2006.1.17~2006.1.30
リアルとヴァーチャル
-1-
リアルとヴァーチャルを言い換えるなら、現実と仮想空間とでも言えばよい。人間の中味でいえば、目に見えて触れて感じるリアルというのは、実はすでにヴァーチャルなるものなのかも知れない。最近のネット環境なんて考えると、なにがリアルで、なにがヴァーチャルなのかと考えてしまう。
リアルとは、食べて寝てセクスして、身体そのものを養っていくことだ。そのことを理解する手立ては、すでにヴァーチャルなのかも知れない。
普通には、情報網を通して得る視覚や文章理解であることをヴァーチャルというのだけれど、この情報網は、電波や紙やネットだけをさすものではなくて、じかに触れることすら情報の入り方としては類似のものだ。
ヒトはヴァーチャルにおいて感じる。感じることはヴァーチャルである。いまの時代、そのようにも意味転換をしないと、現代社会がわからなくなるのでは、ないか。こういうと従前の区分で、直接体験と疑似体験に分けて、リアルとヴァーチャルを区分するんだとの答えが返ってきそうだ。
そうではなくて、ヒトの動物的側面に立脚してみると、感情や情動を含めて、ヴァーチャルなのだといわざるをえない。この問いは、これから詰めていくことなのだ。
-2-
リアルとは、五感、身体感覚を得ることだと規定しよう。そうするとかなり具体的な枠組みが設定できます。たとえばお百姓をすること。野菜を育てたり、お米を作ったり、土そのものの手触り感を、皮膚に感じていくこと。これなどが典型的リアルだと思っています。
お百姓することは、理屈以前に身体の作業です。とはいえ最近の大規模農法は、機械化が進んでいますから、リアル体験とはいえないのかも知れませんが、自給自足をめざしていく方でのお百姓は、リアル体験です。より具体的なリアルとは、自分が体を養う食物を作る現場で、自分の体を使って感じること。この現場感覚であると思います。
ヒトの感覚なんて、感覚じたい、ヴァーチャルなのだといえます。ヒトを支配するものはイメージだし、現代では、イメージを醸しだす要素が、メディアを通じて作られるわけだから、もうまったくヴァーチャル領域で生きている、といえます。
ヒトが、生まれてきて死んでいくということは、基本的には、体が生成し消滅するということだから、これに則した行為、つまり体の具体的体験がリアルなのです。
-3-
写真が発明され、映画が考案され、テレビ放送が始まり、情報コンテンツが世界を駆け巡る環境にりました。新聞や雑誌が大量に発行され、情報が満載されています。実体験以外の擬似体験が情報の大半となったとき、ヒトは心の置き場所を浮遊させてしまったのではないかと思います。リアルさを取り戻すことは、身体と心の再統合を果たしていくことになるのではないか。このことが重要なポイントなんです。
自分の身体というのは、自分にとってリアルなものです。その根本において食料を確保しなければ生存できない仕組みです。それに生殖能力も身体には備わっている。身体の生理機能レベルで、このことを実感します。だから、軸足をこのリアルな活動においてあげることから、物ごとを見て聞いていこうと思うのです。この実践行程は、時代に逆行するのか、時代を先行するのか、それはわからないです。
時代の進化とは、便利なツールが手元にきて享受することだとしたら、それは逆行することなのかも知れない。でも、進化の過程で、ヒトの心が不安を掻きたてられ、現実乖離する自分を自覚することなく、乖離している姿を確認するとき、この時代の進化というのは、必ずしも全てを受け入れることが出来ないのです。リアルな身体感覚を取り戻す試みは、不安を安定に変え、身体から乖離する心を身体と密着させることにつながる。このように考えているわけです。
リアルとヴァーチャル
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リアルとヴァーチャルを言い換えるなら、現実と仮想空間とでも言えばよい。人間の中味でいえば、目に見えて触れて感じるリアルというのは、実はすでにヴァーチャルなるものなのかも知れない。最近のネット環境なんて考えると、なにがリアルで、なにがヴァーチャルなのかと考えてしまう。
リアルとは、食べて寝てセクスして、身体そのものを養っていくことだ。そのことを理解する手立ては、すでにヴァーチャルなのかも知れない。
普通には、情報網を通して得る視覚や文章理解であることをヴァーチャルというのだけれど、この情報網は、電波や紙やネットだけをさすものではなくて、じかに触れることすら情報の入り方としては類似のものだ。
ヒトはヴァーチャルにおいて感じる。感じることはヴァーチャルである。いまの時代、そのようにも意味転換をしないと、現代社会がわからなくなるのでは、ないか。こういうと従前の区分で、直接体験と疑似体験に分けて、リアルとヴァーチャルを区分するんだとの答えが返ってきそうだ。
そうではなくて、ヒトの動物的側面に立脚してみると、感情や情動を含めて、ヴァーチャルなのだといわざるをえない。この問いは、これから詰めていくことなのだ。
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リアルとは、五感、身体感覚を得ることだと規定しよう。そうするとかなり具体的な枠組みが設定できます。たとえばお百姓をすること。野菜を育てたり、お米を作ったり、土そのものの手触り感を、皮膚に感じていくこと。これなどが典型的リアルだと思っています。
お百姓することは、理屈以前に身体の作業です。とはいえ最近の大規模農法は、機械化が進んでいますから、リアル体験とはいえないのかも知れませんが、自給自足をめざしていく方でのお百姓は、リアル体験です。より具体的なリアルとは、自分が体を養う食物を作る現場で、自分の体を使って感じること。この現場感覚であると思います。
ヒトの感覚なんて、感覚じたい、ヴァーチャルなのだといえます。ヒトを支配するものはイメージだし、現代では、イメージを醸しだす要素が、メディアを通じて作られるわけだから、もうまったくヴァーチャル領域で生きている、といえます。
ヒトが、生まれてきて死んでいくということは、基本的には、体が生成し消滅するということだから、これに則した行為、つまり体の具体的体験がリアルなのです。
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写真が発明され、映画が考案され、テレビ放送が始まり、情報コンテンツが世界を駆け巡る環境にりました。新聞や雑誌が大量に発行され、情報が満載されています。実体験以外の擬似体験が情報の大半となったとき、ヒトは心の置き場所を浮遊させてしまったのではないかと思います。リアルさを取り戻すことは、身体と心の再統合を果たしていくことになるのではないか。このことが重要なポイントなんです。
自分の身体というのは、自分にとってリアルなものです。その根本において食料を確保しなければ生存できない仕組みです。それに生殖能力も身体には備わっている。身体の生理機能レベルで、このことを実感します。だから、軸足をこのリアルな活動においてあげることから、物ごとを見て聞いていこうと思うのです。この実践行程は、時代に逆行するのか、時代を先行するのか、それはわからないです。
時代の進化とは、便利なツールが手元にきて享受することだとしたら、それは逆行することなのかも知れない。でも、進化の過程で、ヒトの心が不安を掻きたてられ、現実乖離する自分を自覚することなく、乖離している姿を確認するとき、この時代の進化というのは、必ずしも全てを受け入れることが出来ないのです。リアルな身体感覚を取り戻す試みは、不安を安定に変え、身体から乖離する心を身体と密着させることにつながる。このように考えているわけです。