中川繁夫写文集

カテゴリ: 写真・文学・アート

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<掲載写真は、写真集<西陣2009>2008.11.9から>
※2004年12月2日~のブログ掲載の文を転載します
フォトハウス表現塾のHP

<写真の学校>

写真の学校はたくさんある。
写真専門学校の先生経験あります。
写真学校で何を学ぶんですか?

こんな疑問がでてきたのが10年前、それから試行錯誤しながら自分流の写真学校構想。

写真学校っていうから写真しか勉強しないんです。
で、ここで写真しか勉強しない、っていうけれど、写真の勉強って、写真撮影の技術が中心なんですね。
それと撮影後の処理、これもテクニック、技術。

写真の学校は、人生学校?でもないな~
写真の学校は、金儲け学校?でもないな~
写真の学校は、暇つぶし学校?でもないな~

このようにして消去法でいくと何が残るんでしょうね。
たまねぎの皮を剥いていくように、中身がだんだんと小さくなって、何が残りましたか?

たしかに技術を習得することは必要です。

でも写真を写す技術って、銀行のATM操作より簡単!
先日、4歳の子がカメラ貸して、っていうから貸してあげて、4歳の子がシャッター切ってるんです。
自分の興味あるものにカメラを向けて、撮ってるんです。

あとで4歳の子が撮った写真を見たら、ちゃんと写ってる。

こんな現状のなかで、写真の学校って、何をおしえるんですか?
学校でやることっていうのは、ここのところからですね。
写真の学校って不可解な領域にあるな~と思いますね、マジ。

<あい写真学校>

あい写真学校は通信制の写真学校です。
開講科学科は、通信セミナーと本科のふたつです。
いずれもメール環境を利用して、マンツーマンでの対応となります。

本科では、メインカリキュラムにワークショップを置いています。
ワークショップは、ステップアップ方式で、自分の表現方法を創りだしていきます。
なにを写真にするのか?ということが第一にあげられます。
これは、自分のテーマを導き出すという作業です。

ひとりではできないことを、対話を通して、自分を見つめていくことなんです。
写真撮影の技術習得が副次的に発生してきます。

カリキュラムは、技術優先ではありません。
コンセプト優先といえばいいと思います。
何を撮るんですか?
なぜそれを撮るんですか?
あなたに、このような質問をします。

この話をして、こりゃ難しいワイ!って思うヒトはご遠慮してくださいね。
写真家になりたい!っていうヒトが多いんですけどね。
それはイージーになれる職業だと思ってる風潮がありますから~ね。
で、この難しいかもな~って思いながらもチャレンジする気持ちです。

そんなチャレンジやりた~い!っていうヒト、将来性あります、マジ。
通信制あい写真学校はいつでも入学できます。
それはマンツーマン方式だからです。
全国、いや世界のどこにいても学べます。

できるか出来ないかは、やってみないとわからない。
いっちょ、やってみるか~っていうヒト、問い合わせてください。

※入学案内
通信制のあい写真学校ではただいま生徒を募集しています。
あい写真学校は、ネットワーク環境を使って、写真表現の方法を学ぶ学校です。
メリットは、どこに住んでいてもインターネットを通じて学べるとゆうことです。
通信教育、いまどきならE-ラーニング、ですね。

それから対面、現場での学校もあります。
写真学校/写真ワークショップ京都です。
こちらのほうの開校場所は、京都です。
写真ワークショップ京都では、今年4月からの受講生を募集しています。
初心者の方からベテランまで、どなたでも学べます。

少人数制のマンツーマン方式ですので、自分のペースで学べます。

<あい写真学校&写真ワークショップ京都>

新しい写真学校が4月に開校します。
「あい写真学校&写真ワークショップ京都」です。
すでに「あい写真学校」は昨年4月から、「写真ワークショップ京都」は10月から、プレ開校して生徒さんも集まってきていますが、4月から本開校します。

あい写真学校は、通信制の写真学校です。
写真ワークショップ京都は、通学制の写真学校です。
二つの写真学校の本拠地は<京都>です。

この通信制と通学制のカリキュラムを組み合わせて、新しいタイプの写真学校をもくろんでいます。
参加される個人が、自分の興味や過去実績や居住地による個差に、個別に対応できる枠組みです。

通信だけでもいいし、通学だけでもいいし、通信と通学の組み合わせでもいい。
軽い乗りでもいいし、重く本格的に取り組むのもいいし、多様です。
つまりどこまでも個別対応していくシステムです。

写真を勉強するのには、写真の技術修得と思考修得があります。
むしろ思考修得、つまり自分の写真への取り組む原点を探っていくことに主眼をおきます。
このレベルも様々あります、人生さまざま、この様々を一括せづ、個別に捉える。

つまり生徒となって参加するひと自身にゆだねられるワークショップです。
教えてもらうことだけに慣れてしまった生徒が、自ら活動しはじめる。
自分が自立するために、写真を学ぶ、そんな写真学校を目指しています。

※写真WS京都セミナー報告 2005.3.22

写真学校/写真ワークショップ京都が4月10日本開校します。
昨年10月から月1回、写真セミナーを開催してきました、6回目。

3月20日(日)午後1時から今年度最後のセミナーが、京都は下鴨にあるギャラリー・DOTにて開催されました。
デジタル写真やフィルム写真を持ち寄って意見を交わす。
ケースバイケースで、そのとき出される問題を解決する方法で、セミナーは進められてきました。

4月からは、所定のカリキュラムを組んでやっていく1年コース、綜合ゼミが始まります。
通信と通学で1年間単位、数年かけて学ぶコースです。
技術サポートは、テクニカルレクチャー(全24講義)が併設されているので、初心者の方からでも学んでいけるカリキュラムです。

もちろん高度に作品を作るレベルを保証しており、作家志望だけでなくディレクター志望者にも対応します。
デジタル時代だからこそできる新しいカリキュラムです。

経費は1年間、最高で月1万円で年間12万円。
3年受講しても30万円未満で学べるんです。
2~3年で専門学校卒業レベルを想定しています。


新緑の季節
  2007.5.8
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年齢のせいもあると思うけれど、四季の移ろいにかなり敏感になってきています。若い時代の頃からみて、という自分のなかでの変化です。そうゆうことでいえば、桜の季節が終わって、新緑の季節という移ろいです。数年前に<わかば>というタイトルで、五月初旬の木立の新芽を撮ったアルバムをつくったんですが、いってみればその延長です。ところで、桜を初めとする四季の移ろいを、自然風景のなかにみるとき、ぼくには二つの系列があるんです。冬がおわり、梅の花、桃の花、そうして桜にいたる花暦ですが、そこからの一つは花の流れ、一つは緑葉の流れです。

植物領域の生命体を、イメージのなかで男系列と女系列にわけています。新緑は男系列イメージです。木立に芽生える葉。黄色をおびた新緑、黄緑から緑に変化していく、つまり成長していくわけですが、その一連の流れに、稲から米へ、山菜とか野菜へとイメージが連なっていきます。まあ、それらを写真にしていこうとしているわけですが、緑というのは、あまりインパクトが少ないです。どちらかとゆうと、花の移ろい系列に興味があります。桜を初めとして、ボケ、シャクナゲ、ボタン、ツツジといった花の系列に、どうも情が移ってしまうのは、ぼくが男生命体だからかも知れないですね。ともあれ、緑、新緑の季節に移ってきて、写真にしているわけだけれど、どうもいまいち、ぱっとしないんですね。これっていったいなんでかなぁ、と思い思いしているんです。といいながら新緑を撮っています。

写真を撮る、このことを考えてしまいます。被写体があって、それをどのように撮るかという以前の、なんで写真を撮るんや、という問題です。実は、この設問のしかたはご法度です。だって、解答の見だしようがない問いだと思うからです。確かに、社会問題にアプローチする写真行為とか、誰かのために撮る写真行為とか、ある目的を実現するために写真を撮る、とゆうのはそれ自体が解答になるわけだけれど、そうではない写真行為とはありうるとしたら、いったい何なんやろ、と考えてしまうわけです。といいながらも、新緑を撮っています。

京都、神社、町角、生活の場ではない・・・
  2007.5.29
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ぼくの写真テーマの主流になってきているのが、京都というイメージにおいてです。かって観光写真ではない京都を、内在者の視線でとらえるという思いで、写真を撮った時期がありました。1980年代のはじめ頃、すでに四半世紀、25年ほど前のことです。西陣という地域に生まれ育った自分を検証するという目的があって、一方で釜ヶ先という流浪の地域を取材していたところから導かれたテーマでした。すでに25年も前のことだから、当時のぼく自身の考え方とか思いとかというのも定かでなくて、いま回顧するなかで、いまのぼくが思う過去にしかすぎない。つまり記憶を辿っているわけです。

そのようなぼく自身の経験前段があって、いま、あらためて京都を舞台に写真を撮りだしているのです。取材の範囲は、京都とはいってもぼくが小学生から二十歳前後の頃に立ち回った区域に、おおむね限定しています。かって、写真は生活現場をとらえるべきだとの考えがありました。だから当時は、なるべく日常生活を営むレベルへ参入していこうとの思いがあって、家屋のなかへと入っていこうとした経緯があります。

現在の京都取材のおもむきは、京都の表層を撮るところから始まっています。神社があり町角があります。かって見知った場所です。撮るために訪れていく場所、場所、場所。いずれも記憶に結びついた路面であり社寺の境内です。それといま初めて訪れる場所というのもあります。観光化された京都のスポットで、かって訪れたことがない場所もかなりありますから、そういう場所へも行っています。まだ始まったばかりの現場です。どのように推移し、どのようにまとまっていくかは未知数です。文章を書いて、思考を重ねながら練り上げていく作業を、ふたたびやりだしているところです。この文もその一環です。

神域、俗域、風景。
   2007.6.15
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京都という地理的場所において、写真を撮りすすめているところですけど、一つの区分け方法として、神域、俗域、風景なる領域を試みています。神域は神社の境内、俗域は町角、そうして風景は街並風景、このように設定して、主には人がいる光景を撮ろうとしています。一方、京都つれづれ日々えろす、ちょっと長めのタイトルですが、ここでは主にはブツ撮りしていこうとしています。まあ、今様京都シリーズとして、デジカメで撮るスナップショットです。

おおよそ100年前、ステーグリッツがニューヨークの町角で、ハンディカメラを携えてスナップショットしたなぁ、というようなイメージがふっと立ち昇ってきて、その真似ごとみたいな方向で、ちょっと京都をやってみるかぁ、ある意味、イージーな考えなわけです。真似ごととは、独自の方法ではなくて、真似するわけですから、気楽といえば気楽です。うんうん、種明かししながら、心では、スタイルだけ真似して、中味は違うものにしたいなぁ、と思っているわけです。

京都を撮った写真家さんに、森裕樹さんがいます、東松照明さんがいます。観光写真の類の撮り方ではなくて、スナップショットスタイルで、です。長年写真に携わっていると、どうも先駆者のイメージが纏いついていて、チラチラとそのイメージが思い浮かべられて、いいものかわるいものか、真似ごとにならないように、とは思いつつ、真似ごとにしか過ぎないかもなぁ、と思うところです。

写真にする立場として、外在の目、内在の目、という言い方がされますが、ぼくは内在者の目として、生活するその範囲において写真にしたいと思っている。いわばこれが新しいスタイルにならへんかなぁ、ということです。いずれにしてもこんな話は、写真の中味ではなくて、外面にしかすぎなくて、写真そのものが現象の表皮をしかとらえられないのに、これはそのもう一つ外側の話なのです。たまねぎの皮を何枚か剥けたかなぁ、と思うところですけど・・・。


自分とゆうことは
  2007.6.28
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自分とゆう物体について、自分の意識がいろいろ詮索しているんだけど、その中心に身体(からだ)とゆうことがあります。意識が生成するためには身体が必要なわけで、これを養ってあげなければならないわけで、養うその中心は食料補給。それとは別個に、自分の場合、たばこってのがあって、じつはこれを今日から止めようとして、葛藤しているところです。最近は毎日写真撮影を手がけていたところでしたが、昨日は撮らなかった。カメラを手許に持ってはみたけれど、撮らなかった。

まあまあ、迷っているわけで、どうしょうかなぁ、どうしょうかなぁ、そんなふうです。ぼくだってそうなんだよ、って言っていることにも、ある程度の作為が見えていて、自分を表現している一端になっていると自分は思っていたりして、自分の見られ方というのを意識しているんですね。誰に見られるんや、とゆうと、見てほしいと思う人がいて、その人たちに見てほしいと思っているんです。その、ぼくとゆう自分を見てほしいと思う人は、第二人称で<あなた><きみ><だれだれさん>とぼくの目の前に顔像が浮かんできています。

けっきょく写真を撮って、ブログやアルバムに掲載して、アクセス数の多さではなくて、誰々さん見てくれてますか、と問うてみて、見てほしいなぁ。つまりコミュニケーションの手段として、写真を掲載して、話題にして、知り合っていることを確認し、自分の気持ちの安定を図る。ぼくがいまブログやアルバムに写真を置き、文章を書き添えるというのは、そのような回路だと思っていて、多分にいま、最前線写真家、ごめん写真のありかただと思っているのです。で、このことじたいが、ほんとかなぁと懐疑的になり、迷うということに他ならない。そして、誰かぁ、一緒にやらへんかなぁ、見せっこしやへんか!なんて考えているんです。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖

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アートのかたち-1-
2006.6.6

アートまたは芸術と言われるものに、今様の形を当てはめるとしたら、どうゆう形がのぞましいのだろうと、考えてしまうわけです。というのも、かってあり、今もあり続けるアート作品または芸術作品と言われるものの、その制作プロセスを思うとき、世の中のツールが変化した現在、新しいツールをもってアートの形が生じると思うからです。

インターネットに代表されるコミュニケーションツールがあります。双方向のネットワーク、リアルタイムのネットワークです。これが最新のツールです。かってあったアートの形は、個人の営みが基軸にあり、個別性を持って作品世界を作り上げてきたものです。制作の現場は、個人の密室だったわけです。

たしかにコラボレーション、共同作業という場がありました。教会建築をはじめ、映画やTV番組や、その他、共同工房をもって作品群を生み出してきた場がありました。しかし、この工房の形は、トップがいて、末端がいるという構造であります。また、役割分担をして全体をまとめるという構造であります。

いま、ここで考察したいのは、インターネットに代表されるネットワーク時代に入り、新しいツールを手に入れてしまった個人の位置の確認作業から、その関係性を見てみたいと思うのです。個を越えるコミュニケーションの形、と表現すればいいかも知れません。

ヒトは個体です。人間関係は個体と個体の関係です。で、この関係を繋ぐものが何かとゆうと、コミュニケーションツールなのです。インターネットツールが、これまであった個人の関係から、関係の場の形が変化したと思うのです。この変化の中味が、何なのかということを、まづはテーマにしてみたいのです。

アートのかたち-2-
2006.6.8

インターネットがリアルタイムのネットワークだとしたら、そこに成立するコミュニケーションもリアルタイムに生成してきます。

かってアートは、成しえた成果物を介在させて、コミュニケーションを図ったものです。あらゆるアートの形が、作品というモノを介在させてきました。手に触ることが出来、見ることができるアート作品、それらは美術館に収められてきました。あるいは出版物として紙の上に書き置かれました。また、ある一定の時間と空間を共有することで、成立してきたアート作品。たとえば音楽、たとえば映画、演劇・・・。これらのアート作品が共有されるとゆうことは、そこに作り出したヒトと享受するヒトが、共感することを意味します。つまりヒトの心と心の共有・共感関係なのです。これはリアルです。

近年には、体感型アート作品というのがあります。ホロスコープとか立体映像とかミラールームといった装置を使った、身体で感じ、五感で刺激を受け入れるといった感じのアート作品です。また、参加者のボディから生じる電気信号を、数値に変えたり、音に変えたり、映像に変えたりするアートがあります。これは無限に、リアルタイムで生成・変化していくアート作品です。これはリアル体験です。

音・音楽・音声といった聴覚において感じるモノ。絵画類・写真・映像といった視覚において感じるモノ。文字という記号で記された文・文章を読むことでイメージ・像を生成させる詩や小説といった類のモノ。おおむねアート作品は、これらを単体または複合させた形で、成立するのです。

さて、この延長線上に、インターネットというツールが出現しているわけで、聴覚、視覚、読み取る、の三つの作業が実現することになります。でもこのツールは、先に見たリアルではありません。しかし、リアル体験は生成させることが出来ます。だとすれば、インターネットならではのリアル体験とは、どのようなモノをいうのだろか。

アートのかたち-3-
2006.6.30

ネットワーク・アートのかたちは、個人内部の営みが表出されて作品が作られるというこれまでの制作過程と作品の有り方とは違って、ネットワークという共同体のなかで形成されていくかたちです。究極には、個人の作品というより匿名性です。とはいえ作業(制作と操作)をする個人がいるわけで、この個人を、コンピュータ(ロボット)が代替していく未来があるかも知れないです。コンピューターがアートするということは、大いにありうることです。

アートのかたちが、出来上がったモノではなくて、制作のプロセスだ!という捉えかたがあります。これは個人の営みの過程そのものを重視する捉えかたです。出来上がってきたモノは結果であって、プロセスに立ち会う個人の心のありかたそのものに重点を置いた捉えかたです。ネットワーク・アートというかたちは、その生成過程に携わる個人の心のありかたを重視する、というヒントを提示していると思われます。

またパフォーミング、演劇舞台、音楽舞台など、上演されている時間をもって、かたちが存在するものもあります。しかし、ここには演じる側と鑑賞する側という区別がなされます。もちろんその場に居合わせる観客をも巻き込んで、かたちになるというのも成立します。かって東京ミキサー計画なんてパフォーマンスがありましたが、これなど典型だと思います。

プロデュースし演じる主体があって、これを個人またはユニットの作品として認めるかたちから、匿名の作品としていく方向が、ネットワーク・アートとしては、いま求められている考え方です。個人の著作権利主体の現行システムでは、これはアートの範疇からはみ出してしまう概念です。アートのかたちが、変容していくとすれば、この匿名性を容認できる心理変容が求められると思います。

このようなネットワーク環境の変化は、一方で、アートという概念を変えていかなければならない時代です。詠み人知らず、作者不詳・・・。かってある作品の制作者が、その後にいたって判らない作品があります。個人名と作品が直結し、ユニットと作品が直結する時代から、いまや匿名性の時代へ、アートのかたちは移行しはじめているのです。

アートのかたち-4-
2006.7.10

ここでの問題は、アートしている場で、個を超えることができるかどうかです。あるいは<個を超える>とはどういう状態をいうのかです。個を超えるとは、トランスパーソナルということです。

この前から、アートのかたちを、想い、考えてきても、基本的には個人が個としてあることが前提の、上位的組み合わせ、あるいは下部的組み合わせの論でしかないように思えています。個を超えるとは、自我を消去することにつながるのだとの想いですが、個という意識のバリアーを外していくことなんですね。もともとこの自我たるもの、これを自分の中に確立した後に、消去していくことになります。こういう論議は、個の内面問題だから、系列化し比較対照し、推し量ることができない領域だと思うんです。

でもヒントがあるんです。つまりトランス状態になった個というもの。この状態をもって、個を超えた状態だと想定することができる。儀礼における特異な心の状態。これなんかが、ヒントになるかも知れないです。それと儀礼行為といえるかどうかはわからないんですが、セクスの最中の心と身体のありかた。トランス状態に入ったような儀礼の場です。

心理的には、日常でない状態にある心の状態。いよいよややこしくなってきたけれど、バランスが崩れた心の状態。もちろん感じるものだから、言葉でいい表すことがちょっと無理目なんだけど、そうゆう状態にあるとき、個を超えている、といえるのかも知れない。

何が言いたいのかといえば、ネットワークアートの生成過程において、結果として個の営みが基底にあるにもかかわらず、この個を消去することができるのかどうか、という問題なんです。アートしている、あるいはアートの真っ只中にいるときの、個のありかたなんです。というのも、現在のアートには、享受者にトランスパーソナルな状態に至らしめることを目的とする形があると思っているんですが、この場合、作り手としてのアーティストは、あいかわらず個としての存在のように察するからです。

では、作り手自身もトランスパーソナル状態になり、享受者もトランスパーソナルな状態になるアートの形とか、どんなものか。とか、このトランスパーソナル状態を、ライブに交信できるアートの形とは、どんなものか、とかを考えているのです。なんやそれやったらセクスの最中が、個を超えたアートやないか、と短絡的にはいいませんけれど、です。

アートのかたち-5-
2006.7.19

<写メールアートの試み>

最新の身近なハード環境を使って、写メール交換をおこなって、そのなかにアート性を見い出そうとの試みを始めています。すでに日常的に、ごく普通になされている行為を、写メール交換者は、これはアートだと思うことで、フィクション化しようとの試みです。つまり、意識的に写メールを交換することになります。

個人が個人の想像により全体を創りだし、それを他者に公表する、発表するということで成立してきたアート作品に対して、写メールアートの形式は、相互交換日記です。作品を構成する作者は、複数です。現在は二つの主体が受発信しています。

この受発信された写メールが、セットになってブログにアップされます。二つの主体間にて交換された画像と文章が、公開されるのです。この受発信された写メールが日々増殖していくという作品です。

ボクは、この写メールアートに参加しながら、その周辺にて批評・評論を試みています。このコーナーもそのひとつです。アートの世界には、作家と批評家、作品と批評、という関係があります。作品に批評が与えられることによって、作品の価値を定着化させる関係です。作者自身が批評者になる。近代アートにおいて、これまであった形式を分解し、ミキシングし、新たに生成させることを目論んでいます。

近代的自我とゆわれる個。この個を超えることができるか、という思いがあります。さて、どうなんでしょうね。自我・個が解体されるとは思えない。むしろ自我・個という自覚をベースに、クロスオーバー、あるいはオーバーラップ現象が生じるかも知れない。そういう予感なわけです。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖

芸術に向かう心
2006.9.30
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ぼくには、芸術というと、なにか高尚な精神の産物というイメージがあるんですけど、どうなんでしょうね。高尚な精神なんてゆう表記も、ちょっとおつでおすましかげんのかっこよさ、みたいなイメージですけど、心のおもむくままに深いところへ落ちていく道筋だ、なんてことをイメージしてるんです。

水平垂直のはなしで、垂直が自己超越と自己崩壊で、芸術はやっぱり自己崩壊の深みだなと思ってしまうんですね。そうすると自己超越とは、宗教だね。

高尚な精神の反義語は、お下劣な心、とでも定義しておきましょう。いいえ、内側でね、見つめていくとね、このお下劣な心ってのが垣間見えるのですよね。高尚な精神を求めて宗教、お下劣な心を求めて芸術、っとまあ、こうゆう図式になるんだとぼくは思うんですね。

文学も美術も、宗教に交わることで営まれてきた精神だったと思うんだけど、それを切り離してしまう現代といえば、芸術は、お下劣な心の具現化だ、なんて思ったりして、崩壊の道筋をたどっている感じ・・・。

そういえば最近
2006.9.29
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なにかしら終わったな、って感じがしてきて、それで文筆がすすまないのかも知れないですね。

引用;すべてのホロンは全体/部分なので、それらはさまざまな「引き」を受けるのです。全体であらせようとする引き、部分であらせようとする引き、引き上げ、引き下げ、すなわち、エージェンシー、コミュニオン、超越、崩壊です。(P41)

これに則していうと、水平的なエージェンシー、コミュニオンが縮小し、垂直的な超越、崩壊のほうへきているのだと思います。
超越は、より高いレベルへの移動・自己超越・崩壊は、より低いレベルへの移動・自己崩壊。

なんだか、どっちかいうと自己崩壊の方へ向かってしまったのかも、なんて思ってるしだいで、うようよしてる感じですね。いったん崩壊させてしまえば、ふたたび高いレベルへのぼっていくようになるのかも知れない。でも、まだしばらく、低いレベルのところで、うろちょろしてしまう感じですね。まあ、待つしかないんでしょうね。

秋めいて
2006.10.26
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日時の過ぎるが矢のごとし、いつになく早く過ぎてしまうような感じがしてくるのは老いのせいだと思います。日々、なにかに追い立てられてるような気分のなかで、あれもこれも、と思いをはせて、けっきょくできることはたかが知れているんだから、ゆっくり地に足着けてやればいい、と言ってあげているんですけど・・・。

なにに追い立てられているのかといえば、命の終わりが迫っているという切迫観念です。


2006.12.4
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この海は、越前海岸の海です。京都と金沢へ往復するときに通る越前の海です。京都に生まれ育ったぼくには、海は日常の光景のなかにはない光景です。たまたま写真を撮るようになって、いま、越前のこのポイントに立って、通るたびにカメラを向けてシャッターを切っています。この海の向こうに朝鮮半島があります。このポイントに立つたびに、ぼくの記憶はとおい処へ誘われてしまいます。

小学6年生のときだったか、クラスの友だちがその半島へ帰っていったのです。それから50年ほどの歳月が過ぎてしまったわけですけれど、最近、むしょうに思い出してしまうのです。その友だちの家は理髪店をやっていて、ぼくの母が理容師の免許をもっていたので、毎年、年末の繁忙期に仕事をしていたのです。理髪店はぼくの友だちの兄がやっていて、ぼくはよく遊びにいってたんです。いま、友だちの家族の顔をふつふつと思い出しながら、この海の写真を載せ、文をしたためています。それはまた、母への追憶でもあるのです。

鏡石
2006.12.7
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京都は鹿苑寺(金閣寺)の北方向、山沿いに歩いて5分ばかりの処に「鏡石」があります。山際に露出した石です。昨日のことですが、その鏡石を写真に収めようと思って、出かけたのです。自宅を出て、いくつか道草を食いながらたどり着いた鏡石。どこが鏡なんよ、ただの山肌に露出した石じゃないか。

念のため、聞き伝えですが、かって地殻変動によって京都盆地が形成されたときに、地すべりの結果、岩が切り落とされて鏡の面のようになったといいます。ボクには、鏡石はその痕跡だという認識です。

子供のころといっても小学生も上級のころだと思いますが、自宅から遊びに行く最北端が、この鏡石でした。ボクの推測ですが、鏡石の前の通りは、千束&鷹ヶ峰に通じ、そこから山越え(京見峠)で山国、美山へ、そうして小浜に抜けていく街道です。そんなことを思い浮かべながら、子供のころの記憶へと入っていくのでした。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
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愛と美について
2006.8.26~2006.11.2
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まあ、なんて滑稽なタイトルなんでしょうね、愛と美だなんて・・・自分でもそう思ってしまうほどに、古いフレーズですよね。なんか、ふっと記憶の底から湧き出てきた言葉、そういえば太宰治って作家のタイトルに「愛と美について」なんてのがありましたね。太宰治って本屋さんへ行けば、文庫本でお勧め小説として並んでいるから、いまもって古典的現役小説なんでしょうね。そういえばボクだって、ええっ、40年前になるんかいな、ファンといえばファンでありました。その当時、筑摩書房から太宰治全集が出るっていうので、発売を待ちうけながら、貪り読んだって記憶がよみがえってきますねぇ。

愛と美について、まあ、そんな記憶があって、そういえば自分流に、愛と美について・・・、なんて呟いているんですね。ううん、最近、この愛と美っていうイメージについて思うことが多くなってきているんです。あっちゃ流に言い換えれば、エロスとカロスについて・・・。このブログのタイトルを「徒然えろす日記」なんて付けてるから、そうゆうことで言い換えれば「徒然愛日記」ってことになるんですね。まあね、愛って概念も漠然としていて、愛とは何?ってことも考えたいな、って思っているところです。

かって転向なんてことが文学研究の対象になっていたことがありました。亀井勝一郎なんて文学者が、左から右へ転向してしまうってことがあったと思うんだけど、ボクも、いま、ひょっとしたら転向しだしてる。転向というより、基から資質としてあった日本的な美が、賛美とはいわないけれど、素直に気持ちに直結してきたな、って思うんです。谷崎とか川端とか、昔読んだままだけど、彼らの晩年期のエロっぽさに、なんとなく理解できるよなぁ、って感じで、愛と美について、ボクがこれから知りたいイメージの大きな枠が、これのようにも思っているのです。

えろすという愛
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「えろす」という言葉を、国語辞典で引いてみると<ギリシャ神話の恋愛の神>と書いてあり、<愛>とあります。ボクが愛用の国語辞典は、中学生になったときに買ってもらった辞書で、昭和31年に初版、角川国語辞典です。えろすの隣に「えろちっく」 という言葉があり<性的。扇情的。肉感的>とあります。また、「愛」という言葉を国語辞典で引いてみると<かわいがること。大切にすること。いつくしむ心。男女が思い合うこと。>とあります。

愛と美について、なんて言葉を思い出したかのように話題にしてから、ボクが最近頻繁に使う「えろす」という言葉のイメージを明確にしたいと思いだしているのです。自分自身に引き寄せて思うと、ボク自身の肉体的衰えを日々感じてしまうことの反動として、意識してしまうのだと感じています。

ボクとしては、おおきなテーマとして<愛>というイメージを、文章とか写真に置き換えていきたいという想いがあるんですね。だから、その外枠を自分ながらに作っておきたいと思うわけです。たぶん、愛という形のなかの部分として、「えろす」という愛の形があるようですね。愛イコールえろすではなくて、愛にはいくつかの形がある。このように、いま、思っているわけです。

にっき20060930
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ケン・ウイルバー著・万物の歴史の序論冒頭に、セックスとジェンダーの話が記されているんだけど、単の読者をひきつけるためのテクニックということじゃなくて、知的興味の先端がここに行き着いてきているんだ、と思っているわけです。単純ではないけれど、ぼくもそのように思っているところがあるから、ここに話題として書いているわけで、顕在化させていこうとしているのです。

ぼくはまったく専門家でも運動家でもないので、野次馬なんだけど、セックスという言葉、ジェンダーという言葉、を読んだり書いたりするときって、けっこう複雑な心境にいるんです。このブログタイトルも、徒然えろす日記なんてつけて、なんとなく人の興味をひきそうな感じがして、でもちょっと後ろめたい感じもあって、複雑な環境に置かれてしまうわけです。

つまりここでゆう「えろす」領域について、非常に現代的な未来志向のテーマだと思っているんですが、どのように地図を描けばいいのか、まだ未確定で、ゆらゆら揺れているところです。数日前から、美しい○○、なんて言い触らしだされたけれど、それをも包みこんでしまう「えろす」なんだといっておきます。

えろすは生きる力
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けっきょくえろすとは何かといえば、生きる力そのエネルギーの発露だと思えています。生命力そのもの、からだが生き生きと成熟しているさま、イメージとしてそのように思えてきます。いま、このようなことを、ここに書いてる自分という器は、そのエネルギー減退の危機にさらされているからに他ならないと思っています。からだに若さがあったころ、あえてこのようなことを書かなくても、十分にえろす、つまり生きる力に溢れていたように思います。ところが歳を経るにしたがって、昔ならこの世とおさらばする歳になって、えろす恋しや、の気分が起こってきているのだと思うのです。減退していく生きる力に掉さすために、まあ、こんなタイトルをつけているわけですね。

気分入れ替えて
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気分を新たにして、ちょっとぶつぶつ呟いていかんとあかんなぁ、って思い出して、久々、記事を書いてやろうと思った。字を並べて、意味不明にしてもいいかなぁ、なんて思ったりして、あんまり深刻にしてもおもしろうないし、ええかげんにえかげんなことを、ええかげんにしていこう。とゆうのも、しょせんええかげんなんだと思うから、論理詰めていこうとしても、しょせんええかげん、にやったら、ええかげんなこと書いて、まあ、お遊び気分がええのやろなぁ。

というのも、気分、気持ち、情、この揺れ動きに注視していて、それを言葉にしていくことが至難のワザだと思いだし、ちょっとこのかたご無沙汰していたところでした。どっちみち汚していくだけやから、ここは、あっけからん、いいたいこと言って、っていっても言いたいこと言えないんだけど、そこそこごまかして、乗り切っていくか~!これが気分の入れ替えってことだと思っています。

えろす気分
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熟した柿を二つに割って、中を覗き見る。
じゅるじゅるに熟した柿の味はえろす気分を味わっている感じです。
生きているという現象のなかに、気分としてこの柿の中味のような感覚があると思っていて、なんだか湿っぽい体内が疼いているような気になっていきます。
視覚と味覚はえろすの代理体験なんだと思います。

色写真
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写真機をもって30年を越えたんですけど、3年前にキャノンのデジカメを買って撮影再開、いっぱい撮りだしたんです。ええ、カラーフォト、色写真です。昔なら天然色写真といってた代物ですね。いろ、色、色彩、いいですねぇ。モノクロ、ゼラチンシルバー、白黒、経費的にそれしかできなかったころからみると、いいですねぇ。

色があるということは、この世の色を感じるということにつながって、この世の色が、色艶につながって、色艶の領域を<えろす>と規定して、色写真を撮ろうと思って、世間的にもボク的にも、色艶写真を集めだしたとゆうことです。歳とって色艶に魅了されだしてきたのは、そうやねぇ、からだが侘び寂びてきたからなんやろなぁ。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖

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