中川繁夫写文集

カテゴリ: 写真評論

<写真雑学講座> 2008.5

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<写真を作る現場>

ド素人だと自称される人、大歓迎なんですが、フイルムカメラ、デジタルカメラ、携帯電話カメラ、いろんなカメラで、写真を撮る。写真なんてことば使うと、複雑になるので、静止画像と言ってもいいんですが、まあ、写真としておきましょう<写真>です。

ここは写真学校の枠組みで、写真の基礎概念を培おうとして、テキストを作っていきます。今日はその第一回目、<写真を作る現場>です。ここは、書いていけば当たり前のことを、当たり前に知るための、雑学、基礎講座だと思ってください。写真研究の本論ではなくて、その周辺、雑学です。でも、本論とは、なにか、なんてことも雑学で論じる必要があるのかも知れません。

なになに、写真を作る現場、とは、カメラを携えて撮影する場所のことです。いくつもの区分ができると思いますが、ここでは、屋外、屋内、自分の部屋、など写真を撮る場所が、あるということです。

たとえば、旅行中に写真を撮ります。
たとえば、庭に咲いた花を撮ります。
たとえば、自分が食べるものを撮ります。

撮るモノの話は置いといて、写真を撮る場所は、光がある場所なら、どこでも撮れて、どこで撮っても写真になります。まあ、最初に、このように定義しておきましょう。どこでも撮れる、なんて原則そうですけど、撮れない場所もあります。その場所については、追々ですが、政治的な要素、自然的な要素、そんな条件があって撮れない場所もある。でも、まあ、写真を撮ることで、写真を作ることができます。

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<現代写真の表現について>

いつから現代と区切るかには、議論が必要だけど、ここでは1968年からの数年間を、現代写真の始まりとし、その後、いくつかの区切りがあって、携帯電話の普及してくる今が、これを最前線としたいと考えています。

1968年といえば、学生運動が盛んな時期で、自分表現という考えが表面に出てきた時期ではなかったかと考えています。
写真表現の視点についても<私>あるいは<私的>という視点が重要になってきた時期であったと思います。

写真において表現しようとされる内容は、撮影者自身と外部世界との関わりの接点です。その接点を、区分するとしたら、政治経済社会の動向が主体の世界があり、それを受け入れる個人としての自分があります。この社会と自分の関係を、社会の側に主軸を置くか、個人の側に主軸を置くか、それの強調図式だと思うのです。

写真制作作業が、個人の興味において、その興味のなかみが撮られ、作られていきます。、写真イメージを作っていく、写真行為とは、この興味そのものを、具体化していくことです。いっぱんに社会と呼んでいる世界の構図のなかで、個人の興味視点を、より社会に向けるか、より個人に向けるか、の視点と方向のちがいといえるかも知れません。

いつも個人と社会の距離感で、そのどちらに重きが置かれるか。この視点でいえば、現代写真の表現は、より個人的に、よりプライベートに、その撮影の現場を求めてきたといえます。次には、その流れを具体的に見たいと思います。

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<現代写真の表現について>-2-

1968年を起点として、現代写真のはじまりだとする説をとってみます。ここでは、年配になってしまわれたけど現役の、三人の作家を選び出すことができます。ぼくは、東松照明さん、荒木惟経さん、森山大道さん、この三人の作家をあげます。もちろん同時代の写真家さんは、たくさんいるし、なにもこの三人だけが重要なわけではありません。という言い訳をしておいて、この三人の作家さん、それぞれに特徴があります。その特徴を、社会の出来事を撮るという、写真の目的に対してどうなのか、という視点からあげてみます。

東松さん。
ストレートに社会の問題となる出来事にトライしています。当時でいえば、原爆投下された長崎、米軍基地のありようの問題など、社会の関心ごとをテーマにしていきます。

荒木さん。
個人的な新婚旅行の写真集からのスタートです。「センチメンタルな旅」、感情旅行といえばよろしいか。つまり、おおやけ問題より、個人の関心ごと、そのことです。

森山さん。
社会の問題をストレートというわけでもなく、個人のヒストリーというわけでもなく、自分の情念にまつわる出来事、とでもいえばいいかと思います。社会の問題に直接トライしてはいません。

まあ、三人の作家さんの初期のころの作風を、概観したわけですが、この三人の作家さんが、展開される道筋に、以後の作家の卵たちが追随していく、まあ、ぼくはこのようにみているわけで、この三人が並んで出発する1968年前後から1970年をこえる数年を、現代写真の始まりの年月だと考えているのです。1974年にワークショップ写真学校が開校するにいたるまで、です。

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<情動・フォト>3

写真に撮られるテーマと内容は、その時の社会がもつテーマを、具体的なイメージとして見せることだと思っています。そのことでいうと、現代社会の問題は、個人の内面の問題になってきていると思っています。もちろん、これまで表面的に現れていた問題が無効になるかといえば、まったくそうではなくて、新たな問題として現われてきている問題です。写真に撮られるときには、その問題は潜在的なものであって、写真が撮られてのち、数年またはそれ以上の後になって顕在化してくる問題です。現代社会の個人の内面の問題をとらえてみると、その中身は非常にセクシュアルなものであろうと推測できます。

最近では、痴漢行為や盗撮行為が、社会問題、犯罪として、ニュースで個別に取り上げられます。昨日、NHKでJKビジネスが売春にまで至っているというレポートをしています。JKとは女子高校生のこと。つまりNHKではJKというあやしげなる略語が、社会に認知されているという前提で、使っているものと思われますが、その実態は需給と供給の関係にまで至れると思います。社会の表面から隠された、しかし公然の秘密めいたことがら、セックスなことなのです。社会の爛熟といういい方はどうかと思うが、ある意味、世が乱れているわけで、人心が本能に基づいて行動してしまう、ということに外ならないのでしょう。

写真や映像は、疑似体験できる装置として存在するわけですから、時代の鏡としてあります。最近、あるブログが忠告を受け、あるいは閉鎖されてしまった理由のひとつに、無修正サイトへの誘導、という項目があったといいます。日本国内では、いけなくて、外国では、いける、というある特定のからだの部位が修正されていないところへの誘導のおそれがある、ということでしょうか。こういう事態が起こっているというのは、つまり、関心ごとの中身が、内面のセクシュアルをどう解消するか、という逆要請ととらえてみて、ネットの時代、個人が個人として自立し始めた時代、この時代の闇をあぶりだす装置としての写真・映像が、大きな需要として存在しているように思われます。

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<情動・フォト>2

写真制作の方法で、ドキュメンタリーという制作の方法をメインに据えて、その周辺に派生する写真群として<フィクション・フォト>やここでいう<情動・フォト>という内容の写真群があると思っています。ということで、時代の流れのなかで、写真の社会的役割が、すこしずつ変化してきたと思えます。かって、世の中の記録をする手段として、文字が使われ、絵画が使われていましたが、写真術が発明されることによって、記録の中心的存在になってきたのが写真イメージです。映写機を使って記録するフィルム、つまり映画が担うというより静止画の写真。これは紙媒体、新聞とか雑誌に掲載するのは静止画、写真でしたから。ところが、テレビの発展、ビデオの発展、いまやインターネット通信の時代になっていて、写真が持っていた記録性を使用する媒体、新聞や雑誌から、動画でもって記録するビデオが主流になってきたのです。

写真にとって、記録することが第一義だった役割から、写真で記録しなくても動画で記録されることのほうが、主流になってきました。動画では、現場が動くと同時に音声も記録されるから、記録性としては優れていると思います。またメディアとしても現在では、テレビが主体で情報が流されていくわけですから、写真より映像が重宝されることになります。こうして写真が記録の主体から遠ざかるということは、写真それ自体が、別の方法や目的で使・われだす、ということになります。ぼくが思うには、記録から離れた創作・フィクションすることが、必然的に写真の主たる目的となります。ここでいうフィクション・フォトです。このフィクション・フォトで、なにを導き出そうとするのか、これがこの節のテーマです。ぼくは時代の流れのなかで、今からのちには、個人、内面、情、これらがテーマとして注目されてくるのではないか、と感じています。

個人の人間としての存在。肉体を保持するためには食料が必要であり、情を持ち、情をふくらませる極みにセクシュアルなことがあり、この二大必要が、扱うべきテーマのベースになってくるように思われます。人間とはなにか、男と女、生殖とはなにか。本能としての食欲と性欲。この二つの欲を満たすための方向へ、制作の方法がフィクションされていくのではないかと思えるんです。食べることをテーマとすることは、全く自由で、いまや写真だけではなく、映像においてもテレビ番組として、食べることが表にあらわれてきています。それと同時に表われてくるのが、性欲、肉体、その場面、ということでしょう、けれども、これはまだ未開です。タブー領域でもあります。このタブー領域をどのように表へ現わしていくのか、ひとつのテーマの方向であると思われるのです。

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<情動・フォト>1

生命活動のうち、言語に対抗して提示できる領域といえば、情、情動。感情とか、欲情とか、そういうレベルの領域です。イメージによって感覚が刺激され感じるというもの。そういう写真があってもいいのではないか、と思うわけです。言葉を介さないで感情が動くといえば、それは本能が刺激されるということでしょうか。

男が感じる女への感情、その逆。恋愛とかいう感情そのもの、理屈ではない。このようなことが与えられる静止画としての写真。いま求められる一極は、こういった言語を介さなくても感動が得られる写真のことでしょう。

たとえば、ハンス・ベルメールの人形の写真、HIROMIXや長島有里枝といった女性たちが撮った写真をみて、これは理屈ではなくて、感情で見る写真だと思ったわけです。言語活動は、あとからつけられるとしても、写真と並列、もしくは写真の基底にあるものではないと認知するのです。このように考えると、ここにおおきな潮流としての二極が見えてきます。言語によって意味をもつ写真と、情動を動かされることによる写真、です。この時代、どちらが正しくてどちらが間違っているとは言えないところです。

いきおい、この文章は、言葉に拠っている訳です。だからここで論じる写真というもの、言語によって拘束されるではないか、と考えてしまいます。でも、そうではなくて、写真に表されるイメージからのインパクトによって、感情が動かされるという意味では、その基底に言語を有しない、といえるのではないか。

このことは、現代美術の方法にも通じるように思えます。写真もそういうことでいえば現代美術の一角を占めているわけで、情的な、情動される、むしろそういう領域は、セクシュアルなイメージであるのが大半です。人間が言語を介さなくて感情が湧きあがるのは、本能として、子孫を残す行為に直結するイメージなのかも知れません。

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<フィクション・フォト>

ドキュメンタリー・フォトが、世の中の出来事を、嘘偽りのない事実としてとらえる写真だ、ということにすると、そうではない写真があることに気づきます。作り物、創作、つまりフィクション、虚構の領域の写真のことです。たとえば三島由紀夫を被写体とした細江英公の「薔薇刑」(1962年)は、虚構の世界のイメージ化、とでもいえばよいか、作り物です。そのイメージの原点は、被写体となった三島の文学センスであるように思います。

ドキュメンタリー・フォトと並走する言語。ドキュメンタリー・フォトは、言語によって支えられる写真イメージの特定、といったことがあって成立する写真です。その対極にあるのが、ここに提起するフィクション・フォト、だと言っておこうと思います。フィクション・フォトは、多々あると思います。物語を素材としてイメージ連鎖させていく写真群。たとえば高梨豊の「初國」(1993年)という写真集、なんとなく神話イメージをベースに、写真を撮り下ろしていくというイメージです。

言語とだけいえば文字列ですが、文学言語といえば俳句や短歌から物語や小説などを意味させたいと思っていますが、この文学言語を背景として写真を連ねて物語にする。フィクション・フォトとは、言語の領域と並列関係、もしくは底辺に言語領域が横たわる。このような関係。写真ではないけれど、絵物語。源氏物語絵巻は、最初に言葉があって、物語があって、それに絵が作られてきて、いまや源氏物語絵巻として存在します。

ここでは、写真と言語の関係を見ていて、写真イメージは、イメージ化される言語から、離れられないのではないかと思うのです。でも、言語とは関係しない写真、写真つまり静止画それ自体でインパクトを与えられ、それに終始し、インパクトに帰る。言葉は、感嘆詞でしか発せられなくて、こころ動かされる、情が動かされるイメージ。第三の写真、そのような領域が、あるような気がしてならないのです。

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