中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

カテゴリ: 記憶の痕跡

記憶の痕跡
2006.2.12~2006.5.3

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記憶の痕跡を求めて、生まれて幼少を過ごした場所に立った。その場所に過ごしたのは、1946年から1953年だった。あれこれ半世紀以上が過ぎ去った。そこには道路があり、家屋があった。ボクの記憶の痕跡を求めて、デジタルカメラを持って自転車に乗り、幼児の記憶に残っている場所を確認してまわった。
     
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住まっていた場所の家屋は新しくなっており、焼け跡の広場だったところに、家屋が密集している。記憶の光景はどこにもないけれど、ボクの記憶は、その地点を確認する。

そこは洋風の二階建て家屋だった。表が本通りに面しており、和漢薬を商う店舗だった。台風が襲来し、ショウウインドウのガラスが割れて、ベニヤ板が張られていた。その前は花屋だった家屋には地下室があり、薄暗い地下室は恐怖をいだかせる空間だった。

ボクが生まれてから6歳まで住んだ家屋の記憶が、甦っては消えていった。写真は今の姿を撮ることしかできないけれど、写真を撮るボクの脳裏には、その場所を確認し、かってあった姿として記録されるのだ。

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親が昭和31年(1956年)に新調した写真アルバムが、手元にある。いま確認してみると、ボクの記憶の写真は、七頁目の右端に、糊付けされている。名刺半分の大きさだ。子供達が七人並んで写っている写真だ。夏のころである。ランニングシャツとパンツ、髪の毛は、男の子は丸刈り、女の子はおかっぱ姿である。七人の子供は電柱を背にして四人が座り、三人が立っている。ボクは立っている一人だ。

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撮影は昭和25年か26年の夏だろう。見知らぬ人に撮影されたのち、写った写真を持ってきて買わされたものだ。当時の記憶がよみがえる。その写真が、手元に届いたときの光景を覚えている。父親がブツブツ言いながら、お金を払っていた。

それから半世紀以上が経って、ボクはその電柱を目当てにシャッターを切った。電柱は当時より少し移動している感があるけれど、ほぼ同じ位置に、記憶の電柱があった。道沿いの家屋が建て替えられ、電柱が立て替えられてはいるとしても、その場所は、当時のボクをとどめる唯一の写真だ。

ボクが所有する幼少の写真は、二枚だ。一枚目は、一歳前後に写真館で撮られた写真。二枚目が、電柱の前で撮ってもらった写真だ。ボクの記憶に残る幼少のころの外風景をとどめる唯一の写真が、ここにある。

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ここに一枚の写真がある。撮影は1950年ごろ、ボクが所有するボクが写った写真だ。写真には、撮られた時、見られる時がある。撮られた時から、見られる時、この写真の場合、時間経過はおよそ55年の歳月だ。

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この写真は、ボク自身にまつわる写真だから、この写真を見ることによって、当時の記憶が、よみがえってくる。記憶が記憶を呼んで、その頃のこと、そこから派生する様々なことが思い起こされてくる。

日記がある。手紙の類がある。それらは文字で書かれた記憶である。それらの文字で書かれたものを読むと、書かれたその時の記憶がよみがえってくる。そうして当時の様々なことが思い起こされてくる。

写真と文章。形式は違うけれど、記憶装置のインターフェースだ。ヒトは、記憶を持つことでヒトでありうる。手元にある記憶のインタフェースは、作品ではない。しいて言うなれば、作品となる素材である。この素材が作品に組み込まれることによって、文学作品や写真作品が成立していく。写真や文章、記念写真や日記の類は、ボクにとっての作品素材なのです。

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50数年前、1953年(昭和28年)に、ボクが小学校に入学したときのクラス写真です。先日、そのクラスの同窓会なるものが開かれ、半数近くの同期の男女が集まりました。他聞にもれず、昔を懐かしむ声しきりで、あれから50年以上経ったとゆうのに、記憶のなかの面影を確認しながら、名前を確認し、時間が過ぎるにつれ、当時の記憶が糸をたぐるように、よみがえってくるのでした。

数枚の写真が、複写されて席に持ち込まれていて、ボクはその写真をデジカメで撮りました。服装とか履物とか、当時の痕跡をとどめたまま、封印されてきて、それらの子らが大人になって、老年期を迎えるころになって、封印が解かれた。記憶は、50数年の歳月を一気に飛び越して、子供のころのままの関係で、今、再会を迎えたのです。それぞれに人生の物語をつくってきて、いまに至っているのだけれど、記憶の痕跡は、時空を超えているようです。

旧友に会う、古い写真にめぐり合う。過去があり、現在があり、そうして未知の未来がある人生です。生きた証の記憶として、旧友があり、写真があり、そうして同窓会があった。まあ、ヒトそれぞれの記憶の痕跡を、自分の外に持つことで、確認できる人生でもあるのでしょう。

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50年後に再会したとき、探そうとしたものは、失われた記憶でした。だれかが50年前の写真を見せてくれ、確かに記憶の中にあった写真を目の前にして、ボクは、目の前にいる人の現在と、50年前のその人とをダブらせながら、面影をみとめ、50年前にタイムスリップしていくのでした。

記憶のイメージと目の前の人、同窓生であるというだけで、水平感覚を得るものです。世の中に、人はみな同じだとはいえ、財を得てリッチな生活を得る人もいれば、そうでない人もいる。また、世間でいう有名、無名、所属などの比較で、優れた人もいれば、そうでない人もいる。大人になってからの人と人の関係なんぞ、この比較のうえに立った関係のような気がします。

小学校1年生という年代に知り合った関係というのは、男とか女とかを意識しなかった関係であり、貧富なんぞ意識しなかった関係だった。50年を過ぎ去らせた、そこにいた人との関係は、そういう意味で、水平感覚、水平位置としてありました。記憶の痕跡は、人と人との関係をつくりなす基本態なのかも知れないと思います。



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記憶の痕跡 2006.7.21~

光の痕跡
2006.7.21

光ってのは生命の源泉だと思うんよね。
この世のしきたりってのも光が基準のように思うんよね。
まづ闇があって、そっから明暗に別れるわけでしょ。
その明をつくりだすのが光ってわけさ。
植物ってのは、光を摂取して光合成するわけだし、
動物ってのは、光で合成された酸素を吸って生きてくわけだし、
光ってのは、生命の源泉なんですね。
人間さまだって、光を求めてやまない動物でしょ。
光ある処を求めて、脚光を浴びたい、認められたい!
なんて、光あるところは、情のエクスタシー領域でもあるんやろねぇ。
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写メール文学
2006.7.7~7.14

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文学作品というのは、作家を自認する個人が、個人の内部でつくりあげるイメージを文章化したものだといいます。この限りにおいて、文学作品は、作家と読者という二項に分けられたあり方です。ところで最近は、ネットワークを通して個人と個人が写真と文章を交換しあうことがあります。写メール交換です。

アートの形を、個人間の関係性のなかに見出す論があります。これまであったアートの形、すなわち作家と鑑賞者という関係のなかで、出来あがった作品をその介在とするという、従前の形ではなくて、制作プロセスそのものをアートの行為とみなすのです。作家を自認する制作者のプロセスを、ライブで享受するというにとどまらず、行為者が複数登場するなかで、アートが行われる。関係性のアートです。

文学の試みを、この関係性のなかに置いてみようというのが、この項の目的です。文学作品が、制作のプロセスを複数で共有し、生成していく中味自体をもって作品となる。そうゆう形です。さて、そこには文章と写真が置かれる。文学と写真というジャンルを融合させ、なお、複数の個人により生成させられる形を、文学の新しい形として、提起したいと考えているのです。
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作り手がいて、読み手がいる。作者がいて、読者がいる。作者が中心にあって、読者はその周辺にいる。まあ、既存の文学形式は、このような構造を持っているわけです。この構造の中心となる作者を、個人の集合体とするというのが、写メール文学の発想です。自我なくして文章は書かれえない、という前提を否定することはできませんから、文章を書く基本体は、個人です。

この個人と個人の写真と文章の交換によって、ある場が作られ、その場が文学の場となる。この場というのは、仮想空間場であって、作者自身が読者であり、読者自身が作者である、という関係がその場に生じるわけです。この関係場にいる個人そのものの形が、文学の主体となるのです。

連歌、応答歌、そういえば、写メール文学として思考する、この関係は、かってあった形態に類似するものです。制作し呼応しあう当事者のなかに生じる心の動き、それ自体を重視する文学態といえばいいかも知れないですね。作者と享受者が一体となった関係の文学態です。

この写メール文学は、既存の文学形式を解体するものだと考えています。あるいは近代文学の形式が成立する以前の、まだ文学という概念が成立しなかった頃の、文章による情の交換場であったそのものを、新たな現代ツールによって再生させる試みでもあると考えます。ええ、これは、文学という概念からすれば、文学以前のたわごとにすぎない考え方だと一笑にされることです。でも、アートという概念を、関係性を中心に組みなおしていくと、文学というアートの形をも、このように組みなおしたい道筋なのです。
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天地
2006.12.4~2007.1.6

天地の天-1-
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歴史のはじめは、天と地が分かれたときから始まるとゆう認識で、よろしいのでしょうか。この国の創造物語、古事記の最初に天之御中主神-あめのみなかぬしのかみ-という名前の神が記述されています。これって天の中央にあって天地を主宰する神の意味なんだそうですね。つまり太陽のことなんでしょうね。そこでボクは、 天地の天シリーズの最初に、この光のある写真をもってきたわけです。

とある坂道をのぼりはじめたとき、目の正面に、光輝くところがありました。目を向けたところ眩くって見ることができません。カメラを持ち出してみたところ、形は捉えられず、ただただ眩く、真っ白になっているだけでした。

ボクの興味は天地、形あるものとしての天地、とはいえ天に形があるかのかといえば、形ではなく現象があります。地はどうかといえば土石の塊としての形があります。太陽は光を放つ星として形がありますけれど、通常状態では、カメラの能力を超えていて、形として収めることができないのです。

思いつき程度の試みで、これから光あるところで写真を作り、文章を書いていくわけですが、<天地の天>と<天地の地>という二つの枠で、ボクは創作していきたいと思うのです。

天地の地-1-
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地は、鉱物であって、岩石であって、無機物であります。それは生命体ではありません。天の雨がしみわたり、年月を経て石になり、砂になっていくのだと、理科で習ったものです。地には四方があり、今の言葉でいえば、東・西・南・北、かっては方位を、白虎・青龍・朱雀・玄武と呼んでいたそうな。その頃にもこの地があったわけで、これ、方位でゆうと玄武の方位です。

とゆのもこの写真に撮った地は、京都の北に位置する船岡山だからです。船岡山の北側斜面に剥きでた石肌なのです。船岡山は、平安京造営のときに北の基点となった場所だといいます。そういえば、この船岡山の北に今宮神社があり、東に玄武神社があります。今宮神社は、元は疫神社といいましたとあり、玄武神社は京都の鬼門に置かれたと聞き覚えております。

天然自然現象を、そのすがたかたちを、ヒトは怖れおののき、自分を超えたなにものかを感じたのでしょうね。今、ボクは神というイメージに興味を示していて、神が出る場所を詮索しているわけで、つまり、ボクの心の或る処で、それを感じる感じ方というものを詮索したいと想っているのです。

天地の天-2-
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2006年12月19日の天。京都は北野白梅町。ぼくはカメラをもって散歩にでかけ、この交差点に立っておりました。午後二時過ぎの出来事です。冬至に近い日は、快晴の青天、とはいえ、かってあったような深い青天ではなく、少し白濁したかのような青天です。

このポイントの記憶のはじめは、小学生のころに遡ります。そうして高校に入学する日のことが甦り、時折々の記憶が甦ってくるのでした。高校に入学する日、いまは亡き母が一緒にいて、ここから嵐電に乗っていったことが甦り、母の追憶とでもいうように、かってあった母の面影を甦らせるのでした。

それらはすでに半世紀も以前のことであり、記憶をもったぼくは、ぼくの生きてきた時間を、反芻しながら、カメラのシャッターを切るのでした。街並みの光景が変わり、行き交う人の衣装が変わり、昔の面影が一変している光景を確認していくぼくが、そこポイントにいて、それにしても天からの光の姿は、それほど変わっていないんだろうなと思ったりしているのでした。

天地の地-2-
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聖地には石があると読み聞きた記憶があります。聖地とは聖なる地のことで、聖とは、国語辞典によると、1:知徳に非常にすぐれている人。ひじり。2:その道の達人。3:神聖。4:天皇に関する物事に添えることば。5:キリスト教などで聖者の名に冠することば。とあります。ぼくが使っている国語辞典は、昭和31年初版発行の角川国語辞典です。小学校の六年のときだったかに買ってもらった辞典です。

石は地の原形のひとつだと思っています。この石の在処は、京都は船岡山の建勲神社の境内です。この石の所在場所が、聖地なのかどうかを、ぼくは、いまのところ判断しませんけれど、俗にいう聖地の範疇にはいる処です。そのように想うと、なんだか霊験あらたかなるインスピレーションを、感じてしまうようにも思えてきて、水したたりおち、苔むしている地なのです。

石は鉱物、水は無機物、苔は有機物です。それを見て、感じて、認識するぼくは有機体の動物です。鬱蒼としたたたずまいのなかにある、この地を見て、鬱蒼を体感して、霊験あらたかなる気分になります。天地がわかれて、最初にあらわれた地だ、とはいいませんけれど、ぼくにとっての鬼門なのかも知れないなぁ、と想ったりしてしまう処のような気がしています。

天地の天-3-
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2006年12月22日の天。大阪府島本町桜井付近。この日付は冬至です。撮影日時は、つまり太陽がいちばん南になった日の午後4時前ごろだったと思います。ここは天王山に近く、水無瀬に近く、桜井の駅跡があるというトポスです。縁あってぼくの近場になっている場所です。天といい地といい、そこに歴史をみるという視点から、写真が撮られてタイトルつけられ、若干のコメント文をつけていく作業を試みているのです。この作業は、ぼくによるぼく自身のあとづけ作業なのだと思っていて、ぼくの内面系譜を正当化しようと思っていて、記憶の場所にて、天に向けて写真を撮っているのです。

ぼく自身を権威つけようとか、正当性を証明しようとかの意図があるわけではなくて、客観性を欠いた、主観に基づく、自分探しの試みなのだと思っているのです。たとえば素性というものが、ヒトが生きるうえで重要なファクターとなっているのであれば、ぼくの素性は祖父祖母の顔を思い出すレベルで、それ以前のことはわからない。わからないとゆうことは、素性が知れないということにつながり、俗に言うどこの馬の骨なのかわからないとゆうことだと自認しているわけです。

これはぼく存在以前を、時系列的に辿ってみて、ぼくの居る場所を定着させる試みとは無縁だと思っていて、ぼくの内面意識の深さレベルで、ぼくを捉えていこうとしている、これは芸術行為なのだと解釈しているわけです。というのも、ぼくの今様問題意識が、個の生成と記憶というテーマに根ざしていて、見えない個の記憶を、見えるように形つくろうと思っているのです。ぼくにとっては、ぼく誕生のときに天地が分かれたわけで、それから僅少60年とゆう歳月を経てきたいまの内面意識を、構造化したいと思う行為なのです。

天地の地-3-
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地の底にはなにがあるのかといえば、黄泉国(よみのくに)があるといいます。つまり暗黒で死者のいく処だとゆうのです。ぼくには、そうゆう処が実在としてあるとは考えないのですが、ふうっと、生まれる以前、生まれて今ある、死滅以後という想いが起こってきて、恐怖にいたる気持ちを抱くことがあります。個体の誕生と死滅という生命現象を、からだのことだけではなくて、こころをことを交えて考えると、以前、以後がじつは大きな関心事として立ち上がってくるのです。

ぼくらの世代は、唯物論とか実存主義という考え方をベースに、論を組み立てる時代に学んできたわけだし、教育の根幹に神代の話はいっさい無く、民主主義だとゆう概念で知識が育まれてきたわけです。今様の問題意識でいえば、ぼくのありかは何処にあるのか、つまりアイデンティティ問題なわけで、パンとミルクの給食と、欧米賛美意識で埋まれたぼく自身を、最近になって生活実感とそぐってないなぁ、と思うようになっているのです。

死して行く処がある、その場所は、黄泉国ではなくて天上の国でありたい。こころがそのように思うから、黄泉国への出入り口には封印をしてしまいたい。地表と地下は一体のものだから、なんにもしなければ地下に行ってしまう。だから、ここから、天に向ける想いがわいてくるのだと思ってしまうのです。ぼくはやっぱり天地の天を想い描きたい、そのように思う年齢に至りだしたんやなぁ、と思わざるをえないのです。

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紫式部
2007.1.8~1.15

紫式部供養塔
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紫式部といえば源氏物語の作者さんです。古典文学の高嶺に留まったまま延々千年、読み継がれてきて、現代語訳も与謝野、谷崎、瀬戸内、それぞれに書き改めていらっしゃる魅力ある古典です。ここ京都は千本鞍馬口にある千本閻魔堂(引接寺)の境内北西に置かれている紫式部の供養塔です。多層塔だけれど、写真は下部二層です。

男と女の物語は、古今東西、永遠のテーマであるようで、男と女の、恋と愛、哀れと悲しみ、えろすを基軸としています。京都の文化を見つめようとしているぼくにとって、いよいよそれが出番であるように思えてきているところです。神イメージから引き継がれてくる豊穣えろす世界の原形のように思うのです。

紫式部墓所
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堀川北大路下るといえばいいのか、堀川鞍馬口上るといえばいいのか、つまり紫式部の墓所がある場所のことです。京都の地名は、道の交点の南北を先に東西を後につけて「上る下る」というのですが、その言い方に従ってゆうと、前記の二つの呼び名が当てはまります。縁起をかついで「上る」とすると、紫式部の墓の在処は、堀川通り鞍馬口上る、とゆうことになります。

彼女の代表作、源氏物語は、寛弘六年頃(西暦1009年頃)完成を見たとありますから、およそ千年の昔に書かれた物語です。さて、墓地がここにありますが、この地が本当かどうかは疑わしいといいます。この墓石はそんなに昔ではなくて、近年のものです。でも、まあ、場所をつくり形に残すことで、視覚として認識できるいわけですから、それはそれでいいと思います。ぼくは今日(2007.1.11)あらためて訪れて、写真にしたわけで、京都巡りの一助となるものだと思っています。

墓ない人は儚い人生、なんてお墓やさんが書いてはったけど、そうやね、30数年前に写真を撮り出したころ、クラブに入ってて、月一回の例会が、お墓やさんの二階やったか三階やったか、それで、ぼくが入るお墓は、本法寺にあって、表千家と裏千家の玄関前にあるお寺、紫式部さんと近場といえば直線で300mほどやろか、よろしゅうにたのみます、とのお近づきのしるしも込めての表敬訪問だったのです(ウソ)。

紫式部通り
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古記録に紫式部の墓は、雲林院の南に存した、とあるといいます。現存する雲林院は、北大路通り大徳寺前の交差点東南の一角にありますが、その南というポイントでは、いま、日曜朝市が開かれています。源氏物語の成立が1009年前後だとあり、それから約千年の時空を経てきた今です。京都の町は雅。そこには生きられた人々の歴史があり、暮らしがあった。そのことに明確に気づいたのは、昨日(2007.1.14)のことです。「紫野ほのぼの日曜・朝市」なるイベントが開かれている場所。ぼくはその場所へ赴き、写真を撮っていたそのときです。

一、二の三、いっちにいのさ~ん!掛け声です(笑)、ぺったんぺったんお餅つき。タオの第一章に、無名、有名とゆう字句があり、無名は万物の始めなり、有名は万物の母なりといい、無から有へ、名がつけられて人間の世界が成立するといいます。そおゆうことでいえば「紫式部通りにておこなわれている朝市でのお餅つき」との名がつけられて、ぼくの前に成立している現(うつつ)なのです。この光景は因果関係の末にあり、森羅万象の原則に帰していくとき、光景の意味が生成してくる。

いやぁ、ね、ちょっと、人間なんてのは、無意味を好まなくて、有意味、つまり意味有ることを探ろうとするじゃありませんか。なんとかこじつけてでも、意味を作ろうとするじゃありませんか。つまり、ぼくは人間であって、この人間であることの法則に基づいて、日々生きていることに気づいているのです。だから、こうして、有意味らしくしようとしているわけで、神と紫式部と朝市餅つきを、系列化しようとして、無駄な抵抗となるやろなぁ、を試みているわけです。

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着物色艶
2007.1.26~2007.2.14

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べべ、着物のことを京都ではそのように呼びます。なにを想うかは人それぞれにちがうとおもうけれど、ぼくの場合だったら、やっぱり色艶、女子の色艶、えろすの香り、えろすの感情、ちょっと悲惨で陰鬱な気分も醸しだされる着物です。ぼくは西陣生まれの西陣育ち、このかた半世紀あまりを、この地で育っているから、とはいえぼくの親は西陣織物には関与していなくて、父の祖母、叔母が機織工をしているので、気分的には地場の人だと思っていて、制作現場にいる女たちの隠れた色艶を感じてしまうのです。

着物が時代遅れの着衣になって、特殊な立場の、特殊な御時に、身にまとう民族衣装となって、久しい感じがしますけれど、ぼくの二世代うえの人たちは日々着物で過ごしていたのです。もちろん色艶を感じさせる色合いの着物ではなかったけれど、多くは紺の色地だったけれど、古着の山をみて、一袋幾らで売られている着物をみて、やっぱり悲哀を感じるんです。

女が男に愛されるための着物、だとは断定しないけれど、赤とか桃色を基調にした染め柄は、やっぱりえろすを彷彿とさせるのです。源氏物語が執筆されて千年。精神史はその流れの直系にあって、縁日では若い女性たちが着物の山を崩しながら、物色している光景は、さながら源氏に心を寄せ女の今様かとも思えてきて、内に燃える炎を垣間見る感じがしてくるのです。

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大きく歴史の流れをイメージしてみると、神話の時代から有史時代に入るところで、二つの大きな流れとなる分岐点があるのではないかと思うのです。実証科学的な観点は持ちえていないけれど、イメージとして、規律規範をベースにした思想史と、溢れる情感を規律規範から切り離そうとする思想史があって、女性の着物文化は後者の流れのなかに育まれてきたのではないかと推論しているのです。

憑物(つきもの)が宿るヒト、憑物に宿られたヒト、このヒトは男でも女でもあるけれど、憑物とは物の怪、霊、霊魂、それが心に宿ってしまって、規律規範からはみ出してしまう現象なのかとも思い、憑物を祓うための宗教行事、儀礼が考案されたりしてきたのではないかと思うのです。身にまとう着物は、魔を封じ込める装置と同時に魔を引き出す装置でもあったのかなとも思う。ここで魔とは、エロスのことを想定しているわけだけれど、男と女の間に生まれる感情と生殖行為の領域です。

いつののころから男が社会的優位であるような考えが中心になったのかは、素人のぼくにはわからないですが、着物の色艶はその遺制であるようにも思えるのです。と同時に色艶ある着物は、魔の領域を持つヒトの心を封じ込め、魔の領域に入るための帳であるようにも思うのです。ぼくは、もうひとつの文化思想史の重要なファクターとして、着物色艶をとらえているのです。憑物とか魔の領域は、封じられた情の領域、えろすの領域だとイメージするのです。

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着物は肌を守るという実用をはなれて、イメージの世界を創り成していくようにも思います。まさにファッションの世界ということになるのですが、そこには<見る><見られる>という関係が成り立ちます。男が女を見る。女が男を見る。男が男を、女が女を、見る、見られる、そういう関係のなかで着物は存在するのです。ぼくはとくに女性の和装着物に興味があって、<おんなのべべ>ということに特化して語りたいと思っています。なにゆえにと聞けば、それはぼくが男であり、女を見ることに興味を覚えるからです。

美の意識といってもかなり曖昧な内容なのですが、着物は美の意識を介した女理解だと、男であるぼくは思います。ぼくのイメージによる着物は、ぼくを豊かなエロティシズムに満たせてくれる。ぼくにおける着物とは、男と女という越えがたい性の一線を引く布切れだと感じるのです。着物は、性の欲情をかきたててくる代物なのです。いやはや、着物というのは、先達がそのように感じてきた結果として、今にあるのではないかと思ってしまうのです。男としての立場とはいうけれど、この立場もあやふやな、曖昧な立場の現状ですが、ひとまづぼくは男だといっておきます。

男と女がいます。衣類に男物と女物が、いちおう区別されてあります。文化の枠組みのなかで分けられてきた区分で、男であることの意識が育まれ、たぶん女も、女であることの意識が育まれてきたものだと考えています。こうして着物が男優位の考えが主流であった時代の産物として、意匠を凝らしてきたのだと思うのです。着物の奥には性の対象としてのイメージからだがあって、着物を見ることによってそのイメージからだを彷彿させる。着物の色艶とは、まさにこのイメージ昇華の産物なのだと認知してしまうのです。

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自分自身研究室-1-
2006.10.8

ここに至って自分自身を研究する枠組みをつくっていこうと思ってしまって、自分自身研究室なるものを作り出したというわけです。
そこでなにをするのかとえいば、悟る、悟りを開く、そのための心を養うために、わけのわかったようなわからないようなことを言い出したわけです。

外向けにいろいろな仕掛けをつくって、その仕掛けを動かしていくことを、これまでにいくつか携わってきたんですけど、いつも気になっていた自分自身という器です。
自分が自分を研究するなんて、どうしたらええんやろ、なんて思いながら、恥ずかし気もなく、自分自身研究室なんて設定してしもた、というのが実態で、中味はこれから、考えていくことにします。

綜合文化研究なんて枠をつくり、地域文化研究の枠をつくったんですけど、どうも腑に落ちない、いったい自分は何なんだ、という疑問について少し思いをめぐらせてみようとしているわけです。ある意味、いまどきのテーマだと思っているわけで、ここにのろしをあげたような次第です。

掲載の写真、ぼくのいちばん古いぼくが写った写真。二歳から三歳くらい、いや一歳かもしれない、いちばん古い写真です。いまにいたる面影があるなぁと思っています。
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自分自身研究室-2-
2006.10.9

自分自身への興味を分けると、ひとつは身体のこと、ひとつは心のこと、この身体と心への興味です。
ぼくの身体は男体です。機能的に男体です。偽りなく男体です。
生まれてきて、成長してきて、生殖機能が成熟してきて、生殖させて、その機能が衰えてきて、そうして死滅していく最中にあります。
このように身体についての区分は、単純明快なわけだけれど、心っていう領域を想い描くとき、そこが混沌としているんです。

男らしさ女らしさとゆうときの「らしさ」のことです。
男は男らしく、女は女らしく、この「らしく」を含む「らしさ」です。
ここに世の中へのエージェンシー、コミュニオンが関係してくるんですね。
世の中での見かた語られかたと自分の心のありかたとの関係です。
ぼくはいったい男なのか女なのかと質問して、返る答えは、男らしくもあり女らしくもある、という感じなんです。
こういう質問と答えは、ぼく自身を混乱させ、錯乱させてしまうのですが、自分自身研究の入り口が、ここにあるような気がしているんです。
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自分自身研究室-3-
2006.12.5

自分自身研究室を開設してはや二ヶ月が経ったんですけど、いっこうに進展しない現状です。そりゃそうなんです、自分自身研究なんて言ったって、何をどのようにしていけばよいのか、迷ってしまうんですね。本音で、こころのなかを開くと、たぶん発禁になっちゃうだろうし、そうかといって履歴的なことを書いてもしやないし、なんて思っているところです。

でも、自分自身研究室を立ち上げたことによって、意識の上で、変化が起こってきてるようにも思えるんです。それまででも、自分って何?なんて自問してきたとこだけど、あらためて、考えたり、思ったりする機会に恵まれてきて、文章にはでけないけれど、写真が撮れるようになってきたと思っています。

ここに載せた写真は、今日撮った写真で、木の根っ子です。地面から、地中に根を張り、地面から、地上に幹を立てる樹木です。イメージとして、これは男イメージなんですけど、この地面の上下の様子が、何かしら自分を研究するヒントを与えてくれているような感じだといえばいいのでしょうか。まあ、まだ始まったばかり、とはいえ、デカルトさんとかカントさんとか、一生懸命考えてこられた経緯もあることだし、少しずつ紐解いていくしかないなぁ・・・。
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自分自身研究室-4-
2006.12.26

別の場所で、日々淡々と流れる、なんて書いていますけど、それはウソで、日々が淡々と流れているわけがない、と内心は思っているのですけど、血みどろだというほどの過激なものでもないな~、ただ怖さはあるわけで、過ぎ去ってきた過去を思い出すこともしばしで、特に少年期の出来事を思い出すことが多くなってきて、あるひとがゆうには、死期が近づいているのでは、なんて脅かされると、もう必死な気持ちになったりするから、やっぱり血みどろなのかな~、と過激に思ってみたり、つまり、ぼくの意識というものが醒めてあるとき、いつも網膜に映る光景を見ていたり、目を瞑っているときには、妄想が湧き出てきたり、それといっしょに感情が浮いたり沈んだりしていて、もう始末に負えないんですよね。

始末に負えないとはいっても、どっかで辻褄合わせをしていて、決して狂気のなかにいるとは思ってないから、読んだり聞いたりしてきた過去の記憶のなかに、ぼく自身がなにものであるのかを知る手立てとして、写真を持ち出してきて、自分の痕跡をたどってみたりを試みているんですね。ここに三枚目の写真、ぼく自身が保有している、ぼく自身がストレートに映っっている写真があります。向かって左がぼくで、右が弟で、いくつのときだろう?小学生になっていたのか、その前だったのか、記憶はあいまいだけど、撮られた場所は西本願寺の門を潜ったところで、そこにカメラを設えた写真師さんに撮られたものです。覚えているんです。写真師さんが鳩を呼び寄せるために餌をまいて、鳩が足元に寄ってきたところを撮ってもらった。

この写真なんかの場合だと、ストレートにぼくが写っているから判りやすいんだけれど、記憶のなかの光景を求めて、記憶の現場に立って写真を撮っても、ああ、そのときこそ淡々とした写真でしかないように思えるのです。いいえ、ぼくにはその淡々風景が、記憶の光景とダブっているから、まだリアリティがあるように思えるんだけど、他者においては、なんら意味をなさない、淡々とした光景でしかないと思っているのです。自分自身研究の切り口は、ここかもしれへんなあ、小説を書いたり、写真を組み合わせて物語を作ったりして、フィクションする原形が、ここにあるのかも知れないですね。
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自分自身研究室-5-
2007.5.6

写真の右下に1955.8とあるから、ぼくが9才のときです。今を遡ること52年前ということになります。男の子も女の子も浴衣すがたで、記念写真を撮ってもらった写真です。この写真は、ぼくの手許のものではなくて、知り合いが持っていらしたのを、複写させてもらったものです。この写真があったことは、記憶にあります。

写真を見ていると、記憶が甦ってきます。かなり具体的な記憶が甦ってきます。それらの日々が写真を見ることによって、甦ってきますから、写真は記憶を甦らせる誘発剤ですね。それと同時に、そこに定着された自分の姿が、9才だったときの自分の姿が留められているんですね。自分が自分であることを、こうして写真を介して確認するんですね。

自分が自分自身であること。この自分自身とは、いったいなんなんやろなぁ。浮遊して、前後の見境がつかなくなって、自分のいる場所がわからなくなってしまうことがままあります。現実の世界と虚構の世界を区別することができなくなってしまうことがままあります。そうゆうときに<時>を序列化し、現実を立体化させて虚構を排する作用を、写真が持っている。そうしてノスタルジックに、自分を安定させてくれます。
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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖


自然というかたち-1-
2006.11.2
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なんでもモノには形があります。そこで自然の形を考えてみます。自然のかたちには総称として、空と海と大地があります。かって宇宙創成から、地球が出来て、闇から明へと移りきて、空と海と大地に別れて形となった。海と大地は地球上の表面だから、二つにわけると、空と地球の表面という区分になるかも知れない。

ボクの興味は科学的興味であると同時に非科学的興味もあります。何が科学で、何が非科学なのかなんて、いまここでは論議しないけれど、概念として<空と海と地>を違う形として認識するわけです。

そこでぼくは、どっちかゆうと論理タイプの写真を撮るたちだから、この外枠を想定して、取材しはじめたというところです。ぼくの想いでは、<空と海と地>これを自然の器だとおもうわけで、ぼくが日常にいる場所において、カメラをそれに向けていこうと思ったのでした。

ということで、今日の写真は、痕跡シリーズと名づけたうちの<空>から1枚をアップします。

自然というかたち-2-
2006.11.5
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この海は日本海、越前岬の近くから大陸の方へカメラを向けて撮った写真です。
この被写体となった海の生成は、約2000万年から1700万年前だとされています。つまり大陸続きだったのが、日本海として広がりだしたというのです。
その頃の区分を新生代第三期とされていて、恐竜時代が終わり、哺乳類が進化してくる時代だというのです。人類の出現は、200万年ほど前だったとあります。

地球生成の全時間から見れば、この海の生成は比較的新しいといえるのかもしれません。とはいえ一言で、にせんまんねんまえ、なんて言ってしまいますけど、おそろしいほど膨大な時間なんですよね。
この項では、ちょっと科学的視点から、時間を遡ってみました。

自然というかたち-3-
2006.11.14
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地表に生える植物、どちらかというと陰性植物とイメージする苔の類があります。ぼくは、この苔の類を、生命のよみがえりというイメージで見つめています。空があり海があり地があります。空と海の現象により地に植物が生える原基が、苔のような気がします。動物が死に土に帰ったのち、再び生命としてよみがえる精気をもって、苔の類があるように思えるのです。

苔は動物ではありません。苔は植物です。植物ということを、ここでは大地から栄養素を吸収して、その生命を維持していく装置を備えた生き物だと定義しているわけです。この苔の類は、比喩的に人間模様を示唆してきます。苔は群生します。密集します。触覚をのばし花を咲かせます。じっと見つめていると、宇宙の縮図を見ているような錯覚がします。

自然というかたち-4-
2006.11.23
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この木の葉は、秋になると色づき、落葉します。
木々の生の営みを四季を通じてみていると、不思議な気持ちに見舞われてきます。自然の営みだといえば、それで解決することではなくて、その生の営みにたいする驚異と畏怖の気持ちです。

自然というかたち-5-
2006.11.29
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自然というかたちについて、いくつかの枠を考えて区切ってみて、空、海、地に生える苔、木立の葉、そうしてここでは<地>です。写真に説明は不要なのかもしれないけれど、この地は<さざれいし>と銘打たれて、下鴨神社の境内にあったものです。

これにて自然の5つの枠組みが揃ったわけです。ええ、ぼくのこれからの写真を集めていくテーマとなる枠です。そのように考えて、夏以降、写真にしたためてストックしています。このほかに<花>の枠もあり、そうしてまだ未着手<動物>、それから<ヒト>、ぼくの構想は、世界の構図をつくりたいとの思いです。
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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
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自分というかたち-1-
2006.8.5
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昨日から夏の取材に入っていて、今日は北野天満宮へデジカメを持って撮影に出かけました。北門から入り、大樹の梢を撮り、巫女文子(アヤコ)の祠を撮り、本殿まわりに設えられた神々の末社を撮り、本殿を撮り、そうして石畳の参拝道へと降りていきました。

天神さんと呼んでいる境内は、子供のころの思い出がいっぱい詰まった場所です。ボクは、記憶を甦らせ、記憶の像を描き、その場所を求めていきました。夏休みになると、この境内でサマースクールが開かれていました。管内の小学生が沢山あつまっておりました。ラヂオ体操から始まり、もう忘れてしまったけれど、なにやら催しがなされていました。

その頃から数年後になると思います。1950年代後半のことだから半世紀前の出来事です。石畳の参拝道の、そう、写真のこの場所に、縁日には母が店を出していたのです。そのとき、この場所で、何を並べていたのか覚えていないのだけれど、縁日のお客だったボクは、そこに母を見つけて、見ていたのです。

遠い記憶の残像が、木漏れ日にゆらめく地面に立ち昇ってきたとき、ボクは、そこに母がいて、円満な微笑をボクに投げ返してくれている母のイメージを描きながら、カメラを向け、シャッターを切ったわけです。半世紀前の記憶の場所に立ち、いま、その場所を写真に撮る。痕跡と名づけるシリーズの、これは一枚として収められる。自分という「かたち」を求めて、ぼくはしばらくのあいだ、この世をさまよおうと思うのです。


自分というかたち-2-
2006.8.8
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1983年だから、もう23年前のことですが、<夢幻舞台-あるいは、わが風土->という写真とエッセイをまとめた本をつくりました。この取材に入る日、思い出したかのように、その本を取り出してきて、目を通しました。ああ、これの続きだな、そう思う気持ちが、沸々と湧いてきました。お盆のこの時期、2年前の2004年に写真を撮り、「夢幻舞台」とタイトルしたアルバムをつくりました。ふたたびデジカメを持って写真を撮りだした初めての夏です。

その本には、12葉の写真と4編のエッセイが載せられているのですが、ボクはこれを定本に、細部を埋めていこうと思っているわけです。京都シリーズの第一巻として1983年に夢幻舞台が発行されているのです。その延長線上にて、ボクのかたちを作っていく作業が始まるのだと思っています。その試みをあらためて認識したわけです。

自分というかたち、というテーマを設けています。履歴という年代記を軸にしながら、その時々の気持ち、考えていたこと、それらを今に引き寄せて、記憶を辿るという風に、作業してみたいと思っているのです。かなり強い衝動として、ボクの気持ちのなかにあります。

今日も朝から、千本えんま堂へ、取材にいきました。地域限定です。3回目のお盆行事だから、おおむねの細部はわかります。写真の撮り方も若干変わってきていると思っています。たぶん残された時間、生涯つきあうことになると思うボクのトポスです。


自分というかたち-3-
2006.8.11
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この夏の盆を取材中に、ボクはボクの墓所へいきました。ボクのお墓は日蓮宗本山本法寺の中にあります。昭和49年(1974年)に建立された墓で、墓石に刻まれた建立者の名前はボクです。平成元年(1989年)の春に亡くなった母(おふくろ)が、ボクたちの墓がなかったので、墓をつくってもらったということで、真っ先におふくろが入ってしまったのです。

本阿弥光悦の菩提寺という本法寺の正門は、上京区小川通り寺の内上がる。茶道の家元、表千家の狭い道を挟んだ前にあります。どうしてボクのお墓所が此処にあるのか、その経緯をボクは訊ねたことはありません。でも、おぼろげながら、積み重ねられた記憶を整理することで、その輪郭がわかるような気がします。ボクの素性、身柄というもの、血縁というもの、それを描いてみたいと思うのです。

ボクの父(おやぢ)の母、つまりボクの祖母のことから書いてみます。たぶん明治の後半生まれの祖母(おばあちゃん)は、ボクが高校一年(昭和37年、1962年)の秋に亡くなりました。おばあちゃんは西陣織の織子で、旦那の正妻ではない女性でした。大正九年に男を産んで、その後に女を産んだヒトです。旦那の家の名前は忘れましたけれど、この旦那の家の墓所が、本法寺なのです。

だからボクのおやぢ方の父にあたるヒトは、西陣の織物産業に関係していた家のヒトだと推測しています。戸籍上でおやぢは認知されているから、おばあちゃんは俗に言う二号さんだったのでしょう。ボクが今住んでいる場所に、おばあちゃんは戦争前から住んでいました。おばあちゃんは、手機を織りながら、三味線なんかを持っていました。けっこう風流ってゆうか、囲われ女だったのかと思います。

おばあちゃんが亡くなって、遺骨が旦那の家の墓に居候するかっこうで、納められていたようです。そこでおふくろが中川家の墓を持つために、旦那の家やお寺に掛け合って、建立者としてボクの名前が刻まれた墓があるのです。ボクが28歳のときに建立されたとき「繁夫の名前にしておいた」と云っていたおふくろの言葉を思い出します。


自分というかたち-4-
2006.8.12
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数年前の話しですが、ボクはボクの家系図というのを作りました。ボクを中心として、記憶を辿りながら、おふくろやおやぢの叔父さん叔母さん、それにボクのおじいちゃん、おばあちゃんの親戚とか、ボクの知る範囲での家系図でした。

ボクが生まれたのは1946年4月です。いま現在住んでいる場所で生まれたといいます。いまボクが住んでいる家屋は、おばあちゃんが住んでいた家屋の隣です。おやぢの母親の実家で、ボクは生まれたのです。おふくろの母は、末っ子を身ごもっており、おふくろの世話ができないので、おやぢの実家で生まれたのだろうと、推測しています。

ボクが幼少の頃、小学校へあがる直前まで住んでいた所は、中京区壬生馬場町。おふくろの父が烏丸六条で和漢薬店を営んでおり、今流にゆうなら、ボクの親は、そこで和漢薬壬生支店の店長だったわけです。おやぢの母、つまりボクのおばあちゃんが、その店を一度だけ訪ねてきた記憶が、おぼろげにあります。黒いマントを着た男のヒトが同伴していて、そのヒトのことを「おっさん」と呼んでいたんです。その「おっさん」と呼ばれたヒトが、おやぢの父親だったと、思うわけです。墓の持ち主だったヒトです。ボクからいえば、父方のおじいさんにあたるヒトです。

家系図のなかで、父方のおじいさん、それにボクのおばあちゃんの系図は、そこでぷっつり切れてしまいます。ボクを可愛がってくれることになるおばあちゃんの素性は、いまのところ全くわからない。何処で生まれたのか、何処でおっさんと知り合ったのか、名前はセイといい、カタカナとひらがなが読み書きできただけのおばあちゃん。いわば何処の骨とかわからない素性の孫が、ボクだったってゆうわけです。これが父方の家系なのです。


自分というかたち-5-
2006.8.26
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母方の系図ってのはどうなんだろう。おふくろの旧姓は井上、ボクから見ておじいちゃんの姓名は井上安蔵。烏丸六条に井上和漢薬店を営んでいました。たしか丹波の出だと、おふくろから聞いたように思うが、丹波笹山近くに住んでいたおふくろの叔父さん叔母さん、苗字は岡沢と名乗っているから、ボクのおばあさんの出生地だったのかも知れない。おふくろの生年は大正12年(1923年)だから、おばあちゃんの生年は、1900年ごろと推定できます。

おふくろとおやぢの結婚は、ボクの生年月日から推定して、昭和20年(1945年)まだ戦争が終わっていない時だと思います。仲人を介しての結婚だったと聞いているから、何かの縁あって所帯をもったのだ。新居は、壬生馬場町、朱雀第一小学校と壬生車庫の真ん中あたりの向い側、市電の走っていた道路に面した花屋さんの後の家屋だった。おやぢもおふくろも、市井の生活者という無名の男女だった。おやぢは建具職人で、おふくろは理容免許を持っていた。戦後の1946年に生まれたボクは、小学校に入るまでの7年間を、壬生馬場町で過ごすことになります。

自分というかたちを、ボクが知っていくための家系を詮索しているのですが、こうしてみると、ボクっていう身体の存在の輪郭が、おぼろげながら形作ることができるように思います。父方のおばあちゃんの素性、おじいちゃんの素性、母方のおばあちゃんの素性、おじいちゃんの素性。ボクには父がいて母がいる。父と母にも、それぞれ父と母がいた。ボクの祖先の直系は、おぼろげだけれど、そこまでしかわからない。それも記憶を辿ってフィクションしているにすぎない。

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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
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日々 2006.12.16~2007.3.22

日々-1- 2006.12.16
    800kenkun0612140012
日々淡々と過ぎ去っていきます。ふっとカメラをもって散歩に出かけます。通りすがりの光景をカメラに収めます。何のこともない、淡々、目の前にある光景をカメラに収めます。このようなコンセプトで撮られる写真とゆうのは、けっして新しい手法ではなくて、ステーグリッツがすでに100年も前にやっていることだし、ボクがカメラを持つようになった30年前にも、盛んに行われた手法です。

日々淡々。毎日が大きな起伏もなく、いわばフラットな時間が流れていきます。でも、ふっと想い起こしてみると、世には深さがあり、深さは意味をもち、その意味を探ることで写真作業が行われる。視覚というのも、カメラはまさに目そのものですから、脳裏に焼きつけるように写真に焼きつける。日々淡々ですから通りすがりの光景など、意識の内にも残らない。残らないほどたわいな出来事が、目の前に起こっている。

写真には意味があります。光景を写真にするとは、光景に意味をつける作業です。日々淡々と流れる時間のなかにあって、目の前を通過する光景は、さほどの意味もないのです。意味のないものを写真にして、意味を見出そうとしても意味あるわけではありません。そうですね、意味を持たないとゆう意味を持たせようとしている、日々、なのかも知れません。

日々-2- 2006.12.18
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写真は、見てしまった光景を、記憶しておく装置だと思います。そこでは、見る&見てしまった、ということが、注目されるべきことだと考えています。<見る>とは目に映る光景の全体を関連付けて、認識、理解することだとしておきましょう。<見てしまった>というイメージには、偶然にも遭遇してしまった、という偶然性を彷彿させてきます。

ああ、ちょっと論理っぽくなってきたので、続けようかやめようかと思いながら、書き出したんだから、続けちゃえ、なんて思って続けますけど、見るとは、見ようとする意思があるんですよね。だから<見る>意思をもって、見ようとして、<見てしまった>光景というのが、写真の画面に再現された現場、このようにいえると思います。

<見えない>ものを<見える>ようにするのが写真作業だ、という考え方があります。この場合の<見えない>ものというのは、目に映る光景の背後にある意味のことで、いわば因果関係のことです。その因果関係を探った結果として写真の画面として再現される。ここに写真の意味がある。なんてこと言ってしまうボクがここにいます。

日々-3- 2006.12.20
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網膜に映る光景とは、関係があるような無いような、写真はファインダーを覗くかぎり、網膜に映った光景です。関係があるような、というのはボクの記憶の何かがショートして、火花が散ります。そんなに強いものではなければ、線香花火のお終いの、あの柳のひと筋あたりですけど、まあ、何か感じてるわけだとしておきましょう。

でも、よくよく考えてみるまでもなく、それらの光景は、むしろ無関係な光景なのだと思ってしまいます。目の前にある、肉眼で見る、リアルな光景だとは思います。テレビの画面に映し出される遠い国の光景が、目の前の光景よりも近場に感じるけれど、それはヴァーチャルな光景です。リアルであれ、ヴァーチャルであれ、心が動くことで自分を確認しているのだとすれば、そうゆう時代が現在なのでしょう。

この写真と文章を、誰かがみてくれ読んでくれる、その誰かとゆうのは、ぼくにはわからない。ここはヴァーチャル領域で、リアルではなくて、ヴァーチャルです。仮想空間なのです、といえば、じゃあ、街角の光景はリアルなのか、ぼくにはもう、どちらもヴァーチャルであり、リアルであるような、そういう錯誤に陥ってしまっているようなのです。いったい、ぼくは誰で、きみは誰なのだね。

日々-4- 2006.12.21
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この写真を見てなにを感じるかは見た人それぞれに違うと思います。写真を、思わせぶりに撮る。これは樹木の幹です。樹木の幹なんだけれども、ぼくはこの写真から、写実された樹木の幹を超えて、あるいは背後にある、何かを言おうとしている。

いいえ、別に、この写真について、この被写体について、明確な背後の思いがあるわけではありません。明確に、ではないけれど、じつはあるんです。あるはずなんです。それが<見えない>のです。見えないけれど、樹木の幹であることは、判ると思います。

写真作業は、抽象概念で語られる<見えない>中身を、具体的な図象をつらねて<見える>ようにすることだ、なんてことはいいません、いいえ、いいます。でも、これって、ほんとにそんなことできるんやろか、いやいや、そんなことしなくったって、写真を見て、ワクワク、ドキドキしたら、その写真は価値があるんとちがう?、なんて思ったりもして、未整理、未分化、未消化、浮遊してたらええのんや!

日々-5- 2006.12.24
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あんまり面白くもない写真を掲載することには憚る気持ちもあるので、どうしようかと迷いながら、この写真を日々の一枚に加えたわけだけれど、写真として優れているわけでもないし、その日12月23日の朝、テレビを見ていたら今天皇の誕生日だということで、お顔が映っていて何度も聞きなれたお声がスピーカーからながれ出ていて、ある特別な日なんだ、と思ったのでした。午後三時まえになって、前日の残り寿司飯と、お揚げと千切りネギを一緒にフライパンで焼いてあったおかずで、遅めのお昼ごはんを食べて、カメラを持って散歩がてらに、今日の目的は、まだ未訪問のそこを探索しにいくことでした。

デシタルカメラをポケットに入れて、目的地までシャッターを切らずに、赴いたのでした。目印の小松原児童公園のそばを通って、華道の小松原流家元さんのおうちを初めて見て、その道路の反対側が、目的地の裏側になっていて、腰高ほどの石垣をぐるっとまわって、南に向いた表へ出たというわけで、立ち入り禁止の看板はでていなくて、みだりにたちいらないこと、という看板だけだったので、まあ、でも、ちょっと膝を折り気味で、起立でもなく座るでもなく、カメラを向けて入っていって、写真に収めたのでした。

なにも信仰心がそうさせているのではないと思っているのですけど、京都文化をテーマに研究みたいなことをやっていこうと思っていて、その文化の源泉がその系図にあるように思えていて、でもさ、写真ってそのときの光景しか撮れないわけだから、現場に立って撮っていくわけだけれど、これは表象で、あとは何時の間にか培われてしまった意識の分別で、それらしい光景を撮り、それらしい文章を連ねて、立体意識化しようとの目的をもっているわけです。

日々-6- 2006.12.29
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いつものように朝がきて、外をみると雪が舞っていて、それはこの冬最初の雪でした。雪が降ることが比較的少ない京都にいて、雪が降る光景に出くわすことは、少しワクワク気分になります。いつものように歯を磨き顔を洗って朝食の準備にはいります。コーヒーを四杯分セットして、手作りパンにシュレッドチーズをのせてトースターへ入れて、リンゴとニンジンとレモンのフレッシュジュースを作って、彼女はカフェオレ、ぼくはブラックのままだけど、自家製ヨーグルトにミルクをまぜて、飲むヨーグルトにして、金柑甘露煮1個を食べました。

日々淡々、繰り返し、繰り返し、雪止まず、昼下がりに、カメラをポケットにしまいこみ、傘をさして、煙草を買いに家を出て、道草食うように行きなれた児童公園へはいって写真を撮り、ぐるっとまわって煙草の自販機前に立ち、煙草を買い求めて帰り道、いつものようにいつもの場所で、今日はカメラを持っているから写真を撮ります。中学三年の夏休み、初めてアルバイトをした八百屋があった衣笠市場が懐かしくって、それに寺の内通りの起点となる橋があって、橋の向うは洛中で、立った位置は洛外で、洛中洛外を分ける紙屋川です。

半世紀以上もこの場所から、この光景を見続けてきたぼくは、なんの不思議もなく違和感もなく、いいえ、そうではなくて、この場所にいることが不思議なのであり、いつも違和感を覚えるぼくがいるのです。もうそのときには雪も止んでいて、薄日が射す空となり、師走の道を人が通り過ぎていくのでした。

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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の京都寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖

日々 2006.12.16~2007.3.22
    
日々-7- 2007.1.5
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ここ数年、毎年大晦日には除夜の鐘を突きにいっています。この大晦日には、その前の大晦日と同様に、けっきょくは閻魔堂の鐘を突きました。年末年始だからといって、特別には扱わないでおこうと思う気持ちが強いのだけれど、世の中がこの日を区切っているから、それに便乗している、いいえ、気分的には、させられているといった感じです。

でもね、そうゆう気持ちとは裏腹に、日々を過ごしていくということは、晴れの日を作らないとやっていかれへんのやなぁ、とも思います。日々淡々なんていいながら、日々淡々ではなくて、どろどろ、泥まみれの心があって、それを浄化させるためのセレモニー、晴れの日。お正月とゆうのは、その年最初の晴れの日なのです。

京都に生まれて、京都に育って、目線は東京とか大阪とか、大都会の方へ向いていたけれど、けっきょくは生まれ育った地場である京都を意識して、日々生きていこうと思っているところです。でも、なあ、只の生活者にしかすぎないとしても、只の生活者では満足でけへんなぁ。そこで、再びカメラを持ち、パソコンを使って文章を書き、あわよくば京都人が語る京都の本質、みたいな物語を作っていて、それに自分を乗せようと思っているのです。

記録者自らが地場を記録することで記録が成立する。言い方はいろいろあるけれど、民俗学者の柳田国男せんせいが、理想たる記録の方法として論じているのを、写真家東松照明さんと交情があったころ、1980年代の初めに知って、それから四半世紀が経って、いまぼくの制作の方法論として、ベースにおいているところなのです。これは論なのであって、その論に従っていこうと思っているわけで、そこに情の源泉をみいだせれば、ぼくはきっとハッピーなわけです。そうゆう死に際をも想定している昨今です。

日々-8- 2007.1.11
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かって賑わった町が、時代とともに衰退していくとゆうのはよくある話で、半世紀という時間軸は、それを見てきた者にとって、ノスタルジックな、つまり感傷的な情緒をともなって、小さな旅へと誘ってくれているようです。まま生まれ育った町を、カメラを持って歩いていて、よみがえってくるのは、かってそこにあったぼく自身がいた光景です。

そうゆうことでいえば、千本今出川界隈とゆうのは、ぼくの生活空間ではなかったけれど、映画館とか飲食店とかパチンコ店とか、月に一回か二回、親に連れられ、叔母さんに連れられ、つまり大人の遊び場として垣間見てきた街でした。高校生になったそのころ、三島由紀夫の金閣寺を読み、舞台が京都であり、確か主人公が包丁だったかを買う店が通りの角にあって、その店先を見るたびに、その小説を思い出す。それよりなにより、そのころ陰惨な気分だったぼくが週に一遍、日曜日、アルバイトしていた寿司屋があって、いわば十代半ばの思い出がよみがえる場所でもあります。

寿司寅と看板された空間、その家の中での光景がよみがえってきて、その日々の人の顔がよみがえってきて、まったく縁の無い関係から、しだいに関係していくストーリーが出来上がっていくのです。たまたまお店の張り紙、アルバイト募集を見て、戸を開けたんだけれど、その戸を開けたのは偶然ではなくて、ストーリーがあったことが、思い出されてきます。大将の嫁さんがタエコの母親の妹で、寿司を握っている筆頭使用人がタエコの父親で、タエコは三人姉妹の真ん中で、クラスは違ったけれど中学の同級生で、いつのまにか友だちを少し越えたような関係になって、中学卒業と同時に関係が終わって、かれこれ半年過ぎたころ、張り紙に応募したというわけです。

タエコが水事故でいなくなったのが何時だったか、葬儀にはいかなかったけれど、という記憶だけで推測するとタエコの死は18を越えたころだったのかも知れない。うん、ちょこっと話をすれば、偶然にだったけれど、はじめて手を握った女の子なんです。ぽちゃぽちゃ、あったかい、やわらかい、いま思い出しているわけで、握ってしまって二人がバツ悪そうに動作が止まって、それは数秒間だったように思い出します、中学三年でした。ウンウン、季節は夏です、薄手のワンピースでシャツもブラも着けてなかったなぁタエコ。記憶は糸を引くように思い出されては消えていきます。<思い出は狩りの角笛、風のなかに音は消えゆく>だったか、こんな詩句までも思い出してしまった2007.1.11-AM10:12-。

日々-9- 2007.1.12
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あんまりロングショットの写真は好まないんですが、といいながらよく使ってますけど、写真には説明不要、イメージで追いかける写真と、説明して納得できる写真があるんだと解釈して、ちょっと説明していくと、向うに見えるのは比叡山です。撮影のポジションは、建勲神社の正面上り口途中です。建勲神社の正面から石段を昇っていって、途中で振り返ると、こうゆう光景が目にできたわけです。

だれやねん、比叡山焼き討ちした武将、たしか織田信長とか、ええ、この建勲神社は織田信長を奉る神社なのです。それもこの神社、明治天皇の命により奉ったとあるから、歴史は新しい。ただし、神社がある場所は、船岡山の東側斜面です。船岡山は京都の基点となるポイントです。平安京造営のとき、このポイントを基点にして、真南に大極殿を造営したようです。比叡山が聖地となるのは、平安京造営後だから、船岡山界隈の歴史のほうが古いんですね。

船岡山の少し北に今宮神社、少し東に玄武神社があります。大極殿の北方位、玄武方位にあたる界隈です。京都の鬼門であり疫病は鬼門からやってくるから、鬼門に神社を置く、まあ、いわゆる神頼みってことですね。なんでいま、こんなこと考えて書いてるんやねん、自分に聞いているんですけど、年とともに方位とか距離とか、つまり人間の遠近法感覚に興味をもちだしていて、いろいろ詮索していくと、どうもこの船岡山というポイントが、推論ですけど、日本文化の基軸・基点であるように思えているのです。そうゆう場所に、建勲神社が造営されたとゆうこと、天皇は一等地に奉ることを許したわけですね。

いや、ね、ぼくの思いではね、信長が存命しておれば、戦国の世に、いわゆる共和制国家への萌芽があったかも知れないなぁ、と思ったりしてしまうのです。まあ、四百数十年まえのことだから、だれも推論するしかないんだけれど、なんかの因縁やなぁ、信長が築城した安土にて、塾を主宰しだしたこととか、なにか因縁めいた迷信を作っているようですね。それと、方位とか距離へのイメージは、今日の場合だと具体的な地理的距離を指していますけど、高天が原とか浄土とか、そうゆう世界が想像されたヒトの心に興味もあったりして、現実と夢幻をごっちゃにして、近代遠近法を越えられるかなぁ、超えちゃいたいなぁ、天の浮橋を昇りだしているのかなぁ、それとも黄泉の国へ・・・。

日々-10- 2007.1.18
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散歩にでかけるとき、玄関を出て、東西南北、どっちへ行こうかと迷うことがままあります。歩くというのは前へ進むことで、前へ進むとゆうことは、東西南北、方向が決まるということで、ところが歩ける道はすでに作られていて、それの選択とゆうことになります。この日(2007.1.16)は、自宅から西へ向かって西大路まで歩き、そっから北へと歩いていくのでした。到達する目的地は決まっていて、ちょっと遠回りして行こうかと、道すがらの光景を写真にしながら、北上するのでした。

大文字山が見える。電線が邪魔やなぁ、ある種写真制作的発想で、そう思ってしまうわけだけれど、いっぽうでそうやないやろ、あるもんはあるんやから、いっしょに写しこんでしまえ、それでええんや、なんて妙に納得しながらシャッターをきるのでした。そういえばこの光景、この場所から何時こんな風に見えるようになったんやろ、かって農林年金会館という施設があって、いまは金閣寺の駐車場になっているんやね。

大文字山は言わずもがな年に1回、8月16日の夜にデビューします。そのお山へ登った記憶は小学生のころ、中学生になると衣笠山へ登ったんや。大文字山界隈は、子供のころの遊び場でした。なにやって遊んでたんやろ、チャンバラ、探検隊、ぼくらは少年探偵団、大文字山から奥の方へいくと洞穴があって、それは自然の洞穴ではなくて、採掘の跡やった。洞穴の中へ入ることは恐怖に満ちた未知の体験やったなぁ。

光景を見るたびに、見るといってもかなり意識して見るたびに、思い出が通り過ぎていきます。ふるさとは遠きにありておもふもの、犀星の詩句ですね、ふるさとは近くにありておもふもの、ノマド的発想ではなくて地場に住み着いたぼくのこころは、いかがなものか。生まれ育った場所にて、散歩の道すがら写真を撮るとゆう行為。これぞ最新、あたらしい方法論、てなぐわいに想ってみたりもしながら、ぶつぶつ自問のお散歩なのでした。

日々-11- 2007.3.20
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月に一回、この頃に郵便局、銀行、信用金庫と金融機関をはしごします。とゆうのも、公共料金やらクレジットやら、金融機関引き落としを利用しているから、現ナマを追加しておかなければならないから、西大路の金閣寺からわら天神にいたる東側を、一巡するわけです。

今日の一巡には、カメラがポケットに仕舞われていて、ぶらぶらお散歩とは違う、目的外出と平行して写真を撮ったというわけです。いつものように、ストリートを撮ります。肖像権ってのがあって、本人了解、なんてことは、ううん、無視無視。街角風景の一部なんやから、そんでええやん、なんて思いながら、ひとがはいるとスリリングな気分を味わうわけです。

写真には、覗き見的要素がある、そのスリリングさを、味わうってことですね。いいのかわるいのかしらないけれど、多少の後ろめたさの気持ちもあって、そしらぬ顔して撮っているわけです。イージーなもんやなぁ、自分でもそう思っているわけで、写真としての価値どうこう以前に、まあ、スリリングやなぁ、と思っている、ささやかなたのしみ&はじかみ、若返ったような気分です。

日々-12- 2007.3.22
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昨日は春分の日、東山花灯路イベントに、観光客気分でいってきました。観光客っていう気分は、京都の表の顔にふれることができると思っていて、観光客が京都へ来たときに見るお土産屋さんとか、神社とか、お寺とか、その表面をみる気分です。祇園までバスで行って、そこから八坂神社の境内を通って東門、ううんまだ明るかったから、人の数は少なかった。何年か前に訪れたことがあるのですが、あんまり明確な記憶がないまま、カメラをポケットに仕舞いこんだまま、彼女と一緒に散策でした。

これは最近の、京都の観光イベントだから、それほどの思い入れもないので、写真を撮るのはもっぱら人が群がる光景に向いていきます。人恋しいんやなぁ。この世の見納め、なんてゆうほど深刻ではないけれど、最近、目の前に現れる光景には、何を見ても美しさを感じる。美しさといったけれど、表記の言葉が見つからないから、その一言に集約したけれど、まあ、人を見たり、明るいお店を見たり、これはわくわく気分です。

お祭り気分、祝祭気分、晴れの場、明るい、うれしい・・・。理屈やなくて気分なんです。気に入った写真をアップしているわけだけれど、これは自分のためにあるのであって、つまり自己満足、それだけです。といいながら、ブログに載せて、見せているわけですけど、まあ、いっか、かなりイージーな気分です。

<日々>終わり

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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の京都寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖


自分とゆうことの研究
  2007.7.15
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なんかここの枠組みの大筋が、自分と文化の批評ということを標榜しているので、それに則した文章にしんとあかんわいなぁと思えばおもうほど、文章が書きづらくなってきて、あんまし呆けてられへんなぁ、と思うことしきりです。とゆうのも、自分を研究するなんて、あるいは批評するなんて、そんなことして何になるの?なんてことにぶつかってしまうわけで、自分のことが迷宮入りになって、にっちもさっちも行かなくなって、どうしようもないんやなぁ。

そこで、ぼくは、それを打破するために、自分とは他者の中にあって、自分が発見できるんだ、と考えて、自分を位置づけるために、関係性という概念を導入しようとしているようにも思います。人間関係、人関係、ひとはなんらかの関係があります。遠い人と近い人、遠い人が近い人になってくる関係、それとは逆の関係、などで構成される関係性です。そりゃあ、まあ、いちばん近い関係はといえば家族だと思うし、家族のレベルでも濃淡があると思うし、友達とか、仕事関係だとか、いろいろなきっかけを介在させて、関係を成立させているのです。あとは、利害と無償なんてレベルで遠近を計ることもできると思うし、同好であるゆえの関係とゆうのもありだと思います。

自分を表現するというレベルで、表現が介在する関係を考えているわけですが、特に写真とかの制作物を介して、関係を持つ位置関係、なんだか言葉で示すのもむつかしいのですが、自分と他者との位置関係を明確にすることが必要なのかなぁ、そう思ったり、それを明確にすることもなくて、混沌のままがいい、そう思ったりしています。なに、写真という表現物を介して、なにをどう表現できるのか、果たして、自分とゆうことは、いったいどうゆうことなのだろう。ああ、難しい・・・。


1967年を思い出す
  2007.7.20
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いま2007年だから、40年もまえのことになる。思い出しているのは、その頃のことです。というのも、昨日、歩いている途中に、いくつかの記憶がよみがえってきて、それを思い出して記録していくのもいいかなぁ、と思って、いまここに、このような書き出しで、始めたというわけです。ひとはいかにして行動するか、余った時間というか予定の無い時間に、何かをする、散歩するといったようなときの話しです。

最初の目的は、彼女と一緒に、大極殿址まで歩くつもりをしていたのです。大極殿址は、千本丸太町の西北にあり、現在は児童公園となっています。というのも今回、初めて訪ねてわかったことでした。うんうん、この近所へは何度も来ており、通過している場所でしたが、訪問は初めてです。興味がここにあって、足を伸ばしてみたいと思ったのには、春からの京都探索の思いのなかで出てきたものです。

標題の1967年というのは、大極殿址を訪ねて、それからの行程のなかで思い出されてきた事柄でした。大極殿址が千本丸太町で、そっから南下してJR二条駅まで行こうと思った。最近JR二条駅は再開発とやらで、光景が大きく変わってきています。そこにあるビルの一角にローソンがあって、そこで飲み物を買い、店内のカウンターに座って、飲んで安上がりの休憩となった。

あとの行程を羅列すれば、二条駅から三条商店街を歩いて、堀川通りへ出て、南下して四条通りを東へとり、最近目につくホーリーカフェでホットコーヒー休憩を取りました。そこにて相談した次なる行程は、四条烏丸から大丸へ行き、店内通過で錦へ行こうということで、いいえ目的地は、三条河原町角のむさしで、回転寿司をたべるため、そこに決めました。思い出は錦を出て、寺町通りを北上するあたりから、濃厚になってきて、40年前にあった喫茶店を探し出したわけです、嵯峨野という名の喫茶店。


  2007.7.31
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7月末日といえば、夏真っ盛りといったところで、8月に突入してお盆までが、夏の感覚、イメージです。そんな今年の夏は、夏を写真に撮りたいとの想いがあって、しかし、夏のイメージってゆうても、町中で何をどのように撮ろうかなぁ、なんて思っているうちに夏真っ盛りといった感じです。うん、うん、今日は、朝一番に光を撮って、午前中に天満宮中心に千本通りへ、午後には今宮神社にいたるコースで、廬山寺通りを東へ大宮通りまで、そっから北上、大徳寺境内を通って今宮神社といったところです。

あしたから8月、撮影の方はどうするかなぁ、このまま続けるか、方向転換するか、まあ、思ってはいるけれど、当面は継続やろなぁ、なんて思っているところで、もっぱら撮影とアルバムつくりに明け暮れている感じです。たばこをやめて一ヶ月が過ぎたところですけど、まだまだたばこが懐かしい感じで、文章を書くとか、落ち着いて考えるとか、ちょっとできない感じなので、まあ、外出して写真撮影に専念しようとの気持ちもあるわけです。

町中で人物を中心に写真を撮っているところです。まあ、若い女性を中心とした被写体で、写真をコレクションしている、あるいは採集といってもいい手法です。子供の頃に昆虫採集とか植物採集とか、夏休みにやったじゃないですか。大人になって、もう屑箱に足を突っ込んでしまった今になっての採集は、けっきょくのところ若い女の子採集とゆうことで、破廉恥このうえない、えろおやじにしかすぎない、こうゆう気持ちがふつふつ湧いてきて、もうやめようかなぁ、と迷うわけです。平成の西鶴を目指して、なんて心に思っているってこともあって、どっちかゆうとアラーキーが近いかなぁ・・・。

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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
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今年のお盆
  2007.8.7
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今日は8月7日です。最近は毎年、8月になるとお盆の写真撮影について考えます。今年は、7月の祇園祭巡行が終わった日以後、京都の夏の写真を撮ろうと思って、日々カメラを持って写しているところです。そうして、今日からお盆のお迎え行事が始まる京都です。午前中に、千本閻魔堂へ様子を見にいってみようと思っています。お盆の頃の京都を眺めるぼくは、それらの光景を夢幻舞台と呼んでいて、アルバムにしているとことです。1983年の夏に取材し、夢幻舞台というタイトルで、小冊子だけど自費出版したことがあります。3年前にその続編のようなかたちで、デジタルカメラを持って祭礼の現場へ行き、写真に撮ってアルバムにしています。

そんないきさつもあり、今年となっているわけです。六道の珍皇寺界隈へも行っておこうと思うのですが、そうやねぇ、今日の午後からでも行ってみようかなぁ、なんて思っています。で、こうして行事を追いかけて、写真にして、いったいそれがどうしたん??、なんて考えてしまうのもこの季節です。いつも考えてるといえば言えますけど、夏の今頃、つまりお盆の頃、あの世とこの世の交感時期のこととして、やっぱり年々、生と死について思ってしまう。つまり肉体の衰えを自覚してしまう、死に向かっている自分を思っているのです。

まあ、60歳を超えてしまって、世間では還暦、赤ちゃんに戻るなんてこともいうので、そこまでは戻れないけれど、若い自分に戻った感じで、若い頃には決してできなかったテーマで、写真撮影しています。女の子が主役になる写真群です。まあ、いまさら恥も外聞もないじゃないか、なんて思って死に際にいたって、えろじじいの様相を帯びてきたなぁ、なんて思うところです。とはいっても、撮って発表する写真には限界があるので、限界以下のところはどうするのか、という問題を抱えているところです。今現在の解決方法は、別人を作り上げているところで自分の中で整合性を保っているといえます。

夏のおわりに
  2007.8.30
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今日は8月30日、もう暦ではとうに夏が終わっているのに、気分がなかなか切り替えられなくて、それでも月が替わるとなると、ひとつのけじめな気がして、いくつかの作業も終え、そうして始める準備をしている今日です。今日は雨、朝からしびしびと雨が降り出してきて、夏の風情は消えうせて、秋雨みたいな気分です。最近は、毎日、写真撮り歩きです。あんまり文章が書けない。このブログへも、今月は一回きりです。律儀なぼくは、もう一回、文章を書いて夏の終わりにしようと思っているところです。

9月から気分入れ替えてスタートしたい、と思っているけれど、なになにそんなに簡単に気分が切り替わるわけではないので、当分は、もたもた、こんな調子で、でも日々写真は、ちょっとお休みしようかな、とも思っています。なにせ取材対象が町角で、神社仏閣で、なにせ人を中心に捉えたいと思っていて、それがちょっときつくなってきた感じなので、自然体に任せようとも思っているのです。釜ヶ崎も白虎社も被写体となったのが人そのもの、その流れでいうと、ぼくの写真の被写体は人という流れが出てきて、この春以降、その現場を生み出してきた気がしています。

町角スナップという手法で、それが写真現場で有効なのか、それとも無効なのか、そんなことも考えながらの作業であって、表写真を撮っているけれど、インパクトないなぁ、とそんな思いもしているところです。

何のために・・・
  2007.9.7
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写真を撮って、文章を書いて、そうしてこのうようなウエブサイトに発表しているわけですが、いったいこれは何のため、という疑問に当たっていて、明確な答えが見つからない。もちろんこのような問いかけが、明確な答えを見出せないということは、経験的に知っているわけで、ある種ナンセンスな問いかけなのですが、やっぱりこだわってしまうのです。

暇つぶし、なんて思いたくはないけれど、結局そんなものかも知れないな、と思うと感情的に迫ってくるのもがあります。金儲けのため、とか人を喜ばすため、とか理由があってこそ、その目的が、何のための<何>になるからいいけれど、そうではないとき、困ってしまうんです。

たとえば100年ほど前に、パリにおいて写真を撮っていたアッジェは、絵描きさんのための下絵つくりとして写真を撮っていたというし、アメリカのアンセル・アダムスは、ヨセミテ公園の自然を絵葉書のようにして売っていたというし、まあ、目的とすればそうゆうところかと思います。でも、そうではない立場にいるぼくとしては、何のために写真を撮ってるの、と質問したら明確な答えが返ってきないから、困ってしまうのです。

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