中川繁夫写文集

カテゴリ: 記憶の痕跡

自分自身研究室-1-
2006.10.8

ここに至って自分自身を研究する枠組みをつくっていこうと思ってしまって、自分自身研究室なるものを作り出したというわけです。
そこでなにをするのかとえいば、悟る、悟りを開く、そのための心を養うために、わけのわかったようなわからないようなことを言い出したわけです。

外向けにいろいろな仕掛けをつくって、その仕掛けを動かしていくことを、これまでにいくつか携わってきたんですけど、いつも気になっていた自分自身という器です。
自分が自分を研究するなんて、どうしたらええんやろ、なんて思いながら、恥ずかし気もなく、自分自身研究室なんて設定してしもた、というのが実態で、中味はこれから、考えていくことにします。

綜合文化研究なんて枠をつくり、地域文化研究の枠をつくったんですけど、どうも腑に落ちない、いったい自分は何なんだ、という疑問について少し思いをめぐらせてみようとしているわけです。ある意味、いまどきのテーマだと思っているわけで、ここにのろしをあげたような次第です。

掲載の写真、ぼくのいちばん古いぼくが写った写真。二歳から三歳くらい、いや一歳かもしれない、いちばん古い写真です。いまにいたる面影があるなぁと思っています。
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自分自身研究室-2-
2006.10.9

自分自身への興味を分けると、ひとつは身体のこと、ひとつは心のこと、この身体と心への興味です。
ぼくの身体は男体です。機能的に男体です。偽りなく男体です。
生まれてきて、成長してきて、生殖機能が成熟してきて、生殖させて、その機能が衰えてきて、そうして死滅していく最中にあります。
このように身体についての区分は、単純明快なわけだけれど、心っていう領域を想い描くとき、そこが混沌としているんです。

男らしさ女らしさとゆうときの「らしさ」のことです。
男は男らしく、女は女らしく、この「らしく」を含む「らしさ」です。
ここに世の中へのエージェンシー、コミュニオンが関係してくるんですね。
世の中での見かた語られかたと自分の心のありかたとの関係です。
ぼくはいったい男なのか女なのかと質問して、返る答えは、男らしくもあり女らしくもある、という感じなんです。
こういう質問と答えは、ぼく自身を混乱させ、錯乱させてしまうのですが、自分自身研究の入り口が、ここにあるような気がしているんです。
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自分自身研究室-3-
2006.12.5

自分自身研究室を開設してはや二ヶ月が経ったんですけど、いっこうに進展しない現状です。そりゃそうなんです、自分自身研究なんて言ったって、何をどのようにしていけばよいのか、迷ってしまうんですね。本音で、こころのなかを開くと、たぶん発禁になっちゃうだろうし、そうかといって履歴的なことを書いてもしやないし、なんて思っているところです。

でも、自分自身研究室を立ち上げたことによって、意識の上で、変化が起こってきてるようにも思えるんです。それまででも、自分って何?なんて自問してきたとこだけど、あらためて、考えたり、思ったりする機会に恵まれてきて、文章にはでけないけれど、写真が撮れるようになってきたと思っています。

ここに載せた写真は、今日撮った写真で、木の根っ子です。地面から、地中に根を張り、地面から、地上に幹を立てる樹木です。イメージとして、これは男イメージなんですけど、この地面の上下の様子が、何かしら自分を研究するヒントを与えてくれているような感じだといえばいいのでしょうか。まあ、まだ始まったばかり、とはいえ、デカルトさんとかカントさんとか、一生懸命考えてこられた経緯もあることだし、少しずつ紐解いていくしかないなぁ・・・。
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自分自身研究室-4-
2006.12.26

別の場所で、日々淡々と流れる、なんて書いていますけど、それはウソで、日々が淡々と流れているわけがない、と内心は思っているのですけど、血みどろだというほどの過激なものでもないな~、ただ怖さはあるわけで、過ぎ去ってきた過去を思い出すこともしばしで、特に少年期の出来事を思い出すことが多くなってきて、あるひとがゆうには、死期が近づいているのでは、なんて脅かされると、もう必死な気持ちになったりするから、やっぱり血みどろなのかな~、と過激に思ってみたり、つまり、ぼくの意識というものが醒めてあるとき、いつも網膜に映る光景を見ていたり、目を瞑っているときには、妄想が湧き出てきたり、それといっしょに感情が浮いたり沈んだりしていて、もう始末に負えないんですよね。

始末に負えないとはいっても、どっかで辻褄合わせをしていて、決して狂気のなかにいるとは思ってないから、読んだり聞いたりしてきた過去の記憶のなかに、ぼく自身がなにものであるのかを知る手立てとして、写真を持ち出してきて、自分の痕跡をたどってみたりを試みているんですね。ここに三枚目の写真、ぼく自身が保有している、ぼく自身がストレートに映っっている写真があります。向かって左がぼくで、右が弟で、いくつのときだろう?小学生になっていたのか、その前だったのか、記憶はあいまいだけど、撮られた場所は西本願寺の門を潜ったところで、そこにカメラを設えた写真師さんに撮られたものです。覚えているんです。写真師さんが鳩を呼び寄せるために餌をまいて、鳩が足元に寄ってきたところを撮ってもらった。

この写真なんかの場合だと、ストレートにぼくが写っているから判りやすいんだけれど、記憶のなかの光景を求めて、記憶の現場に立って写真を撮っても、ああ、そのときこそ淡々とした写真でしかないように思えるのです。いいえ、ぼくにはその淡々風景が、記憶の光景とダブっているから、まだリアリティがあるように思えるんだけど、他者においては、なんら意味をなさない、淡々とした光景でしかないと思っているのです。自分自身研究の切り口は、ここかもしれへんなあ、小説を書いたり、写真を組み合わせて物語を作ったりして、フィクションする原形が、ここにあるのかも知れないですね。
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自分自身研究室-5-
2007.5.6

写真の右下に1955.8とあるから、ぼくが9才のときです。今を遡ること52年前ということになります。男の子も女の子も浴衣すがたで、記念写真を撮ってもらった写真です。この写真は、ぼくの手許のものではなくて、知り合いが持っていらしたのを、複写させてもらったものです。この写真があったことは、記憶にあります。

写真を見ていると、記憶が甦ってきます。かなり具体的な記憶が甦ってきます。それらの日々が写真を見ることによって、甦ってきますから、写真は記憶を甦らせる誘発剤ですね。それと同時に、そこに定着された自分の姿が、9才だったときの自分の姿が留められているんですね。自分が自分であることを、こうして写真を介して確認するんですね。

自分が自分自身であること。この自分自身とは、いったいなんなんやろなぁ。浮遊して、前後の見境がつかなくなって、自分のいる場所がわからなくなってしまうことがままあります。現実の世界と虚構の世界を区別することができなくなってしまうことがままあります。そうゆうときに<時>を序列化し、現実を立体化させて虚構を排する作用を、写真が持っている。そうしてノスタルジックに、自分を安定させてくれます。
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自然というかたち-1-
2006.11.2
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なんでもモノには形があります。そこで自然の形を考えてみます。自然のかたちには総称として、空と海と大地があります。かって宇宙創成から、地球が出来て、闇から明へと移りきて、空と海と大地に別れて形となった。海と大地は地球上の表面だから、二つにわけると、空と地球の表面という区分になるかも知れない。

ボクの興味は科学的興味であると同時に非科学的興味もあります。何が科学で、何が非科学なのかなんて、いまここでは論議しないけれど、概念として<空と海と地>を違う形として認識するわけです。

そこでぼくは、どっちかゆうと論理タイプの写真を撮るたちだから、この外枠を想定して、取材しはじめたというところです。ぼくの想いでは、<空と海と地>これを自然の器だとおもうわけで、ぼくが日常にいる場所において、カメラをそれに向けていこうと思ったのでした。

ということで、今日の写真は、痕跡シリーズと名づけたうちの<空>から1枚をアップします。

自然というかたち-2-
2006.11.5
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この海は日本海、越前岬の近くから大陸の方へカメラを向けて撮った写真です。
この被写体となった海の生成は、約2000万年から1700万年前だとされています。つまり大陸続きだったのが、日本海として広がりだしたというのです。
その頃の区分を新生代第三期とされていて、恐竜時代が終わり、哺乳類が進化してくる時代だというのです。人類の出現は、200万年ほど前だったとあります。

地球生成の全時間から見れば、この海の生成は比較的新しいといえるのかもしれません。とはいえ一言で、にせんまんねんまえ、なんて言ってしまいますけど、おそろしいほど膨大な時間なんですよね。
この項では、ちょっと科学的視点から、時間を遡ってみました。

自然というかたち-3-
2006.11.14
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地表に生える植物、どちらかというと陰性植物とイメージする苔の類があります。ぼくは、この苔の類を、生命のよみがえりというイメージで見つめています。空があり海があり地があります。空と海の現象により地に植物が生える原基が、苔のような気がします。動物が死に土に帰ったのち、再び生命としてよみがえる精気をもって、苔の類があるように思えるのです。

苔は動物ではありません。苔は植物です。植物ということを、ここでは大地から栄養素を吸収して、その生命を維持していく装置を備えた生き物だと定義しているわけです。この苔の類は、比喩的に人間模様を示唆してきます。苔は群生します。密集します。触覚をのばし花を咲かせます。じっと見つめていると、宇宙の縮図を見ているような錯覚がします。

自然というかたち-4-
2006.11.23
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この木の葉は、秋になると色づき、落葉します。
木々の生の営みを四季を通じてみていると、不思議な気持ちに見舞われてきます。自然の営みだといえば、それで解決することではなくて、その生の営みにたいする驚異と畏怖の気持ちです。

自然というかたち-5-
2006.11.29
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自然というかたちについて、いくつかの枠を考えて区切ってみて、空、海、地に生える苔、木立の葉、そうしてここでは<地>です。写真に説明は不要なのかもしれないけれど、この地は<さざれいし>と銘打たれて、下鴨神社の境内にあったものです。

これにて自然の5つの枠組みが揃ったわけです。ええ、ぼくのこれからの写真を集めていくテーマとなる枠です。そのように考えて、夏以降、写真にしたためてストックしています。このほかに<花>の枠もあり、そうしてまだ未着手<動物>、それから<ヒト>、ぼくの構想は、世界の構図をつくりたいとの思いです。
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自分というかたち-1-
2006.8.5
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昨日から夏の取材に入っていて、今日は北野天満宮へデジカメを持って撮影に出かけました。北門から入り、大樹の梢を撮り、巫女文子(アヤコ)の祠を撮り、本殿まわりに設えられた神々の末社を撮り、本殿を撮り、そうして石畳の参拝道へと降りていきました。

天神さんと呼んでいる境内は、子供のころの思い出がいっぱい詰まった場所です。ボクは、記憶を甦らせ、記憶の像を描き、その場所を求めていきました。夏休みになると、この境内でサマースクールが開かれていました。管内の小学生が沢山あつまっておりました。ラヂオ体操から始まり、もう忘れてしまったけれど、なにやら催しがなされていました。

その頃から数年後になると思います。1950年代後半のことだから半世紀前の出来事です。石畳の参拝道の、そう、写真のこの場所に、縁日には母が店を出していたのです。そのとき、この場所で、何を並べていたのか覚えていないのだけれど、縁日のお客だったボクは、そこに母を見つけて、見ていたのです。

遠い記憶の残像が、木漏れ日にゆらめく地面に立ち昇ってきたとき、ボクは、そこに母がいて、円満な微笑をボクに投げ返してくれている母のイメージを描きながら、カメラを向け、シャッターを切ったわけです。半世紀前の記憶の場所に立ち、いま、その場所を写真に撮る。痕跡と名づけるシリーズの、これは一枚として収められる。自分という「かたち」を求めて、ぼくはしばらくのあいだ、この世をさまよおうと思うのです。


自分というかたち-2-
2006.8.8
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1983年だから、もう23年前のことですが、<夢幻舞台-あるいは、わが風土->という写真とエッセイをまとめた本をつくりました。この取材に入る日、思い出したかのように、その本を取り出してきて、目を通しました。ああ、これの続きだな、そう思う気持ちが、沸々と湧いてきました。お盆のこの時期、2年前の2004年に写真を撮り、「夢幻舞台」とタイトルしたアルバムをつくりました。ふたたびデジカメを持って写真を撮りだした初めての夏です。

その本には、12葉の写真と4編のエッセイが載せられているのですが、ボクはこれを定本に、細部を埋めていこうと思っているわけです。京都シリーズの第一巻として1983年に夢幻舞台が発行されているのです。その延長線上にて、ボクのかたちを作っていく作業が始まるのだと思っています。その試みをあらためて認識したわけです。

自分というかたち、というテーマを設けています。履歴という年代記を軸にしながら、その時々の気持ち、考えていたこと、それらを今に引き寄せて、記憶を辿るという風に、作業してみたいと思っているのです。かなり強い衝動として、ボクの気持ちのなかにあります。

今日も朝から、千本えんま堂へ、取材にいきました。地域限定です。3回目のお盆行事だから、おおむねの細部はわかります。写真の撮り方も若干変わってきていると思っています。たぶん残された時間、生涯つきあうことになると思うボクのトポスです。


自分というかたち-3-
2006.8.11
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この夏の盆を取材中に、ボクはボクの墓所へいきました。ボクのお墓は日蓮宗本山本法寺の中にあります。昭和49年(1974年)に建立された墓で、墓石に刻まれた建立者の名前はボクです。平成元年(1989年)の春に亡くなった母(おふくろ)が、ボクたちの墓がなかったので、墓をつくってもらったということで、真っ先におふくろが入ってしまったのです。

本阿弥光悦の菩提寺という本法寺の正門は、上京区小川通り寺の内上がる。茶道の家元、表千家の狭い道を挟んだ前にあります。どうしてボクのお墓所が此処にあるのか、その経緯をボクは訊ねたことはありません。でも、おぼろげながら、積み重ねられた記憶を整理することで、その輪郭がわかるような気がします。ボクの素性、身柄というもの、血縁というもの、それを描いてみたいと思うのです。

ボクの父(おやぢ)の母、つまりボクの祖母のことから書いてみます。たぶん明治の後半生まれの祖母(おばあちゃん)は、ボクが高校一年(昭和37年、1962年)の秋に亡くなりました。おばあちゃんは西陣織の織子で、旦那の正妻ではない女性でした。大正九年に男を産んで、その後に女を産んだヒトです。旦那の家の名前は忘れましたけれど、この旦那の家の墓所が、本法寺なのです。

だからボクのおやぢ方の父にあたるヒトは、西陣の織物産業に関係していた家のヒトだと推測しています。戸籍上でおやぢは認知されているから、おばあちゃんは俗に言う二号さんだったのでしょう。ボクが今住んでいる場所に、おばあちゃんは戦争前から住んでいました。おばあちゃんは、手機を織りながら、三味線なんかを持っていました。けっこう風流ってゆうか、囲われ女だったのかと思います。

おばあちゃんが亡くなって、遺骨が旦那の家の墓に居候するかっこうで、納められていたようです。そこでおふくろが中川家の墓を持つために、旦那の家やお寺に掛け合って、建立者としてボクの名前が刻まれた墓があるのです。ボクが28歳のときに建立されたとき「繁夫の名前にしておいた」と云っていたおふくろの言葉を思い出します。


自分というかたち-4-
2006.8.12
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数年前の話しですが、ボクはボクの家系図というのを作りました。ボクを中心として、記憶を辿りながら、おふくろやおやぢの叔父さん叔母さん、それにボクのおじいちゃん、おばあちゃんの親戚とか、ボクの知る範囲での家系図でした。

ボクが生まれたのは1946年4月です。いま現在住んでいる場所で生まれたといいます。いまボクが住んでいる家屋は、おばあちゃんが住んでいた家屋の隣です。おやぢの母親の実家で、ボクは生まれたのです。おふくろの母は、末っ子を身ごもっており、おふくろの世話ができないので、おやぢの実家で生まれたのだろうと、推測しています。

ボクが幼少の頃、小学校へあがる直前まで住んでいた所は、中京区壬生馬場町。おふくろの父が烏丸六条で和漢薬店を営んでおり、今流にゆうなら、ボクの親は、そこで和漢薬壬生支店の店長だったわけです。おやぢの母、つまりボクのおばあちゃんが、その店を一度だけ訪ねてきた記憶が、おぼろげにあります。黒いマントを着た男のヒトが同伴していて、そのヒトのことを「おっさん」と呼んでいたんです。その「おっさん」と呼ばれたヒトが、おやぢの父親だったと、思うわけです。墓の持ち主だったヒトです。ボクからいえば、父方のおじいさんにあたるヒトです。

家系図のなかで、父方のおじいさん、それにボクのおばあちゃんの系図は、そこでぷっつり切れてしまいます。ボクを可愛がってくれることになるおばあちゃんの素性は、いまのところ全くわからない。何処で生まれたのか、何処でおっさんと知り合ったのか、名前はセイといい、カタカナとひらがなが読み書きできただけのおばあちゃん。いわば何処の骨とかわからない素性の孫が、ボクだったってゆうわけです。これが父方の家系なのです。


自分というかたち-5-
2006.8.26
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母方の系図ってのはどうなんだろう。おふくろの旧姓は井上、ボクから見ておじいちゃんの姓名は井上安蔵。烏丸六条に井上和漢薬店を営んでいました。たしか丹波の出だと、おふくろから聞いたように思うが、丹波笹山近くに住んでいたおふくろの叔父さん叔母さん、苗字は岡沢と名乗っているから、ボクのおばあさんの出生地だったのかも知れない。おふくろの生年は大正12年(1923年)だから、おばあちゃんの生年は、1900年ごろと推定できます。

おふくろとおやぢの結婚は、ボクの生年月日から推定して、昭和20年(1945年)まだ戦争が終わっていない時だと思います。仲人を介しての結婚だったと聞いているから、何かの縁あって所帯をもったのだ。新居は、壬生馬場町、朱雀第一小学校と壬生車庫の真ん中あたりの向い側、市電の走っていた道路に面した花屋さんの後の家屋だった。おやぢもおふくろも、市井の生活者という無名の男女だった。おやぢは建具職人で、おふくろは理容免許を持っていた。戦後の1946年に生まれたボクは、小学校に入るまでの7年間を、壬生馬場町で過ごすことになります。

自分というかたちを、ボクが知っていくための家系を詮索しているのですが、こうしてみると、ボクっていう身体の存在の輪郭が、おぼろげながら形作ることができるように思います。父方のおばあちゃんの素性、おじいちゃんの素性、母方のおばあちゃんの素性、おじいちゃんの素性。ボクには父がいて母がいる。父と母にも、それぞれ父と母がいた。ボクの祖先の直系は、おぼろげだけれど、そこまでしかわからない。それも記憶を辿ってフィクションしているにすぎない。

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日々 2006.12.16~2007.3.22

日々-1- 2006.12.16
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日々淡々と過ぎ去っていきます。ふっとカメラをもって散歩に出かけます。通りすがりの光景をカメラに収めます。何のこともない、淡々、目の前にある光景をカメラに収めます。このようなコンセプトで撮られる写真とゆうのは、けっして新しい手法ではなくて、ステーグリッツがすでに100年も前にやっていることだし、ボクがカメラを持つようになった30年前にも、盛んに行われた手法です。

日々淡々。毎日が大きな起伏もなく、いわばフラットな時間が流れていきます。でも、ふっと想い起こしてみると、世には深さがあり、深さは意味をもち、その意味を探ることで写真作業が行われる。視覚というのも、カメラはまさに目そのものですから、脳裏に焼きつけるように写真に焼きつける。日々淡々ですから通りすがりの光景など、意識の内にも残らない。残らないほどたわいな出来事が、目の前に起こっている。

写真には意味があります。光景を写真にするとは、光景に意味をつける作業です。日々淡々と流れる時間のなかにあって、目の前を通過する光景は、さほどの意味もないのです。意味のないものを写真にして、意味を見出そうとしても意味あるわけではありません。そうですね、意味を持たないとゆう意味を持たせようとしている、日々、なのかも知れません。

日々-2- 2006.12.18
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写真は、見てしまった光景を、記憶しておく装置だと思います。そこでは、見る&見てしまった、ということが、注目されるべきことだと考えています。<見る>とは目に映る光景の全体を関連付けて、認識、理解することだとしておきましょう。<見てしまった>というイメージには、偶然にも遭遇してしまった、という偶然性を彷彿させてきます。

ああ、ちょっと論理っぽくなってきたので、続けようかやめようかと思いながら、書き出したんだから、続けちゃえ、なんて思って続けますけど、見るとは、見ようとする意思があるんですよね。だから<見る>意思をもって、見ようとして、<見てしまった>光景というのが、写真の画面に再現された現場、このようにいえると思います。

<見えない>ものを<見える>ようにするのが写真作業だ、という考え方があります。この場合の<見えない>ものというのは、目に映る光景の背後にある意味のことで、いわば因果関係のことです。その因果関係を探った結果として写真の画面として再現される。ここに写真の意味がある。なんてこと言ってしまうボクがここにいます。

日々-3- 2006.12.20
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網膜に映る光景とは、関係があるような無いような、写真はファインダーを覗くかぎり、網膜に映った光景です。関係があるような、というのはボクの記憶の何かがショートして、火花が散ります。そんなに強いものではなければ、線香花火のお終いの、あの柳のひと筋あたりですけど、まあ、何か感じてるわけだとしておきましょう。

でも、よくよく考えてみるまでもなく、それらの光景は、むしろ無関係な光景なのだと思ってしまいます。目の前にある、肉眼で見る、リアルな光景だとは思います。テレビの画面に映し出される遠い国の光景が、目の前の光景よりも近場に感じるけれど、それはヴァーチャルな光景です。リアルであれ、ヴァーチャルであれ、心が動くことで自分を確認しているのだとすれば、そうゆう時代が現在なのでしょう。

この写真と文章を、誰かがみてくれ読んでくれる、その誰かとゆうのは、ぼくにはわからない。ここはヴァーチャル領域で、リアルではなくて、ヴァーチャルです。仮想空間なのです、といえば、じゃあ、街角の光景はリアルなのか、ぼくにはもう、どちらもヴァーチャルであり、リアルであるような、そういう錯誤に陥ってしまっているようなのです。いったい、ぼくは誰で、きみは誰なのだね。

日々-4- 2006.12.21
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この写真を見てなにを感じるかは見た人それぞれに違うと思います。写真を、思わせぶりに撮る。これは樹木の幹です。樹木の幹なんだけれども、ぼくはこの写真から、写実された樹木の幹を超えて、あるいは背後にある、何かを言おうとしている。

いいえ、別に、この写真について、この被写体について、明確な背後の思いがあるわけではありません。明確に、ではないけれど、じつはあるんです。あるはずなんです。それが<見えない>のです。見えないけれど、樹木の幹であることは、判ると思います。

写真作業は、抽象概念で語られる<見えない>中身を、具体的な図象をつらねて<見える>ようにすることだ、なんてことはいいません、いいえ、いいます。でも、これって、ほんとにそんなことできるんやろか、いやいや、そんなことしなくったって、写真を見て、ワクワク、ドキドキしたら、その写真は価値があるんとちがう?、なんて思ったりもして、未整理、未分化、未消化、浮遊してたらええのんや!

日々-5- 2006.12.24
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あんまり面白くもない写真を掲載することには憚る気持ちもあるので、どうしようかと迷いながら、この写真を日々の一枚に加えたわけだけれど、写真として優れているわけでもないし、その日12月23日の朝、テレビを見ていたら今天皇の誕生日だということで、お顔が映っていて何度も聞きなれたお声がスピーカーからながれ出ていて、ある特別な日なんだ、と思ったのでした。午後三時まえになって、前日の残り寿司飯と、お揚げと千切りネギを一緒にフライパンで焼いてあったおかずで、遅めのお昼ごはんを食べて、カメラを持って散歩がてらに、今日の目的は、まだ未訪問のそこを探索しにいくことでした。

デシタルカメラをポケットに入れて、目的地までシャッターを切らずに、赴いたのでした。目印の小松原児童公園のそばを通って、華道の小松原流家元さんのおうちを初めて見て、その道路の反対側が、目的地の裏側になっていて、腰高ほどの石垣をぐるっとまわって、南に向いた表へ出たというわけで、立ち入り禁止の看板はでていなくて、みだりにたちいらないこと、という看板だけだったので、まあ、でも、ちょっと膝を折り気味で、起立でもなく座るでもなく、カメラを向けて入っていって、写真に収めたのでした。

なにも信仰心がそうさせているのではないと思っているのですけど、京都文化をテーマに研究みたいなことをやっていこうと思っていて、その文化の源泉がその系図にあるように思えていて、でもさ、写真ってそのときの光景しか撮れないわけだから、現場に立って撮っていくわけだけれど、これは表象で、あとは何時の間にか培われてしまった意識の分別で、それらしい光景を撮り、それらしい文章を連ねて、立体意識化しようとの目的をもっているわけです。

日々-6- 2006.12.29
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いつものように朝がきて、外をみると雪が舞っていて、それはこの冬最初の雪でした。雪が降ることが比較的少ない京都にいて、雪が降る光景に出くわすことは、少しワクワク気分になります。いつものように歯を磨き顔を洗って朝食の準備にはいります。コーヒーを四杯分セットして、手作りパンにシュレッドチーズをのせてトースターへ入れて、リンゴとニンジンとレモンのフレッシュジュースを作って、彼女はカフェオレ、ぼくはブラックのままだけど、自家製ヨーグルトにミルクをまぜて、飲むヨーグルトにして、金柑甘露煮1個を食べました。

日々淡々、繰り返し、繰り返し、雪止まず、昼下がりに、カメラをポケットにしまいこみ、傘をさして、煙草を買いに家を出て、道草食うように行きなれた児童公園へはいって写真を撮り、ぐるっとまわって煙草の自販機前に立ち、煙草を買い求めて帰り道、いつものようにいつもの場所で、今日はカメラを持っているから写真を撮ります。中学三年の夏休み、初めてアルバイトをした八百屋があった衣笠市場が懐かしくって、それに寺の内通りの起点となる橋があって、橋の向うは洛中で、立った位置は洛外で、洛中洛外を分ける紙屋川です。

半世紀以上もこの場所から、この光景を見続けてきたぼくは、なんの不思議もなく違和感もなく、いいえ、そうではなくて、この場所にいることが不思議なのであり、いつも違和感を覚えるぼくがいるのです。もうそのときには雪も止んでいて、薄日が射す空となり、師走の道を人が通り過ぎていくのでした。

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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の京都寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖

日々 2006.12.16~2007.3.22
    
日々-7- 2007.1.5
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ここ数年、毎年大晦日には除夜の鐘を突きにいっています。この大晦日には、その前の大晦日と同様に、けっきょくは閻魔堂の鐘を突きました。年末年始だからといって、特別には扱わないでおこうと思う気持ちが強いのだけれど、世の中がこの日を区切っているから、それに便乗している、いいえ、気分的には、させられているといった感じです。

でもね、そうゆう気持ちとは裏腹に、日々を過ごしていくということは、晴れの日を作らないとやっていかれへんのやなぁ、とも思います。日々淡々なんていいながら、日々淡々ではなくて、どろどろ、泥まみれの心があって、それを浄化させるためのセレモニー、晴れの日。お正月とゆうのは、その年最初の晴れの日なのです。

京都に生まれて、京都に育って、目線は東京とか大阪とか、大都会の方へ向いていたけれど、けっきょくは生まれ育った地場である京都を意識して、日々生きていこうと思っているところです。でも、なあ、只の生活者にしかすぎないとしても、只の生活者では満足でけへんなぁ。そこで、再びカメラを持ち、パソコンを使って文章を書き、あわよくば京都人が語る京都の本質、みたいな物語を作っていて、それに自分を乗せようと思っているのです。

記録者自らが地場を記録することで記録が成立する。言い方はいろいろあるけれど、民俗学者の柳田国男せんせいが、理想たる記録の方法として論じているのを、写真家東松照明さんと交情があったころ、1980年代の初めに知って、それから四半世紀が経って、いまぼくの制作の方法論として、ベースにおいているところなのです。これは論なのであって、その論に従っていこうと思っているわけで、そこに情の源泉をみいだせれば、ぼくはきっとハッピーなわけです。そうゆう死に際をも想定している昨今です。

日々-8- 2007.1.11
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かって賑わった町が、時代とともに衰退していくとゆうのはよくある話で、半世紀という時間軸は、それを見てきた者にとって、ノスタルジックな、つまり感傷的な情緒をともなって、小さな旅へと誘ってくれているようです。まま生まれ育った町を、カメラを持って歩いていて、よみがえってくるのは、かってそこにあったぼく自身がいた光景です。

そうゆうことでいえば、千本今出川界隈とゆうのは、ぼくの生活空間ではなかったけれど、映画館とか飲食店とかパチンコ店とか、月に一回か二回、親に連れられ、叔母さんに連れられ、つまり大人の遊び場として垣間見てきた街でした。高校生になったそのころ、三島由紀夫の金閣寺を読み、舞台が京都であり、確か主人公が包丁だったかを買う店が通りの角にあって、その店先を見るたびに、その小説を思い出す。それよりなにより、そのころ陰惨な気分だったぼくが週に一遍、日曜日、アルバイトしていた寿司屋があって、いわば十代半ばの思い出がよみがえる場所でもあります。

寿司寅と看板された空間、その家の中での光景がよみがえってきて、その日々の人の顔がよみがえってきて、まったく縁の無い関係から、しだいに関係していくストーリーが出来上がっていくのです。たまたまお店の張り紙、アルバイト募集を見て、戸を開けたんだけれど、その戸を開けたのは偶然ではなくて、ストーリーがあったことが、思い出されてきます。大将の嫁さんがタエコの母親の妹で、寿司を握っている筆頭使用人がタエコの父親で、タエコは三人姉妹の真ん中で、クラスは違ったけれど中学の同級生で、いつのまにか友だちを少し越えたような関係になって、中学卒業と同時に関係が終わって、かれこれ半年過ぎたころ、張り紙に応募したというわけです。

タエコが水事故でいなくなったのが何時だったか、葬儀にはいかなかったけれど、という記憶だけで推測するとタエコの死は18を越えたころだったのかも知れない。うん、ちょこっと話をすれば、偶然にだったけれど、はじめて手を握った女の子なんです。ぽちゃぽちゃ、あったかい、やわらかい、いま思い出しているわけで、握ってしまって二人がバツ悪そうに動作が止まって、それは数秒間だったように思い出します、中学三年でした。ウンウン、季節は夏です、薄手のワンピースでシャツもブラも着けてなかったなぁタエコ。記憶は糸を引くように思い出されては消えていきます。<思い出は狩りの角笛、風のなかに音は消えゆく>だったか、こんな詩句までも思い出してしまった2007.1.11-AM10:12-。

日々-9- 2007.1.12
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あんまりロングショットの写真は好まないんですが、といいながらよく使ってますけど、写真には説明不要、イメージで追いかける写真と、説明して納得できる写真があるんだと解釈して、ちょっと説明していくと、向うに見えるのは比叡山です。撮影のポジションは、建勲神社の正面上り口途中です。建勲神社の正面から石段を昇っていって、途中で振り返ると、こうゆう光景が目にできたわけです。

だれやねん、比叡山焼き討ちした武将、たしか織田信長とか、ええ、この建勲神社は織田信長を奉る神社なのです。それもこの神社、明治天皇の命により奉ったとあるから、歴史は新しい。ただし、神社がある場所は、船岡山の東側斜面です。船岡山は京都の基点となるポイントです。平安京造営のとき、このポイントを基点にして、真南に大極殿を造営したようです。比叡山が聖地となるのは、平安京造営後だから、船岡山界隈の歴史のほうが古いんですね。

船岡山の少し北に今宮神社、少し東に玄武神社があります。大極殿の北方位、玄武方位にあたる界隈です。京都の鬼門であり疫病は鬼門からやってくるから、鬼門に神社を置く、まあ、いわゆる神頼みってことですね。なんでいま、こんなこと考えて書いてるんやねん、自分に聞いているんですけど、年とともに方位とか距離とか、つまり人間の遠近法感覚に興味をもちだしていて、いろいろ詮索していくと、どうもこの船岡山というポイントが、推論ですけど、日本文化の基軸・基点であるように思えているのです。そうゆう場所に、建勲神社が造営されたとゆうこと、天皇は一等地に奉ることを許したわけですね。

いや、ね、ぼくの思いではね、信長が存命しておれば、戦国の世に、いわゆる共和制国家への萌芽があったかも知れないなぁ、と思ったりしてしまうのです。まあ、四百数十年まえのことだから、だれも推論するしかないんだけれど、なんかの因縁やなぁ、信長が築城した安土にて、塾を主宰しだしたこととか、なにか因縁めいた迷信を作っているようですね。それと、方位とか距離へのイメージは、今日の場合だと具体的な地理的距離を指していますけど、高天が原とか浄土とか、そうゆう世界が想像されたヒトの心に興味もあったりして、現実と夢幻をごっちゃにして、近代遠近法を越えられるかなぁ、超えちゃいたいなぁ、天の浮橋を昇りだしているのかなぁ、それとも黄泉の国へ・・・。

日々-10- 2007.1.18
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散歩にでかけるとき、玄関を出て、東西南北、どっちへ行こうかと迷うことがままあります。歩くというのは前へ進むことで、前へ進むとゆうことは、東西南北、方向が決まるということで、ところが歩ける道はすでに作られていて、それの選択とゆうことになります。この日(2007.1.16)は、自宅から西へ向かって西大路まで歩き、そっから北へと歩いていくのでした。到達する目的地は決まっていて、ちょっと遠回りして行こうかと、道すがらの光景を写真にしながら、北上するのでした。

大文字山が見える。電線が邪魔やなぁ、ある種写真制作的発想で、そう思ってしまうわけだけれど、いっぽうでそうやないやろ、あるもんはあるんやから、いっしょに写しこんでしまえ、それでええんや、なんて妙に納得しながらシャッターをきるのでした。そういえばこの光景、この場所から何時こんな風に見えるようになったんやろ、かって農林年金会館という施設があって、いまは金閣寺の駐車場になっているんやね。

大文字山は言わずもがな年に1回、8月16日の夜にデビューします。そのお山へ登った記憶は小学生のころ、中学生になると衣笠山へ登ったんや。大文字山界隈は、子供のころの遊び場でした。なにやって遊んでたんやろ、チャンバラ、探検隊、ぼくらは少年探偵団、大文字山から奥の方へいくと洞穴があって、それは自然の洞穴ではなくて、採掘の跡やった。洞穴の中へ入ることは恐怖に満ちた未知の体験やったなぁ。

光景を見るたびに、見るといってもかなり意識して見るたびに、思い出が通り過ぎていきます。ふるさとは遠きにありておもふもの、犀星の詩句ですね、ふるさとは近くにありておもふもの、ノマド的発想ではなくて地場に住み着いたぼくのこころは、いかがなものか。生まれ育った場所にて、散歩の道すがら写真を撮るとゆう行為。これぞ最新、あたらしい方法論、てなぐわいに想ってみたりもしながら、ぶつぶつ自問のお散歩なのでした。

日々-11- 2007.3.20
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月に一回、この頃に郵便局、銀行、信用金庫と金融機関をはしごします。とゆうのも、公共料金やらクレジットやら、金融機関引き落としを利用しているから、現ナマを追加しておかなければならないから、西大路の金閣寺からわら天神にいたる東側を、一巡するわけです。

今日の一巡には、カメラがポケットに仕舞われていて、ぶらぶらお散歩とは違う、目的外出と平行して写真を撮ったというわけです。いつものように、ストリートを撮ります。肖像権ってのがあって、本人了解、なんてことは、ううん、無視無視。街角風景の一部なんやから、そんでええやん、なんて思いながら、ひとがはいるとスリリングな気分を味わうわけです。

写真には、覗き見的要素がある、そのスリリングさを、味わうってことですね。いいのかわるいのかしらないけれど、多少の後ろめたさの気持ちもあって、そしらぬ顔して撮っているわけです。イージーなもんやなぁ、自分でもそう思っているわけで、写真としての価値どうこう以前に、まあ、スリリングやなぁ、と思っている、ささやかなたのしみ&はじかみ、若返ったような気分です。

日々-12- 2007.3.22
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昨日は春分の日、東山花灯路イベントに、観光客気分でいってきました。観光客っていう気分は、京都の表の顔にふれることができると思っていて、観光客が京都へ来たときに見るお土産屋さんとか、神社とか、お寺とか、その表面をみる気分です。祇園までバスで行って、そこから八坂神社の境内を通って東門、ううんまだ明るかったから、人の数は少なかった。何年か前に訪れたことがあるのですが、あんまり明確な記憶がないまま、カメラをポケットに仕舞いこんだまま、彼女と一緒に散策でした。

これは最近の、京都の観光イベントだから、それほどの思い入れもないので、写真を撮るのはもっぱら人が群がる光景に向いていきます。人恋しいんやなぁ。この世の見納め、なんてゆうほど深刻ではないけれど、最近、目の前に現れる光景には、何を見ても美しさを感じる。美しさといったけれど、表記の言葉が見つからないから、その一言に集約したけれど、まあ、人を見たり、明るいお店を見たり、これはわくわく気分です。

お祭り気分、祝祭気分、晴れの場、明るい、うれしい・・・。理屈やなくて気分なんです。気に入った写真をアップしているわけだけれど、これは自分のためにあるのであって、つまり自己満足、それだけです。といいながら、ブログに載せて、見せているわけですけど、まあ、いっか、かなりイージーな気分です。

<日々>終わり

<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の京都寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖


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