自分探し
  2007.9.19
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けっきょく、自分という存在を確認しようと思って、あれこれ詮索しているんじゃないか、と思っていて、その具体的な行動が、いまやっている写真を撮る、そのことなんだと、いちおう結論つけて、ここから再び、論が始まるわけです。人生60年なんて言っていた時代の感覚でいえば、僕なんぞはもう寿命が終わっているわけで、別に意識しているわけではないけれど、やたらとあの世のことなどに関心がでてきて、そこへの橋渡しをしたいような気持ちになってきて、きっとこれは永遠の時間確保のための詮索にちがいないと思ってしまいます。

人の成熟というか年月の重ね方で、区切りということであれば、20年単位というのが、大きな区切りで、20歳まで、40歳まで、60歳まで、それぞれの20年間に変化していく人生です。60を越えてしまうと、そこはもう未知の世界で、やっぱり自分探しをしているんですね。けっきょく一生かかって、自分って何、なんてこと考えながら、結論でないままに、あの世へともっていくのかなぁ、とも思ったり・・・。ここで、すでにぼくの思考は、終着点を出発点にするループに入っていて、うんうん、エンドレスなんやと思おうとしていますねぇ。

最近の写真は、今様来迎図をイメージしています。夏の最中にそのイメージがわいてきて、それまで、どっちかゆうと地獄の方に目が向いていて、そのイメージを模索したりしていたけれど、来迎図なんです。自分を探しているその先にあるのが、そのイメージであるようにも思えてきて、これが60歳を越えた直近の自分です。そうして見れば、来迎図なんて、若いぴちぴち女模倣のかたまり図であるわけで、あの世が桃色であると思うことで、安らぎ嘆き、それがこの世との橋渡しだ、なんて思ったのでしょうね、きっと・・・。


フォトする
  2007.9.28
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写真を撮るなんて言葉のニュアンスをイメージしているつもりが、いまどき<写真を撮る>なんて言葉、はやらないんじゃないかと、ふと思ってしまうのでした。そうしたら、いまどきなら、どうゆう言い方が妥当なんやろう、<フォトする>なんていい方が、コマーシャルであったような気がしていて、フォトする、そうですね、これがいいかも知れないですね。そこで、フォトする、って行為をひらべったくいえば、デジカメもってあちこちおもむくままにシャッターを切る。つまりフォトするわけです。

1976年ごろの話だから、すでに30年前のことですけど、ニコマートってカメラからニコンF2ってカメラに変えたころ、一眼レフ高級カメラを手に入れて、36枚撮りモノクロフィルムで撮りまくった。撮りまくったっていっても、普通は3本100カット強、10本撮って360カットですね。それだけ撮ると、あと処理が大変な労力、またはお金がいるんです。そんな時代の写真を撮った日々のことを思い出しながら、いま2007年。デジタルカメラの時代です。つい先日、2台目デジカメとしてキャノンのパワーショットA720って機種を買いました。1Gメモリーと充電式バッテリーをつけて¥39840でした。

なによりデジカメ、ランニングコストがいらないのは収入が極端に少ないぼくにとっては、すっごい救いで、毎日300~400カット、フィルムなら10本分前後を使うわけですから、処理お金に換算していったら、とてもやないけど、写真撮れへん、いいやフォトでけへん。それがデジカメで、あとの経費はほぼゼロです。そうゆう時代なんですね、いま・・・。あらためて、言い聞かせて、そうゆう時代だから、ね。だから、写真を撮るなんて表現は、もうやめてしまって、フォトする、なんてことがいいんだと思います。携帯電話カメラふくめ、だれもが日常的にカメラを持っている時代なわけですから、ね。


ふりだしに戻す
  2007.10.14
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こどものころ、すごろく遊びをしていて、ふりだしに戻る、なんて枠にはまってしまって、最初に戻ってしまう羽目になってしまうことがありました。すごろくは、すごろくをふって出た数をゴールに向けて進めていく競争で、早くゴールに達した人が勝ちというわけでした。いまさら、そんなこどものころの出来事を思い出してしまうのは、人生さまざま、すごろくみたいなもんやなぁ、そう思ってしまうんです。ゴールを目指しても、どこがゴールなのか、進めば進むほどゴールが遠い感じがして、けっきょくゴールなんてなくて、からだ消滅がまっているところが、つまりすごろく遊びのゴールかなぁ、と妙に納得してしまって、むなしくて、いてもたってもいられない、そんなとき、どうしたらいいのかしら。

これまでに何度もふりだしに戻ろうと思って、それなりにふりだしに戻って、再出発感覚で日々をすすめてきたことがあります。日々、時間なんて単調に流れているものですけど、そこに自分流気持ちが入り込んで、強弱、前へ進む、後ろへ後退する、なんてイメージで物事の流れをつかもうとしています。そうこうしているいま、なんかしら、ふりだしに戻る、なんて言葉がふつふつと沸いてくるんです。どこまで戻ろうかしら、なんて、戻りようもない時間を、戻ろうとしている。で、もし戻れるとしても、これが最後の戻りだろうなぁ、とふっと思ってしまいます。

そんなこと、こんなこと、いろいろ思い、言葉をつらね、そうして単調な時間の流れを、起伏ある時間にしようとしているんですね。むなしいったらありゃしないですね。もっと個別具体的に書かないと、ちっともすっきりしないですけど、こうしてぐだぐだ、いらだたしいけど、文字を連ねて、何かしら意味ありげに作っている、そうゆうことをふりだしに戻したい、人生もうこれまでだよ!

※掲載の写真は2014.7.30撮影です。

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖