記憶の痕跡
2006.2.12~2006.5.3
-1-
記憶の痕跡を求めて、生まれて幼少を過ごした場所に立った。その場所に過ごしたのは、1946年から1953年だった。あれこれ半世紀以上が過ぎ去った。そこには道路があり、家屋があった。ボクの記憶の痕跡を求めて、デジタルカメラを持って自転車に乗り、幼児の記憶に残っている場所を確認してまわった。
住まっていた場所の家屋は新しくなっており、焼け跡の広場だったところに、家屋が密集している。記憶の光景はどこにもないけれど、ボクの記憶は、その地点を確認する。
そこは洋風の二階建て家屋だった。表が本通りに面しており、和漢薬を商う店舗だった。台風が襲来し、ショウウインドウのガラスが割れて、ベニヤ板が張られていた。その前は花屋だった家屋には地下室があり、薄暗い地下室は恐怖をいだかせる空間だった。
ボクが生まれてから6歳まで住んだ家屋の記憶が、甦っては消えていった。写真は今の姿を撮ることしかできないけれど、写真を撮るボクの脳裏には、その場所を確認し、かってあった姿として記録されるのだ。
-2-
親が昭和31年(1956年)に新調した写真アルバムが、手元にある。いま確認してみると、ボクの記憶の写真は、七頁目の右端に、糊付けされている。名刺半分の大きさだ。子供達が七人並んで写っている写真だ。夏のころである。ランニングシャツとパンツ、髪の毛は、男の子は丸刈り、女の子はおかっぱ姿である。七人の子供は電柱を背にして四人が座り、三人が立っている。ボクは立っている一人だ。
撮影は昭和25年か26年の夏だろう。見知らぬ人に撮影されたのち、写った写真を持ってきて買わされたものだ。当時の記憶がよみがえる。その写真が、手元に届いたときの光景を覚えている。父親がブツブツ言いながら、お金を払っていた。
それから半世紀以上が経って、ボクはその電柱を目当てにシャッターを切った。電柱は当時より少し移動している感があるけれど、ほぼ同じ位置に、記憶の電柱があった。道沿いの家屋が建て替えられ、電柱が立て替えられてはいるとしても、その場所は、当時のボクをとどめる唯一の写真だ。
ボクが所有する幼少の写真は、二枚だ。一枚目は、一歳前後に写真館で撮られた写真。二枚目が、電柱の前で撮ってもらった写真だ。ボクの記憶に残る幼少のころの外風景をとどめる唯一の写真が、ここにある。
-3-
ここに一枚の写真がある。撮影は1950年ごろ、ボクが所有するボクが写った写真だ。写真には、撮られた時、見られる時がある。撮られた時から、見られる時、この写真の場合、時間経過はおよそ55年の歳月だ。
この写真は、ボク自身にまつわる写真だから、この写真を見ることによって、当時の記憶が、よみがえってくる。記憶が記憶を呼んで、その頃のこと、そこから派生する様々なことが思い起こされてくる。
日記がある。手紙の類がある。それらは文字で書かれた記憶である。それらの文字で書かれたものを読むと、書かれたその時の記憶がよみがえってくる。そうして当時の様々なことが思い起こされてくる。
写真と文章。形式は違うけれど、記憶装置のインターフェースだ。ヒトは、記憶を持つことでヒトでありうる。手元にある記憶のインタフェースは、作品ではない。しいて言うなれば、作品となる素材である。この素材が作品に組み込まれることによって、文学作品や写真作品が成立していく。写真や文章、記念写真や日記の類は、ボクにとっての作品素材なのです。
-4-
50数年前、1953年(昭和28年)に、ボクが小学校に入学したときのクラス写真です。先日、そのクラスの同窓会なるものが開かれ、半数近くの同期の男女が集まりました。他聞にもれず、昔を懐かしむ声しきりで、あれから50年以上経ったとゆうのに、記憶のなかの面影を確認しながら、名前を確認し、時間が過ぎるにつれ、当時の記憶が糸をたぐるように、よみがえってくるのでした。
数枚の写真が、複写されて席に持ち込まれていて、ボクはその写真をデジカメで撮りました。服装とか履物とか、当時の痕跡をとどめたまま、封印されてきて、それらの子らが大人になって、老年期を迎えるころになって、封印が解かれた。記憶は、50数年の歳月を一気に飛び越して、子供のころのままの関係で、今、再会を迎えたのです。それぞれに人生の物語をつくってきて、いまに至っているのだけれど、記憶の痕跡は、時空を超えているようです。
旧友に会う、古い写真にめぐり合う。過去があり、現在があり、そうして未知の未来がある人生です。生きた証の記憶として、旧友があり、写真があり、そうして同窓会があった。まあ、ヒトそれぞれの記憶の痕跡を、自分の外に持つことで、確認できる人生でもあるのでしょう。
-5-
50年後に再会したとき、探そうとしたものは、失われた記憶でした。だれかが50年前の写真を見せてくれ、確かに記憶の中にあった写真を目の前にして、ボクは、目の前にいる人の現在と、50年前のその人とをダブらせながら、面影をみとめ、50年前にタイムスリップしていくのでした。
記憶のイメージと目の前の人、同窓生であるというだけで、水平感覚を得るものです。世の中に、人はみな同じだとはいえ、財を得てリッチな生活を得る人もいれば、そうでない人もいる。また、世間でいう有名、無名、所属などの比較で、優れた人もいれば、そうでない人もいる。大人になってからの人と人の関係なんぞ、この比較のうえに立った関係のような気がします。
小学校1年生という年代に知り合った関係というのは、男とか女とかを意識しなかった関係であり、貧富なんぞ意識しなかった関係だった。50年を過ぎ去らせた、そこにいた人との関係は、そういう意味で、水平感覚、水平位置としてありました。記憶の痕跡は、人と人との関係をつくりなす基本態なのかも知れないと思います。
<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の昭和寫眞帖
2006.2.12~2006.5.3
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記憶の痕跡を求めて、生まれて幼少を過ごした場所に立った。その場所に過ごしたのは、1946年から1953年だった。あれこれ半世紀以上が過ぎ去った。そこには道路があり、家屋があった。ボクの記憶の痕跡を求めて、デジタルカメラを持って自転車に乗り、幼児の記憶に残っている場所を確認してまわった。
住まっていた場所の家屋は新しくなっており、焼け跡の広場だったところに、家屋が密集している。記憶の光景はどこにもないけれど、ボクの記憶は、その地点を確認する。
そこは洋風の二階建て家屋だった。表が本通りに面しており、和漢薬を商う店舗だった。台風が襲来し、ショウウインドウのガラスが割れて、ベニヤ板が張られていた。その前は花屋だった家屋には地下室があり、薄暗い地下室は恐怖をいだかせる空間だった。
ボクが生まれてから6歳まで住んだ家屋の記憶が、甦っては消えていった。写真は今の姿を撮ることしかできないけれど、写真を撮るボクの脳裏には、その場所を確認し、かってあった姿として記録されるのだ。
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親が昭和31年(1956年)に新調した写真アルバムが、手元にある。いま確認してみると、ボクの記憶の写真は、七頁目の右端に、糊付けされている。名刺半分の大きさだ。子供達が七人並んで写っている写真だ。夏のころである。ランニングシャツとパンツ、髪の毛は、男の子は丸刈り、女の子はおかっぱ姿である。七人の子供は電柱を背にして四人が座り、三人が立っている。ボクは立っている一人だ。
撮影は昭和25年か26年の夏だろう。見知らぬ人に撮影されたのち、写った写真を持ってきて買わされたものだ。当時の記憶がよみがえる。その写真が、手元に届いたときの光景を覚えている。父親がブツブツ言いながら、お金を払っていた。
それから半世紀以上が経って、ボクはその電柱を目当てにシャッターを切った。電柱は当時より少し移動している感があるけれど、ほぼ同じ位置に、記憶の電柱があった。道沿いの家屋が建て替えられ、電柱が立て替えられてはいるとしても、その場所は、当時のボクをとどめる唯一の写真だ。
ボクが所有する幼少の写真は、二枚だ。一枚目は、一歳前後に写真館で撮られた写真。二枚目が、電柱の前で撮ってもらった写真だ。ボクの記憶に残る幼少のころの外風景をとどめる唯一の写真が、ここにある。
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ここに一枚の写真がある。撮影は1950年ごろ、ボクが所有するボクが写った写真だ。写真には、撮られた時、見られる時がある。撮られた時から、見られる時、この写真の場合、時間経過はおよそ55年の歳月だ。
この写真は、ボク自身にまつわる写真だから、この写真を見ることによって、当時の記憶が、よみがえってくる。記憶が記憶を呼んで、その頃のこと、そこから派生する様々なことが思い起こされてくる。
日記がある。手紙の類がある。それらは文字で書かれた記憶である。それらの文字で書かれたものを読むと、書かれたその時の記憶がよみがえってくる。そうして当時の様々なことが思い起こされてくる。
写真と文章。形式は違うけれど、記憶装置のインターフェースだ。ヒトは、記憶を持つことでヒトでありうる。手元にある記憶のインタフェースは、作品ではない。しいて言うなれば、作品となる素材である。この素材が作品に組み込まれることによって、文学作品や写真作品が成立していく。写真や文章、記念写真や日記の類は、ボクにとっての作品素材なのです。
-4-
50数年前、1953年(昭和28年)に、ボクが小学校に入学したときのクラス写真です。先日、そのクラスの同窓会なるものが開かれ、半数近くの同期の男女が集まりました。他聞にもれず、昔を懐かしむ声しきりで、あれから50年以上経ったとゆうのに、記憶のなかの面影を確認しながら、名前を確認し、時間が過ぎるにつれ、当時の記憶が糸をたぐるように、よみがえってくるのでした。
数枚の写真が、複写されて席に持ち込まれていて、ボクはその写真をデジカメで撮りました。服装とか履物とか、当時の痕跡をとどめたまま、封印されてきて、それらの子らが大人になって、老年期を迎えるころになって、封印が解かれた。記憶は、50数年の歳月を一気に飛び越して、子供のころのままの関係で、今、再会を迎えたのです。それぞれに人生の物語をつくってきて、いまに至っているのだけれど、記憶の痕跡は、時空を超えているようです。
旧友に会う、古い写真にめぐり合う。過去があり、現在があり、そうして未知の未来がある人生です。生きた証の記憶として、旧友があり、写真があり、そうして同窓会があった。まあ、ヒトそれぞれの記憶の痕跡を、自分の外に持つことで、確認できる人生でもあるのでしょう。
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50年後に再会したとき、探そうとしたものは、失われた記憶でした。だれかが50年前の写真を見せてくれ、確かに記憶の中にあった写真を目の前にして、ボクは、目の前にいる人の現在と、50年前のその人とをダブらせながら、面影をみとめ、50年前にタイムスリップしていくのでした。
記憶のイメージと目の前の人、同窓生であるというだけで、水平感覚を得るものです。世の中に、人はみな同じだとはいえ、財を得てリッチな生活を得る人もいれば、そうでない人もいる。また、世間でいう有名、無名、所属などの比較で、優れた人もいれば、そうでない人もいる。大人になってからの人と人の関係なんぞ、この比較のうえに立った関係のような気がします。
小学校1年生という年代に知り合った関係というのは、男とか女とかを意識しなかった関係であり、貧富なんぞ意識しなかった関係だった。50年を過ぎ去らせた、そこにいた人との関係は、そういう意味で、水平感覚、水平位置としてありました。記憶の痕跡は、人と人との関係をつくりなす基本態なのかも知れないと思います。
<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の昭和寫眞帖