中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

カテゴリ: 気儘日記

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気儘日記と名付けているから気儘でいいのだけれど、このまえに書いてから十日も過ぎてしまって、これじゃ日記じゃなくて、なんてゆうんだろ、言い方がわからないから、今日も気儘日記のタイトルです。梅雨ですよね、うっとおしくて、蒸し暑くて、サッカーにはあまり興味がないので、触れませんが、世の中、とくにマスメディアが騒ぎすぎで、ぼくが重要だとおもう領域にはあまり触れていかないから、ぼくはぼくなりにやんわりとしか触れていきません。そう、政治批判とか、体制批判とか、それはしません。といって融合するつもりはないけれど、結局、融合している実態が、見て取れて、でも、それを批判しても、結局、そのメディアを使っているのだから、意味をなさないわけです。すっかり、体制融合派、体制容認派、年金生活者の表面です。

なんだったか、ロシア文学者、ドストエフスキーとかいうおじさんがいたじゃないですか。小説家ですね、罪と罰とか悪霊とか、遠い昔に読んだ記憶があるけれど、ぼくはドストエフスキーの研究者じゃないから、それだけのことです。暗い小説のように思えているのは、その当時のぼくが暗く考えていたからかも知れません。外国文学は、それほど読んでいません。深読みしていません。日本文学だって、深読みしていないから、批評はできない。まあ、感想文くらいなら、書けるかも知れないけれど、それもたぶん無理。いま、それほど持ち時間がない。からだが枯れてきているのがわかる。瑞々しい豊かさが湧き出てこない。古希を過ぎると、こうもからだが枯れてくるのかと、思うところです。

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現代表現研究所&フォトハウス表現塾の主催
<カフェ&プレス>
毎月第三土曜日に開塾しています。
時間は、午後2時~午後5時
開塾場所は、アマノコーヒーロースターズ
参加費500円(コーヒー代+) 
7月は21日の土曜日です。
ぜひ、来てくださいね、お待ちしています。

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沙羅双樹の花が咲いては落ち、咲いては落ち、朝咲いた花が午後には落下します。
狭い庭にこの沙羅の木を植えたのが昭和の終わりごろだったからもう30数年です。
一階のダイニングからは幹しか見えなくて、二階のベランダ正面から写真のこれです。
釈迦が入滅のとき涅槃というのだけれど、その四隅に沙羅の木があって枯れた。
でも釈迦入滅のときの沙羅の木は、この木ではなかったともどこかに書いてあった。
そのように記憶してるけど、沙羅双樹にまつわる話は、これでいいのだろうか。
平家物語の冒頭、沙羅双樹の花、諸行無常の象徴みたいに描かれる花、ですかね。
なにかしら文学青年だったころから、沙羅双樹の木には、思い入れがある感じ。

妙心寺の何処だったか、塔頭の庭に樹齢何百年かの沙羅双樹があって、見ました。
この沙羅双樹、夏椿ともいわれていて、たしかにこの時期、ポトンと花ごと落ちます。
花の色は白、白しかないのか、赤とか、桃とか、見たことない。
見たことないといっても、見たのは妙心寺の庭にある沙羅双樹だけですが。
ポスターに使ってあったけど、苔の庭に白い花が、疎らに落ちている光景でした。
そういえば椿の花、藪椿かと思うけど、赤い花がいっぱい落ちた図ですね。
沙羅双樹、意味がいっぱいある背景の花で、歴史を感じたり、悲哀を感じたりです。

平家物語については、冒頭しか読んでないけど、栄華盛衰って平家のことですかね。
六波羅蜜寺へ行くと、平清盛の墓があったかな、政権の場所を、此処にするんですね。
ええ、六道の道、西福寺の南にあるお寺で、ここへはお盆に、何度も訪れています。
なにか空しい気持ちばかりで、いけませんね、孤立無援、ラジオを聴きながら、です。
過去の栄光の思い出、なんて話題にしているけど、新しいこと始めるには、これ要らない。
そういうことをこの女子アナは言っているようです、栄華盛衰、人生とはそうみたい。
日曜日の朝、ついつい、こんな話をしてしまって、ここに残しておきます。

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 雨が降る予報だったのが、今の時間、11時11分ですが、降ってきています。こういうときは、外出するのも億劫になるので、自室にこもることになってしまいます。でも、体調管理には、適度な運動とストレス解消をしないと、身体が壊れてしまうと思っているところです。先月から、コナミトレーニングジムへ、週に1回~2回、通っています。平日昼間の時間ですが、二時間程トレーニングに励んでいます。励んでいるというより、アバウト、テキトウ、ですが、筋肉つけと、プールで50メートル泳いで、歩いて、サウナに入って、というコース。一回千円程で利用しています。かなり、危険リスクが回避できるのではないかと、内心、思っているところだけれど、体重が減らないですね。

 そういうことで変化といえば、自動車運転を、この秋で終えようと考えています。本気で、やめようと思って、もう少しで決断してしまう、という流れです。生活の形が変わっていくと思うんだけど、年寄りじみたくはないなぁ、と思っています。でも、外見、鏡で見るけど、それなりに年相応に年寄りだと自覚するしかない。講座をやろうとしても、客演ではなくて自演だから、無理なんだろうな、相手が、のれないんだろうな、と思っています。寂しいけれど、自作自演というのは、そういうところに落ち着くんでしょうね。

 seesaaブログで、文章をいっぱい書いているけれど、ブログの様式が変わったみたいで、ちょうどよかった、引き際だな、と思ったのが今朝です。整理する方向で、写真を主に掲載することにして、ここ、ライブドアのブログを活用しようと考えています。このライブドアのブログは、他と比べてアクセスが極端に少ないのが難点だと思っています。アダルトサイトが主なブログなのか、そちらの方はアクセス、それなりにあるのに、ノーマルは、少ない、ほぼゼロです。といいながら、ここで、こんなこと、言っていることが、ひんしゅくものですかね。

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サービス満点、ぜひ、来てくださいね。

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 今日は、大田神社へ行ってみようと思って、午後一番、市バスに乗って上賀茂神社終点まで行って、そこから歩いて10分ほど。年に一回ぐらいか、訪れている処で、カキツバタの花が有名な場所。もう終っているだろうなと思って行ったら、案の定、花の季節は終わっていました。本殿も修理しているようで、幕がかけられていました。写真は、スマホで撮るだけです。そういえば、スマホで撮るために、あちこちと巡っているんです。作風が変わっているでしょ。ひところの画風から、一変してると思うんですが、なるべく引いて撮っている感じです。

 ここに載せたのは、上賀茂神社の遠景といえばよろしいか。向こうに見える鳥居の向こうが社殿というパースペクティブです。風景について、ちと思うこともあり、文章にしていかないといけないのかな、と思いながら気分的には、あほらしくなっていて、ぐだぐだ、こんなわけのわからない文体で、文章を作っているというのが、嫌になっているんです。でも、どうしようもない、あれこれ思っても、いまさらどうしようもなく、読者なんてどうせいないんだから、とか思いながらも、読者を想定しているんです。

 京都ということにこだわっていて、それも市内の北部をターゲットにして、作品にならないかと模索しているところです。そういう事でいえば、上賀茂神社は神さまがいらっしゃる処で、葵祭の行き先になる処で、歴史あり、由緒あり、意味をいっぱい持っている場所です。でも、それを無視するわけでは全くないけれど、その意味の今様のありかたを、再度捉えなおしてみたいと思っているのです。といいながら、元からその意味を自分の中に持っていないことに気づいて、あたふたしているところです。意味の再構築以前の、最初の意味をどう掴むのか、が問題なのです。神話といい、神の存在といい、意識化しだしたのは、告白しますと、最近の事なのですから。



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別のブログで<京都慕情>ってタイトルの文章を連載しはじめたところで、北野天満宮の「ずいき祭」を話題として出したところです。ここの別ブログで<京都写真帳1980>を連載していて、そのつなぎの写真に、この写真がありました。何してるところかというと、ずいき御輿が、上七軒をあがってきて、北野天満宮の東門の前までやってきて、そこで神主さんが禊して、御輿はここから御前通りを下っていく、という光景になる、その禊している光景がこれ。撮影は1981年か1982年あたり、10月4日夕方の光景です。説明的になるけれど、ずいき御輿は野菜で作られた御輿です。いまは一つだけですが、何時の頃からかの昔は、いくつもあった、氏子の町内が採れたて野菜を御輿に仕立てて、奉納したのだといいます。

京都に生まれ育って、たまたま京都を記録している自分ですが、写真にしても、映像にしても、文章にしても、そのテーマとなるのは、日本という国の歴史に根ざした光景ではないかと、思うところです。もちろん、これは、ドキュメント、あるいはノンフィクション、ということになろうかと思うのですが、そうではなくて、フィクション、虚構、作り物イメージで、作ってもいいです。映画やテレビドラマは、創作で、フィクションで、あたかも事実のように扱うことで、リアリティを獲得するのかとも思えます。これは制作論、創作論、そういうレベルで会話したい内容ですが、ぼくは、これからいっそう顕著になっていく流れが、日本の歴史に根ざした光景、それと個人の内面との関係、その交差点が、作品になると思っている最近です。

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昨年から、フォトハウス表現塾を主催していて、学びの枠組みを創っていて、世の中に提供しているところです。現代表現研究所という枠組みを作っていて、これは<現代>という問題を<表現>することを研究する場です。無意識に、自明の理として、なにげなく過ごしている事象に、あらためてスポットを当て、検証していく必要を感じているところです。問題にならないと思っていることを、問題にすることで、新たな認識が生まれてくるのではないかと思うわけです。そういう場を、京都に作りたくって、もぞもぞと動いているところです。日本の文化を、捉えなおしていく作業です。だれか、いないかなぁ、これまでの経験から、ここに提案している枠組みは、これからの潮流になっていくと思うんだけど、なぁ。
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まだ幼かったころ、この道、千本鞍馬口から北大路にいく道ですが、きつい坂道に見えた。
幼児で背の高さが60㎝か70㎝くらいなので、すごい坂道に見えていたんだと思えます。
坂道だといいっても、祖母にはそのことが分からなかったようでした。
大人になって、そのことを思い出すたびに、ぼくの目線は幼児のままなので坂道とわかる。
実は、この道は、千本通りで、蓮台野に成っていく坂道なのです。
野辺に死者を送る葬列が、この道を昇って行ったのではないかと、空想します。
京都の地場の記憶を辿りながら、文章を書くと、どうして、暗い場面ばかり思い起こすのか。
祭の光景といっても、明るいはずなのに、暗いイメージで色彩されてしまいます。
その当時を記録した写真の、モノクロやカラーの色彩が、そのイメージにあるのかも。

蓮台野、蓮の台といえば仏像がのっている蓮の形をしてる台座です。
その台座のように見えたから、このあたり一帯を蓮台野と呼ぶようになったのでしょう。
鞍馬口の手前にはえんま堂があり、鞍馬口を越えると上品蓮台寺があり、千本北大路。
そのあたりから、北にひろがる一帯が、死者を野晒しにして風化させる地だった。
いつごろからか、平安京の時代には、そのような風習だったのかも、知れません。
なにかしら、坂口安吾じゃないけれど、桜の樹の下は血なまぐさい、そんなイメージです。
最近、そういう死者を葬った場所のイメージを追いかけている感じがしています。
死んだ人の想い出ばかりがよみがえってくることが、朝、目ざめのときに、あります。
身内というより、知人、先輩、といった関係の人々のことです。

こちらも、もういい年だから、世間では、もう隠遁生活者の部類です。
診療所へ行ってきたけれど、高齢者扱いです。
バスに乗ると、若い女の子が席を譲ってくれます。
もう外面は、老人なんだな、と自覚するようにしています。
ここまで、生きてきたことに感謝して、水に流そう、利害のことは。
淡々と生きていくことが望ましい、というところでしょうね。
では、そういうことで、今日は終わります。


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カメラはスマホ、アンドロイド、ソニーのエクスペリアです。
レンズを、北に向けたり南に向けたり、からだごと撮る方向にもっていきます。
これは船岡山の頂上から南に向けて、京都の市中を撮った写真です。
平安京の造営に当たって、この丘陵地が北の基準になったというのが定説です。
奈良の藤原宮でしかね、飛鳥の都、そこでは北に耳成山を置いているじゃないですか。
その耳成山に船岡山が符合するのでしょうね、風水占いの何か、ぼくにはわからんですが。
大極殿は、現在の千本丸太町、一条通りは千本中立売より北の通りです。
市中の大極殿よりも南については、いまのところ論外です。

というのも「京都北物語」と括ってしまって、その範囲を想定しているところです。
東西に一線を引くとしたら、一条通りよりも北、ということにしようと思います。
一条通りより北、北山の麓までが、その文化圏に入ろうかと思います。
では南北の区切りではどうなのか、東の南北は加茂川を軸に、加茂神社を含む。
西の南北は、山の縁に添って、竜安寺や仁和寺あたりまで拡げるのがいいのかどうか。
等持院は当然含めることとしますが、西方面、嵯峨野との区切りもあるから、微妙です。
嵯峨野慕情(未完)では、鳴滝、双ヶ岡、太秦あたりまで含もうと思っているところです。

この連休には、京都北物語について、四本の線を描いてみたところです。
あらためて整理すると、
①上賀茂神社から南下して今宮神社②船岡山から北上して今宮神社
③船岡山から東にとって本法寺④千本上立売から北上して蓮台野、鷹ヶ峯まで
実際には、もう少し曲折するけれど、大体の物語の系、大筋ができたように思います。
あとは、そのポイント、点と線のなかで時間軸は1200年、人の心をどう解析するか。
フィクションとして、物語として、成熟させていきたいけれど、というところです。
ちょっと、整理できたかな、こういうメモは、整理するためのもので、公開しています。
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京都北物語というタイトルを使いだしたところですが、それのための取材を始めたんです。
4月30日のことでしたが、上賀茂神社へ行ってみようと思い立って、市バス46系統終点。
行きなれた場所で、ことあるごとに、何度もここへ赴き、写真を撮っています。
久々に写真を撮ろうと思うときの最初のポイントがこの地点になるんです。
ぼくには信仰心がないから、こういうとき拝むということをしなくて写真に撮る。
むこうのうすけた山が、神山といって、由緒ある加茂神社のご神体だというのです。

3月から嵯峨野をめぐってきたところですが、次には京都の北部を被写体に選びました。
カメラは、スマートフォン、エクスペリアで、キャノンのデジカメでは撮っていません。
撮った写真は、その場で処理してインスタグラムにあげていきます。
でも、横長で撮っているのは、ブログに使おうと思って、パソコンに取り込みます。
文章と写真をつないで、作品に昇華していかないか、と思うところです。
文章をトレーニングしないといけません、テーマを絞らないといけません。

カフェ&プレスという名称を使って、月一回の例会を開催していこうと思っています。
天野さんの場所を使ってもいいとおっしゃるので、ここからプレス、発信しようと思う。
かってあった平安京時代、室町時代、京都の北山文化が花咲いてきたところです。
そういう素地がある地域で、いまの時代に、新しい文化が発信できないか。
まだ構想段階で、イメージを醸成させているところで、京都北物語、です。
上賀茂神社、櫟谷七野神社、雲林院、紫式部、この痕跡をスマホで巡ってみたところです。
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いつだったか、2018年4月18日、
掲載写真はその日の夕方、梅田の地下街、英国屋の珈琲カップを前にして撮った。
そういえばこの日は、朝から、釜ヶ崎へ赴き、午後から平野町の10Wギャラリーを訪問した。
夜にレンタイフェスタの最終打ち合わせがあるというので、ここで時間待ちしていた。
どうしたわけか、とっても鬱な感覚ですね。
自覚すればするほど、滑稽な行為をしている自分認識。
意識ある老人徘徊、と自分では言っていて、カメラを持って、目の前の光景を止める。
この春からは、スマートフォンで撮ることが多くて、従前のデジカメて撮らない。
けっこう地に足がつかない感覚で、ふわふわの状態で、彷徨、徘徊、って感じだ。
日常生活そのものが、そういう感覚の中にいて、今だって、なにしてるのか、と。

ここ、ライブドアのブログが、これふくめ五つあります。
いづれも区分していて、じぶん発信の場としているところです。
あたかもじぶんをCTスキャンする感じで、
1、1980年ごろのフィルム時代の作品、
2、デジカメ使いだしたころ2005年ころからの写真、
3、2015年秋からスマートフォンを使いだして撮った写真、
4、最新撮影の写真、
5、手書きだった評論文を転載したこの文集ブログです。
この文集ブログでは、いまこうして書いている「気儘日記」を連載しています。

ライブドアブログは、自分をアーカイブするのに、枠を決めて、使っているところです。
ほかにはシーサーブログに五つ、これは文章が多いブログ群です。
あとフォトハウス表現塾の広報に使っているブログ、アメバと楽天とジュゲムあたり。
そのバックにホームページを作っていて、表現、発信、プレスを自分でやっている。
ニコンとキャノンの写真を載せる枠組み、動画を載せるYouTube。
SNSはインシタグラム、ツイッター、facebookを使っています。
でも、そろそろ整理することも必要だろうとおもうところですが、できないですね。
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ながいこと会えなくて、もうお会いすることもないのか、と思っていた女人に出会えました。
ながいこと人生やっていると、そういうことがままあります。
何十年ぶりなんていうのは、同窓会とかだけど、ムーブメントのなかにて遭遇したお方。
そういうヒトと出会えて感動するのは、とっても気持ちいいものですね、信頼みたいな。
生きてる心地って、いちばん底のところを支えている情が、動かされることですかね。

愛しい、嬉しい、楽しい、そんな心地にさせていただける女人にお会いした。
変わってないなぁ、いっそう洗練されて、深くなって、未来を予言してる、みたいな。
あんまり褒めすぎたらいけないけれど、素晴らしくマルチに活躍している女人です。
寫眞や動画のイメージ創り、文章は詩や小説を書く、音楽はバンドをこなす、多彩な女人。
そういうお方に、ふたたびお会いできたというご報告を、ここに捧げておきます。

京都で、カフェ&プレスの月例会を開催します。
4月21日(土)午後2時~午後5時。
場所は、アマノコーヒーロースターズのデスクです。
第一回目だから、どういう流れになるか、未知数ですが、集まります。
会費は、コーヒー代と事務経費で、500円です。
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桜の木って、あんがい育ちが早くて、けっこう20年もすれば大木になりますね。
掲載の写真は、金沢の家の枝垂れ桜ですが、幹も太くなり、それなりに大きくなりました。
近年は、毎年木に登って、電動のノコギリを使って、腕位の太さの枝を切ったりします。
でも、もう、脚立に乗るのも、木に登るのも、ノコギリ使うのも、できなくなりますね。
庭に植えておくには大きくなりすぎた木は、森林組合に頼んで伐採してもらいました。
毎年、大きな栗の実が採れた栗の木も、数年前には栗の木も伐採してもらいました。

大きな栗の木の下で~♪、なんて歌があるけれど、それはけっこう大木になりました。
彼女がその木から落ちて救急車で病院へ運んで、なんてことがあって、伐採しました。
栗の木はなくなったけど、柿の木が実をつけるようになり、毎年、収穫できます。
ブルーベリーは低木だけど、食べごろの実になると、小鳥に食べられてしまいます。
年齢をかさね、体力がなくなってきて、そろそろ、引き際を決断しないと、いけませんね。
ああ、やだやだ、嗚呼嫌嫌、抵抗してみたって、無駄な抵抗ですよね、むなしいけれど。

だからスポーツジムに通って、体力維持して、筋肉つけて、体脂肪減らして、なんて思って。
週に二回通うコースを申し込んで、昨日、からだを測り、ガイダンスしてもらってきました。
筋トレマシーンを相手に孤軍奮闘なんて、そんなハードなことはしないつもりですが、です。
生活のパターンを変えないといけないのだと、思っているのだけれど、変えられない。
ようやく好きなことを好きなだけやれるようになったのに、それを減らすのがもったいない。
作家気取りでいるけれど、なんのなんの、ほんのお遊びでしかないと自覚します。

でもね、おもしろいグループができたんですよ、京都極彩秘宝館、なんだかいかがわしい。
なまえを連ねさせてもらえて、展覧会に出品することになったんですよ、作品出展です。
イメージ的にはシュールリアリズムの再来だと思え、ローマンリアリズム宣言をしました。
イメージするのは勝手ですが、今からの時代を先駆ける、写真を中心とした展覧会ですよ。
新しい時代を創るんだから、今の時代の評論では間に合わない、言葉よりイメージですね。
4月17日~4月29日迄、ライト商会三条店のギャラリーで開催です。
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昨日4月7日、ギャラリー176で写真展をされているセイゲル草柳さんのトークがありました。
和紙に自作の感材を塗って、印画するという手法で、手作り印画紙の作品展でした。
高齢とお聞きしました、これまでに世界各国をめぐられて、現在の作風に至られたようです。
生い立ちのところからトークされ、作品世界を支える作者の情を表出されました。
率直に、感動させていただきました、作家魂というか、制作者の根本感情の表出でしょうか。
ぼくなんかは、イージーな手法で写真を作るという方向だから、真逆の位置です。
でも、写真を表出する心というか、感情は、共有しているように思います。

京都で、カフェ&プレスの月例会を開催します。
4月21日(土)午後2時~午後5時。
場所は、アマノコーヒーロースターズのデスクです。
第一回目だから、どういう流れになるか、未知数ですが、集まります。
会費は、コーヒー代と事務経費で、500円です。
あかつき写房の本田さんと小椋さんが古典技法研究されています。
ぼくのほうもこれまでの経験があるので、合流する予定です。
この古典技法については、別途、ワークショップを組む予定です。
その時には、よろしくお願いします。
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