<自然>を考える
自然を考える 2006.2.21~2006.4.12
-1-
自然派生活のベースに、採取生活を採り入れてみる。その具体的な手段として、山へ入って木の実を採取する。自然食品ブームで、山菜や木の実が注目されてきていて、あたかも自然のままを装って、栽培される商品として、山菜・木の実があります。ここでいうのは、そうではなくて、実際に山へ入って、自生種の山菜や木の実を採取するということです。
理想的にいえば、山菜や木の実を採取する土地は、共有のものでなければいけません。ここに掲載した写真は、胡桃と銀杏なんですが、これは私有地において採取できたものです。でも、山へ入って採取する、と云っても、自分の私有地でない限り、土地所有者がある現状では、純粋自然採取にはならないですね。ここに問題があります。
領土問題とか、国境問題とか、そこまで広げちゃうとことは簡単に処理できない状態に陥りますが、でも一種ブーム化している山菜採りとか木の実拾い・・・これなんかも突き詰めれば、大小の違いはあっても、他人所有の土地にて行う違法行為(笑)なんですね。じゃあ、どうすればいいのかな?考えてしまいますね。
ここで思うことは、制度上、持つ者と持たない者があるわけだから、この両者がうまく共有できる方法を模索することだと思います。これは、所有権をどのように捉えて、所有する者と所有しない者とが、うまく融合する方法のことです。
自然を考える-1-
<自然と文化>
自然とは、ありのまま、素のまま、なにも人間の手が加えられていない状態・・・。<自然>ということを考えてみます。自然とは、地球環境でいえば、人間の手が加わっていない状態を想定します。人間の手が加わっていない状態を自然状態とします。そしてボクは、ここで<自然>と対になった概念を<文化>という言葉においてみようと思います。
動物や植物という生命現象をもった生成物は、地球環境に順応して生命を維持しています。鳥たちが、虫たちが、猿や猪や鹿たちが、それぞれに地球環境に手を加えずに、生命を維持しています。樹木や草花なども同じです。ここで、自然のままにと想定するのは、この動物や植物が生命を維持している状態です。
ボクは、人間の英知を否定するのではありません。現代科学技術の最先端を否定して、自然に帰れとは全く考えていません。人間が自然に手を加え、加工してきた全てを文化という概念でくくりますが、この文化を育んできた力を褒め称えてあげたいと思っています。そりゃ、現象の個別には否定的見解が多々あります。戦うという概念なんて、否定的見解の最たるものです。
自然を考える枠組みも、当然のことながら、現代の文化状況に立った上での<自然>ということになります。むしろ、文化に包まれたボクの日々生活のなかに、自然がどこまで発見できるか、という試みでもあるのです。そこで、ボクたちが日常的に<自然>と云っている中味について点検していきたいと思っているわけです。その最初は、ボクの体を養う食料について考えていきたいと思います。
自然を考える-2-
<自然>というなかには、ありのまま、という捉え方があります。つまり人間の手が加わっていない状態、ありのままの状態です。究極、本当にそういう状態があるのかどうかは別にして、まあ、極力、ありのままの姿を維持している状態をいいます。
山の食べ物でいえば、自然、山や野に自生する山菜とか木の実です。ヒトの集団が、採取生活を営んでいた頃、縄文時代以前、参照すべきイメージとしては、そこです。一応、現代文明につながる以前の文明・文化の中にあった<自然>です。ボクの興味は、そのへんにあって、できるできないは別にして、採取生活を優先的に取り入れてみたいと思っているのです。そこに自分を置くことで、意識のあり方が変わってくるのではないか。そのようにも思うのです。
自然を考えるということは、生活態度を変えていくという前提が含まれます。様々な技術と道具に囲まれた現代生活です。野菜をつくる農作業といえども、技術のかたまりです。ましてや農機具を使った栽培など、現代技術の集積です。ボクは、現代技術を否定する気は、毛頭ありません。地球環境に様々な影響を与えてきたとはいえ、ヒトの物資的生存をより豊かな環境にしてきたのだから、その価値は大いに認めます。
つぎにヒトの置かれている構造を考えると、心の部分と物質の部分の綜合で成り立っているのがヒトです。ヒトを構成する心と物質。ヒトを物質関係で連なる人、人間関係。そのここのヒトの心の関係が、ボクの注目しているところです。ヒトの心が置かれている場所が、現代技術に満たされた場所であり、この場所において、心の疎外が起こっているとすれば、この現代物質圏から心を遠のけることで、安息・安定を求めている場所が見つかるかも知れないと想像するのです。自然と文化という対置関係において、捉えられる視点です。
自然を考える-3-
ヒトが生存するための基本に、食べることがあります。この食べることの食料、農産物生産の現場が、現代技術に満たされた場所であるかぎり、心の疎外が解消されることはないと思っています。山へ入って、山菜を採取し、木の実を拾って食べる・・・。これで賄えられればいうことないのですが、そうはいかないのが現実で、栽培野菜に依存することになります。
この野菜栽培は、現在の全体を見る限り、化学肥料や農薬を使って、機械による大量生産がおこなわれています。でも一方で、自然環境保護だとか、人体への影響などの認識が高まり、有機肥料による無農薬栽培が注目を浴びてきています。大手スーパーマーケットなどにおいても、その種の販売コーナーが設けられたりしています。 しかしこれらは、化学肥料と農薬から、有機肥料と無農薬へと手法が変わるだけで、現代農法を放棄したわけではありません。
心の開放と食料を一体のものとして捉えるなかで、仮説として、自然のままの食料を手に入れることを置いたとき、農法じたいを自然のままに戻していかないといけないと思うのです。たとえば、赤熊自然農園(京都府亀岡市に所在)では、不耕起農法を長年にわたって研究されています。自然農法といわれるもので、なるべく自然のままに、野菜類を育てることを主眼に置かれています。土の力と野菜の生命力を、最大限自然のままにまかせようとの試みです。
この自然農法と自然採取で、自らの食料確保の手段としていくこと。このことが、現代物質圏から一歩でも遠ざかる手段となりうると考えています。生命が自然と一体のものであるという認識を、自ら自覚していくことが必要であり、壊されつつある自然を、恢復させるという全体の目的を思うと同時に、心の開放をも夢見るのです。
自然を考える 2006.2.21~2006.4.12
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自然派生活のベースに、採取生活を採り入れてみる。その具体的な手段として、山へ入って木の実を採取する。自然食品ブームで、山菜や木の実が注目されてきていて、あたかも自然のままを装って、栽培される商品として、山菜・木の実があります。ここでいうのは、そうではなくて、実際に山へ入って、自生種の山菜や木の実を採取するということです。
理想的にいえば、山菜や木の実を採取する土地は、共有のものでなければいけません。ここに掲載した写真は、胡桃と銀杏なんですが、これは私有地において採取できたものです。でも、山へ入って採取する、と云っても、自分の私有地でない限り、土地所有者がある現状では、純粋自然採取にはならないですね。ここに問題があります。
領土問題とか、国境問題とか、そこまで広げちゃうとことは簡単に処理できない状態に陥りますが、でも一種ブーム化している山菜採りとか木の実拾い・・・これなんかも突き詰めれば、大小の違いはあっても、他人所有の土地にて行う違法行為(笑)なんですね。じゃあ、どうすればいいのかな?考えてしまいますね。
ここで思うことは、制度上、持つ者と持たない者があるわけだから、この両者がうまく共有できる方法を模索することだと思います。これは、所有権をどのように捉えて、所有する者と所有しない者とが、うまく融合する方法のことです。
自然を考える-1-
<自然と文化>
自然とは、ありのまま、素のまま、なにも人間の手が加えられていない状態・・・。<自然>ということを考えてみます。自然とは、地球環境でいえば、人間の手が加わっていない状態を想定します。人間の手が加わっていない状態を自然状態とします。そしてボクは、ここで<自然>と対になった概念を<文化>という言葉においてみようと思います。
動物や植物という生命現象をもった生成物は、地球環境に順応して生命を維持しています。鳥たちが、虫たちが、猿や猪や鹿たちが、それぞれに地球環境に手を加えずに、生命を維持しています。樹木や草花なども同じです。ここで、自然のままにと想定するのは、この動物や植物が生命を維持している状態です。
ボクは、人間の英知を否定するのではありません。現代科学技術の最先端を否定して、自然に帰れとは全く考えていません。人間が自然に手を加え、加工してきた全てを文化という概念でくくりますが、この文化を育んできた力を褒め称えてあげたいと思っています。そりゃ、現象の個別には否定的見解が多々あります。戦うという概念なんて、否定的見解の最たるものです。
自然を考える枠組みも、当然のことながら、現代の文化状況に立った上での<自然>ということになります。むしろ、文化に包まれたボクの日々生活のなかに、自然がどこまで発見できるか、という試みでもあるのです。そこで、ボクたちが日常的に<自然>と云っている中味について点検していきたいと思っているわけです。その最初は、ボクの体を養う食料について考えていきたいと思います。
自然を考える-2-
<自然>というなかには、ありのまま、という捉え方があります。つまり人間の手が加わっていない状態、ありのままの状態です。究極、本当にそういう状態があるのかどうかは別にして、まあ、極力、ありのままの姿を維持している状態をいいます。
山の食べ物でいえば、自然、山や野に自生する山菜とか木の実です。ヒトの集団が、採取生活を営んでいた頃、縄文時代以前、参照すべきイメージとしては、そこです。一応、現代文明につながる以前の文明・文化の中にあった<自然>です。ボクの興味は、そのへんにあって、できるできないは別にして、採取生活を優先的に取り入れてみたいと思っているのです。そこに自分を置くことで、意識のあり方が変わってくるのではないか。そのようにも思うのです。
自然を考えるということは、生活態度を変えていくという前提が含まれます。様々な技術と道具に囲まれた現代生活です。野菜をつくる農作業といえども、技術のかたまりです。ましてや農機具を使った栽培など、現代技術の集積です。ボクは、現代技術を否定する気は、毛頭ありません。地球環境に様々な影響を与えてきたとはいえ、ヒトの物資的生存をより豊かな環境にしてきたのだから、その価値は大いに認めます。
つぎにヒトの置かれている構造を考えると、心の部分と物質の部分の綜合で成り立っているのがヒトです。ヒトを構成する心と物質。ヒトを物質関係で連なる人、人間関係。そのここのヒトの心の関係が、ボクの注目しているところです。ヒトの心が置かれている場所が、現代技術に満たされた場所であり、この場所において、心の疎外が起こっているとすれば、この現代物質圏から心を遠のけることで、安息・安定を求めている場所が見つかるかも知れないと想像するのです。自然と文化という対置関係において、捉えられる視点です。
自然を考える-3-
ヒトが生存するための基本に、食べることがあります。この食べることの食料、農産物生産の現場が、現代技術に満たされた場所であるかぎり、心の疎外が解消されることはないと思っています。山へ入って、山菜を採取し、木の実を拾って食べる・・・。これで賄えられればいうことないのですが、そうはいかないのが現実で、栽培野菜に依存することになります。
この野菜栽培は、現在の全体を見る限り、化学肥料や農薬を使って、機械による大量生産がおこなわれています。でも一方で、自然環境保護だとか、人体への影響などの認識が高まり、有機肥料による無農薬栽培が注目を浴びてきています。大手スーパーマーケットなどにおいても、その種の販売コーナーが設けられたりしています。 しかしこれらは、化学肥料と農薬から、有機肥料と無農薬へと手法が変わるだけで、現代農法を放棄したわけではありません。
心の開放と食料を一体のものとして捉えるなかで、仮説として、自然のままの食料を手に入れることを置いたとき、農法じたいを自然のままに戻していかないといけないと思うのです。たとえば、赤熊自然農園(京都府亀岡市に所在)では、不耕起農法を長年にわたって研究されています。自然農法といわれるもので、なるべく自然のままに、野菜類を育てることを主眼に置かれています。土の力と野菜の生命力を、最大限自然のままにまかせようとの試みです。
この自然農法と自然採取で、自らの食料確保の手段としていくこと。このことが、現代物質圏から一歩でも遠ざかる手段となりうると考えています。生命が自然と一体のものであるという認識を、自ら自覚していくことが必要であり、壊されつつある自然を、恢復させるという全体の目的を思うと同時に、心の開放をも夢見るのです。