中川シゲオ写文集

中川シゲオの写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

カテゴリ: 気儘に書きます

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<はな>と<小説>のホームページ
先日、衣笠山へ登ろうとして堂本印象美術館の横から侵入してみました。
立命館の駐車場と幼稚園との間の道から、侵入することができました。
頂上の方へは行かずに水平に北の方へと歩みましたが途中で道がありません。
一人で歩いているので帰り道に迷わないようにと思いながら、迷ってしまいました。
衣笠山は思い出として、懐かしい山です。
中学がこの山の裾にあって、学校の裏から、直接、この山へ一直線で登ったのです。
そんな思い出がある衣笠山で、60年ぶりにのぼってみようと思ったわけです。

いまある「きぬかけの道」観光道路を造る工事をしている真っ最中のころでした。
堂本印象さんの自宅アトリエがありましたけど、堂本印象さんのことは知りませんでした。
山裾の中学校で、吹奏楽部の演奏に魅せられ、入部して、そこからが青春時代です。
この歳になってきて、毎年のように同窓会があって、旧知の友と顔をあわせます。
この前には小学校の同窓会で、会長のKIKUTSNIさんとは、吹奏楽部で一緒でした。
そう思い起こせば中学の三年間は吹奏楽部が中心にあったように思えます。
女子を意識しだす年頃でもあったから、ほのぼの、思い出すと、ほのぼの、ですね。

その衣笠山の界隈、今は立命館大学の正門があり、堂本印象美術館があります。
その頃には立命館はまだ衣笠に移転していなくて、野球場と理工学部がありました。
小松原があり、等持院があり、友達もそこらへんにいて、立派な家に住んでいた。
そんな友達の家へ、遊びに行って、部屋に通してもらって、感心したことばかりです。
恋した話は、しない方が良いかと思っていて、ここには書きませんけど、淡い恋したよ。
まあ、同窓会で恋した女子に会っても、恋してたとは言いませんけど、面はゆいですね。
そうなんだ、十代の前半になるんですね、その頃の思い出というのは、今や遠いですね。
中川繁夫のホームページ

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現代表現研究所のHP​
太秦に通称蚕ノ社と言っている神社があります。
木嶋神社とも言っているようですが、ぼくは蚕ノ社と言っています。
正式には、もっと長い名前で、どうも覚えられなくて、言えないんですね。
古い神社、四世紀のころには存在していたようです。
この蚕ノ社に三本柱の鳥居があるのです。
三柱鳥居と書いてあって、日本ではここだけにある、そうです。
柱に囲まれた空間が神聖な処、ご神体なんかな、よくわからないけど。
ぼくは結構アバウトな人で、詳細分からないまま、確認もせず、書いています。
今更、詳しく、学術的に、学ぶ、というには遅すぎる年齢です。
いや、もう、覚えられない、記憶力がなくなっていて、それでアバウトなんです。
<はな>と<小説>のホームページ

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現代表現研究所のHP​
まだ案ですが、お知らせが来ました。
写真芸術学会(?)の第6回研究会は2019年9月7日(土)午後5時~
於 ビジュアルアーツ専門学校VD1校舎7B教室
「1970年代以降の関西における写真動向を検証する
 ;京都を中心とした写真活動について」
ゲスト 写真編集家 中川繁夫氏

どんな話を展開すればいいのか、頭の中で構想を練っているところです。
1970年代以降の関西における写真動向を検証する、というのがシリーズのようです。
そのなかの京都の活動について話をしてほしいという要請だと思います。
ここでも、メモをつける意味合いで、話題を出していきたいとおもうところです。


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現代表現研究所のHP​
音楽家の文字さんと松尾大社へ行きました。
ご神体が大きな岩だというのでそれを見るためです。
神社のご神体が岩であるという神社が多いそうで松尾大社はそれです。
山の上の岩に神さまが降りてこられるというイメージがあるんですね。
ご神体の山が台風被害で登れないというので、残念ながらあきらめました。
松尾大社に隣接するようにして月読神社があって、そこを訪問しました。

目的は何かというと、平安時代よりも前から秦氏一族がこのあたりに住んでいた。
この秦氏一族がいたという地域を、古代をイメージしながら、歩くことでした。
北は嵯峨から東は北野白梅町にあった北野廃寺まで、そうして南は向日市。
京都では、この一帯が平安京以前に、渡来人系の秦氏一族が住んでいたようです。
ぼくは、古希を迎えたあたりから、これらの地域の古墳を訪ねたりしています。
誰の為でもない、自分の知識を増やして、見てみてイメージしているところです。

もちろん写真を撮って、それにともなってこのような文章を書いています。
写真を撮るカメラは、スマホとコンパクトデジカメの二刀流です。
文章は昨年「峨野慕情」「京都北物語」のタイトルで短文を書き出したところです。
紙の媒体での出版は、費用がかかるのと手間がかかるので、できそうもありません。
ネットでホームページやブログで、写真と文章を載せているところです。
こういう作家活動と並行して場つくりをもしていかないと、と思っているところです。
<はな>と<小説>のホームページ

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京都写真学校開校中の記録写真
2004年10月から2015年3月まで、京都写真学校が開校しておりました。
受講者減少などがあって十期をもって休校としました。
それから約4年が経過し、新たな枠組みで学校機能がオープンしています。
現在は「フォトハウス表現塾」の名称で、塾生を募集しているところです。
カリキュラムは京都写真学校のものを若干手直をして現在化しています。
十年といえば社会インフラが変わり、ネット社会が進化し、スマホが全盛です。
ツールを使った表現の方法も、それに伴いテーマとなる内容も変わります。
内容については、現在のツールに合った撮影と、アートの潮流に乗せます。

現代表現研究所を母体として、フォトハウス表現塾を運営していきます。
それと同時に、ワークショップを開催していきます。
2019年4月現在は写真ワークショップですが、文学系ワークショップも企画中です。
絵画、写真、映像、音楽、文学、と五つのジャンルのワークショップを開催したい。
それぞれのジャンルが融合して、総合的な知識とテクノを駆使できるメンバー養成です。
新しい時代だから、新しい方法で創造していくべく、興味ある人を集めています。
これまでの価値観にとらわれない、新しい制作物を産み出してメンバー創出です。
フォトハウス35年の経験と京都写真学校10年の経験から、新しい時代を築きましょう。
現代表現研究所のHP​


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中川繁夫のHP
昨日今日と二日間、町内の地蔵盆行事が行われて、先ほど終了しました。
生まれ育った地区で、今もって住んでいるという、純粋なる京都人です。
1980年代以降、自分の風土を捉えるところから、内省し、京都を外在化させる。
この地域、大正四年の幕に、愛宕郡という書かれていて、京都市ではなかった。
この地域の地蔵盆は、盂蘭盆会の時、8月13日から15日に行われています。
京都の他の地域では地蔵盆の8月24日に行われています。

聞くところによると、織屋の盆休みは13日~15日、これにあわせて地蔵盆を行う。
同じ京都市内といっても、微妙に差異があります。
この差異は、その地区の仕事に密着しているように思えます。
この地域は、西陣の織屋が集まるところで、生産地で、盆正月しか休まない。
西陣の産業構造のなかで、収奪される側の人々が住まっていた場所です。
きらびやかな飾りの祭壇は、生産者の誇り、そのものが具現化しているのです。
女が労働力として働いていた地域である西陣の端っこです。

釜ヶ崎に関わっていたとき、どうして京都の人が釜ヶ崎なの、と訊ねられたものだった。
たぶん、人の意識を構成する底流が、共通しているのではないか、と思ったものです。
虐げられる側にいる人々、その群れのひとりに自分がいる、そのような感覚でした。
これらの感覚は、微妙な差異だから、たぶんかなり自己省察しないと、分からない。
この自己省察からくるテーマ設定と、出来上がる作品が、いま求められていると思う。
外面から内面へ、省察の底流がひろがり、深まり、それがテーマの進化というものだ。
最新のテーマは、自分の考察、自分分析、そういうところに置かれるのではないか、と思う。

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