文化&芸術批評
2006.10.9~
ここの枠組みの標題が文化&芸術批評となっているもんだから、書くことを躊躇してしまうんですね。ええ、外見のことを論じ語ることへの興醒めといった感じでしょうか。世の中の、世に中のあり方に対して、違和感を感じているんです。世の中のあり方に対して、なんてちっとも具体的でないのだけれど、この具体的でない事柄を具体化させていくことが、この枠組みの目的でもあるわけで、なんて思うと、もう絶句状態におちいってしまうのです。
こんなことを言ってることは、ちっとも生産的でない、と俗にゆわれているそのこと自体なんだと思うけれど、この思うことの根拠を明らかにしていきたいとの欲求が起こってきているわけです。まさに堂々巡り、下降のスパイラル状態だと、自分で言ってしまいたいほどです。
批評という行為が、ボクの外にあることを、外に向けて、クリアーな区分をしていくことだと考えているけれど、いまぼくが立っている処は、この外にあることを外に向けることへの懐疑だと思っているようなのです。外にあることを内に向けて、という方向が妥当なような気がしていて、この内に向けていくことが、批評ではなくて、文化&芸術の作り手、つまり批評家ではなくて作家の立場のようにも思えているのです。
ああ、なんてナンセンスなことを、いま書いてるんだろうという思いと、この混乱状態を整理しているんだ、という思いとが交錯して、いまぼくはここにいる。
空と海と地
ここは文化と写真の批評空間として設定している枠ですけれど、ぼく自身の進んできている方向が、ちょっと混沌しだして、出口が見えてきて、入り口が見えてきたように思います。
テーマは「存在」、つまり「ある」ということ。そう思って初原の光景を想定したところ、どうも存在の原形は、空と海と地、その表面、皮膚、そこらへんにありそうだと思って、それで「空と海と地」の表面、皮膚を撮りだしました。
もうひとつは「痕跡」、つまり印です。足跡、過ぎ去るもの、これは時間の流れという概念に基づいているわけで、ここにはぼくの意識があります。
たしかに写真の被写体が多岐にわたり、姿あるものがそれなりに撮られてきたわけだけれど、ぼくの想いは原点回帰だと思っています。その背後にかいま見える光景は、生命ということです。生命体、有機体、命、生と死、たぶんこれが原点であって、この上に文化・文明といった枠組みが組成されてくる。一方で内面の感情についての興味もあり、二本立て二方向のテーマにそって、写真と文章を連ねていこうかしら、と思うところです。
生きているということ、意識をもっているということ、そのうえに組み立てられた様々な意匠がぼくのなかに広がっているようです。地面に立って、上を見上げれば空があり、真横を見れば海があり、下を向いたら地面があった。まあ、ぼくが二足で立ったその位置から、見えるもの、それをその時々に、記憶のための装置としてカメラを持とうと思うところです。
葉
このまえに<海と空と地>なんて区分したところですけど、<葉>を追加して、いま四つの枠というか、四つの形に区分したところです。ぼくがいま、ここで形という概念にこだわるのは、そのなかに身体という形を垣間見てるからです。
海と空と地の延長線上に、苔がり、木々があり、木々に葉があるわけです。ここでは地表の現象を現しているものを形という括りで、記述していこうと思っているんです。
という思考でいくと、次には花という括りがでてくるのですけど、これはもうちょっと後にします。ええ、苔も葉も花も生命体ではあるけれど、植物という類です。そののちに動物という類を考えていて、ヒトという枠を考えていて、♂♀という分類を考えていて、というように、全体として、ボクという形にこだわろうとしているのです。
ボクは、いずれ消えゆく身体ということを知っていて、消えゆくということに対して、どう対処し準備していくのか、という思いがあり、まあ、それまでの日々をちょっと暇潰ししていこうと思っているわけです。
今の時代ってゆうのは、自分の思ったことを書いて、ええ、いまここに書いているシステムです。送信すれば、それで人目にふれてしまうのです。なんという時代なんだろう、って思います。そういう時代を批評するというより、自分の日記を、他人が見るという前提で、ここにこうして書いていく。時代環境が変わってしまいました。メディアの激変だと思っていて、これを活用して、ボク自身を公開して残していこうと思っているんです。
ボク自身の全てを公開していこうと思っているなかで、まだまだ触れられないことがあります。面識あるヒトにはリアルなボクを想い起こしていただけるけれど、面識のないヒトには、ここの枠自体は匿名と同質なものです。面識あるヒトに、どこまでを公開するのか、という問題ですね。ええ、人間としての木の、ボクは葉の一枚としてあるわけですけれど、自分を公開するということに、やっぱり面食らっているのかも知れません。
世界に構造を
夏のころから、ぼくの頭のなかで、世界の構造の部分部分を写真に撮って、アルバムを作ろうとの思いが生じてきています。ぼくが生きてきた環境を想うなかで、環境を構成しているモノについての想いです。最初に天と地が分離したそのふたつに<空と海>があり、その後<海と陸地>が生じてきて、そういう環境に生命が生成されてくるというイメージです。いいえ、ぼくが描いたイメージというよりも、科学的根拠をもって解説された書を読み、ぼくのイメージが広がってきたにすぎないものです。
<空と海と地>この三つが、生命を育ませるための器です。そこで、ぼくの被写体が、決まってきたというわけです。空、海、地の三つです。それから、生命を持った被写体として、ぼくは植物を置いています。苔、葉、花、ぼくのアルバムがこうして出来上がってきたわけです。このようにして構造化すると、次の枠組みは<動物>ということになります。でも、これはまだ、未着手です。
写真に撮るということは、ぼくがその場にいることを前提とします。この根拠を崩さないで、写真を撮り、写真を作ろうと思っています。カメラは、キャノンのデジタルカメラ、パワーショット500です。3年前に購入したカメラだから、今ならもう少し精度が向上しているおかも知れない。でも、当分はこのカメラで撮って、パソコンのハードデスクに保存し、縮小はするけれど、その他の画像処理加工はしないでおきます。今のカメラで撮った写真として、それでいいと思っているのです。
<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖
2006.10.9~
ここの枠組みの標題が文化&芸術批評となっているもんだから、書くことを躊躇してしまうんですね。ええ、外見のことを論じ語ることへの興醒めといった感じでしょうか。世の中の、世に中のあり方に対して、違和感を感じているんです。世の中のあり方に対して、なんてちっとも具体的でないのだけれど、この具体的でない事柄を具体化させていくことが、この枠組みの目的でもあるわけで、なんて思うと、もう絶句状態におちいってしまうのです。
こんなことを言ってることは、ちっとも生産的でない、と俗にゆわれているそのこと自体なんだと思うけれど、この思うことの根拠を明らかにしていきたいとの欲求が起こってきているわけです。まさに堂々巡り、下降のスパイラル状態だと、自分で言ってしまいたいほどです。
批評という行為が、ボクの外にあることを、外に向けて、クリアーな区分をしていくことだと考えているけれど、いまぼくが立っている処は、この外にあることを外に向けることへの懐疑だと思っているようなのです。外にあることを内に向けて、という方向が妥当なような気がしていて、この内に向けていくことが、批評ではなくて、文化&芸術の作り手、つまり批評家ではなくて作家の立場のようにも思えているのです。
ああ、なんてナンセンスなことを、いま書いてるんだろうという思いと、この混乱状態を整理しているんだ、という思いとが交錯して、いまぼくはここにいる。
空と海と地
ここは文化と写真の批評空間として設定している枠ですけれど、ぼく自身の進んできている方向が、ちょっと混沌しだして、出口が見えてきて、入り口が見えてきたように思います。
テーマは「存在」、つまり「ある」ということ。そう思って初原の光景を想定したところ、どうも存在の原形は、空と海と地、その表面、皮膚、そこらへんにありそうだと思って、それで「空と海と地」の表面、皮膚を撮りだしました。
もうひとつは「痕跡」、つまり印です。足跡、過ぎ去るもの、これは時間の流れという概念に基づいているわけで、ここにはぼくの意識があります。
たしかに写真の被写体が多岐にわたり、姿あるものがそれなりに撮られてきたわけだけれど、ぼくの想いは原点回帰だと思っています。その背後にかいま見える光景は、生命ということです。生命体、有機体、命、生と死、たぶんこれが原点であって、この上に文化・文明といった枠組みが組成されてくる。一方で内面の感情についての興味もあり、二本立て二方向のテーマにそって、写真と文章を連ねていこうかしら、と思うところです。
生きているということ、意識をもっているということ、そのうえに組み立てられた様々な意匠がぼくのなかに広がっているようです。地面に立って、上を見上げれば空があり、真横を見れば海があり、下を向いたら地面があった。まあ、ぼくが二足で立ったその位置から、見えるもの、それをその時々に、記憶のための装置としてカメラを持とうと思うところです。
葉
このまえに<海と空と地>なんて区分したところですけど、<葉>を追加して、いま四つの枠というか、四つの形に区分したところです。ぼくがいま、ここで形という概念にこだわるのは、そのなかに身体という形を垣間見てるからです。
海と空と地の延長線上に、苔がり、木々があり、木々に葉があるわけです。ここでは地表の現象を現しているものを形という括りで、記述していこうと思っているんです。
という思考でいくと、次には花という括りがでてくるのですけど、これはもうちょっと後にします。ええ、苔も葉も花も生命体ではあるけれど、植物という類です。そののちに動物という類を考えていて、ヒトという枠を考えていて、♂♀という分類を考えていて、というように、全体として、ボクという形にこだわろうとしているのです。
ボクは、いずれ消えゆく身体ということを知っていて、消えゆくということに対して、どう対処し準備していくのか、という思いがあり、まあ、それまでの日々をちょっと暇潰ししていこうと思っているわけです。
今の時代ってゆうのは、自分の思ったことを書いて、ええ、いまここに書いているシステムです。送信すれば、それで人目にふれてしまうのです。なんという時代なんだろう、って思います。そういう時代を批評するというより、自分の日記を、他人が見るという前提で、ここにこうして書いていく。時代環境が変わってしまいました。メディアの激変だと思っていて、これを活用して、ボク自身を公開して残していこうと思っているんです。
ボク自身の全てを公開していこうと思っているなかで、まだまだ触れられないことがあります。面識あるヒトにはリアルなボクを想い起こしていただけるけれど、面識のないヒトには、ここの枠自体は匿名と同質なものです。面識あるヒトに、どこまでを公開するのか、という問題ですね。ええ、人間としての木の、ボクは葉の一枚としてあるわけですけれど、自分を公開するということに、やっぱり面食らっているのかも知れません。
世界に構造を
夏のころから、ぼくの頭のなかで、世界の構造の部分部分を写真に撮って、アルバムを作ろうとの思いが生じてきています。ぼくが生きてきた環境を想うなかで、環境を構成しているモノについての想いです。最初に天と地が分離したそのふたつに<空と海>があり、その後<海と陸地>が生じてきて、そういう環境に生命が生成されてくるというイメージです。いいえ、ぼくが描いたイメージというよりも、科学的根拠をもって解説された書を読み、ぼくのイメージが広がってきたにすぎないものです。
<空と海と地>この三つが、生命を育ませるための器です。そこで、ぼくの被写体が、決まってきたというわけです。空、海、地の三つです。それから、生命を持った被写体として、ぼくは植物を置いています。苔、葉、花、ぼくのアルバムがこうして出来上がってきたわけです。このようにして構造化すると、次の枠組みは<動物>ということになります。でも、これはまだ、未着手です。
写真に撮るということは、ぼくがその場にいることを前提とします。この根拠を崩さないで、写真を撮り、写真を作ろうと思っています。カメラは、キャノンのデジタルカメラ、パワーショット500です。3年前に購入したカメラだから、今ならもう少し精度が向上しているおかも知れない。でも、当分はこのカメラで撮って、パソコンのハードデスクに保存し、縮小はするけれど、その他の画像処理加工はしないでおきます。今のカメラで撮った写真として、それでいいと思っているのです。
<リンク>
中川繁夫寫眞集
中川繁夫の寫眞帖
中川繁夫の釜ヶ崎寫眞帖