中川繁夫写文集

カテゴリ: 写真・文学・アート

洞窟の奥は闇
2006.7.28~2006.8.18
    800hana1102210001
地球ってゆう物体の表面にぽっかりあいた穴があり、そこへ這入っていくとね、光が届かない、闇になっていくとゆうじゃありませんか。そんなのを洞窟って云ってるんですね。ものの本によると、そんな洞窟にね、手形(ネガティブ・ハンド)とか、動物の絵(馬とかビゾン)とかがあるといいます。それらが描かれたのが、いまから2万5千年ほど前のことだとゆじゃありませんか。南仏にあるアルタミラやラスコーなどの洞窟で、旧石器時代の出来事だとゆうじゃありませんか。

その洞窟の内部は、光が届かない闇です。当時のヒトが、火を持って這入って、描いたのだといいます。わたしが、興味をもって驚くのは、そうゆうことをしたということ、それ自体なんです。その行いは、ヒトの心が形成されてくる、最初のころの出来事だともいいます。わたしはいま、想像力をはたらかせて、そのころのヒトの心を知ってみたい気持ちにさせられています。いいえ、わたしは、そのころのヒトになってみたいと願望しているのかも知れないです。

混沌としたヒトの内部意識は、洞窟にたとえられると思っています。表面、光が届くところは見える、意識できる。でもね、だんだんと光の届く量が少なくなって、ぼんやり、うっすら、そうして闇になる。その闇を見てみたいな~っと思うわけです。見えないから闇であって、見えるところは闇ではない。意識できることは、闇ではない。心のなかにイメージをつくることは、闇ではない。それでは、闇というものは意識できないから、無いのだとは言い切れない。有るとも無いとも・・・。

有るけれど無いとしか思えない処は、闇、ヒトの中にある洞窟の奥です。わたしが存在する証である身体。有機体として生理活動をおこなっている身体。この身体細胞に依存する物質が、寄り集まって、心にイメージを立ち昇らせる。そんな作用を起こすのだともいいます。目の前にあるモノを見たとき、音を聞いたとき、匂いを感じたとき、触れて感じる感覚。そういうときに反応する物質が、闇のなかに漂っているのかな?

そうですね、いま現在だったら、デジタル電子信号がメモリーに蓄積されていて、ある操作によってモニターに現れる、そんなことと類似なんですね。いやはや、メモリーに蓄積されたデジタル信号は、わたしの身体、特に脳に集約されるグジュグジュ物質の、もうひとつの、別の塊だと思えばいいのかも知れないですね。で、其処は闇、有るけれど無い処だとはいえませんか。

闇からの声
    800hana1102210002
闇からの声が聴こえるということが、ホントにあるのかウソなのかはわかりません。でも、ヒトのこころに闇があり、その闇を鎮めるかのように、善行を尽くし、手を合わせて祈る、ってことをするじゃありませんか。とある場所に赴き、魔界に入り、そうしてインスピレーションってゆうか、闇の彼方からの声と交信する。このように感じられることがあります。

この世は色で埋め尽くされて、心はぐじゅぐじゅ、生きることじたいが苦るしみだ。なんて思うときがあります。闇というと地獄とか、地の底とか、洞窟の奥とかのイメージです。それじゃ~天上の彼方からは、光が降り注ぐイメージで、あこがれ、ひたすら祈り、恩恵を待つ・・・。ボクは、夏の日々になると、魔界といわれる世界に棲むようになります。いいえ、心が傾いていくとでもいえばいいのでしょうかね。この文化土壌から刷り込まれた宗教儀式を、よみがえらせていくのです。

お盆です。ボクには、闇からの声として、それらの日々に聴こえてくる感覚があるのです。決して天上からの光が見えるのではなくて、地下から、いいえ洞窟の奥から、悪夢のような声が聴こえてくるように思えるのです。生への渇望はえろすです。この色に満ちたえろす感覚を、消滅させていくその奥に、闇がお控えなすっているのですかね。きっと闇ってゆうのは、ヒトの気持ちを、恐怖と畏怖を混ぜ合わせたような、感覚にさせてしまう代物なんですね。

闇の声へ
    800hana1102210003
もうこの話は50年も前の出来事ですが、ボクは拝みやさんの護摩焚き神事の真っ只中で、奇妙な声を聴いたのです。<心配せんでもよい>という女の太い性質の声でした。当時、ボクは小学生低学年だったから、1950年代初めごろです。

拝みやさんというのは、金閣寺の裏、衣笠山の麓にある身代不動尊から、一年に一度、自宅神棚の下で、ホウラクに積み上げた護摩木を燃やして魔よけをするのです。白装束のおばさんが、呪文を唱え、ええい、やあぁ~!って大きな声を出すのです。組んだ手指を人差し指だけ合わせて突き出し、ええい、やあぁ~ってやるわけです。そのとき声が聴こえてきたのです。ボクは、狐に抓まれたという表現のとおりに、狐に抓まれたようなのです。

参考のために記しておきますと、この神事で燃え残った護摩木の炭を、大事に保存しておいて、熱が出たとか、腹痛とかが起こると、おばあちゃんは黒炭を砕いて、ボクに飲ますのでした。小学生だったボクには、そのありがたさが判らなかったけれど、薬として飲みました。ええ、もちろん熱が下がり、腹痛が治ったのだと思います。炭素を腹に入れて、自力で治っただけでしょうね、ホントはね。

その声(女のヒトの声でした)が、幻聴だったのかどうなのか、ボクにはわからない。しかし、たしかに聴こえたのです。このはなしを同席していた叔母に言うと、叔母は、笑ってこのはなしを真剣に聞いてくれなかったのですけれど・・・。ボクには確かに聴こえた、と今でも思い出したかのように思います。

今日、ぼくはその拝みやさんが住んでいた場所へ行ってみました。50年ぶりのことです。記憶の谷間から光景が滲みだし、そうしてボクは祠のある場所で写真に撮ったのです。そこは氷室と呼ばれる処です。かって池があったところは、小学校の運動場になっています。ボクは原谷へつながる道路から、小学校の縁を辿って、裏手へまわり、そうしてその場所へいきました。衣笠山身代不動尊です。うんうん、記憶のままに祠があって、ちょっと不気味な感じの、霊界です。かなり朽ちているから、今はもうだれもいないのかも知れない。信者さんが細々と管理していらっしゃるのかも知れないと思ったのです。

祠の周辺を写真に収め、自動車道路に出たころから雲行きが怪しくなり、それから金閣寺の前まで歩いて戻ってきたときに、雷がごろごろ鳴りだし、大粒の雨が降ってきました。ボクの記憶は、不動さんの小屋へ行ったとき、激しい雷と夕立に見舞われた記憶。少年だったボクの夏の日のことを思い出しているのでした。

心の感情帯へ
    800hana1102210004

<心>と書いて<こころ>と読む。この心の問題です。生体としての脳作用をもって、心を解析するなんてことではなくて、感情を含む総体としての心、とくにその感情というものを考えてみたいと思うのです。感情の種類として、喜怒哀楽とは、実にうまく表現したものだと感心します。 この世にヒトの感情として、大きくはこの四つの種類に分類されています。で、この喜怒哀楽という感情は、自分の外界に対して感じる感情だといえます。

ここではもっと身体的というか、内発的というか、外界からの刺激に対して起こる感情ではない、身体欲求において発生する感情について解き明かしたいと思うのです。食欲、性欲、それに伴う快感感情、充実感情、つまり満ち足りた感情といった類の感情を有する心のことです。

というのも小説を書く、写真を撮る。そうして出来上がった文章や画像を触媒として、身体欲求をどこまで喚起させることができるか。ボクは、この問題に立ち入ってしまったようにも感じているのです。食欲を喚起させても腹を満たす代替はできないことです。で、性欲においてはどうだろうと考えているのです。ひょっとすると、これの代替は可能かも知れない。小説を書き、写真を撮る。そうして自分を含む他者への提示は、この代替作用を代替でなく、ホンモノとさせることにある。これが究極の目的だと考えているのです。

主客転倒、小説も写真も、現実、現物ではない。いずれも疑似体験させることで、現実、現物以上の感情を喚起させることができるかも知れない。この<かも知れない>可能性に向けて、ボクは小説が書かれ、写真が撮られるのではないか、と思うわけです。読んで、見て、感情を疑似体験させるだけにとどまらず、まさにナマ体験そのもの。いいえ、バーチャルなナマ体験として、ホンモノ体験をさせることができるかどうかなのです。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖

頭くらくら心臓どきどき-1-
2006.6.30~2006.7.19
      120kyoto1404020002
激しい頭痛のあと、くらくらする感覚が、わたしを包んでいます。ドッキンドッキン、どきどき心臓の鼓動が、内側から聞こえてきます。ああん、なんとゆう状態なんだろう。浮遊したこころとからだ感覚じゃないですか。ああん、もう、くらくら、どきどき、してる。疲れてんだよ、きっと・・・。そんな慰めのような声が、聴こえてくるような・・・。いよいよご臨終まえなんだよ・・・。そんな脅かしのような声が、聴こえてくるような・・・。

枠組みに沿った意味というものが、突然に消失してしまう。からだが昂奮しているんだ。ぐじゅぐじゅとした内分泌物が、汲みだされてくるような、そんな感じだ。極めてえろす的な感触だと思う。蠢くからだの細胞が、器官が、肉体がここにあります。境界は皮膚です。指があり目がある。いま、パソコンに向かって、指でキーボードを打ち、マウスでクリックする。目はTV画面をとらえて、言葉を読み取っている。

極私的くらくらどきどきを、メディアを通して発信していく。極めて政治的な闘争だ。既存の言葉が醸すイメージを発し、既存のイメージを定着させた画像を組み合わせて、発信していく闘争だ。ええっ?闘争って?ちょっと過激だよね。でもさ、ねえ、一方では戦争状態なんだ。ドンパチやってるんだ。アートが静観できるわけないじゃないですか。どうしてもそれを引き受けたうえで、アートを展開しなければ、いけないんだ。

あたまくらくら心臓どきどき-2-
    120kyoto1404020003
<男と女と・・・その境界線>

いやぁね、リアルな状態で、男と女の違いといったらさ、まづからだの構造が違うから、裸になってみりゃぁ判別できちゃう。でもからだは外面だから、こころの中、つまり感受性なんてレベルだと、どうなんでしょ?ややや、明確な境界線なんて、無いようなんですね。

バーチャルな状態で、ってゆうとネットワーク、インターネット、ホームページとかブログとかのなかで、男と女の違いといったら、そのなかで男か女かを名乗ることで、男か女に区分されちゃうような感じですね。男とも女とも名乗らないこともあるわけで、そういうときには、書かれた文体とか内容とかで推測していきますね。

男とおもえば女が群がるし、女とおもえば男が群がる。ちょっとゲスなはなしだけれど、男が女を求め、女が男を求める構図が、リアルでもバーチャルでも同じように起きる現象なんですね。そりゃぁ、そうですね。バーチャルな状態といえども、参加する主体は個体の男か女なんだから、客体に男女の別を求めるのもしやないなぁ~。

男のような文体をつくる女があり、女のような文体をつくる男があり、そいで男か女かの性別を表記してあれば、それはそれでそれなりに納得できて、男は女の表記に群がり、女は男の表記に群がる。そこで、現代ヴァーチャルアートの意匠を被せて、男が女を名乗り、女が男を名乗ると、どうなるか?

男が理想とする女を演じ、女が理想とする男を演じる。さて、 そこで標記の境界線の問題が提起されるのです。いいえもう、男も女も混合ミックスで、あっちへ行ったり、こっちへ来たり、つまり、男と女を行ったり来たり、まあ、こんな現象が起こっているのではないのかなぁ~と推測するわけです。

あたまくらくら心臓どきどき-3-
    120kyoto1404020005
わけがわからないときってあるじゃないですか。記憶の糸がぷっつんと切れてしまったような、白日夢の感じで、目の前の光景がゆらめく。そいで、いったい私とはなんなのよ、って感じ出して、頭がくらくらしてくるわけです。心臓がどきどきと高鳴ってるのが、意識できて、ああ、倒れるぅううっ、って思っちゃう瞬間のことです。

体感したことがあるんですけど、貧血状態になって倒れていくときの数秒間ってのが、こんな感じでした。真っ白になるっていいますけれど、目の前が真っ白になって視覚がなくなってくるんですね。そうそう明るい霧の中を彷徨う感じで、目の前が真っ白になってきます。ひとつの比喩でいってますけど、そのような状態になったときに、こっちへ戻ってくるのか、あっちへ行こうとするのか。

うわ~ぎゃ~そんなのいやぁ~!なんて目を瞑ってしまうとき、それは自己保身本能が働いて、感受性をセーブしようとするんでしょうかね。で、その向うは破滅の世界だぞ!って文化の枠組みが刷り込んできた結果なんですね。咄嗟の私の判断ってのは、そういうことに基づいてると思う。

私の心のなかっていうのは、あっちへいったり、こっちへきたり、その全体なんだよね、そのように感じます。そうして見えないバリヤー、あるいは境界線を意識しちゃうんですね。

あたまくらくら心臓どきどき-4-
     120kyoto1404020023
とある状況に追い込まれてしまって、ああ~あっちへ行ってしまいたい、って思う瞬間を経験したことがあるヒトには、わかりやすいかも知れないですが、そんなときは異常心理状態です。時間とか場所とか、目の前のヒトとか、ふつうは自覚して確認できるようになっている心状態ですけれど、あるとき、それが判らなくなる。思いつめてるときとか、錯乱してるときとか、そうゆう言い方もあるかと思いますが、ボクはその状況を、頭くらくら心臓どきどき状態だと思っているのです。

ええ、みずからの体験を振り返っているんですけど、その別世界は、エロスに満ちており、タナトスを予感させる世界だったと思っています。生と死の境界線。生への渇望はエロスであり、死への恐怖はタナトスです。

日常的には、頭くらくら心臓どきどき状態にならないように、自己防衛をしているようだけど、とある状況におかれると、そのバランスが崩れてしまうのじゃないかと思うわけです。バリアーの外側なんていえばいいのかも知れないその世界です。いいえ、ね、何を云おうとしているかといえば、究極アートの世界を想定しているんです。

アートが、日常ではない、つまり非日常の心、心理状態を誘発する装置だとしたら、この頭くらくら心臓どきどきの状態を、いかに創り出すかという装置でもあるわけです。予定調和的美の極みを表出するのがアートだ、なんてことは云いません。心の基層をなすエロスとタナトスがあるとすれば、アートは。エロスの極みを表出させなければ、ならないのです。エロスの極みは、ヒトを救済すると思うからです。さて、でも、具体的な作品は、となると・・・。それは世の習いからはみ出してしまうかも知れないですね。

あたまくらくら心臓どきどき-5-
    120kyoto1404020028
かってのわたしなんぞは、もう自分のことが、いや~でいや~でしかたがなかったんですよ。足は短いし、胴はずんどうだし、背は低いし、見た目にカッコいいわけないじゃないですか。鏡を見るなんて、それこそ、もう許しがたいほど、屈辱な感じがして、いたたまれなかったんですよ。それにね、こころのなか、ふしだらなことばっかり妄想しちゃうじゃないですか。こころのなかを映しだすテレビなんて発明されたら、どうしょうなんて思うと、もう夜もゆっくり眠れないって感じでしたね。

まさにこれは自己嫌悪ってゆう習性だったと思うんですけど、その反面、自分が可愛くってしようがないって感じに見舞われることも、たびたびありましたよ。いいえ、自分を第一に、安全なところへ置いておきたいと思っていたんです。自己嫌悪、自己陶酔、サディストなわたしと、ナルシストなわたしが、同居しておったわけです。いいえ、こんなときは、頭くらくらなんてしませんし、心臓どきどきなんてこともありませんでした。

ところがね、ある時期、開き直ったかのように、もうええやん、どうにでもして、恥じも外聞もあるもんか、ってね、尻捲くる、なんて言い方あるとおもうんですけど、そんなふうな時が訪れたんです。そんなときだったんですね、頭くらくら心臓どきどき、なんにも怖いもんなんてない、そんな感じで、開きなおったってわけです。頭くらくら心臓どきどきってのは、あっけからんとして、なんでも受け入れちゃおうなんてバリアーを外していったときに、ね、起こってきたんです。

単純に、体が疲労してたってこともあったと思うんですよ。錯乱してたなんて思いませんでしたけど、目の前におこっていることの文脈がつかめない、狐に抓まれた、っていう状態ですね。地下鉄のホームでさあ、後ろから電車の音が、耳つんざくような轟音に、寸でのところで風圧によろめきそうになって、頭くらくら心臓どきどき、乗ってから、降りる駅を間違えて、いつもと違う駅の容姿が、狐に抓まれた感じで、わけわからなくなったり・・・。その後ですね、からだとこころのね、ぐじゅぐじゅな感じがね、まさに生きてるって感じで訪れてきたんですよ。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖


写真物語-1-

ぼくの写真史-3-

<1970年代の写真をめぐる動きについて>
ボクが写真を撮り出したのが1976年頃からだ、と前に書いていますが、その当時のボクの写真への感触を書いておきたいと思います。ボクの意識のなかには、京都を中心として、その周辺に大阪がありました。それとは別に、東京という場所がありました。
     300PH0502040104
ボクの東京住まいは1969年の2月ごろから10月末までに約9ヶ月ほどありました。それから6~7年ほどたっていましたが、なにかにつけて意識は東京にむいておりました。ワークショップ・写真学校というのがあることを知ったのはカメラ雑誌の記事でした。1975年に始まり1976年に終わる1年間の学校でした。

ボクの意識としては、そんなのがあるんやな~遠いな~・・・という感じでした。この東京での、ワークショップ・写真学校を通過した同年輩の人たちと知り合うようになるのが、1982年ごろなんですが、写真に興味を持ち始めたばかりのボクには、それは遠い存在だったんです。

そのころの近辺の話題といえば、写真の中味の話はさておいて、京都には、京都丹平という写真クラブが有名でしたし、大阪では、シュピーゲル写真家協会とか浪速写真クラブとか、そういった集団の関係図式ですね、力関係、そんなことばかりの話題だったように思い出しています。

京都では、関西二科展に始まる写真関係の展覧会が、4月から8月にかけて開催されていました。岡崎にある京都市美術館、広小路にある府立文化芸術会館。ぼくのグループ展発表の場は、そのふたつでした。会員だれでも出展できる京都写真サロン、それからちょっと選りすぐりメンバーの関西二科展、写連の選抜展、所属クラブの展覧会。この4つの写真展に名を連ねていました。

写真やりだして3年目ぐらい経ったころですね。先生と呼ばれている人たちと同じ壁面に写真が並びました。それから、当時は京都新聞社主催の月例がありました。ボクはこの京都新聞社へは、1回だけ例会にいきました。沢山の人が参加していました。そこでは、例会に提出された写真に順位が決められて、一席になると京都新聞におおきく紹介されるんですね。朝日新聞の方は、月例の一席だけが新聞紙上に載ったんですね。だから京都新聞社のは参加が多かったけれど朝日新聞社の方は参加者が少なかった。

ボクの写真は、朝日新聞に何回か載りました。コンテストにもけっこう応募して、そのたびに盾とか賞状とかもらいましたね。最初の頃の話ですが、推薦に選ばれました、っていう通知をもらって、推薦の位置がわからなかったんです。それで知り合ったばかりの達さんに、「推薦って何?」って聞いたら、一等賞やっていわれましたね。

こんな写真初心者のボクが、クラブに所属したということで交友が広がり、あれは二科会のパーティです、蹴上の都ホテルでのご宴会パーティー、こんなのにも出席できましたね。そうなんや~こうして先生って呼ばれる人になっていくんや~!えらい簡単やな~、京都写壇で名がとおり始めたボクは、そんなことに関心しておりました。で、冒頭に戻して、ワークショップ・写真学校。カメラ雑誌で見かける名前の先生、東松という人、荒木という人、森山という人、深瀬という人、そんな人が先生やってる学校なんですね、それに生徒さんの写真もカメラ雑誌に載っていましたね。ちがうんですね、写真が・・・、京都で、またコンテストで、上位に選ばれる写真とちがうんですね。

なんでやろ~っていう疑問がありました。でも、カメラ雑誌のほうの写真のなかに、何か魅入る写真がありました。
     ph3000404050036
写真へ傾斜していく頃の記憶を辿っています。1976年から1978年までの3年間という期間は、写真制作技術を手に入れることに専念していた時期です。
ある種伝統のあるアマチュア写真、それも関西写壇とゆわれるところの入り口にいたんですね。3年間のそのころには、そこそこ有名になっていたようですが、それを越えていくパワーというのは、一体なんだったんでしょうかね。たぶんその頃を遡ること10年前の出来事が、多分にボクを追い詰めていたんだと思っています。

あれから10年、お前は何してるんだ!っていうような脅迫観念ですね。そんなのがあったようです。もらった賞状とか盾とかを目の前から消して、最初の一歩だ!って思って大阪は梅田駅に降り立ったことを思い出します。そして釜ヶ崎の三角公園に佇んだ1968年の11月、32歳になってしまった自分を確認し、えらい遠いとこまで来てしもたな~、そんな言葉が出てきていました、秋風吹く寒さが滲み始めた頃です。

<写真のテーマ>

日常生活のなかに写真を取り込むこと、なんて命題をだしていました。多分にカメラ雑誌から得る東京情報だったのかもしれませんね。日常・非日常なんていう区分のしかたじたい、時代的背景をもっていたんじゃないですかね。写真への傾斜は、遡ること10年前の遣り残し感が多分にありました。そして立った場所が釜ヶ崎という処だったんですね。

天王寺から飛田へ向いそこから堺町筋をこえて萩之茶屋3丁目に至ります。そこに三角公園があるのです。毎週土曜日の午後3時ごろ、その公園までたどり着いて、気持ちは空漠感に満ちておりました。なにか得体の知れない重石がからだの中にうずくまっておりました。たったひとりになった、という感覚ですね。赤電話がありました。この赤い電話はどこに繋がっているんやろな~、京都の自宅に繋がるなんて想像できなかったです。ああ~こうしてヒトは行方不明ってゆわれたりするのかもしれんな~なんてこと想像してました。

泊まり込まないこと、路上に座り込まないこと、酒を飲まないこと。この3点を守ろうとひそかに決意しました。何だったんでしょうね、その頃の自分って、何を思い、何を考え、何をしようとしていたんですか?いま思い起こそうとしても、朦朧ですね。脅迫観念に迫られていた気持ちは蘇えってくるんです。

写真を撮りだして、写真クラブから飛び出して、カメラを持ってひとり大阪の地にに立った頃、1978年ですね。その頃に考えていたことですが、モノを作る作家活動ですね、音楽家であれ小説家であれ、それなりのトレーニングが必要です。

10代の後半は、音楽家をめざしたこともありました。20代の前半は小説家をめざしたこともありました。ボク自身としては、音楽にも文学にも、それなりにトレーニングしたつもりでした。音楽は中学生時代のブラスバンド、それから十字屋楽器店の技術部に2年間勤めて、ピアノレッスンを受けました。文学に興味を持ち出して小説書こうと思ったのは、高校生の3年生、1964年、いまから40年も前です。
     I3000008
その頃から1975年ころまで、正味10年間、それなりのトレーニングをやったように思います。しかし、音楽も文学も、いずれもモノにならなかったです。ところが写真を撮り始めて5年で、それなりのことが出来るようになった。先生と呼ばれる人たちと一緒に展覧会に出品するようになりました。

コンテストに写真を出せば、何らかの賞が当るようになりました。この出来るようになった、と思うことへの疑問があったのです。表現というものがこんなに簡単に出来る筈がない。写真だから簡単にできるんかも知れないけれど、これはおかしい、絶対おかしいよ。そんな思いがわいてきていました。

後になって、実はそのとおりだったのですが、それが引き金だったように思います。カメラはニコンF2、引き伸ばし機はオメガ。一流品とゆわれる設備をそろえて、自分に言い訳できない仕組みをつくりました。写真作りの技術的なこと、技法は、おおむねマスターしたように思います。でもこれも、後になって出鱈目だと理解しましたけれど・・・。そうなんです、写真って簡単そうに見えてますが、実は奥深くて難解な代物だったんです。

 中川繁夫<写真への手紙・覚書> 2006.4.28編集



写真物語-1-

ぼくの写真史-2-

<気儘な日々へ>この日記帖は、おもにボクが写真を始めたころの記憶を辿りながら書き進めていこうと思っています。ボクが写真に興味を持ち出すようになってから30年近くの年月が過ぎてしまいました。ということで言うと今年、ボクは58歳になっています。自分でも信じられないくらいなんですが、30年の歳月をぐるりと回ってきて、いま、また写真を撮り出しました。ほんの興味本位で手にしたカメラでしたが、写真というものにのめり込んでしまった結果がいま、ここにあります。この痕跡を少しまとめておきたいな~というのが率直なところです。

現在、いくつものホームページとブログを手がけています。外向けのもの、自分の作品的なもの、自伝的なもの、それぞれ使い分けして、全体をひとつのものにしていく目論見でもあります。

ここでは、写真を始めた最初の頃の話から掘り起こしています。今は亡き達栄作さん、途中から智原栄作さんと名前を変えられたけれど、思い出多い先生です。当面は、この達さん率いる光影会に参加したころの思い出話をまとめてみたいと思っています。だいたい1976年から1980年ごろまでです。カメラを持ち出しての5年間です。一気に駆け抜けた5年間だったうように思います。

1978年の秋に取材地を大阪に求め、「都市へ」との命題をもって歩み出したころから、少しずつ達さんとは疎遠になっていきますが、写真の基本を教えていただいた恩師だと感謝します。毎日のように達さんの家へ行き、家族のような振舞をさせていただいた記憶です。その当時の関西写壇といわれていた状況、もちろんボクから見た状況ですが、その写壇に決別するようにして抜け出てしまいましたが、若さの至りとでもいいましょうか、達さんには、失礼なこと多々あったものと思っています。

その後の恩師としては、東松照明さんを挙げたいと思っています。彼が京都取材の3年間、1981年から1984年までの間、ご一緒させていただいたことで、今の写真、それに留まらずに社会の見方などもベーシックには学んだものと思っています。

その後、1985年ごろから1988年ごろまでは、フォトハウス写真ワークショップを主宰していた時代。平木さん、金子さん、飯沢さん、島尾さん・・・、東京在住の人たちとの交流がありました。

1991年頃から畑さんとの交流とご一緒した仕事、写真図書館の設立、専門学校副校長、インターメディウム研究所事務局長・・・。そうして由あって、2002年の夏に身を引き、現在に至ります。それぞれの場面で懇親を重ねた人たちへの感謝を込めて、自分史を少し手がけてみたいと思っています。

<同人雑誌・反鎮魂>

     I3000009

写真のほうへの話で、文学から写真へ移行するあたりへもう一度もどします。写真のほうへとボクの気持ちが徐々に傾斜していくのは、1975年ごろでした。その頃って、ちょうどボクは7年かけて大学を卒業した年なんです。現代文学研究会っていうのを友達とやっていましたね。頻度は忘れていますが、日曜日の午後から開始でした。場所は、北白川に近い研究会メンバーのアパートの一室でした。

1972年ごろまで、ボクたちは同人雑誌を発行していたんです。雑誌の名前は「反鎮魂」といいました。同人は7~8人だったと思います。ボクはそこで小説を発表していました。そうですね、長編小説。その第一章を第3号、第4号とふたつに分けて連載しました。

そんな同人も大学を卒業することで、解散となりましたが留年組の3人、近藤君、落合君、ボク。ちまちまと研究会を続けていたんです。もう解散する直前の作家研究テーマは夏目漱石。やっぱり夏目漱石を研究しとかんとあかんやろ!っていう程度のノリであったかも知れません。1975年というと、もうボクたちのこころは伸びきっていたように思います。学生運動が退潮していき、セクト間の内ゲバの時代でしたね。

ボクたちはセクトには属さない、ノンセクトっていう部類でしたし、運よくパクられたこともありませんでしたから、終わってしまった感覚ってのは、空しさいっぱいだったように思います。

ボクは1970年4月に結婚して子供も上が4歳下が1歳になっていました。家庭作りに専念するのも気分悪いものではなかったですが、でも空虚感というのがありました。文学への未練というか、もうやってられないな~、という感じですね。子供を写す目的で、学費が要らなくなったそのお金でカメラを買ったんです。

その頃の年だったですね、10月21日に仕事の帰り道に京大の時計台まで赴きました記憶です。20人程度の集会が開かれていました。肌寒さが身にしみてきました。現状はこれなんやなあ~って思いながら、ボクも参加者の一人となりました。もう終わった、終わったんや~、って思うと、ちょっと涙ぐんでしまいましたね。一方で、ニコマートに標準レンズをつけて、子供たちを写しまておりました。ネガカラーでとった記念写真です。

ボクは郵便局勤務の公務員、彼女は内職を夜な夜なやっておりました。ニコマートに標準レンズをつけて、ボクは家族の写真を撮りだして、アルバムをつくりました。そのうちに職場の人たちから写真の技術を教えてもらうことになったんです。職場へ出入りの写真屋さんが、唯一、少しは高度な知識を伝授してくれました。フィルムメーカーが主催するヌード撮影会にも参加しました。冬時に大阪のデパートで開催されたカメラショーに行って、モデル撮影会に参加しましたね。ニコンのカメラを買ったんで、ニッコールクラブですね、入会しました。

伏見桃山城で行われたニッコールクラブのモデル撮影会にも参加しましたね、記憶にあります。・・・というように、ボクはアマチュアカメラマンとして出発船出をしたんです。その頃です、全日本写真連盟に参加して、宇治の撮影会にいっての帰りに、達栄作さん、後の智原栄作さんを知ったんです。

小説を書くという、密室作業ですね、夜な夜なホームコタツのなかに足を突っ込んで、原稿用紙に字を書いていたことが、遠くの記憶へといってしまいました。でも、光のもとで写真を撮ることって、健康的やな~って思いだしました。もちろん写真家になろうなんてことは、夢夢思わなかったですね、その頃・・・。カメラ雑誌、ニッコールクラブの会報、それがボクの先生でした。


<達さんのこと>

     300PH0502040024

達さんのことで思い出すのは、余呉湖への撮影随行です。伸子という当時高校生の子がよく被写体になりました。達さんが著した限定版「信仰のすすめ」は、その伸子さんにあてた手紙形式で書かれていました。撮影のときのボクの仕事は、レフ板もちでした。ベニヤ板に銀紙を貼った手作りのレフ版でしたが、このレフ版を使ってキャッチアイですね、目に光を当てたり、影を薄くする技術なんかを教えてもらった。先輩と撮影の現場に立つというのは、勉強になるのもです。

同じ被写体を写して、出来上がった写真をみると、ちょっと違うんですね。まあ、構図とか光の入れ方とか、微妙に違う・・・そういう勉強をさせていただいたですね。そのころはまだ余呉湖は北陸本線の駅でした。夕方にはジーゼルカーの列車が到着します。ボクは伸子さんを望遠でトンネルから出てくる列車をバックに、毎度の事ながら撮影しました。月例用の写真作りです。

達さんとは、ドキュメント写真についてよく話をしたと思います。達さんは土門拳さんの、リアリズム論をよく引き合いにだされていました。その後ボクは1977年の秋から都市へとのタイトルで、大阪シリーズをはじめたんですが、達さんは、宇多野にある病院で、筋ジストロフィーの子供の取材に入られました。「天使のほほえみ」という写真集にまとまりましたが、ボクとの話の筋道ででてきたテーマだったようです。

その後、ボクは釜ヶ崎取材にのめりこんでいき、少しづつ疎遠になっていきますが、達さんは、その頃に、「難民」フォトフォリオを限定版で制作されます。キリスト教者だった達さんが、教会を通じて、カンボジアの難民キャンプへ行き、写真を撮られたものです。達さんは、けっきょくそれまで名を連ねていた二科会会友や写連役員などを辞めます。

ボクは、大阪取材から1年を経て、1978年9月2日から本格的に大阪取材に入りました。そしてその年の11月には釜ヶ崎の三角公園にたっていました。大阪取材へのきっかけとなった出来事があります。

その頃は、全日本写真連盟に加盟していて、月例をもやっていました。カメラ雑誌では、アサヒカメラに、北井一夫氏が「村へ」という作品を発表していました。ボクは、この「村へ」の作品群を、解体していく農村の記録・ドキュメントとして捉えており、大変興味をもって見ていました。まあ、好きな作品群であったわけです。その頃の写連の写真の傾向っていうのは、今もあまり変わらないですね。綺麗な写真、モデル写真etcなんかですね。

関西写壇というのがある、その京都代表が丹平クラブ、ボクの所属クラブ光影会は2番手との評価でした。その丹平のセンセが、北井氏の「村へ」の作品群について「わからん写真や~、な~みんな!」っていう評価を下したんです。ボクは、アホか!!って思いましたね。空しい気持ちがこみ上げてきました。これが最後でした。

もうそれなら自分でやるしかない。光影会の例会には出席しておりましたが、気持ち的には少し遠のいてきていました。カメラを持って大阪へいきました。
「街へ」がテーマでした。1977年の秋ごろからだったと思います。京阪電車で京橋までいって下車、それから梅田界隈へいきました。毎週土曜日の午後を撮影日と決めて仕事場のあった丹波橋から大阪への撮影取材でした。

もうその頃は、自宅に暗室を作っておりましたし、カメラもニコンF2を使いだしましたし、引き伸ばし機もオメガに替わっておりました。オメガは達さんから買い取ったものです。このオメガの元の持ち主は、木村勝正氏が生前使っておられたものだったそうです。

こうしてカメラと現像機材を俗にゆう一流品にして、自分に言い訳できないようにして、大阪取材をしはじめたんです。でも、何をテーマとすればいいのかわからないなかで、梅田に残っていた「どぶ池」界隈を撮影したり、新しくできつつあった駅前ビルの建設現場などを撮影しておりました。1回の撮影に2~3本のフィルムを使う、という量でした。

ひとりで立った大阪は、中学生の頃に何度か一人で遊びに来た記憶がありました。大阪の南、新世界界隈です。ちらちらとその記憶を思い出しながら、でも足はまだ梅田界隈でした。そのうち春が過ぎ、夏前になってきて、もう撮影をどうすすめたらいいのかわからなくなっていました。その夏は、久しぶりに原稿用紙に向いました。もうかれこれ30歳を過ぎていましたしね。

で、文章は、-私写真論-写真以前の写真論と名づけて、記憶と感情とのことを書いてみました。こうして夏を過ぎて1978年9月2日。再び大阪へ取材にいきました。この日から、大阪日記と名づけた取材メモを書き始めました。
<1978年9月2日土曜日(晴れ、薄曇)京橋から片町線で放出駅前、天王寺、山王町、飛田へ、鶴橋駅前。フィルム、TriX6本、ASA400、ノーフィルター、ノーファインダー28ミリ・・・>このようなメモが手許に残されています。このようにして、ボクは大阪取材をはじめました。

2004.9.29記



写真物語-1-

ぼくの写真史-1-

ぼくが写真というメディアに興味を持ち出してかれこれ30年が経ちますね。
1975年頃でしたね、大学卒業した直後にニコマートを買ったんです。子供が4歳と1歳、わが子の写真を撮る、っていう目的だったですね。

1965年頃から文学に興味が出てきて、小説家とか評論家になりたいな~なんて、本気で考えていたこともあってね。大学入学した1968年には、大学のサークルに入って同人誌に文章を発表したりして、1974年頃まで文学研究会とか定例読書会とかに参加してましたね。で、そのころってけっこう行き詰まっていて(気分的にです)、もう文学できないな~、そんな心境でしたね。

そこでカメラを手にして、自分の子供を撮ったり、家族旅行の記念写真とか撮ったり。写真が文学に替わる興味になってきたんです。ここではボクの個人史を記しておこうとの目論見があるんですが、その最初を、このあたりから掘り起こしていきたいな~って思ってるわけです。

もうひとつ別に、「苔の私日記」と題したのもあるので、二本立てで、やっていこうかな~、というのも一本だと前後の文脈があるから、別角度へ飛べないですから、当面、ここでは写真の方へ30年の個人史をやろうかな~。

写真が文学に替わる興味になってきた頃の話から、掘り起こしていきたいですね。ということで、ほんのお遊びこころから、写真の魅力?とりつかれていくプロセスを記していきたい。それは、内面史というより外面史を中心に、と思っています。

-内灘砂丘の弾薬庫跡-

その当時の夏、8月の初め、金沢へ家族とともに帰省したんです。金沢は彼女の高校卒業まで生まれ育ったところです。その実家へ帰ったときに海水浴にいったんです。場所は内灘、金沢市内から北鉄の電車に乗って20分ぐらいですね。内灘の話は追って書きますが、まだ結婚する前に何度か行ったことがありました。

    300PH0502040104


その内灘の浜に、コンクリートの塊、弾薬庫の跡がいくつかあったんです。その弾薬庫の写真を撮った、数カットですね、子供たち以外に被写体を求めた最初の写真でした。その後、この写真は「映像情報」創刊号表紙に使いました。

小説を書いていた頃の最後の作品(未完)の冒頭がここ、内灘の光景から始まっていました。何かしら因縁というんでしょうか、金沢・内灘というのがボクにはあるんです。家族の海水浴のスナップと同じネガに収められた内灘の弾薬庫跡の写真。ボクの写真への記憶の最初は、ここなんです。

内灘の弾薬庫跡の写真を撮ったときには、まだフィルムや印画現像は全て写真屋さんに頼んでいました。そのころは伏見郵便局というところで働いていて、京阪丹波橋の改札を出て少し西に下ったところにキングカメラというお店があって、そこに頼んでいました。そうそう、カメラは上田カメラ店の出張販売の際に買い求めました。内蔵露出計つきのニコマートでした。

この郵便局の職場にカメラクラブがあって、誘われてクラブにはいりましたね。田原さん、長島さんという先輩がおられて、彼らはモノクロ現像の経験者でした。この場所がボクの最初のトレーニング場となりました。そのうちフィルムはネオパンsssというフィルムを使うようになりましたし、自宅に暗室機材も揃えました。引き伸ばし機はラッキーのものでした。

一番最初の印画紙、家族見ているところで、マニュアルどうり露光して現像液に漬けました。するとどうしたことでしょう!真っ黒。印画紙全面真っ黒。つまり露光量が多かった、レンズの絞り開放のまま、何秒間か露光していたのでした。失敗ですね、これが自分でやったプリント現像の最初の失敗談です。

そう、小説書いていたころがもう遠くにいってしまって、写真に夢中になり始めたんです。1976年の節分の日に千本釈迦堂の節分祭を撮影して、そのなかから一枚を、なんだったかのコンテストに応募したんです。「京の冬の旅」写真コンテストだったかも知れないですね、明確に覚えていません。そしたら、佳作というのに入ったとの通知がきたんです。それで表彰式が京都会館の会議室であるとのことでしたので、行きました。写真で最初の表彰、賞状をいただいたんです。そりゃうれしかったですね、思い出しますその気持ち、そっからですね。

     300PH0502040001


朝日新聞の社告に全日本写真連盟の写真サロン展ですね、その出品案内が載ってた。それで地場のやすらい祭りを撮った写真を個人会員ということで審査会場へもっていきました。蒲生さんでしたね、そのときの審査員のせんせ、ボクの写真を一目見て、まあいいか、これ、てな具合でOK。写真展は京都市美術館で行われるんです。美術館へ自分の写真を飾るんですよ~ヤホヤホ!ところが搬入当日、もう大ショック、落ち込みました。いわゆる作り写真ですね、もうボクには訳わからない落ち込みの気持ちでした。

やすらい祭りの鬼が素直に踊ってる写真、それでも手に入れたばっかりの24ミリレンズ使った写真だったんですが、そんなストレート写真なんて、なかったですね、みんなむちゃくちゃ上手いじゃないですか~ということしか言えなかったですね。


-達栄作さんのこと-

達さんとの出逢いは1976年夏の終わりだったと思います。全日本写真連盟京都支部(写連)が主催した宇治でのモデル撮影会の帰り道、京阪電車の中でした。先にボクは写連の個人会員となって京都写真サロンに出展しましたが、それが初めてのモデル撮影会の参加でした。

その撮影会の指導員してたのが達さん、まあ、先生ですね。電車の中で挨拶しました、たぶん、こんにちわ、程度のあいさつ。クラブ、クラブって言ってますけど、どうしたら入れるんですか?っていうような質問をしたと思うんです。達さん、クラブやってるから来るなら来たらいい、との返事だったですね。

それから、事務所兼自宅が藤森にあるから・・・ということでボクは達さんの自宅を聞き出して、後日訪問することを言いました。ボクのその頃って、職場で写真クラブに所属しており、カメラ雑誌が先生的存在でした。アサヒカメラ、カメラ毎日、日本カメラの三誌ですね、古本を1冊50円程度で買ったり、新刊本を買ったりして、むさぼり読んでいたと記憶しています。

カメラのレンズの記事とかボディの記事とか、まあ、ハード環境の話題ですね。それからコンテストの項ですね。いろんな写真が載っていましたね(今現在も同様ですね)。ストロボの使い方とか、広角レンズ、望遠レンズの違いとか、いってみれば作画のためのノウハウですね。そんな話題ばっかりでしたね。

電車の中でお会いしてからしばらく後に、達さんの家を訪問したんです。京阪藤森駅から徒歩で、聞いていた方向に行き、目的地、京都国立病院のそばまで行って、達栄作さんの家を探しましたが見つかりませんでした。そして公衆電話からTELしましたら、もうお家のすぐそばからのTEL、教えてもらった場所に和風のお家がありました。

玄関は道路に面しており、格子戸を引くと三帖ほどの土間、左に応接間、前が台所につながる戸です。典型的和風庶民の民家作りです。応接三帖間に茶色のソファーセットが置かれ、壁際に書棚、窓辺にトロフィーと奥さんの入院ベッドのうえでの写真(その後奥さんが癌でお亡くなりになられていたことを知りました)、そんな部屋でした。達さんには、にこやかに迎えていただきました。緊張していたボクの気持ちをほぐすように話かけていただいたと記憶しています。

光影会という名称の写真クラブでした。それからボクは週に1回以上、達さんのお家を訪問することになります、ボクの最初の先生ですね。また、達さんのお家は、ボクの写真についてのお勉強の寺子屋でもありました。達さんは、当時、二科会会友の肩書きをお持ちでした。それから光影会の会長、シュピーゲル写真家協会の会員・・・その他あったんでしょうけどね。光影会は、以前、京都シュピーゲルとの名称だったそうです。

木村勝正という写真の先生がシュピーゲルの会員で、大阪が中心なので、京都で旗揚げしたんだそうです。大阪に岩宮武二、棚橋紫水、堀内初太郎さんとかがいて、浪速写真クラブとか丹平クラブとかがあって、そんなのの選りすぐりがシュピーゲル写真家協会ってのを立ち上げた、その中に木村勝正さんもいて、京都グループを形成した、その中に達栄作さんがいた。

木村勝正さんがお亡くなりになって、その後、光影会と名称を変更、達さんいわく、シュピーゲルって名前は木村勝正に貸した名前だから使ってはならぬ、と大阪グループから言われたんで、光影会に変更した、とのことでした。そうして達さんと知り合いになって、光影会の例会や撮影会に参加するようになり、写連の月例にも応募しはじめました。

1976年から1978年ころまで、集中的にここ達さんの家で写真を学びました。ボクは達さんから写真がどうあるべきか、といったような話については、土門拳さんの写真を引き合いにだしてよく語っていました。俗にゆうアマチュア写真の作画から作家の方への模索だったと思っています。つまり、達さん自身が写真とはなにか?という疑問に突き当たっていらしたんですね。

     300PH0502040024

ドキュメントという話をよくしました。達さんの書棚に写真集がありました。カメラ雑誌系のものが多かったですが、ウイリアム・クラインの写真集「ニューヨーク」と「東京」がありました。それから岩宮武二さんの「佐渡」なんかもありました。それから当時発売されたばかりの土門拳さんの全集ですね、そんな写真集を見ました。

ボクの方はカメラ雑誌では、カメラ毎日に載っていた東松照明さんの「太陽の鉛筆」、アサヒカメラに載っていた北井一夫さんの「村へ」ですね、その他大体の有名写真家の写真を、主にカメラ雑誌を中心に見ておりました。森山大道さんとか中平卓馬さんの写真には、あまり関心が向かなかったですね。

達さんは、奥さんを癌でなくされた後だったようでした。そのときに撮った写真が病院ベッドでの写真で窓辺に飾ってあったんですが、この写真を渡辺勉さんという写真評論家がほめてくれた、とのことで、その褒めの内容がプライベートドキュメントだというんですね。その当時は、ボクはそんな言葉は知りませんでした。達さんも何故褒められたのか、十分には理解されていませんでした。でも、記録の方法としての写真ですね。記録とは何か、です。

一緒に撮影にも出かけました。その当時、達さんは琵琶湖の北にある「余呉湖」を取材していました。日帰りでいったり、泊りがけでいったり、頻繁にいきましたね。教わったのは撮影現場での撮影の仕方ですね、ボクは見習いカメラマンでした。写連の例会とかコンテストで入賞したりしだして、盾やらトロフィーやら賞状の類が増えていきました。大体の合同写真展、関西二科、写真サロン、選抜展、光影会展・・・会場は京都市美術館とか府立文化会館でしたかで、諸先生方と同じ壁面に写真が並びました。

「こうして先生と呼ばれるようになるんやな~」って思い出したんです。文学でモノにならなかったボクは、写真の簡単さにうぬぼれていましたね、ホント。その後1978年秋頃から、少しづつ疎遠になっていきます。達さんはボクが舞鶴に単身赴任中にお亡くなりになりました。1990年の年末頃だったと思います。訃報の連絡をいただきましたが、参列できませんでした。

2004.9.16~10.27  nakagawa shigeo

このページのトップヘ