中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

カテゴリ: 記憶の痕跡

自然というかたち-1-
2006.11.2
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なんでもモノには形があります。そこで自然の形を考えてみます。自然のかたちには総称として、空と海と大地があります。かって宇宙創成から、地球が出来て、闇から明へと移りきて、空と海と大地に別れて形となった。海と大地は地球上の表面だから、二つにわけると、空と地球の表面という区分になるかも知れない。

ボクの興味は科学的興味であると同時に非科学的興味もあります。何が科学で、何が非科学なのかなんて、いまここでは論議しないけれど、概念として<空と海と地>を違う形として認識するわけです。

そこでぼくは、どっちかゆうと論理タイプの写真を撮るたちだから、この外枠を想定して、取材しはじめたというところです。ぼくの想いでは、<空と海と地>これを自然の器だとおもうわけで、ぼくが日常にいる場所において、カメラをそれに向けていこうと思ったのでした。

ということで、今日の写真は、痕跡シリーズと名づけたうちの<空>から1枚をアップします。

自然というかたち-2-
2006.11.5
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この海は日本海、越前岬の近くから大陸の方へカメラを向けて撮った写真です。
この被写体となった海の生成は、約2000万年から1700万年前だとされています。つまり大陸続きだったのが、日本海として広がりだしたというのです。
その頃の区分を新生代第三期とされていて、恐竜時代が終わり、哺乳類が進化してくる時代だというのです。人類の出現は、200万年ほど前だったとあります。

地球生成の全時間から見れば、この海の生成は比較的新しいといえるのかもしれません。とはいえ一言で、にせんまんねんまえ、なんて言ってしまいますけど、おそろしいほど膨大な時間なんですよね。
この項では、ちょっと科学的視点から、時間を遡ってみました。

自然というかたち-3-
2006.11.14
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地表に生える植物、どちらかというと陰性植物とイメージする苔の類があります。ぼくは、この苔の類を、生命のよみがえりというイメージで見つめています。空があり海があり地があります。空と海の現象により地に植物が生える原基が、苔のような気がします。動物が死に土に帰ったのち、再び生命としてよみがえる精気をもって、苔の類があるように思えるのです。

苔は動物ではありません。苔は植物です。植物ということを、ここでは大地から栄養素を吸収して、その生命を維持していく装置を備えた生き物だと定義しているわけです。この苔の類は、比喩的に人間模様を示唆してきます。苔は群生します。密集します。触覚をのばし花を咲かせます。じっと見つめていると、宇宙の縮図を見ているような錯覚がします。

自然というかたち-4-
2006.11.23
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この木の葉は、秋になると色づき、落葉します。
木々の生の営みを四季を通じてみていると、不思議な気持ちに見舞われてきます。自然の営みだといえば、それで解決することではなくて、その生の営みにたいする驚異と畏怖の気持ちです。

自然というかたち-5-
2006.11.29
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自然というかたちについて、いくつかの枠を考えて区切ってみて、空、海、地に生える苔、木立の葉、そうしてここでは<地>です。写真に説明は不要なのかもしれないけれど、この地は<さざれいし>と銘打たれて、下鴨神社の境内にあったものです。

これにて自然の5つの枠組みが揃ったわけです。ええ、ぼくのこれからの写真を集めていくテーマとなる枠です。そのように考えて、夏以降、写真にしたためてストックしています。このほかに<花>の枠もあり、そうしてまだ未着手<動物>、それから<ヒト>、ぼくの構想は、世界の構図をつくりたいとの思いです。
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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖




自分というかたち-1-
2006.8.5
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昨日から夏の取材に入っていて、今日は北野天満宮へデジカメを持って撮影に出かけました。北門から入り、大樹の梢を撮り、巫女文子(アヤコ)の祠を撮り、本殿まわりに設えられた神々の末社を撮り、本殿を撮り、そうして石畳の参拝道へと降りていきました。

天神さんと呼んでいる境内は、子供のころの思い出がいっぱい詰まった場所です。ボクは、記憶を甦らせ、記憶の像を描き、その場所を求めていきました。夏休みになると、この境内でサマースクールが開かれていました。管内の小学生が沢山あつまっておりました。ラヂオ体操から始まり、もう忘れてしまったけれど、なにやら催しがなされていました。

その頃から数年後になると思います。1950年代後半のことだから半世紀前の出来事です。石畳の参拝道の、そう、写真のこの場所に、縁日には母が店を出していたのです。そのとき、この場所で、何を並べていたのか覚えていないのだけれど、縁日のお客だったボクは、そこに母を見つけて、見ていたのです。

遠い記憶の残像が、木漏れ日にゆらめく地面に立ち昇ってきたとき、ボクは、そこに母がいて、円満な微笑をボクに投げ返してくれている母のイメージを描きながら、カメラを向け、シャッターを切ったわけです。半世紀前の記憶の場所に立ち、いま、その場所を写真に撮る。痕跡と名づけるシリーズの、これは一枚として収められる。自分という「かたち」を求めて、ぼくはしばらくのあいだ、この世をさまよおうと思うのです。


自分というかたち-2-
2006.8.8
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1983年だから、もう23年前のことですが、<夢幻舞台-あるいは、わが風土->という写真とエッセイをまとめた本をつくりました。この取材に入る日、思い出したかのように、その本を取り出してきて、目を通しました。ああ、これの続きだな、そう思う気持ちが、沸々と湧いてきました。お盆のこの時期、2年前の2004年に写真を撮り、「夢幻舞台」とタイトルしたアルバムをつくりました。ふたたびデジカメを持って写真を撮りだした初めての夏です。

その本には、12葉の写真と4編のエッセイが載せられているのですが、ボクはこれを定本に、細部を埋めていこうと思っているわけです。京都シリーズの第一巻として1983年に夢幻舞台が発行されているのです。その延長線上にて、ボクのかたちを作っていく作業が始まるのだと思っています。その試みをあらためて認識したわけです。

自分というかたち、というテーマを設けています。履歴という年代記を軸にしながら、その時々の気持ち、考えていたこと、それらを今に引き寄せて、記憶を辿るという風に、作業してみたいと思っているのです。かなり強い衝動として、ボクの気持ちのなかにあります。

今日も朝から、千本えんま堂へ、取材にいきました。地域限定です。3回目のお盆行事だから、おおむねの細部はわかります。写真の撮り方も若干変わってきていると思っています。たぶん残された時間、生涯つきあうことになると思うボクのトポスです。


自分というかたち-3-
2006.8.11
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この夏の盆を取材中に、ボクはボクの墓所へいきました。ボクのお墓は日蓮宗本山本法寺の中にあります。昭和49年(1974年)に建立された墓で、墓石に刻まれた建立者の名前はボクです。平成元年(1989年)の春に亡くなった母(おふくろ)が、ボクたちの墓がなかったので、墓をつくってもらったということで、真っ先におふくろが入ってしまったのです。

本阿弥光悦の菩提寺という本法寺の正門は、上京区小川通り寺の内上がる。茶道の家元、表千家の狭い道を挟んだ前にあります。どうしてボクのお墓所が此処にあるのか、その経緯をボクは訊ねたことはありません。でも、おぼろげながら、積み重ねられた記憶を整理することで、その輪郭がわかるような気がします。ボクの素性、身柄というもの、血縁というもの、それを描いてみたいと思うのです。

ボクの父(おやぢ)の母、つまりボクの祖母のことから書いてみます。たぶん明治の後半生まれの祖母(おばあちゃん)は、ボクが高校一年(昭和37年、1962年)の秋に亡くなりました。おばあちゃんは西陣織の織子で、旦那の正妻ではない女性でした。大正九年に男を産んで、その後に女を産んだヒトです。旦那の家の名前は忘れましたけれど、この旦那の家の墓所が、本法寺なのです。

だからボクのおやぢ方の父にあたるヒトは、西陣の織物産業に関係していた家のヒトだと推測しています。戸籍上でおやぢは認知されているから、おばあちゃんは俗に言う二号さんだったのでしょう。ボクが今住んでいる場所に、おばあちゃんは戦争前から住んでいました。おばあちゃんは、手機を織りながら、三味線なんかを持っていました。けっこう風流ってゆうか、囲われ女だったのかと思います。

おばあちゃんが亡くなって、遺骨が旦那の家の墓に居候するかっこうで、納められていたようです。そこでおふくろが中川家の墓を持つために、旦那の家やお寺に掛け合って、建立者としてボクの名前が刻まれた墓があるのです。ボクが28歳のときに建立されたとき「繁夫の名前にしておいた」と云っていたおふくろの言葉を思い出します。


自分というかたち-4-
2006.8.12
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数年前の話しですが、ボクはボクの家系図というのを作りました。ボクを中心として、記憶を辿りながら、おふくろやおやぢの叔父さん叔母さん、それにボクのおじいちゃん、おばあちゃんの親戚とか、ボクの知る範囲での家系図でした。

ボクが生まれたのは1946年4月です。いま現在住んでいる場所で生まれたといいます。いまボクが住んでいる家屋は、おばあちゃんが住んでいた家屋の隣です。おやぢの母親の実家で、ボクは生まれたのです。おふくろの母は、末っ子を身ごもっており、おふくろの世話ができないので、おやぢの実家で生まれたのだろうと、推測しています。

ボクが幼少の頃、小学校へあがる直前まで住んでいた所は、中京区壬生馬場町。おふくろの父が烏丸六条で和漢薬店を営んでおり、今流にゆうなら、ボクの親は、そこで和漢薬壬生支店の店長だったわけです。おやぢの母、つまりボクのおばあちゃんが、その店を一度だけ訪ねてきた記憶が、おぼろげにあります。黒いマントを着た男のヒトが同伴していて、そのヒトのことを「おっさん」と呼んでいたんです。その「おっさん」と呼ばれたヒトが、おやぢの父親だったと、思うわけです。墓の持ち主だったヒトです。ボクからいえば、父方のおじいさんにあたるヒトです。

家系図のなかで、父方のおじいさん、それにボクのおばあちゃんの系図は、そこでぷっつり切れてしまいます。ボクを可愛がってくれることになるおばあちゃんの素性は、いまのところ全くわからない。何処で生まれたのか、何処でおっさんと知り合ったのか、名前はセイといい、カタカナとひらがなが読み書きできただけのおばあちゃん。いわば何処の骨とかわからない素性の孫が、ボクだったってゆうわけです。これが父方の家系なのです。


自分というかたち-5-
2006.8.26
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母方の系図ってのはどうなんだろう。おふくろの旧姓は井上、ボクから見ておじいちゃんの姓名は井上安蔵。烏丸六条に井上和漢薬店を営んでいました。たしか丹波の出だと、おふくろから聞いたように思うが、丹波笹山近くに住んでいたおふくろの叔父さん叔母さん、苗字は岡沢と名乗っているから、ボクのおばあさんの出生地だったのかも知れない。おふくろの生年は大正12年(1923年)だから、おばあちゃんの生年は、1900年ごろと推定できます。

おふくろとおやぢの結婚は、ボクの生年月日から推定して、昭和20年(1945年)まだ戦争が終わっていない時だと思います。仲人を介しての結婚だったと聞いているから、何かの縁あって所帯をもったのだ。新居は、壬生馬場町、朱雀第一小学校と壬生車庫の真ん中あたりの向い側、市電の走っていた道路に面した花屋さんの後の家屋だった。おやぢもおふくろも、市井の生活者という無名の男女だった。おやぢは建具職人で、おふくろは理容免許を持っていた。戦後の1946年に生まれたボクは、小学校に入るまでの7年間を、壬生馬場町で過ごすことになります。

自分というかたちを、ボクが知っていくための家系を詮索しているのですが、こうしてみると、ボクっていう身体の存在の輪郭が、おぼろげながら形作ることができるように思います。父方のおばあちゃんの素性、おじいちゃんの素性、母方のおばあちゃんの素性、おじいちゃんの素性。ボクには父がいて母がいる。父と母にも、それぞれ父と母がいた。ボクの祖先の直系は、おぼろげだけれど、そこまでしかわからない。それも記憶を辿ってフィクションしているにすぎない。

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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
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日々 2006.12.16~2007.3.22

日々-1- 2006.12.16
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日々淡々と過ぎ去っていきます。ふっとカメラをもって散歩に出かけます。通りすがりの光景をカメラに収めます。何のこともない、淡々、目の前にある光景をカメラに収めます。このようなコンセプトで撮られる写真とゆうのは、けっして新しい手法ではなくて、ステーグリッツがすでに100年も前にやっていることだし、ボクがカメラを持つようになった30年前にも、盛んに行われた手法です。

日々淡々。毎日が大きな起伏もなく、いわばフラットな時間が流れていきます。でも、ふっと想い起こしてみると、世には深さがあり、深さは意味をもち、その意味を探ることで写真作業が行われる。視覚というのも、カメラはまさに目そのものですから、脳裏に焼きつけるように写真に焼きつける。日々淡々ですから通りすがりの光景など、意識の内にも残らない。残らないほどたわいな出来事が、目の前に起こっている。

写真には意味があります。光景を写真にするとは、光景に意味をつける作業です。日々淡々と流れる時間のなかにあって、目の前を通過する光景は、さほどの意味もないのです。意味のないものを写真にして、意味を見出そうとしても意味あるわけではありません。そうですね、意味を持たないとゆう意味を持たせようとしている、日々、なのかも知れません。

日々-2- 2006.12.18
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写真は、見てしまった光景を、記憶しておく装置だと思います。そこでは、見る&見てしまった、ということが、注目されるべきことだと考えています。<見る>とは目に映る光景の全体を関連付けて、認識、理解することだとしておきましょう。<見てしまった>というイメージには、偶然にも遭遇してしまった、という偶然性を彷彿させてきます。

ああ、ちょっと論理っぽくなってきたので、続けようかやめようかと思いながら、書き出したんだから、続けちゃえ、なんて思って続けますけど、見るとは、見ようとする意思があるんですよね。だから<見る>意思をもって、見ようとして、<見てしまった>光景というのが、写真の画面に再現された現場、このようにいえると思います。

<見えない>ものを<見える>ようにするのが写真作業だ、という考え方があります。この場合の<見えない>ものというのは、目に映る光景の背後にある意味のことで、いわば因果関係のことです。その因果関係を探った結果として写真の画面として再現される。ここに写真の意味がある。なんてこと言ってしまうボクがここにいます。

日々-3- 2006.12.20
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網膜に映る光景とは、関係があるような無いような、写真はファインダーを覗くかぎり、網膜に映った光景です。関係があるような、というのはボクの記憶の何かがショートして、火花が散ります。そんなに強いものではなければ、線香花火のお終いの、あの柳のひと筋あたりですけど、まあ、何か感じてるわけだとしておきましょう。

でも、よくよく考えてみるまでもなく、それらの光景は、むしろ無関係な光景なのだと思ってしまいます。目の前にある、肉眼で見る、リアルな光景だとは思います。テレビの画面に映し出される遠い国の光景が、目の前の光景よりも近場に感じるけれど、それはヴァーチャルな光景です。リアルであれ、ヴァーチャルであれ、心が動くことで自分を確認しているのだとすれば、そうゆう時代が現在なのでしょう。

この写真と文章を、誰かがみてくれ読んでくれる、その誰かとゆうのは、ぼくにはわからない。ここはヴァーチャル領域で、リアルではなくて、ヴァーチャルです。仮想空間なのです、といえば、じゃあ、街角の光景はリアルなのか、ぼくにはもう、どちらもヴァーチャルであり、リアルであるような、そういう錯誤に陥ってしまっているようなのです。いったい、ぼくは誰で、きみは誰なのだね。

日々-4- 2006.12.21
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この写真を見てなにを感じるかは見た人それぞれに違うと思います。写真を、思わせぶりに撮る。これは樹木の幹です。樹木の幹なんだけれども、ぼくはこの写真から、写実された樹木の幹を超えて、あるいは背後にある、何かを言おうとしている。

いいえ、別に、この写真について、この被写体について、明確な背後の思いがあるわけではありません。明確に、ではないけれど、じつはあるんです。あるはずなんです。それが<見えない>のです。見えないけれど、樹木の幹であることは、判ると思います。

写真作業は、抽象概念で語られる<見えない>中身を、具体的な図象をつらねて<見える>ようにすることだ、なんてことはいいません、いいえ、いいます。でも、これって、ほんとにそんなことできるんやろか、いやいや、そんなことしなくったって、写真を見て、ワクワク、ドキドキしたら、その写真は価値があるんとちがう?、なんて思ったりもして、未整理、未分化、未消化、浮遊してたらええのんや!

日々-5- 2006.12.24
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あんまり面白くもない写真を掲載することには憚る気持ちもあるので、どうしようかと迷いながら、この写真を日々の一枚に加えたわけだけれど、写真として優れているわけでもないし、その日12月23日の朝、テレビを見ていたら今天皇の誕生日だということで、お顔が映っていて何度も聞きなれたお声がスピーカーからながれ出ていて、ある特別な日なんだ、と思ったのでした。午後三時まえになって、前日の残り寿司飯と、お揚げと千切りネギを一緒にフライパンで焼いてあったおかずで、遅めのお昼ごはんを食べて、カメラを持って散歩がてらに、今日の目的は、まだ未訪問のそこを探索しにいくことでした。

デシタルカメラをポケットに入れて、目的地までシャッターを切らずに、赴いたのでした。目印の小松原児童公園のそばを通って、華道の小松原流家元さんのおうちを初めて見て、その道路の反対側が、目的地の裏側になっていて、腰高ほどの石垣をぐるっとまわって、南に向いた表へ出たというわけで、立ち入り禁止の看板はでていなくて、みだりにたちいらないこと、という看板だけだったので、まあ、でも、ちょっと膝を折り気味で、起立でもなく座るでもなく、カメラを向けて入っていって、写真に収めたのでした。

なにも信仰心がそうさせているのではないと思っているのですけど、京都文化をテーマに研究みたいなことをやっていこうと思っていて、その文化の源泉がその系図にあるように思えていて、でもさ、写真ってそのときの光景しか撮れないわけだから、現場に立って撮っていくわけだけれど、これは表象で、あとは何時の間にか培われてしまった意識の分別で、それらしい光景を撮り、それらしい文章を連ねて、立体意識化しようとの目的をもっているわけです。

日々-6- 2006.12.29
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いつものように朝がきて、外をみると雪が舞っていて、それはこの冬最初の雪でした。雪が降ることが比較的少ない京都にいて、雪が降る光景に出くわすことは、少しワクワク気分になります。いつものように歯を磨き顔を洗って朝食の準備にはいります。コーヒーを四杯分セットして、手作りパンにシュレッドチーズをのせてトースターへ入れて、リンゴとニンジンとレモンのフレッシュジュースを作って、彼女はカフェオレ、ぼくはブラックのままだけど、自家製ヨーグルトにミルクをまぜて、飲むヨーグルトにして、金柑甘露煮1個を食べました。

日々淡々、繰り返し、繰り返し、雪止まず、昼下がりに、カメラをポケットにしまいこみ、傘をさして、煙草を買いに家を出て、道草食うように行きなれた児童公園へはいって写真を撮り、ぐるっとまわって煙草の自販機前に立ち、煙草を買い求めて帰り道、いつものようにいつもの場所で、今日はカメラを持っているから写真を撮ります。中学三年の夏休み、初めてアルバイトをした八百屋があった衣笠市場が懐かしくって、それに寺の内通りの起点となる橋があって、橋の向うは洛中で、立った位置は洛外で、洛中洛外を分ける紙屋川です。

半世紀以上もこの場所から、この光景を見続けてきたぼくは、なんの不思議もなく違和感もなく、いいえ、そうではなくて、この場所にいることが不思議なのであり、いつも違和感を覚えるぼくがいるのです。もうそのときには雪も止んでいて、薄日が射す空となり、師走の道を人が通り過ぎていくのでした。

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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の京都寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖

日々 2006.12.16~2007.3.22
    
日々-7- 2007.1.5
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ここ数年、毎年大晦日には除夜の鐘を突きにいっています。この大晦日には、その前の大晦日と同様に、けっきょくは閻魔堂の鐘を突きました。年末年始だからといって、特別には扱わないでおこうと思う気持ちが強いのだけれど、世の中がこの日を区切っているから、それに便乗している、いいえ、気分的には、させられているといった感じです。

でもね、そうゆう気持ちとは裏腹に、日々を過ごしていくということは、晴れの日を作らないとやっていかれへんのやなぁ、とも思います。日々淡々なんていいながら、日々淡々ではなくて、どろどろ、泥まみれの心があって、それを浄化させるためのセレモニー、晴れの日。お正月とゆうのは、その年最初の晴れの日なのです。

京都に生まれて、京都に育って、目線は東京とか大阪とか、大都会の方へ向いていたけれど、けっきょくは生まれ育った地場である京都を意識して、日々生きていこうと思っているところです。でも、なあ、只の生活者にしかすぎないとしても、只の生活者では満足でけへんなぁ。そこで、再びカメラを持ち、パソコンを使って文章を書き、あわよくば京都人が語る京都の本質、みたいな物語を作っていて、それに自分を乗せようと思っているのです。

記録者自らが地場を記録することで記録が成立する。言い方はいろいろあるけれど、民俗学者の柳田国男せんせいが、理想たる記録の方法として論じているのを、写真家東松照明さんと交情があったころ、1980年代の初めに知って、それから四半世紀が経って、いまぼくの制作の方法論として、ベースにおいているところなのです。これは論なのであって、その論に従っていこうと思っているわけで、そこに情の源泉をみいだせれば、ぼくはきっとハッピーなわけです。そうゆう死に際をも想定している昨今です。

日々-8- 2007.1.11
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かって賑わった町が、時代とともに衰退していくとゆうのはよくある話で、半世紀という時間軸は、それを見てきた者にとって、ノスタルジックな、つまり感傷的な情緒をともなって、小さな旅へと誘ってくれているようです。まま生まれ育った町を、カメラを持って歩いていて、よみがえってくるのは、かってそこにあったぼく自身がいた光景です。

そうゆうことでいえば、千本今出川界隈とゆうのは、ぼくの生活空間ではなかったけれど、映画館とか飲食店とかパチンコ店とか、月に一回か二回、親に連れられ、叔母さんに連れられ、つまり大人の遊び場として垣間見てきた街でした。高校生になったそのころ、三島由紀夫の金閣寺を読み、舞台が京都であり、確か主人公が包丁だったかを買う店が通りの角にあって、その店先を見るたびに、その小説を思い出す。それよりなにより、そのころ陰惨な気分だったぼくが週に一遍、日曜日、アルバイトしていた寿司屋があって、いわば十代半ばの思い出がよみがえる場所でもあります。

寿司寅と看板された空間、その家の中での光景がよみがえってきて、その日々の人の顔がよみがえってきて、まったく縁の無い関係から、しだいに関係していくストーリーが出来上がっていくのです。たまたまお店の張り紙、アルバイト募集を見て、戸を開けたんだけれど、その戸を開けたのは偶然ではなくて、ストーリーがあったことが、思い出されてきます。大将の嫁さんがタエコの母親の妹で、寿司を握っている筆頭使用人がタエコの父親で、タエコは三人姉妹の真ん中で、クラスは違ったけれど中学の同級生で、いつのまにか友だちを少し越えたような関係になって、中学卒業と同時に関係が終わって、かれこれ半年過ぎたころ、張り紙に応募したというわけです。

タエコが水事故でいなくなったのが何時だったか、葬儀にはいかなかったけれど、という記憶だけで推測するとタエコの死は18を越えたころだったのかも知れない。うん、ちょこっと話をすれば、偶然にだったけれど、はじめて手を握った女の子なんです。ぽちゃぽちゃ、あったかい、やわらかい、いま思い出しているわけで、握ってしまって二人がバツ悪そうに動作が止まって、それは数秒間だったように思い出します、中学三年でした。ウンウン、季節は夏です、薄手のワンピースでシャツもブラも着けてなかったなぁタエコ。記憶は糸を引くように思い出されては消えていきます。<思い出は狩りの角笛、風のなかに音は消えゆく>だったか、こんな詩句までも思い出してしまった2007.1.11-AM10:12-。

日々-9- 2007.1.12
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あんまりロングショットの写真は好まないんですが、といいながらよく使ってますけど、写真には説明不要、イメージで追いかける写真と、説明して納得できる写真があるんだと解釈して、ちょっと説明していくと、向うに見えるのは比叡山です。撮影のポジションは、建勲神社の正面上り口途中です。建勲神社の正面から石段を昇っていって、途中で振り返ると、こうゆう光景が目にできたわけです。

だれやねん、比叡山焼き討ちした武将、たしか織田信長とか、ええ、この建勲神社は織田信長を奉る神社なのです。それもこの神社、明治天皇の命により奉ったとあるから、歴史は新しい。ただし、神社がある場所は、船岡山の東側斜面です。船岡山は京都の基点となるポイントです。平安京造営のとき、このポイントを基点にして、真南に大極殿を造営したようです。比叡山が聖地となるのは、平安京造営後だから、船岡山界隈の歴史のほうが古いんですね。

船岡山の少し北に今宮神社、少し東に玄武神社があります。大極殿の北方位、玄武方位にあたる界隈です。京都の鬼門であり疫病は鬼門からやってくるから、鬼門に神社を置く、まあ、いわゆる神頼みってことですね。なんでいま、こんなこと考えて書いてるんやねん、自分に聞いているんですけど、年とともに方位とか距離とか、つまり人間の遠近法感覚に興味をもちだしていて、いろいろ詮索していくと、どうもこの船岡山というポイントが、推論ですけど、日本文化の基軸・基点であるように思えているのです。そうゆう場所に、建勲神社が造営されたとゆうこと、天皇は一等地に奉ることを許したわけですね。

いや、ね、ぼくの思いではね、信長が存命しておれば、戦国の世に、いわゆる共和制国家への萌芽があったかも知れないなぁ、と思ったりしてしまうのです。まあ、四百数十年まえのことだから、だれも推論するしかないんだけれど、なんかの因縁やなぁ、信長が築城した安土にて、塾を主宰しだしたこととか、なにか因縁めいた迷信を作っているようですね。それと、方位とか距離へのイメージは、今日の場合だと具体的な地理的距離を指していますけど、高天が原とか浄土とか、そうゆう世界が想像されたヒトの心に興味もあったりして、現実と夢幻をごっちゃにして、近代遠近法を越えられるかなぁ、超えちゃいたいなぁ、天の浮橋を昇りだしているのかなぁ、それとも黄泉の国へ・・・。

日々-10- 2007.1.18
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散歩にでかけるとき、玄関を出て、東西南北、どっちへ行こうかと迷うことがままあります。歩くというのは前へ進むことで、前へ進むとゆうことは、東西南北、方向が決まるということで、ところが歩ける道はすでに作られていて、それの選択とゆうことになります。この日(2007.1.16)は、自宅から西へ向かって西大路まで歩き、そっから北へと歩いていくのでした。到達する目的地は決まっていて、ちょっと遠回りして行こうかと、道すがらの光景を写真にしながら、北上するのでした。

大文字山が見える。電線が邪魔やなぁ、ある種写真制作的発想で、そう思ってしまうわけだけれど、いっぽうでそうやないやろ、あるもんはあるんやから、いっしょに写しこんでしまえ、それでええんや、なんて妙に納得しながらシャッターをきるのでした。そういえばこの光景、この場所から何時こんな風に見えるようになったんやろ、かって農林年金会館という施設があって、いまは金閣寺の駐車場になっているんやね。

大文字山は言わずもがな年に1回、8月16日の夜にデビューします。そのお山へ登った記憶は小学生のころ、中学生になると衣笠山へ登ったんや。大文字山界隈は、子供のころの遊び場でした。なにやって遊んでたんやろ、チャンバラ、探検隊、ぼくらは少年探偵団、大文字山から奥の方へいくと洞穴があって、それは自然の洞穴ではなくて、採掘の跡やった。洞穴の中へ入ることは恐怖に満ちた未知の体験やったなぁ。

光景を見るたびに、見るといってもかなり意識して見るたびに、思い出が通り過ぎていきます。ふるさとは遠きにありておもふもの、犀星の詩句ですね、ふるさとは近くにありておもふもの、ノマド的発想ではなくて地場に住み着いたぼくのこころは、いかがなものか。生まれ育った場所にて、散歩の道すがら写真を撮るとゆう行為。これぞ最新、あたらしい方法論、てなぐわいに想ってみたりもしながら、ぶつぶつ自問のお散歩なのでした。

日々-11- 2007.3.20
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月に一回、この頃に郵便局、銀行、信用金庫と金融機関をはしごします。とゆうのも、公共料金やらクレジットやら、金融機関引き落としを利用しているから、現ナマを追加しておかなければならないから、西大路の金閣寺からわら天神にいたる東側を、一巡するわけです。

今日の一巡には、カメラがポケットに仕舞われていて、ぶらぶらお散歩とは違う、目的外出と平行して写真を撮ったというわけです。いつものように、ストリートを撮ります。肖像権ってのがあって、本人了解、なんてことは、ううん、無視無視。街角風景の一部なんやから、そんでええやん、なんて思いながら、ひとがはいるとスリリングな気分を味わうわけです。

写真には、覗き見的要素がある、そのスリリングさを、味わうってことですね。いいのかわるいのかしらないけれど、多少の後ろめたさの気持ちもあって、そしらぬ顔して撮っているわけです。イージーなもんやなぁ、自分でもそう思っているわけで、写真としての価値どうこう以前に、まあ、スリリングやなぁ、と思っている、ささやかなたのしみ&はじかみ、若返ったような気分です。

日々-12- 2007.3.22
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昨日は春分の日、東山花灯路イベントに、観光客気分でいってきました。観光客っていう気分は、京都の表の顔にふれることができると思っていて、観光客が京都へ来たときに見るお土産屋さんとか、神社とか、お寺とか、その表面をみる気分です。祇園までバスで行って、そこから八坂神社の境内を通って東門、ううんまだ明るかったから、人の数は少なかった。何年か前に訪れたことがあるのですが、あんまり明確な記憶がないまま、カメラをポケットに仕舞いこんだまま、彼女と一緒に散策でした。

これは最近の、京都の観光イベントだから、それほどの思い入れもないので、写真を撮るのはもっぱら人が群がる光景に向いていきます。人恋しいんやなぁ。この世の見納め、なんてゆうほど深刻ではないけれど、最近、目の前に現れる光景には、何を見ても美しさを感じる。美しさといったけれど、表記の言葉が見つからないから、その一言に集約したけれど、まあ、人を見たり、明るいお店を見たり、これはわくわく気分です。

お祭り気分、祝祭気分、晴れの場、明るい、うれしい・・・。理屈やなくて気分なんです。気に入った写真をアップしているわけだけれど、これは自分のためにあるのであって、つまり自己満足、それだけです。といいながら、ブログに載せて、見せているわけですけど、まあ、いっか、かなりイージーな気分です。

<日々>終わり

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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の京都寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖


自分とゆうことの研究
  2007.7.15
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なんかここの枠組みの大筋が、自分と文化の批評ということを標榜しているので、それに則した文章にしんとあかんわいなぁと思えばおもうほど、文章が書きづらくなってきて、あんまし呆けてられへんなぁ、と思うことしきりです。とゆうのも、自分を研究するなんて、あるいは批評するなんて、そんなことして何になるの?なんてことにぶつかってしまうわけで、自分のことが迷宮入りになって、にっちもさっちも行かなくなって、どうしようもないんやなぁ。

そこで、ぼくは、それを打破するために、自分とは他者の中にあって、自分が発見できるんだ、と考えて、自分を位置づけるために、関係性という概念を導入しようとしているようにも思います。人間関係、人関係、ひとはなんらかの関係があります。遠い人と近い人、遠い人が近い人になってくる関係、それとは逆の関係、などで構成される関係性です。そりゃあ、まあ、いちばん近い関係はといえば家族だと思うし、家族のレベルでも濃淡があると思うし、友達とか、仕事関係だとか、いろいろなきっかけを介在させて、関係を成立させているのです。あとは、利害と無償なんてレベルで遠近を計ることもできると思うし、同好であるゆえの関係とゆうのもありだと思います。

自分を表現するというレベルで、表現が介在する関係を考えているわけですが、特に写真とかの制作物を介して、関係を持つ位置関係、なんだか言葉で示すのもむつかしいのですが、自分と他者との位置関係を明確にすることが必要なのかなぁ、そう思ったり、それを明確にすることもなくて、混沌のままがいい、そう思ったりしています。なに、写真という表現物を介して、なにをどう表現できるのか、果たして、自分とゆうことは、いったいどうゆうことなのだろう。ああ、難しい・・・。


1967年を思い出す
  2007.7.20
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いま2007年だから、40年もまえのことになる。思い出しているのは、その頃のことです。というのも、昨日、歩いている途中に、いくつかの記憶がよみがえってきて、それを思い出して記録していくのもいいかなぁ、と思って、いまここに、このような書き出しで、始めたというわけです。ひとはいかにして行動するか、余った時間というか予定の無い時間に、何かをする、散歩するといったようなときの話しです。

最初の目的は、彼女と一緒に、大極殿址まで歩くつもりをしていたのです。大極殿址は、千本丸太町の西北にあり、現在は児童公園となっています。というのも今回、初めて訪ねてわかったことでした。うんうん、この近所へは何度も来ており、通過している場所でしたが、訪問は初めてです。興味がここにあって、足を伸ばしてみたいと思ったのには、春からの京都探索の思いのなかで出てきたものです。

標題の1967年というのは、大極殿址を訪ねて、それからの行程のなかで思い出されてきた事柄でした。大極殿址が千本丸太町で、そっから南下してJR二条駅まで行こうと思った。最近JR二条駅は再開発とやらで、光景が大きく変わってきています。そこにあるビルの一角にローソンがあって、そこで飲み物を買い、店内のカウンターに座って、飲んで安上がりの休憩となった。

あとの行程を羅列すれば、二条駅から三条商店街を歩いて、堀川通りへ出て、南下して四条通りを東へとり、最近目につくホーリーカフェでホットコーヒー休憩を取りました。そこにて相談した次なる行程は、四条烏丸から大丸へ行き、店内通過で錦へ行こうということで、いいえ目的地は、三条河原町角のむさしで、回転寿司をたべるため、そこに決めました。思い出は錦を出て、寺町通りを北上するあたりから、濃厚になってきて、40年前にあった喫茶店を探し出したわけです、嵯峨野という名の喫茶店。


  2007.7.31
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7月末日といえば、夏真っ盛りといったところで、8月に突入してお盆までが、夏の感覚、イメージです。そんな今年の夏は、夏を写真に撮りたいとの想いがあって、しかし、夏のイメージってゆうても、町中で何をどのように撮ろうかなぁ、なんて思っているうちに夏真っ盛りといった感じです。うん、うん、今日は、朝一番に光を撮って、午前中に天満宮中心に千本通りへ、午後には今宮神社にいたるコースで、廬山寺通りを東へ大宮通りまで、そっから北上、大徳寺境内を通って今宮神社といったところです。

あしたから8月、撮影の方はどうするかなぁ、このまま続けるか、方向転換するか、まあ、思ってはいるけれど、当面は継続やろなぁ、なんて思っているところで、もっぱら撮影とアルバムつくりに明け暮れている感じです。たばこをやめて一ヶ月が過ぎたところですけど、まだまだたばこが懐かしい感じで、文章を書くとか、落ち着いて考えるとか、ちょっとできない感じなので、まあ、外出して写真撮影に専念しようとの気持ちもあるわけです。

町中で人物を中心に写真を撮っているところです。まあ、若い女性を中心とした被写体で、写真をコレクションしている、あるいは採集といってもいい手法です。子供の頃に昆虫採集とか植物採集とか、夏休みにやったじゃないですか。大人になって、もう屑箱に足を突っ込んでしまった今になっての採集は、けっきょくのところ若い女の子採集とゆうことで、破廉恥このうえない、えろおやじにしかすぎない、こうゆう気持ちがふつふつ湧いてきて、もうやめようかなぁ、と迷うわけです。平成の西鶴を目指して、なんて心に思っているってこともあって、どっちかゆうとアラーキーが近いかなぁ・・・。

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中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
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今年のお盆
  2007.8.7
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今日は8月7日です。最近は毎年、8月になるとお盆の写真撮影について考えます。今年は、7月の祇園祭巡行が終わった日以後、京都の夏の写真を撮ろうと思って、日々カメラを持って写しているところです。そうして、今日からお盆のお迎え行事が始まる京都です。午前中に、千本閻魔堂へ様子を見にいってみようと思っています。お盆の頃の京都を眺めるぼくは、それらの光景を夢幻舞台と呼んでいて、アルバムにしているとことです。1983年の夏に取材し、夢幻舞台というタイトルで、小冊子だけど自費出版したことがあります。3年前にその続編のようなかたちで、デジタルカメラを持って祭礼の現場へ行き、写真に撮ってアルバムにしています。

そんないきさつもあり、今年となっているわけです。六道の珍皇寺界隈へも行っておこうと思うのですが、そうやねぇ、今日の午後からでも行ってみようかなぁ、なんて思っています。で、こうして行事を追いかけて、写真にして、いったいそれがどうしたん??、なんて考えてしまうのもこの季節です。いつも考えてるといえば言えますけど、夏の今頃、つまりお盆の頃、あの世とこの世の交感時期のこととして、やっぱり年々、生と死について思ってしまう。つまり肉体の衰えを自覚してしまう、死に向かっている自分を思っているのです。

まあ、60歳を超えてしまって、世間では還暦、赤ちゃんに戻るなんてこともいうので、そこまでは戻れないけれど、若い自分に戻った感じで、若い頃には決してできなかったテーマで、写真撮影しています。女の子が主役になる写真群です。まあ、いまさら恥も外聞もないじゃないか、なんて思って死に際にいたって、えろじじいの様相を帯びてきたなぁ、なんて思うところです。とはいっても、撮って発表する写真には限界があるので、限界以下のところはどうするのか、という問題を抱えているところです。今現在の解決方法は、別人を作り上げているところで自分の中で整合性を保っているといえます。

夏のおわりに
  2007.8.30
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今日は8月30日、もう暦ではとうに夏が終わっているのに、気分がなかなか切り替えられなくて、それでも月が替わるとなると、ひとつのけじめな気がして、いくつかの作業も終え、そうして始める準備をしている今日です。今日は雨、朝からしびしびと雨が降り出してきて、夏の風情は消えうせて、秋雨みたいな気分です。最近は、毎日、写真撮り歩きです。あんまり文章が書けない。このブログへも、今月は一回きりです。律儀なぼくは、もう一回、文章を書いて夏の終わりにしようと思っているところです。

9月から気分入れ替えてスタートしたい、と思っているけれど、なになにそんなに簡単に気分が切り替わるわけではないので、当分は、もたもた、こんな調子で、でも日々写真は、ちょっとお休みしようかな、とも思っています。なにせ取材対象が町角で、神社仏閣で、なにせ人を中心に捉えたいと思っていて、それがちょっときつくなってきた感じなので、自然体に任せようとも思っているのです。釜ヶ崎も白虎社も被写体となったのが人そのもの、その流れでいうと、ぼくの写真の被写体は人という流れが出てきて、この春以降、その現場を生み出してきた気がしています。

町角スナップという手法で、それが写真現場で有効なのか、それとも無効なのか、そんなことも考えながらの作業であって、表写真を撮っているけれど、インパクトないなぁ、とそんな思いもしているところです。

何のために・・・
  2007.9.7
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写真を撮って、文章を書いて、そうしてこのうようなウエブサイトに発表しているわけですが、いったいこれは何のため、という疑問に当たっていて、明確な答えが見つからない。もちろんこのような問いかけが、明確な答えを見出せないということは、経験的に知っているわけで、ある種ナンセンスな問いかけなのですが、やっぱりこだわってしまうのです。

暇つぶし、なんて思いたくはないけれど、結局そんなものかも知れないな、と思うと感情的に迫ってくるのもがあります。金儲けのため、とか人を喜ばすため、とか理由があってこそ、その目的が、何のための<何>になるからいいけれど、そうではないとき、困ってしまうんです。

たとえば100年ほど前に、パリにおいて写真を撮っていたアッジェは、絵描きさんのための下絵つくりとして写真を撮っていたというし、アメリカのアンセル・アダムスは、ヨセミテ公園の自然を絵葉書のようにして売っていたというし、まあ、目的とすればそうゆうところかと思います。でも、そうではない立場にいるぼくとしては、何のために写真を撮ってるの、と質問したら明確な答えが返ってきないから、困ってしまうのです。

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