中川シゲオ写文集

中川シゲオの写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

カテゴリ: むくむく叢書(2)

物語と評論集「写真への覚書」
むくむく叢書のご案内

写真への覚書 その1
2005.1124~2005.12.20
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(1)

旅をした。デジタルカメラを手にして旅をした。イタリアを駆け足で旅をした。俗に言う<旅写真>を撮った。
デジタルカメラにはバッテリーが必要で、ボクの手元には海外で使う充電アダプタが無いもんだから、バッテリー消耗まで撮ろうと思っていった。イタリアは、ミラノに到着して、ベネチア、フェレンツエ、ナポリ、ローマという行程だった。
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今日掲載した写真は、フェレンツエの街の遠望である。あたかも絵葉書のように撮った一枚である。写真を撮った現場は、朝であった。観光のパック旅行だったから、写真を撮ってベターな場所が設定されていて、ガイドがしきりに写真を撮ってください、と云っていた。ボクは、この場所からの遠望を1カット、記念に妻を立たせて1カット、計2枚を撮った。写真は、デジタルカメラからパソコンに吸い上げ、そのまま無修正のまま、掲載している。

写真は、旅する好奇心を留めておく装置だ。写真の撮られ方のひとつの方法である。1849年、マキシム・デュ・カンはフローベルと一緒に、エジプトを旅し、写真を本国(フランス)へ持ち帰った。1852年には写真集を刊行した。これが旅写真の最初であろう。その後、1世紀半を過ぎたいま、2005年11月、ボクは、同じスタイルで、イタリアを旅したと思っている。写真を撮るのが第一義の目的ではなかったにせよ、同じ行為をおこなった。

遠くのモノを近くへ、見知らぬモノを探して、写真が撮られてきた歴史がある。その延長線上に、今回のボクの写真行為がある。ボクの撮った177カット(ここでバッテリー切れ)は、旅の記録&記憶となる、のだが・・・。これらの写真は、ボクがいま、思考している写真行為とは全く逆方向なのだ。つまり、自分の生活空間の痕跡を留めていく写真行為を試みているからなのだ。

<いま、写真行為とはなにか>
ボクがここに試論するテーマである。その冒頭に、先日イタリア旅行から帰国したボクの撮った写真を掲載した。ここから見えてくる写真行為について、少しまとめていきたいと思う。

(2)
写真を誰のために撮るのか、と問うとき、現在時点では、自分のために撮る、と答えたい。では、自分の、何のために撮るのか、と問うと、それは記憶を留めておくためだ、と答えたい。
外に向かう自分と内へ向かう自分がある。この内外に向かう接点、あるいは接面が写真行為なのだろうと考えている。これは文章作業と軌を同じくする立場だと考える。いうなれば自己認識作業の手段として、カメラという道具を使うと云うことだ。
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自分を確認していく記憶装置として、写真が主要な位置を占めている。だれもが持っているアルバム。中学や高校の卒業アルバム。旅行したときの記念写真。それらの写真の被写体となった自分をアルバムに仕舞い込むことで、記憶装置となっていく。
この自分が被写体となった写真から、自分が撮った写真へと、位置関係が変わる記憶装置なのだ。写真行為とは、自分の記憶装置をつくるための手段だ、と云える。

自分とは何か、自分とはいったい何者なのか?この問いは、極めて現代的な問題である。自分の内部で、自分の位置がバランスを失っていくと自覚したとき、自分の中で自分を支えるモノ、それが自分が撮った写真である。あたかも輪廻、スパイラル的に循環する自分の感覚を定置させるモノ、確かな記憶となる写真なのだ。

写真の位置を、このように置くと、旅写真は、おおむね外に向けた自分の記憶となる。では、内に向ける自分の記憶となる写真とは、何か。それは<旅>とは反対方向の位置、<日常>である。
日常とは、家族、友人、生活地場空間などによって構成される<場>である。自己のアイデンティティ、立ち位置の確保なのかも知れない。日常の細部を観察し、見ていく最中で、写真という手段を使うのだ。写真行為を、このように位置付けることができるのではないかと思う。

(3)
写真は、カメラレンズの前にあるものが写る。逆に云うと、カメラレンズの前にないものは写らない。ところで、写真を撮る人間のことを捉えてみると、目の前で見えることのほかに、記憶の像を呼び覚ますことができる。つまり目で見える物と、かって見た記憶がある光景を思い起こすことができる。
それから人間には、感情がある。カメラと人間を対比させてみると、カメラの機能を超えて、人間には<記憶の像と感情>がある。

ここで写真は、人間のカメラ操作によって画像をつくりだす。それも目の前に現存する光景を捉える。そのとき人間の中の作用としては、記憶と感情が入り混じっており、目の前の光景を見て、これをカメラに取り込む。そうして出来上がってきた写真は、記憶も感情もない光景だけが定着されることになる。写真とは、こういう代物だ。

では写真を見るとき、写真の中にある光景を見る。撮影されたとき、カメラの前にあった光景だ。この光景を見て、写真の中にある光景が何であるかを知る。もちろん見る人の見た経験に照らし合わせて、写ったものが何であるかを知るわけだ。そこに光景を記憶とダブらせ、感情を湧かせる。つまり写真を介在として、撮った人と見る人の間に、具体的な物象を介在させて、感情を共有させる。

問題は、ここから始まる。つまり撮る側は、見る側に感情を共有させることを意図しなければならない、ということだ。ボクは原則として、写真を撮り、人に見せることの第一目標は、このことに置いている。写真の被写体にまつわる意味づけの伝達は、その後のことでよいと思っている。理屈が先行することよりも感情が先行することを、第一目標に置いている、といえる。

(4)
ところで、写真を撮り作る人、作家は何を撮ろうかと考える以前に、何をテーマにしようか、と想い巡らす。この回路は、写真を撮る行為だけではなくて、文章を書く、絵を描く・・・等々と同じことだと思われる。写真以前ということが云われる。写真を撮る行為にいたる、その前段の作用のことだ。ここに記憶と想像、論理との符号といった領域がある。その上でなお、感情の交感という目的が目論まれる。
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平たく云えば、自分もいる巷の関心ごとを整理していくこと。そこに自分の感情を動かす物体を配置する。たとえば、ボクの場合、グローバル化する世界、とゆう切り口がある。西欧化する世界、とゆう切り口がある。これは抽象化された概念だから、これに値する現実の光景を見定めていく。この文章に添付している写真は、西欧文化の象徴として捉えているモノだ。

さて、巷の中心となる関心ごとに対して、自分の位置を確認する。グローバル化に対してローカル化。西欧化に対して東洋化または日本化。つまりローカル化と日本化。このことが写真を撮る主たるテーマになってくる。そうして自分の感情を見つめてみると、都市の光景よりも農村の光景に惹かれていく自分を発見する。蘭やチューリップといった洋花よりも、椿や桜といった和花に惹かれる自分を発見する。ファーストフードもいいけれど、山で拾った胡桃や銀杏に興味を惹かれる。この惹かれていくときの感情。感じる心がある。

写真にするテーマは、関心ごとが様々であるように、様々だ。そうして選択していく被写体も様々だ。被写体に対して感じる感じ方もまた、様々だと思われる。他人のことは判らない。しかし少なくとも自分の感情は、判る。この自分の感情に従ってあげること。これが撮影現場での、撮影の目安となるのだ。

(5)
けっきょくは、自分に興味があり、好奇心がはたらく場所でしか、写真を撮る気にはならない。これが突き詰めていく先の結論のひとつだ。

写真を撮るという目的に、クライアントから依頼されて撮り、対価を得るというのがある。いわゆる世間ではプロカメラマンという職業だ。広告であれ報道であれ、イメージの移送者として捉える立場だ。あるいはアマチュアカメラマンと呼ばれる人たちが、コンテストに出品を目的に写真を撮る、ということもある。コンテスト応募は、本質として射幸心を駆り立てられる。写真産業という枠のなかで、前者は生産者、後者は消費者としての存在する。

ここで云う写真行為とは、そういったことが派生的に発生する要因はあるとしても、もっとプリミティブな場においてである。何のために写真を撮るのか?と問うとき、キミはなんと答えるのだろう。撮る目的を、自分の内に向ける写真行為・・・。自分形成のための写真。自己認識のための写真。自分に興味があり、好奇心がはたらく場所。つまり自分が知りたい欲望を満たしてくれる場所・・・。

写真の歴史を紐解いて、大雑把なつかみで云うと、自分の外に向けていた対象が、次第に自分に向けられてくることがわかる。社会的な視点から見る風景から個人的な視点で見る風景へ、そうして極私的な視点で見る私風景へ、である。ボクは、すでにこの立場、極視点で見る私風景、という立場にいる。そこから見える風景を捉えていきたいと思うのだ。

ところで、写真というものは、自分の外にある風景(光景)を撮る、ということを根底としている。現実に存在する光景を撮ることでしか写真は成立しない、そういう宿命を持っている。極私的な視点で見る私風景といえども、その宿命から逃れることができない。ここに、<私>という存在と、光景を構成する<モノ>の存在とが出現する。<私>と<モノ>が置かれた場。この場を軸にして、両者の具体的な関係を考えていかなければならないのだと思う。

(6)
<私>と私が遭遇する<モノ>、要はこの<モノ>を捉える、捉える視点というものだ。これを導きだすためには、知識が必要だ。知識は、<理>の論だ。ところで、写真を撮るのに必要な感性、これを直感という。直感は、<理>ではなくて、私の<情>が感じるということだ。理に裏づけされた直感、なんていい方がある。これなんぞは、かなり矛盾を孕んだ言い方だとボクは思う。理は感情を排除する。情は感情そのものだ。そして直感とは、感情が振るえることである。
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<モノ>とは、実像である。鉱物、植物、動物、それから、火、水。空とか風とか実像でないものをも含めようか・・・。写真に写った中味のことだ。風は写らない。暑さや寒さが直接には写らないように、風は直接には写らない。写真は、<モノ>が組み合わされて構成されるイメージ体だ。

<私>とは何か。この設問を解くには、かなり難問・難解だ。現代科学が、<私>を生物学的に、物理学的に、工学的に、捉えようとしている。哲学や文学という領域も<私>を捉えることに費やしてきた。としても、それらは理の産物だ。人体の生物学的解明、記憶の解明・・・。パスカルさん、カントさん、老子さん、その他沢山いらっしゃる人間を捉える文化遺産がある。

写真は、おおむね、この科学成果や文化遺産のうえに立った産物であった。カメラという道具を使って、バックヤードにこういった産物を絨毯のように敷きつめて、作りなされてきたものだった。その絨毯のうえに立った<私>が、<情>のところで感じることが必要であった。作家と鑑賞者の共通基盤が、そこにあった。はたして現代写真は、このようにして成立してきたと思われる。


物語と評論集「写真への覚書」
むくむく叢書のご案内

写真への覚書 その2
2006.2.7~2006.7.18
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(1)
写真は、視覚イメージです。目で見て内容を確認します。この類には、絵画や版画などがあります。最近なら静止画と呼ぶ代物です。この写真と対置できるのが文章です。文字で記された文書、小説や詩・・・といった類です。ボクはこの写真と文章という基本的二項を軸に、論をすすめようとしています。静止画は、写真だけにこだわらない視覚イメージですが、近代以降の道具としてカメラが出現してきますので、ここではカメラでつくる写真を置きます。

ヒトの表現ツールに音表現があります。音楽です。写真と文章という二項は、表現ツールとしての基礎的形式です。これに音の項として音楽を加えて三項にしてもいいのですが、ひとまづ写真と文章とします。

写真は、その後、映画を生み出し、最近ではメディアアートの素材として、映像が使われます。写真が絵画の発展形だとすれば、映画は演劇舞台の発展形、メディアアートはヴァーチャル空間へと発展した形です。イメージの原形が写真にあるといえます。文章は、文字表現です。一貫して文字表現です。文字は、言語を形式化してきたものですから、音声を原形としています。音声は、音、音楽につながります。

こうしてこの世に、写真と文章という二項が、存在しているのです。文化を創るとか、記録を残すとか、さまざまな側面で、写真と文章が絡み合い、入り子状になって、現代文化の底流にあるように考えています。

ここは、写真学校のフレームだから、写真を軸として、このような項との関係性、反関係性を捉えてみたいと思うのです。

 (2)
写真を鑑賞する立場でいうと、写真を観て、内容を読むということをします。読むという表現は、文章を読むごとく、写真に表されたモノが何であるかを認知し、その背後の意味を理解していくプロセスです。このような写真の解読方法を、写真批評というレベルで行うわけです。

先に、写真と文章という二項があると記しましたが、この「写真を読む」というプロセスは、あたかも「文章を読む」という行為に類似しているわけです。写真はイメージそのものだから、むしろ、文章に先行して写真がある、ともいえます。

写真が、言葉や文章に従属している、という見解は、写真を読む、というプロセス上で起こる見解です。写真を見て、言葉で内容を理解していくからです。現代写真は、おおむね、この枠組みのなかで撮られ、発表され、鑑賞されてきたプロセスです。

ところで、写真の情緒喚起力は、感情に訴えてくるものでもあります。言葉ではない直接的なインパクトを、写真は持っています。見た人の情緒を揺さぶる写真です。 写真が言葉や文章を離れて、独り立ちするとしたら、この情緒を揺さぶる、ということに着目することで、本来的写真のあり方が見えてくる可能性があります。

かって情を排除し、理知をベースに写真を作ることが要求されてきた感があります。いや情が無いのではなく、情プラス理知であったといえます。写真の現在的課題は、この情の処理だと思っています。理知に先行して情緒をとらえる。むしろ理知を排除して、情緒を全面とする。そのような写真が、ありうるのかも知れないと思うのです。

 (3)

写真を情でとらえるとき、そこには理屈がいらない、とさえ思えるのです。情に根ざした領域で感情に訴える作風というのは、ボクは、世代的に受け入れないヒトだった。もちろん、繊細な日本の美、なんてゆうイメージの、感情領域をさして、いっているんですけれど、侘びとか寂びとか、花鳥風月を愛でる心とか、この領域に心傾けることを拒んできたわけです。
 
写真が写真として成立する基盤はなにか?、なんて、このような問題を突きつけていたボクがいた。それは論理で賄える領域に、写真を掬い上げようとする作業だったと思います。でも、しかし、感情、情、心情といった心の問題が話題になってきて、理性と対置する格好で、情の重要感が浮上してきている現代です。そのように想って、ぐるりと見回してみると、これまで情は経済社会活動の中心から軽視され、いやむしろそぎ落とされてきたことに気づいたわけです。

いいえ、情を軸とした領域は、エロスの問題でありセクスの問題であり、これらはおおむねその外側に置かれながらも、何時のときも、世に存在し続けてきた領域だったのです。エロ写真家は、重宝されながらも、低い評価しか与えられない時代だったし、エロ小説家は、重宝されながらもアウトローのように扱われてきたのです。

ボクにとっての、つまり情の問題は、直接、間接に、エロス感情の問題にいきついてきたのです。このように思いだすと、戯作といわれている文学や写真が、エロスをテーマにして、その情欲を掻きたてる作用を持っていて、この作用を封じる力が、中心となる社会では働いていたことに気づくわけです。

 (4)
写真の中味を、情のレベルでとらえてきましたが、ここでは写真の外見について触れてみたいと思います。写真はカメラという光学機器によって制作されます。現在はデジタルカメラに移行している真っ最中で、ほぼフィニッシュ段階にまで来ています。近年のデジタル環境が引き起こすメディアの変化を捉えるなかで、写真の位置を確認します。デジタル環境のパーソナル化現象です。

写真は静止画です。時間を有しないわけではなく、過去となったある時間帯をシャッタースピードの時間で区切ったものです。それの発展形として動画があります。この動画は、静止画を連続させて、一定の時間帯を保証していくものです。見る側としては、一枚の静止画が見ている時間帯を保証しているのに対して、その時間帯を静止画を連続して見て、動画とするわけです。

メディアは、紙におおむね銀粒子で定着させたプリントから、電子信号によるCTR画面表示へと変わっています。それと通信回路の変容があります。紙メディアから、CTRメディアへの変容です。それにネットワークが加わります。ネットワークの形体は、インターネット・ネットワークです。近年、特にインターネット・ネットワークは、個人利用の傾向を強めてきています。

つまりどうゆう現象が起こっているかといえば、それまで一方的に流されてきたマスメディアが、パーソナルメディアとして、個人が情報を発信できるようになったことです。静止画(写真)から動画(ビデオ)への拡大と同時に、パーソナルメディアとしての情報発信が可能になったというわけです。ここに現在の写真をめぐる外見があります。

 (5)
写真について、中味を情、外見をネットワーク環境として見てきて、この関係のなかでどのように成立させていくのか、というのが次の問題です。写真を、コードのないメッセージだと、R・バルトは構造分析していますが、写真は即物的だといいます。写真に撮られた<それ>を読み取るには、読み取るためのコードが必要だというのです。写真の第一義的な意味は、そこに撮られた<それ>そのものです。

ここから派生して言語・言葉の介在が必要となってきます。<それ>が意味するものを位置づける言語・言葉です。これを含めて、写真は意味をなしてきたのです。その写真の意味するものは何か、と問われれば、そこに答えとして用意されるものは、言語・言葉による説明なのです。

写真を<情>のレベルでとらえることは、じつは、つまりこの言語・言葉以前に、写真そのものが放つインパクトをとらえることであるといえます。視覚によってインパクトを受け、情を動かすこと、このこと自体です。ボクは、このことを写真の原点に置こうとしているわけです。

ここで動画を取り上げてみます。動画は静止画を連続させたものであるとしましたが、それを使用するレベルで、音を付属させます。言葉、音楽、自然の音など、聴覚です。視覚と聴覚の喚起により成立させます。この逆用で、スライドショーを組み立てることがありますが、これは静止画・写真を、連続させて動画のごとく展開するバリエーションです。

次に写真の使われ方は、コミュニケーションツールとして存在する、ということです。写真を介して<情>を交換する装置だということです。この交換場として、現代のツールであるインターネット環境を使うというのが、最新のコミュニケーション方法だと考えているわけです。

(6)
ここでは「写真をめぐる外観」と「写真が意味する中味」を、とらえる作業をおこなっているわけです。外観といい、中味といい、時代変遷のなかで、写真の撮られ方や写真家が向き合うテーマなどが、変遷してきています。この時代における変化は、写真の歴史を研究することで解析できます。ここでは、その歴史研究の成果をふまえ、現在写真の置かれた位置・場所を確定させるための作業を行う必要がある、と考えているわけです。

外観でいえば、従前のフィルムによる写真制作とデジタルによる写真制作の方法があります。時の流れは、新しいツールの方向へと進みますから、デジタル写真が主流になります。内容的外観でいえば、ドキュメント手法とアート手法があります。ファッションを含む商業写真・コマーシャルフォトは、ドキュメントとアートの混在手法です。

中味でいえば、写真家の社会と自分への向き合い方です。報道を含む商業写真家は、産業社会のニーズにより、またクライアントの要望により、おのずとテーマや手法が拘束されてしまいます。また社会構造、経済構造の中に置かれている<写真>であるかぎり、社会機能としての<写真>があります。ここでは、社会機能としての写真以前の、自己へ還元する機能としての<写真>について考えていきたいと思うのです。

自己へ還元する機能とは、お金に還元するために写真を使うという目的の方向ではなくて、自己省察のための手段として写真を使うという方向です。あるいは自分が生きることの満足を得るための手段として写真を使うともいえる方向です。情にスポットが当てられ、デジタルが新しい潮流だとすれば、自己へ還元する機能として使う写真は、デジタル環境のなかでの情の表出とゆうのが、近未来に主流的な、外観と中味の組み合わせとなると推定されることです。

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