中川繁夫写文集

カテゴリ: 記憶の痕跡

記憶の痕跡
2006.2.12~2006.5.3

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記憶の痕跡を求めて、生まれて幼少を過ごした場所に立った。その場所に過ごしたのは、1946年から1953年だった。あれこれ半世紀以上が過ぎ去った。そこには道路があり、家屋があった。ボクの記憶の痕跡を求めて、デジタルカメラを持って自転車に乗り、幼児の記憶に残っている場所を確認してまわった。
     
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住まっていた場所の家屋は新しくなっており、焼け跡の広場だったところに、家屋が密集している。記憶の光景はどこにもないけれど、ボクの記憶は、その地点を確認する。

そこは洋風の二階建て家屋だった。表が本通りに面しており、和漢薬を商う店舗だった。台風が襲来し、ショウウインドウのガラスが割れて、ベニヤ板が張られていた。その前は花屋だった家屋には地下室があり、薄暗い地下室は恐怖をいだかせる空間だった。

ボクが生まれてから6歳まで住んだ家屋の記憶が、甦っては消えていった。写真は今の姿を撮ることしかできないけれど、写真を撮るボクの脳裏には、その場所を確認し、かってあった姿として記録されるのだ。

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親が昭和31年(1956年)に新調した写真アルバムが、手元にある。いま確認してみると、ボクの記憶の写真は、七頁目の右端に、糊付けされている。名刺半分の大きさだ。子供達が七人並んで写っている写真だ。夏のころである。ランニングシャツとパンツ、髪の毛は、男の子は丸刈り、女の子はおかっぱ姿である。七人の子供は電柱を背にして四人が座り、三人が立っている。ボクは立っている一人だ。

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撮影は昭和25年か26年の夏だろう。見知らぬ人に撮影されたのち、写った写真を持ってきて買わされたものだ。当時の記憶がよみがえる。その写真が、手元に届いたときの光景を覚えている。父親がブツブツ言いながら、お金を払っていた。

それから半世紀以上が経って、ボクはその電柱を目当てにシャッターを切った。電柱は当時より少し移動している感があるけれど、ほぼ同じ位置に、記憶の電柱があった。道沿いの家屋が建て替えられ、電柱が立て替えられてはいるとしても、その場所は、当時のボクをとどめる唯一の写真だ。

ボクが所有する幼少の写真は、二枚だ。一枚目は、一歳前後に写真館で撮られた写真。二枚目が、電柱の前で撮ってもらった写真だ。ボクの記憶に残る幼少のころの外風景をとどめる唯一の写真が、ここにある。

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ここに一枚の写真がある。撮影は1950年ごろ、ボクが所有するボクが写った写真だ。写真には、撮られた時、見られる時がある。撮られた時から、見られる時、この写真の場合、時間経過はおよそ55年の歳月だ。

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この写真は、ボク自身にまつわる写真だから、この写真を見ることによって、当時の記憶が、よみがえってくる。記憶が記憶を呼んで、その頃のこと、そこから派生する様々なことが思い起こされてくる。

日記がある。手紙の類がある。それらは文字で書かれた記憶である。それらの文字で書かれたものを読むと、書かれたその時の記憶がよみがえってくる。そうして当時の様々なことが思い起こされてくる。

写真と文章。形式は違うけれど、記憶装置のインターフェースだ。ヒトは、記憶を持つことでヒトでありうる。手元にある記憶のインタフェースは、作品ではない。しいて言うなれば、作品となる素材である。この素材が作品に組み込まれることによって、文学作品や写真作品が成立していく。写真や文章、記念写真や日記の類は、ボクにとっての作品素材なのです。

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50数年前、1953年(昭和28年)に、ボクが小学校に入学したときのクラス写真です。先日、そのクラスの同窓会なるものが開かれ、半数近くの同期の男女が集まりました。他聞にもれず、昔を懐かしむ声しきりで、あれから50年以上経ったとゆうのに、記憶のなかの面影を確認しながら、名前を確認し、時間が過ぎるにつれ、当時の記憶が糸をたぐるように、よみがえってくるのでした。

数枚の写真が、複写されて席に持ち込まれていて、ボクはその写真をデジカメで撮りました。服装とか履物とか、当時の痕跡をとどめたまま、封印されてきて、それらの子らが大人になって、老年期を迎えるころになって、封印が解かれた。記憶は、50数年の歳月を一気に飛び越して、子供のころのままの関係で、今、再会を迎えたのです。それぞれに人生の物語をつくってきて、いまに至っているのだけれど、記憶の痕跡は、時空を超えているようです。

旧友に会う、古い写真にめぐり合う。過去があり、現在があり、そうして未知の未来がある人生です。生きた証の記憶として、旧友があり、写真があり、そうして同窓会があった。まあ、ヒトそれぞれの記憶の痕跡を、自分の外に持つことで、確認できる人生でもあるのでしょう。

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50年後に再会したとき、探そうとしたものは、失われた記憶でした。だれかが50年前の写真を見せてくれ、確かに記憶の中にあった写真を目の前にして、ボクは、目の前にいる人の現在と、50年前のその人とをダブらせながら、面影をみとめ、50年前にタイムスリップしていくのでした。

記憶のイメージと目の前の人、同窓生であるというだけで、水平感覚を得るものです。世の中に、人はみな同じだとはいえ、財を得てリッチな生活を得る人もいれば、そうでない人もいる。また、世間でいう有名、無名、所属などの比較で、優れた人もいれば、そうでない人もいる。大人になってからの人と人の関係なんぞ、この比較のうえに立った関係のような気がします。

小学校1年生という年代に知り合った関係というのは、男とか女とかを意識しなかった関係であり、貧富なんぞ意識しなかった関係だった。50年を過ぎ去らせた、そこにいた人との関係は、そういう意味で、水平感覚、水平位置としてありました。記憶の痕跡は、人と人との関係をつくりなす基本態なのかも知れないと思います。



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記憶の痕跡 2006.7.21~

光の痕跡
2006.7.21

光ってのは生命の源泉だと思うんよね。
この世のしきたりってのも光が基準のように思うんよね。
まづ闇があって、そっから明暗に別れるわけでしょ。
その明をつくりだすのが光ってわけさ。
植物ってのは、光を摂取して光合成するわけだし、
動物ってのは、光で合成された酸素を吸って生きてくわけだし、
光ってのは、生命の源泉なんですね。
人間さまだって、光を求めてやまない動物でしょ。
光ある処を求めて、脚光を浴びたい、認められたい!
なんて、光あるところは、情のエクスタシー領域でもあるんやろねぇ。
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写メール文学
2006.7.7~7.14

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文学作品というのは、作家を自認する個人が、個人の内部でつくりあげるイメージを文章化したものだといいます。この限りにおいて、文学作品は、作家と読者という二項に分けられたあり方です。ところで最近は、ネットワークを通して個人と個人が写真と文章を交換しあうことがあります。写メール交換です。

アートの形を、個人間の関係性のなかに見出す論があります。これまであったアートの形、すなわち作家と鑑賞者という関係のなかで、出来あがった作品をその介在とするという、従前の形ではなくて、制作プロセスそのものをアートの行為とみなすのです。作家を自認する制作者のプロセスを、ライブで享受するというにとどまらず、行為者が複数登場するなかで、アートが行われる。関係性のアートです。

文学の試みを、この関係性のなかに置いてみようというのが、この項の目的です。文学作品が、制作のプロセスを複数で共有し、生成していく中味自体をもって作品となる。そうゆう形です。さて、そこには文章と写真が置かれる。文学と写真というジャンルを融合させ、なお、複数の個人により生成させられる形を、文学の新しい形として、提起したいと考えているのです。
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作り手がいて、読み手がいる。作者がいて、読者がいる。作者が中心にあって、読者はその周辺にいる。まあ、既存の文学形式は、このような構造を持っているわけです。この構造の中心となる作者を、個人の集合体とするというのが、写メール文学の発想です。自我なくして文章は書かれえない、という前提を否定することはできませんから、文章を書く基本体は、個人です。

この個人と個人の写真と文章の交換によって、ある場が作られ、その場が文学の場となる。この場というのは、仮想空間場であって、作者自身が読者であり、読者自身が作者である、という関係がその場に生じるわけです。この関係場にいる個人そのものの形が、文学の主体となるのです。

連歌、応答歌、そういえば、写メール文学として思考する、この関係は、かってあった形態に類似するものです。制作し呼応しあう当事者のなかに生じる心の動き、それ自体を重視する文学態といえばいいかも知れないですね。作者と享受者が一体となった関係の文学態です。

この写メール文学は、既存の文学形式を解体するものだと考えています。あるいは近代文学の形式が成立する以前の、まだ文学という概念が成立しなかった頃の、文章による情の交換場であったそのものを、新たな現代ツールによって再生させる試みでもあると考えます。ええ、これは、文学という概念からすれば、文学以前のたわごとにすぎない考え方だと一笑にされることです。でも、アートという概念を、関係性を中心に組みなおしていくと、文学というアートの形をも、このように組みなおしたい道筋なのです。
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天地
2006.12.4~2007.1.6

天地の天-1-
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歴史のはじめは、天と地が分かれたときから始まるとゆう認識で、よろしいのでしょうか。この国の創造物語、古事記の最初に天之御中主神-あめのみなかぬしのかみ-という名前の神が記述されています。これって天の中央にあって天地を主宰する神の意味なんだそうですね。つまり太陽のことなんでしょうね。そこでボクは、 天地の天シリーズの最初に、この光のある写真をもってきたわけです。

とある坂道をのぼりはじめたとき、目の正面に、光輝くところがありました。目を向けたところ眩くって見ることができません。カメラを持ち出してみたところ、形は捉えられず、ただただ眩く、真っ白になっているだけでした。

ボクの興味は天地、形あるものとしての天地、とはいえ天に形があるかのかといえば、形ではなく現象があります。地はどうかといえば土石の塊としての形があります。太陽は光を放つ星として形がありますけれど、通常状態では、カメラの能力を超えていて、形として収めることができないのです。

思いつき程度の試みで、これから光あるところで写真を作り、文章を書いていくわけですが、<天地の天>と<天地の地>という二つの枠で、ボクは創作していきたいと思うのです。

天地の地-1-
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地は、鉱物であって、岩石であって、無機物であります。それは生命体ではありません。天の雨がしみわたり、年月を経て石になり、砂になっていくのだと、理科で習ったものです。地には四方があり、今の言葉でいえば、東・西・南・北、かっては方位を、白虎・青龍・朱雀・玄武と呼んでいたそうな。その頃にもこの地があったわけで、これ、方位でゆうと玄武の方位です。

とゆのもこの写真に撮った地は、京都の北に位置する船岡山だからです。船岡山の北側斜面に剥きでた石肌なのです。船岡山は、平安京造営のときに北の基点となった場所だといいます。そういえば、この船岡山の北に今宮神社があり、東に玄武神社があります。今宮神社は、元は疫神社といいましたとあり、玄武神社は京都の鬼門に置かれたと聞き覚えております。

天然自然現象を、そのすがたかたちを、ヒトは怖れおののき、自分を超えたなにものかを感じたのでしょうね。今、ボクは神というイメージに興味を示していて、神が出る場所を詮索しているわけで、つまり、ボクの心の或る処で、それを感じる感じ方というものを詮索したいと想っているのです。

天地の天-2-
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2006年12月19日の天。京都は北野白梅町。ぼくはカメラをもって散歩にでかけ、この交差点に立っておりました。午後二時過ぎの出来事です。冬至に近い日は、快晴の青天、とはいえ、かってあったような深い青天ではなく、少し白濁したかのような青天です。

このポイントの記憶のはじめは、小学生のころに遡ります。そうして高校に入学する日のことが甦り、時折々の記憶が甦ってくるのでした。高校に入学する日、いまは亡き母が一緒にいて、ここから嵐電に乗っていったことが甦り、母の追憶とでもいうように、かってあった母の面影を甦らせるのでした。

それらはすでに半世紀も以前のことであり、記憶をもったぼくは、ぼくの生きてきた時間を、反芻しながら、カメラのシャッターを切るのでした。街並みの光景が変わり、行き交う人の衣装が変わり、昔の面影が一変している光景を確認していくぼくが、そこポイントにいて、それにしても天からの光の姿は、それほど変わっていないんだろうなと思ったりしているのでした。

天地の地-2-
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聖地には石があると読み聞きた記憶があります。聖地とは聖なる地のことで、聖とは、国語辞典によると、1:知徳に非常にすぐれている人。ひじり。2:その道の達人。3:神聖。4:天皇に関する物事に添えることば。5:キリスト教などで聖者の名に冠することば。とあります。ぼくが使っている国語辞典は、昭和31年初版発行の角川国語辞典です。小学校の六年のときだったかに買ってもらった辞典です。

石は地の原形のひとつだと思っています。この石の在処は、京都は船岡山の建勲神社の境内です。この石の所在場所が、聖地なのかどうかを、ぼくは、いまのところ判断しませんけれど、俗にいう聖地の範疇にはいる処です。そのように想うと、なんだか霊験あらたかなるインスピレーションを、感じてしまうようにも思えてきて、水したたりおち、苔むしている地なのです。

石は鉱物、水は無機物、苔は有機物です。それを見て、感じて、認識するぼくは有機体の動物です。鬱蒼としたたたずまいのなかにある、この地を見て、鬱蒼を体感して、霊験あらたかなる気分になります。天地がわかれて、最初にあらわれた地だ、とはいいませんけれど、ぼくにとっての鬼門なのかも知れないなぁ、と想ったりしてしまう処のような気がしています。

天地の天-3-
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2006年12月22日の天。大阪府島本町桜井付近。この日付は冬至です。撮影日時は、つまり太陽がいちばん南になった日の午後4時前ごろだったと思います。ここは天王山に近く、水無瀬に近く、桜井の駅跡があるというトポスです。縁あってぼくの近場になっている場所です。天といい地といい、そこに歴史をみるという視点から、写真が撮られてタイトルつけられ、若干のコメント文をつけていく作業を試みているのです。この作業は、ぼくによるぼく自身のあとづけ作業なのだと思っていて、ぼくの内面系譜を正当化しようと思っていて、記憶の場所にて、天に向けて写真を撮っているのです。

ぼく自身を権威つけようとか、正当性を証明しようとかの意図があるわけではなくて、客観性を欠いた、主観に基づく、自分探しの試みなのだと思っているのです。たとえば素性というものが、ヒトが生きるうえで重要なファクターとなっているのであれば、ぼくの素性は祖父祖母の顔を思い出すレベルで、それ以前のことはわからない。わからないとゆうことは、素性が知れないということにつながり、俗に言うどこの馬の骨なのかわからないとゆうことだと自認しているわけです。

これはぼく存在以前を、時系列的に辿ってみて、ぼくの居る場所を定着させる試みとは無縁だと思っていて、ぼくの内面意識の深さレベルで、ぼくを捉えていこうとしている、これは芸術行為なのだと解釈しているわけです。というのも、ぼくの今様問題意識が、個の生成と記憶というテーマに根ざしていて、見えない個の記憶を、見えるように形つくろうと思っているのです。ぼくにとっては、ぼく誕生のときに天地が分かれたわけで、それから僅少60年とゆう歳月を経てきたいまの内面意識を、構造化したいと思う行為なのです。

天地の地-3-
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地の底にはなにがあるのかといえば、黄泉国(よみのくに)があるといいます。つまり暗黒で死者のいく処だとゆうのです。ぼくには、そうゆう処が実在としてあるとは考えないのですが、ふうっと、生まれる以前、生まれて今ある、死滅以後という想いが起こってきて、恐怖にいたる気持ちを抱くことがあります。個体の誕生と死滅という生命現象を、からだのことだけではなくて、こころをことを交えて考えると、以前、以後がじつは大きな関心事として立ち上がってくるのです。

ぼくらの世代は、唯物論とか実存主義という考え方をベースに、論を組み立てる時代に学んできたわけだし、教育の根幹に神代の話はいっさい無く、民主主義だとゆう概念で知識が育まれてきたわけです。今様の問題意識でいえば、ぼくのありかは何処にあるのか、つまりアイデンティティ問題なわけで、パンとミルクの給食と、欧米賛美意識で埋まれたぼく自身を、最近になって生活実感とそぐってないなぁ、と思うようになっているのです。

死して行く処がある、その場所は、黄泉国ではなくて天上の国でありたい。こころがそのように思うから、黄泉国への出入り口には封印をしてしまいたい。地表と地下は一体のものだから、なんにもしなければ地下に行ってしまう。だから、ここから、天に向ける想いがわいてくるのだと思ってしまうのです。ぼくはやっぱり天地の天を想い描きたい、そのように思う年齢に至りだしたんやなぁ、と思わざるをえないのです。

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紫式部
2007.1.8~1.15

紫式部供養塔
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紫式部といえば源氏物語の作者さんです。古典文学の高嶺に留まったまま延々千年、読み継がれてきて、現代語訳も与謝野、谷崎、瀬戸内、それぞれに書き改めていらっしゃる魅力ある古典です。ここ京都は千本鞍馬口にある千本閻魔堂(引接寺)の境内北西に置かれている紫式部の供養塔です。多層塔だけれど、写真は下部二層です。

男と女の物語は、古今東西、永遠のテーマであるようで、男と女の、恋と愛、哀れと悲しみ、えろすを基軸としています。京都の文化を見つめようとしているぼくにとって、いよいよそれが出番であるように思えてきているところです。神イメージから引き継がれてくる豊穣えろす世界の原形のように思うのです。

紫式部墓所
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堀川北大路下るといえばいいのか、堀川鞍馬口上るといえばいいのか、つまり紫式部の墓所がある場所のことです。京都の地名は、道の交点の南北を先に東西を後につけて「上る下る」というのですが、その言い方に従ってゆうと、前記の二つの呼び名が当てはまります。縁起をかついで「上る」とすると、紫式部の墓の在処は、堀川通り鞍馬口上る、とゆうことになります。

彼女の代表作、源氏物語は、寛弘六年頃(西暦1009年頃)完成を見たとありますから、およそ千年の昔に書かれた物語です。さて、墓地がここにありますが、この地が本当かどうかは疑わしいといいます。この墓石はそんなに昔ではなくて、近年のものです。でも、まあ、場所をつくり形に残すことで、視覚として認識できるいわけですから、それはそれでいいと思います。ぼくは今日(2007.1.11)あらためて訪れて、写真にしたわけで、京都巡りの一助となるものだと思っています。

墓ない人は儚い人生、なんてお墓やさんが書いてはったけど、そうやね、30数年前に写真を撮り出したころ、クラブに入ってて、月一回の例会が、お墓やさんの二階やったか三階やったか、それで、ぼくが入るお墓は、本法寺にあって、表千家と裏千家の玄関前にあるお寺、紫式部さんと近場といえば直線で300mほどやろか、よろしゅうにたのみます、とのお近づきのしるしも込めての表敬訪問だったのです(ウソ)。

紫式部通り
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古記録に紫式部の墓は、雲林院の南に存した、とあるといいます。現存する雲林院は、北大路通り大徳寺前の交差点東南の一角にありますが、その南というポイントでは、いま、日曜朝市が開かれています。源氏物語の成立が1009年前後だとあり、それから約千年の時空を経てきた今です。京都の町は雅。そこには生きられた人々の歴史があり、暮らしがあった。そのことに明確に気づいたのは、昨日(2007.1.14)のことです。「紫野ほのぼの日曜・朝市」なるイベントが開かれている場所。ぼくはその場所へ赴き、写真を撮っていたそのときです。

一、二の三、いっちにいのさ~ん!掛け声です(笑)、ぺったんぺったんお餅つき。タオの第一章に、無名、有名とゆう字句があり、無名は万物の始めなり、有名は万物の母なりといい、無から有へ、名がつけられて人間の世界が成立するといいます。そおゆうことでいえば「紫式部通りにておこなわれている朝市でのお餅つき」との名がつけられて、ぼくの前に成立している現(うつつ)なのです。この光景は因果関係の末にあり、森羅万象の原則に帰していくとき、光景の意味が生成してくる。

いやぁ、ね、ちょっと、人間なんてのは、無意味を好まなくて、有意味、つまり意味有ることを探ろうとするじゃありませんか。なんとかこじつけてでも、意味を作ろうとするじゃありませんか。つまり、ぼくは人間であって、この人間であることの法則に基づいて、日々生きていることに気づいているのです。だから、こうして、有意味らしくしようとしているわけで、神と紫式部と朝市餅つきを、系列化しようとして、無駄な抵抗となるやろなぁ、を試みているわけです。

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着物色艶
2007.1.26~2007.2.14

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べべ、着物のことを京都ではそのように呼びます。なにを想うかは人それぞれにちがうとおもうけれど、ぼくの場合だったら、やっぱり色艶、女子の色艶、えろすの香り、えろすの感情、ちょっと悲惨で陰鬱な気分も醸しだされる着物です。ぼくは西陣生まれの西陣育ち、このかた半世紀あまりを、この地で育っているから、とはいえぼくの親は西陣織物には関与していなくて、父の祖母、叔母が機織工をしているので、気分的には地場の人だと思っていて、制作現場にいる女たちの隠れた色艶を感じてしまうのです。

着物が時代遅れの着衣になって、特殊な立場の、特殊な御時に、身にまとう民族衣装となって、久しい感じがしますけれど、ぼくの二世代うえの人たちは日々着物で過ごしていたのです。もちろん色艶を感じさせる色合いの着物ではなかったけれど、多くは紺の色地だったけれど、古着の山をみて、一袋幾らで売られている着物をみて、やっぱり悲哀を感じるんです。

女が男に愛されるための着物、だとは断定しないけれど、赤とか桃色を基調にした染め柄は、やっぱりえろすを彷彿とさせるのです。源氏物語が執筆されて千年。精神史はその流れの直系にあって、縁日では若い女性たちが着物の山を崩しながら、物色している光景は、さながら源氏に心を寄せ女の今様かとも思えてきて、内に燃える炎を垣間見る感じがしてくるのです。

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大きく歴史の流れをイメージしてみると、神話の時代から有史時代に入るところで、二つの大きな流れとなる分岐点があるのではないかと思うのです。実証科学的な観点は持ちえていないけれど、イメージとして、規律規範をベースにした思想史と、溢れる情感を規律規範から切り離そうとする思想史があって、女性の着物文化は後者の流れのなかに育まれてきたのではないかと推論しているのです。

憑物(つきもの)が宿るヒト、憑物に宿られたヒト、このヒトは男でも女でもあるけれど、憑物とは物の怪、霊、霊魂、それが心に宿ってしまって、規律規範からはみ出してしまう現象なのかとも思い、憑物を祓うための宗教行事、儀礼が考案されたりしてきたのではないかと思うのです。身にまとう着物は、魔を封じ込める装置と同時に魔を引き出す装置でもあったのかなとも思う。ここで魔とは、エロスのことを想定しているわけだけれど、男と女の間に生まれる感情と生殖行為の領域です。

いつののころから男が社会的優位であるような考えが中心になったのかは、素人のぼくにはわからないですが、着物の色艶はその遺制であるようにも思えるのです。と同時に色艶ある着物は、魔の領域を持つヒトの心を封じ込め、魔の領域に入るための帳であるようにも思うのです。ぼくは、もうひとつの文化思想史の重要なファクターとして、着物色艶をとらえているのです。憑物とか魔の領域は、封じられた情の領域、えろすの領域だとイメージするのです。

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着物は肌を守るという実用をはなれて、イメージの世界を創り成していくようにも思います。まさにファッションの世界ということになるのですが、そこには<見る><見られる>という関係が成り立ちます。男が女を見る。女が男を見る。男が男を、女が女を、見る、見られる、そういう関係のなかで着物は存在するのです。ぼくはとくに女性の和装着物に興味があって、<おんなのべべ>ということに特化して語りたいと思っています。なにゆえにと聞けば、それはぼくが男であり、女を見ることに興味を覚えるからです。

美の意識といってもかなり曖昧な内容なのですが、着物は美の意識を介した女理解だと、男であるぼくは思います。ぼくのイメージによる着物は、ぼくを豊かなエロティシズムに満たせてくれる。ぼくにおける着物とは、男と女という越えがたい性の一線を引く布切れだと感じるのです。着物は、性の欲情をかきたててくる代物なのです。いやはや、着物というのは、先達がそのように感じてきた結果として、今にあるのではないかと思ってしまうのです。男としての立場とはいうけれど、この立場もあやふやな、曖昧な立場の現状ですが、ひとまづぼくは男だといっておきます。

男と女がいます。衣類に男物と女物が、いちおう区別されてあります。文化の枠組みのなかで分けられてきた区分で、男であることの意識が育まれ、たぶん女も、女であることの意識が育まれてきたものだと考えています。こうして着物が男優位の考えが主流であった時代の産物として、意匠を凝らしてきたのだと思うのです。着物の奥には性の対象としてのイメージからだがあって、着物を見ることによってそのイメージからだを彷彿させる。着物の色艶とは、まさにこのイメージ昇華の産物なのだと認知してしまうのです。

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