまだ試行のところがあるので、欠席の人、なんで欠席なの、と心配になってるのも事実なんです。

技術を教え学ぶカリキュラムってのは、ある意味、楽なんです。というのも撮影や写真制作技術という、確実なものを伝えるんですから、楽なんです。
セミナー&ワークショップの枠組みは、不確定要素、つまり考え方や捉え方、そのこと自体をテーマにするわけだから、やってて不安になってくるんですね。これでいいんやろか~なんて思ってしまうわけ・・・。なるべく参加者が、自らの言葉で発言して欲しい、と思いながら、言葉が少ない・・・。

新しいお二人が、言葉を沢山紡ぎだしてくれたので、正直なところ楽でした・・・。でもしゃべれなかったメンバーの気持ちを、推測すると、これでいいのかな~?やっぱり思ってしまう・・・。

一日あけた今日です、そんなこと思ってしまって、ここに記述しておきます。
ホント、主宰者がこういうことを言ったらあかんのだけど、ね。

☆イタリア紀行
11月14日から21日まで、イタリア旅行に出かけた。JTBのパック旅行です。
ヘルシンキ経由でミラノへ到着。ベローナ、ベネチア、フィレンツェ、ナポリ、カプリ、ローマ・・・。あわただしい観光旅行だった。35年目の新婚旅行と云うのも恥ずかしい気がするけれど、同行16組中、14組が新婚旅行の若いペア、それに得体の知れない中年ペアとボクたちのペアだった。

イタリアというと、最近ではスローフードの発祥地とローマ法王庁、サン・ピエトロ寺院がある・・・程度の思いで出かけた。断片的に刷り込まれたボクの知識。旅の途中の観光ガイドで、ほんと、断片知識がそれなりのまとまりとなってきた。

ルネサンスの発祥地なのだ。レオナルド・ダビンチ、ミケランジェロ、その程度の名前なら知っている。フィレンツェ、ベネチア、ローマ、その程度の地名なら知っている。その程度なのだけど、訪れた先々で、刷り込まれた記憶が、断片として浮上してくる、経験だった。

キリスト受難のイメージが、ボクの記憶のなかにあり、それを絵画や寺院を目の前にして、ある種の感動が紡ぎだされてくるのだった。いくつかの見慣れた絵画や彫刻があった。遺跡があった。そして旅は、その記憶を甦らせてくるのだった。

写真を撮る。今回はデジカメ、バッテリー消耗の範囲で、撮る。出発前に、130~150カットが撮れる計算で、撮影旅行ではない。旅の記録程度の思いで、出かけた。訪問する各都市で、10~20コマ程度の枚数だ。寺院内部や暗い場所で、シャッターを切るとき、手振れする。まあいいや、と思いながら撮った。177コマ撮れた。整理して70コマをセレクトした。極端に手振れたコマは除いた。感動して撮影したコマがいくつかある。磔刑のキリスト、マリアに抱かれたキリスト、サンピエトロ寺院の内部・・・それらがアルバムに残る。

ぼくの写真史-13-
  2005.5.9~2005.11.12
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<デジタル写真で・・・>

デジタルカメラを手にして2年がたった。一昨年の9月にパソコンを買い、10月にキャノンのデジタルカメラを買ったんです。それからボクの写真撮りが、はじまったってわけです。9月に入って、この2年間の写真の整理に入っています。

http://www.geocities.jp/nakagawasense/info02.html
ここのページに集約して、アルバムが見れるようにしています。昨年の春から、写真評論をやりだして、HPに載せています。

あい写真学校のテキストを書くのが、目的だったわけですが、相当にスピードアップして、内容の精査なしで書き付けたって感じなので、再び、ゆっくりと精査しながら書いていこうと思っています。

IMIをやめて丸3年です。次の展開をどうしょうと思う中で、新しい写真学校を創りだす、という手段を考えた。回りまわって、「あい写真学校&写真ワークショップ京都」のフレームになったわけですが、次は中味をどう詰めていくかというところです。

ライフワークとしての 総合文化研究所 の枠組みがあります。

自分の生き方の研究!これが大きなテーマです。そっから少しずつ細部を見つめて、実践していきたいと思っています。そして今、この2年間に撮った写真をまとめる作業をしています。

<デジタルカメラを使うようになって思うこと>

その処理スピードとか、コストパフォーマンスとか、撮影領域とか、フィルムでは考えられないような事態が起こってしまいましたね。具体的に書き連ねてみます。デジカメで撮った写真データをパソコンに取り込んで、すぐさまホームページ等へアップすることが出来る。このスピード感ですね。

フィルムを使っていた体験でいうと、撮影後、現像処理をして、紙に焼き付ける。釜ヶ崎取材をやっていた1970年代の終わりごろ、約30年前の話です。処理の第一日目は、フィルム現像です。第二日目はフィルムの密着焼きです。そうしてプリントする駒を選び出す作業が第三日目あたりです。第三日目には、キャビネの大きさでプリントします。そこから数枚を本焼きするんですが、この作業って、もう撮影から第五日目あたりです。

こうして写真を作っていた頃から見れば、デジタル処理ってのは、撮影後直ぐにパソコンに取り込んで、大きく見ることができるわけです。ボクの今のテンポでいえば、撮影後データを取り込んで、翌日には駒のセレクトをします。こうしてファイルにセレクトした写真を、そのつど使っていくわけです。

コストパフォーマンスで言うと、ランニングコストがほとんどゼロに近いです。ボクの場合だと、ホームページへのアップですから、カメラとパソコン一式の初期投資だけです。フィルム使用時代、毎月十万円程度を使っていたわけですから、もうメチャ安、ローコストです。

それからプライベートな写真が、自己処理できることがあげられます。第三者をとおして処理する必要が無いデジタルですから、プライベートな写真を作ることができる。
デジタル時代になって、写真をつくる道具が、飛躍的に使いやすくなった。デジタル信号だから、フィルムのように物質感はありません。フィルムに慣れてきた人には、この点が不安な要素だと聞きますが、それは割り切りようですね。

最近の動向>

ちょっと疲れ気味だといえば、そのようにも思える最近です。なんてことない、やりすぎなんよ、何でも飛びつくから・・・でもさ、何でもやりたい気持ちもあるんだから、その気持ちに任せていけばいいんじゃないですか、ね。

写真の仕事、これを最重視していかないといけません。これが中心となる感心事の系ですから、ここから逸脱してはいけません。とはいえ、作家しようと思って、取材に入っているんだから、ね。写真ってのは、被写体が必要なんだ。
その被写体との遭遇を求めているんです。

とはいえ、そればっかりjじゃ~ないんです。実のところはね。ブログをに書く何のために書くのか。生徒を呼ぶためだ。写真学校の生徒募集が最優先の気持ち!だから、この最優先から逸脱していくから、疲れるんかも知れないね。

小説も書いてる。これが中心になってるかな~!小説、書いても、金にならない、欲求満たすだけだから・・・そんなこんなで、過去とはおさらば、こんどこそ!

ぼくの写真史-12-
  2005.5.9~2005.10.21
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原点について-1->

原点についての考え。

いくつかの原点がある。自分が生まれたときを、一つの原点軸とする。自分があるきっかけで、興味を持ち、スパイラルを描きながら今もって興味がある、その原点。自分の思考の軸を構成する、原点。

ひとつ原点志向で、物事をとらえる試みをやっていこうと思う。

生まれは1946年4月、京都だ。京都のいま住んでいる場所。父の母の、つまりボクのおばあちゃんの家だ。そうして幼年、小学校へ入る直前まで、中京区壬生馬場町という大通りに面した家屋に住んでいた。

数週間前、三条商店街を、千本通りから御池までを自転車で通った。幼年期の記憶を辿りながら、現在のトポス確認、とでもいえばいいかも知れない。
1982年ごろに、カメラを持ってその界隈を取材したことがあった。原点回帰。確認を含めた写真作業だった。それから20数年を経て、今回はカメラを持たずに彼女と一緒に自転車で通過しただけだ。

昔、映画館だった角のビルが、スーパーに変わっていた。がらんとした商店街だった。土地勘はある。大宮通の角の公園お記憶。そういえば、1969年12月、東京から京都へ戻ってきた直後の数ヶ月?スーパーが開店するというので、テナントの家電量販店へアルバイトで雇われた。そんな諸々の記憶が甦ってか消えていった。

ボクの原点と思えるいくつかのポイントがあります。そのひとつに1968年というポイントがあります。

1968年は、ボクが大学へ入学した年です。結局、ボク自身は運動の中心にはならなかったのだけど、学生の手によって大学封鎖がおこなわれていた年です。3年遅れで大学生となったボクは、もう21歳だった。高校で同じ学年の友達が4回生、1年下の後輩が大学の先輩としていた。ボクが入学した学校は立命館大学二部文学部でした。自分の稼いだ金で学生生活をしなければいけないので、結果としては、学費も安く、昼間仕事をしていても通える条件です。

入学してまもなく、フランスはパリで大規模なデモがおこなわれているというニュースが、TVをにぎわしていました。フランスの革命、第五共和国になるんですね、そんなニュースでした。いや~遠い世界の出来事です。社会経験もそんなになかったし、全体状況がつかめるわけがないわけですが、雰囲気を受け留めていたと思います。日本の各地の大学が紛争状態になり、学生による封鎖が方々でおこなわれていた。

ボクはといえば、アルバイトをしていた。いまのようにフリーターなんて言葉と枠組みがない時代です。就職してるか学生か、この二者択一です。だからアルバイトというより正規社員で週48時間労働です。そうして夏休みが終わり秋になったころには、ボクはもう学校へはほとんど行かなくなっていた。ただ、文学がやりたかったから、小説を書くこと、これは意識していました。大学のサークルで機関誌を出してましたから、その編集をやったり、小説を書いたり、です。
そのうち大学が封鎖された?のだったか、全学集会なるものが開かれた。野次馬の一人として参加した、というのが本当のところです。この一連の学生ムーブメントの中で、その後に繋がるいろいろな議論に参加し、行動に併走した。

いま、1968年に創刊された「provoke」という写真同人誌をめぐって、写真領域で新たな議論が起こっています。ボクも、10月10日、これをテーマにレクチャーをします(写真表現大学の写真史講座)。ボクのなかにも、1968年問題として、今に繋げる取っ掛かりをつかみたいと思っているのです。

あの時代、なんて括る1968年からの数年間。ことが終わって静けさを取り戻したころから、ボクの中で問題意識化されてきた。その後において、自分の思想的背景を思うとき、1968年に立ち返る。そういう意味で、1968年というのは、ボクの原点のひとつだと認定するわけです。

ボクの写真現場について>

ボクが写真を撮る現場は、生活周辺、直接に生活をつくりだす現場です。ボクの行動範囲、活動範囲、生活範囲、空想・想像範囲において、カメラを向けて写真化しています。なおかつ撮った写真は、トリミングしない、加工しない、を原則としています。

居住空間は、京都と金沢です。だから、それぞれの自宅の中、つまりボクの所有する範囲で写真を撮る。だから写ってくるモノは、ボクの所有物であります。それは、生活のための道具であったり、花や草木といったものです。

外に向けた行動範囲は、ボクの生活空間の範囲に限定していく。ボクは京都の北西に居住しています。神社仏閣といえば、北野天満宮、平野神社、千本閻魔堂、釘抜き地蔵、といったところです。氏子となる祭りは<やすらい祭り>、これは玄武神社の祭事です。町並みは西陣界隈。ちょうどボクの居住地は、洛中と洛外の境界線の洛中側にあります。北に向いて右が洛中、左が洛外となります。

活動空間は、直近なら、京都農塾、写真ワークショップ京都、彩都メディア図書館&IMI、びわこほっと関連、こんなところでしょうか。それにパソコンがあります。パソコンでは、外部情報が手に入ります。様々なイメージが手に入ります。このイメージを写真化して使います。CTR画面に写しだされたイメージを撮っています。これがボクの写真撮影の現場です。

 じゃ~なぜ、この生活空間に限定しているのか、ということを述べなければいけませんね。写真が遠くのモノを近くへ移送する手段だったとしたら、ボクの写真は、近くのモノを遠くへ移送する手段ではないか。

日常の生活空間と離れた場所で写真が撮られてきたとするなら、生活空間その場で写真を撮ろうと思ってる。生活空間にあるモノをとることで、際限なき想像空間を表出できないか、との試みでもある。外在者によって記録行為がなされてきたとすれば、内在者が記録行為者であることを試みる。いま、即座に思いつく理由は、こんなところでしょうか。


ぼくの写真史-11-
  2005.5.9~2005.10.21
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「写真の現在展’84」という合同写真展が、1984年3月26日から3月31日まで、大阪府立現代美術センターにて開催された。関西に在住の若手写真家49人の合同展でした。いまボクの手元に、その展覧会のカタログがあります。展覧会の連絡先は、スタジオ・シーン。スタジオ・シーンは、季刊写真誌「オンザシーン」を発行していた。当時の、関西におけるインディペンデント系写真家のグループでした。

この1984年3月というのが、ボクにとってのターニングポイントだったとの認識があります。映像情報誌の発展的廃刊と、フォトハウス京都の設立呼びかけを行う年でした。ボクは、この写真展「写真の現在展’84」に、釜ヶ崎の写真を出展しました。キャビネ版で270枚を割り付けられた壁面に張り巡らすという展示方法をとりました。この展示方法は、1979年8月に釜ヶ崎三角公園で、夏祭りの参加展示で、青空写真展を開催した形式を、そのまま美術館の壁面に再現しようとしたものでした。

ボクは、この写真展参加をもって、作家活動を休止しようと決意していました。そうしてこの展覧会の最終日、つまり1984年3月31日をもって、写真作家活動の一切を休止しました。 

今日、この写真展に展示した写真を、デジタルカメラにて複写しました。撮影現場は、1979年8月13日から15日だったかと思いますが、それから26年が過ぎ去った今日です。写真発表から21年余りが過ぎ去った今日です。

昨年、釜ヶ崎ドキュメントの一部を、HPに掲載しました。また今年になって、無名碑の一部を掲載しました。今日、複写した写真もHPに掲載しようと思っています。取材から25年前後の歳月が過ぎ去って、ボクのなかでは、ようやく過去の記録になりつつあります。

写真の現在を考えるなかで、経過する時間というもの、残された画像と自分を、再検証する材料として、あるように思います。というように、作家の態度のなかには、撮られた時間と、経過した時間、そうしてあらためて発表される。このようなサイクルのなかで、作家は存在する。写真を巡るドキュメントという問題の状況です。

 この6月から7月にかけて、写真史のレクチャーを2講担当しました。「ドキュメント写真」という切り口で、1回目は、アメリカを中心とした世界のドキュメント写真の概観。2回目は、日本の1950年代以降のドキュメント写真の概観。果たして「ドキュメントとは何か」ということをあらためて捉え直して見ようとの試みです。

表現の領域が極私的レベルにまで拡げられてきた現在の状況があります。オーソドックスなドキュメントの方法を云えば、社会との関係性を、場所と時間の枠で表出した写真をいう、とレクチャーでは仮説してみました。

そうするとドキュメントから外れる写真の群がでてきます。1968年当時、プロヴォーグの作家たちが試みた写真解体のムーブメントがあり、それ以降に垣間見える写真があります。主観的直感による作品提示。たとえば森山大道という作家が発表する写真群など、等々。

2005年の現在、あらためてドキュメント写真とは、どういうことなのかを問おうとしています。というところで、この問題の立て方自体が有効なのかどうなのか、との問いがボク自身のなかにあります。ひょっとしたら、もう問題の立て方自体が、無効なのではないか、このように思うわけです。

現代写真を巡る位相は、もう別の位相から論じないといけないのではないか。
それでは、論理化する方式を無効化したときには、何をもって論理化すればよいのか?ここから導かれる解は、直感によるインパクト、なのかも知れないと思ったりします。論理化すること自体に無理がある。もう論理で割り切り、構築できる写真は、「過去」なのかも知れない。

本音、立ち止まって思案してしまうのは、こういう局面に立っている自分の言葉への不信感なのです。

写真について語るということは、実は漠然としています。写真の何について語るのか、を決めなければいけませんね。写真の技術について、とか、写真の歴史について、とか、ですね。それから、写真の勉強について、なんかもテーマになりますね。

あい写真学校と写真ワークショップ京都の写真を勉強する枠組みを作っています。前者は通信制、後者は通学制。拠点は、京都です。最近は、写真史、写真技術、写真論、そうして作品作り、学校の枠を作って、その中を埋める作業をやっているんです。どこまでやってもきりがないな~って思っています。なにかうわべだけを滑っているようで、空しいような気持ちもでてきます。そんな日々を送っています。

<再生フォトハウス京都>

フォトハウス京都を再開させて1年が経ちました。昨年の4月から、通信制の写真学校「あい写真学校」を開校し、10月からはギャラリー・DOTと共催で、「写真ワークショップ京都」を主宰しています。

思えば1984年11月に、フォトハウス京都の設立準備に入り、1985年8月に「ゾーンシステム講座」を中心に開催しました。オリジナルプリント制作の基礎講座といった内容ですが、日本で初めての本格的な公開講座でした。

2004年4月に開校した「あい写真学校」は、デジタル写真時代の新しい写真学校として、通信で学ぶカリキュラムです。そして10月に開校の「写真ワークショップ京都」は通学制。通信と通学を組み合わせて学ぶ写真学校を誕生させたわけです。

新しい写真学校は、写真表現の方法を学ぶ学校として特化させています。ともすれば商業主義に取り込まれていくアートの世界ですが、そこを一旦解体してしまう。たしかに今の時代は、商業(経済)の枠組みを離れては、全ての価値が定着しない様相を示します。つまり、アートする心、写真を撮る心、そのものが商業ベースで成立するかのような現状です。

いま、必要なことは、一旦リセットすることなのだと考えています。現状を分析・理解するためにも、価値観をリセットすることから始めなければ、新しい写真を撮る・作る価値が見出せない。アート全体が商業化されたことで成立する時代。人の生活様式が見直され、新しい人間観をつ作りだそうとの機運を捉えて、写真を一旦商業枠から外してしまう。いま新たに起こる人のあり方を、写真という側面から捉えてみようと思うのです。

新しい写真学校、あい写真学校&写真ワークショップ京都です。フォトハウス京都は、様々な状況とリンクしながら、写真の領域で立ち上げるセクションだと思います。

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