中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

カテゴリ: 写真評論

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2004.06.11
写真学校のプログラム

新しい写真学校のプログラムをつくっています。
デジタル時代の学校というコンセプトからしてフィルムとデジタルの両面から
写真という表現手段をどのようにして使いこなしていくのかというのが主眼です

写真を自己表現の手段として捉えていくなかで考えると
技術習得プログラムと思想獲得プログラムのふたつの領域があります
技術習得を主体においた写真学校から脱却していくプログラム開発が必要なんですね

写真の背後にあるものを考え捉えて自分の生き方にまで遡上させること
パーソナルメディアとなった写真術が自分と対話する手段であること
こんな命題的なことを想定しながらプログラムをつくっています

学校の教科プログラムっていうのは実践が伴ってきて実態化します
写真っていうものが映像・イメージを作り出す装置の原点なのに
文学や音楽のようには正規の学校では教えていませんよね

デジカメブームで個人ユーザーが爆発的に増えていて
街角のプリクラボックスが大繁盛していて
これらはもう大きな文化の領域を形成しているのですよね

こんな時代に写真を学ぶ学校が模索しなければならないことは
時代の奥深くに潜在している欲望の中味を表に出してあげることができる
そのことが必要なんだということに気づくプログラムだと考えています

写真表現の現在っていう評論タイトルはもう定番になってしまいましたが
必要なことは社会の構造をどう分析して現在というものを捉えるのかという命題に
写真制作の技術と思想の両面からどうアプローチさせるかなんですね

2004.06.09
ピントあわせは写真の基礎

写真の勉強で基礎となるものは何かな~って思っています。
そんなとき、自己流で写真を撮ってた人が写真を見てほしいって来ました。
ピントが合ってないんです。

なんでもそうですが「ピントはずれ」ってこといいますよね。
カメラの技術でいうと「ピント」が合わないってことは基礎が出来てないってことですね。
でもね、最近のカメラって全自動でしょ、ピント合わせも自動なんですね。
とっても楽チン、誰でも写真が写せる(あたりまえ!)写ルンです。

ここにちょっとした落とし穴があるんかもな~って思いだしています。
写真に興味が出てきて、作画意識が出てきて、そこで使いこなそうとすると、
全自動ってのがちょっと邪魔になるんですね。
もちろんカメラには手動でできるようになってるんですが、
でお、ピント合わせに苦労するらしいですね。

わたしは完全手動の時代に写真撮り出したしもう昔のことだから忘れてますけど、
最近は、便利なんだけど不便もあるってことなんですね。
だったら昔は全て不便だったじゃないですか、進歩したんですよ!
っていう見方もうなずけるのですが、便利すぎて不便。

ピント合わせはハード面だけではないです。
何を撮るのか、っていうテーマ設定のところでもピント合わせが必要なんですね。
カメラってレンズを向けてシャッターきれば写っちゃうからね~
で、少し欲が出てきて写真でもって作品化しようと思うと、困ってしまうんですね。
テーマがあるようで見つからない。

何にピントを合わせるのかということが見いだせないうようなのですね。
困ったな~~って顔して、花でも写すか~子供でも写すか~・・・
写真の現在と未来を見ていくのに過去の歴史は必要か不要かということです。
そして歴史を見る視点ってのも求められますから、写真ってちょっと手ごわいですね。

そう考えていくとだんだん勉強する場所がないことに気づいてきませんか?
気づいてきた人は集まろう!!
学校をつくっていきましょ~~!
気づきの写真学校なんていうのもいいかもしれないな~って思っています。

2004.06.08
つまりお金ではない・・・

写真学校フォトハウス京都の考え方

なんでもそうなんですが、なにか全てお金しだいってことが今の世の中ありますよね。
金さえあればこの世では~~なんていうのは満更ウソではないですね、なんでも出来ちゃうですね。
お金をだせば写真の専門学校や芸術系大学で写真のお勉強ができます。
そりゃタダでは教えてくれません。

このお金が動いてそこに教え教えられることが出来る関係っていうのを、教育産業っていうんだそうです。
確かに設備が必要だし、建物も必要だし、教えてくれるひとの生活費が必要だし、
って考えていくとお金の要ることばっかりです。
経済活動の一端を担っているんですからどうしようもないシステムなんですね。

でも、この経済活動を成立させないところで写真を教えたり写真をあげたり出来ないだろうか?
っていうのがそもそもの根底にあるんです。
教育がなんのために施されるのか、っていうと生産を上げるためなんですね。
社会に出て行くという言い方しますが、教育を受けて仕事に就くわけです。
そうしてこの世の中の仕組みに参入していくのですね。
ここで、いろいろと問題がでてくるんです。

まず世の中の流れの中でですが、容認できないことが沢山あります。
出世という考え方があります。何をもって出世したと認定するかといえば、
会社で仕事するときには社長以下部長だとか課長だとか・・・・
俗に上下の関係ってあるんです。その上の方に就いていくことが出世。
大きな会社、小さな会社あるけど、俗に大きな会社の方が上、人間の欲望って上昇志向ですね。
競争心ってのも必要ですね。

戦争があります。絶対嫌や~~っていっても無くなってないですね。
兵器作ってる会社って戦争が起こったら儲かる仕組みなんでしょ?
こんなんずる~い、っていってみても、そういう仕組みだからどうしようもないんですよね、個人的にはね。

そういう価値の軸の上ではない、そうではない価値の軸ってないんでしょうかね。
その価値軸にせめて反抗する程度のことしかできないのかも知れませんが、
もう一つ別の価値軸を作ろうと思っているんです。
この「あい写真学校」「写真ワークショップ京都」いずれも経費ゼロにはならないですが、低く抑えています。
自分が作ったもので学費の代わりにする物納でもよいことにしています。

地域通貨っていうシステムが試みられ始めていますね。
そのシステムに基本的に同感するんです。
その実践としての試みが「あい写真学校」の学費納入のシステムなんです。

教えてあげる労力っていうのを貨幣価値判断から除外する、
あるいは排除するってことの試みなんです。
だからお金が全てに優先する!なんて考えの人はなじまないですね。
そういう人は沢山お金を支払って卒業証書ってのをもらったらいいんです。

そ~ゆう価値観じゃないところで、ものを考えたり作ったりする仕組みを創りたいと思っているんです。

2004.06.07
写真の範囲

写真の範囲ってどういうこと?
そうなんですね、何をもって写真とするのか、っていう区分けの問題なんです。

かってカメラ装置とフィルムが創りなすものを写真っていってました。
でも現在はカメラ装置とフィルムが無いところで写真に似たものが創られる。
たとえばコンピューターグラフィックス、これって写真の仲間に入れてはいけませんか?

物理・化学処理によって作り出されたものが写真だとしたら、
デジタル写真ってのは化学処理しないですね。
現像のための薬品使わないではないですか。
暗い部屋(暗箱)から明るい部屋(コンピュータ)の方へ、
処理の方法が変わってきたじゃないですか。

カメラ、フィルム、薬品、コンピュータ、デジタルデータ・・・
いま朦朧としながらも写真って呼んでる範囲におけるハード装置です。

べつにどうでもいいことなんかも知れません。
明確にしないほうがいいんかもしれませんね。
いま、世の中って混沌だし混沌のままで表面すべっていったらいいんかもね(笑)

これまでの分類方法では現実に即さないようですから、
あえてこうして発言してるってわけです。
つまり写真学校っていってるんですけど、
なにを学んだり研究したりする学校なんですか?
っていう素朴な疑問があるんです。
これを解明していかないとやっぱりやっていけないでしょ~(笑)

これもカリキュラムに入れないといかんのやな~って思ってます。

2004.06.06
デジタル写真

デジタルカメラ開発にかける日本企業の番組がTVで放映されていました。
たしかにカメラ生産の技術水準が世界をリードしていることは事実のようです。

ところでソフトウエア、コンテンツの生産はどのような現状なのでしょう。
共同体の文化度が高いと雑誌や出版物に多く利用されるし
カメラマンの写真展もあちこちで開催されています。
インターネットのページを覗いてみてもし主流は写真イメージです
そのうち動画が中心となると思いますが、
個人がたしなむには写真が簡便でなじみやすいです。

写真表現がヴィジュアルアートの一角にあると認定すると
上記の話ではちょっと対応できにくい代物となってきます。

そこでは写真の生産と消費の側面からの視点ではなくて
人間のこころの問題として写真を捉える視点が求められると思っています。
情報化の時代はこころとこころが直接に結びついてく時代だと思っています。
新しい社会制度としてのインターネット時代を迎えているデジタル環境のなかの写真!

そんな時代のなかでの写真の在処を探し出していくことが
新しい学校には求められているのだと考えています。
その磁場にはなにが起こってくるのでしょうね~

2004.06.05
いま写真がおもしろい!!

デジタルカメラで気の向くままに撮って見てまた撮って見て、
そこに友だちや大切な人がいればもっとおもしろい気持ちになるよね。
写真ってコミュニケーションのツールなんです。
でも、どうしたら上手になるのかわからないと悩み始めたひとへ贈ります。

写真はあなたの心です。心を表現するには表現する技術が必要です。

ところで「心」とはいったいなに?どんなものなのでしょうか。
いま、写真の心をめぐって、熱い議論が交わされつつあります。
あい写真学校では時代の本質を見つめ体感するためのカリキュラムを中心にした、
感じられる写真の創り方を勉強します。

写真がなぜ面白く感じられるのかというのは、直接人間の、
つまりあなたの心の奥深くに眠っている神秘さとか感動を起こす感覚とかが、
目覚めてくるからだといいます。
写真というのは撮影技術をマスターしたからってわかるものではないです。
ますますわからなくなってくるのが、誰もが体験することではないですか?
なぜ、そうなるのかといえば、写真を撮ることで何かを表現することなんですが、
それが自分の生きてるってことに直結していて、生きているっていう快感なんです。
でもその意味を見きわめることって、実はなかなか大変なことです。

これまで偉大な芸術家って呼ばれている人たちが創造力をかきたてられた源泉は、
苦悩の奥深くにある快感を求めてきたのです。それがひとを感動させるのです。

写真を始めたあなたはね。つまりすでにその入り口に立っているってことなんです。
祈るということではなくて、あなた自らがいのちの恵みを受けに前へ進み出る、
というのが写真の行為そのものなのです。
写真が面白いと感じられるのは、前へ進み出ることにつながっているからです。

でも、やればやるほど何を撮ったらいいのか、どうしたらいいのかわからなくなるのも事実なのです。
ですから、その解決の糸口をほかのところから導いてこなければいけない。
自分に対して他者の存在があって、そこに境界があって、
この境界を越えていくコミュニケーションの方向、自分の心を開いていくということなのですね。
そのための学習をすることが必要なのです。

写真を撮って人に見せたい、見てもらいたい、っていう欲求は、
このコミュニケーションを求めていることなのです。
ですから、あなたが撮った写真を支えているルールというか意味というか、
そういうものを自分で考えていかないと相手は感じてくれない。

写真を勉強するってことは、そういう感じをあふれさせるということなのですが
、どうもこれまでの写真学校では技術的なことは教えてもらえるけれども、
喜ぶ快感はあまり教えてくれなかった。
むしろ写真を創っていくことは苦しいことなんだ、と教えてきたのです。

時代環境が変わってきて、新しい生き方っていうのは、
この快感を快感として認めてあげることで、これを求めていくことです。
新しい写真の勉強というのは、そんな新しい時代の向こうにいくためのこころ、
気持ちをつむぎだしていくことです。
そういう新しいタイプの写真家を育てたいと思っているんです。

写真学校フォトハウス京都の考え方の一端でした。


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2004.06.03
写真の限界

写真のことを考える枠組み作りが、写真学校フォトハウス京都の仕事です。
そこで今日は「拡大する写真の現場」から写真の限界をとらえてみます。

写真ってけっきょく物質としてあるものしか写らないんです。
すごく当然当たり前のことなんですがそ~ゆうことなんです。
だから写真の限界ってのは物質でないものは写せないってことです。

物質としてあるものは写真にすることができる。
宇宙の写真があります。
コンピューター処理して目に見える宇宙の姿の写真があります。
人体内部のミクロな物質を撮った写真があります。
遺伝子とかの写真です。

そうなんですね、写真に撮られるものってマクロからミクロまで
科学技術開発のおかげでもう際限なく拡大深化しているんですね。

1852年にパリで出版されたマキシム・デュ=カンが撮ったエジプトの写真からはじまって
写真は遠くのものを近くへ引き寄せる役割をになってきたんです。
旅行記や冒険物語として多くの記録を残してきたんです。

いつもその時々の写真の限界に挑みつつここまでやってきたんですね。
宇宙深部や人体内部の深~いところまで写真に撮られてきたんです。

でも見えるものしか写らないという原則は崩せないです。
これが写真の限界なんですね。

でもでもでもですね、写真は見えないものを見せようとしてきたじゃないですか!
表現っていうのは見えるものの背後にある見えないものを見せることじゃないですか?
なんか、ややこしくなってきたな~(笑)

このややこしいところを検証していくのが、
新しい写真学校の役割のひとつかな~
そんなふうにも思っています。
2004.06.02
写真を学ぶキーワード

写真ってどんなものなんですか、
って問われて明快に答えって出てきますか?
真実を写すもんなんや、って言ったって
そんなこといったら余計に複雑極まりないですしね。

でも写真って不思議なものです。
考えれば考えるほどわからなくなってくるように思っています。
そこで写真ってのは器であってその中味は他の体系に依存する。
このように括ってみるとおぼろげながら見えてくるものがあります。

現代社会を論理付ける枠組みそのものを
具現化したものが中味ではないか?って思うんです。
そこで現代社会の話題となるキーワードをだしてみました。

1、生命、こころの科学的解明と非科学領域
2、自然、地球、宇宙の捉え方
3、人間の欲求、欲望、情動のありかと社会制度
4、政治、経済、芸術、宗教の再融合化

非常にアバウトなものですが、こんな区分を仮説してみて
それらについて自分が捉える位置というのを明確にしていくこと
そこからどのようにイメージ化していくのか、
っていうのがキーワードになるように思うんです。

いまの時代、そんなん理屈と違うよ、っていう風潮もありますが
そんな風潮の中でこそ問題を明らかにしていく必要があると思うんです。

写真を学ぶ写真学校の基本的スタンスをこのように求めています。

2004.06.01
フィルム写真は残れるか

デジタル写真の時代になって、コマーシャルやエディトリアルの仕事も、
デジタルカメラを使うようになってきてます。
写真を仕事にするにせよしないにせよ、デジタル化へまっしぐらに進んでる現状です。

こういう現状にもかかわらずフィルムで写真を制作する人たちもいます。
フィルムにはフィルムの魅力がある!
確かに現状では粒子、色調など印画紙を使う限りフィルムの方がよい。
でもこれもデジタル技術の進化でフィルムを淘汰していきますよね?
フィルム写真が今後も残るとすれば、
それはフィルムしかできない領域を確保していかなければいけないんです。

写真が美術(アート)の一角を占めるようになって久しいですが
工業製品としての銀塩やカラー処理工程での残存というより
フィルムを使ってより手作り化していく方向での残存を想定しています。

作品制作者(作家)は銀塩だけではなく非銀塩の写真世界も含めて、
その技法や材料を吟味していくことを考えていかなければいけないと考えています。
つまり手作りの、かってあった技法を掘り起こしていく作業が求められるのです。

それともう一方の技術ではなく「写真が扱うテーマ」の問題があります。
フィルムがフィルム固有の向かうテーマとは何か、
ということを導きだしていかないと意味がないです。

フィルムとデジタルというふたつの媒体をどう使うのかというのが
当面の課題になりそうですね。

2004.05.25
写真のネットワーク

いま、ここで考えようとしている「写真のネットワーク」とは、
新しい時代の人間の生き方を探っていくための開かれたネットワークのことです。

現在、学問上の分野で、生産と消費生活の領域で、
これまであった社会システムや考え方では解決できないことが、
あらわになってきているように思います。

このことは、世界の構造(国家と国家の関係のありよう)や世界経済システムの変化により、
個々の人間のあり方も急激に変化していかなければならないように思えています。

この変化はグローバル化する世界構造において、いろいろと問題点がクローズアップされています。
私たちの周辺を見てみても、精神世界や宗教関連の出版物があふれ出していることや、
自然と親しむ方向(ルーラル化)への情報がテレビ番組や雑誌などの特集が
多くみられるようになったことがあります。

これは近代以前に人間社会が培ってきた文化環境を取り戻す試みとして、
その現在的な問題を解決していくことを暗示しているように見受けられます。
私たちはこの情勢の変化を的確にとらえて、
新たな人間関係のネットワークをつくっていく必要があるのではないかと思っています。

各生産分野(特にここでは写真生産分野を中心として)の専門領域においても、
このままでは人間不在ともいえる新しい商品開発の研究のみが先行していくようにも感じています。

写真の分野では、モノクロ写真からカラー写真へ、現在はデジタル写真へと移行しています。
そして、いつもその周りには消費者としての私たちが存在しています。
あるシステムが商品化されることで完成したものとみなすとすれば、
フイルムをベースにしたカメラと写真処理はすでに完成品であって、
私たちは消費者の域をでることができなくなってしまったのです。

デジタルカメラはすでに商品化されて機材としては完成しました。
今後は部分的改良が加えられてそのつど需要を喚起してきます。
でもそのソフトウエアである写真表現の形はまだ始まったばかりです。
現在はフイルム写真からの置き換え過程です。
20年ほど前にレコード板からCDへ移行したようにです。

世界が統一(グローバル化)されていく構図に対して、
どのようにして一人ひとりの人間としての希望の実現を試みていくのか、
ということが求められているのです。
こうした視点から見てみると、いろいろと現れてくる新しい仕組みに対して
それぞれが意識的に対処していくことが求められていると思います。

これらのことを具体的に実現していくためには、
いまある商品としての価値観から意味を組み替えるべく新しい考え方の体系を模索しながら、
新しい世界観をつくっていける個人と個人のネットワークが必要だと思っています。
これから先、私たちが具体的にやらなければならないことは、
写真を撮り、写真を創るということを中心としながらも、
現代のいろいろな問題を考えながら表現の形にしていくことだと思います。

自由に発想し新しい時代を創っていくためには、
具体的な方法を取得する場を創り出すことが必要で、
写真ワークショップ京都のネットワークはそのような場になればいいなと考えるところです。
価値や意味をとらえる思想の領域から生産と流通と消費の領域までを含む、
私たち自身の一体化した新しいシステムを創り出していくことが必要になっていると思います。
この写真ワークショップ京都もすでにある価値観や意味するもののなかにありますが、
また、デジタルネットワークという商業システムを使っていくことになるのですが、
紙一重のところでそこからの脱却を図ってそれぞれが独自のメディア展開を
していけるようにしていきたいと思っています。

写真のネットワークとは、ぼくたちが新しいメディアに使われるのではなくて、
これを私たちのために使いこなしていくことに尽きると思います。
具体的なネットワークの創り方は別項にて提案していきます。大きくいえば、
デジタル環境を使ってのネットワークシステム作りということです。
2004.05.24
写真教育のはなし
写真って小学校や中学校で教えないんですね
写真つまり映像文化の根幹にある表現媒体なんだと思いますが
学校の基本教育のかたちは文字文化が全てのようにも見えます
20世紀の時代は写真、映画、テレビというように映像を主体に進んできたと思うんですけど
人間の生成過程にけっこう大きな影響を及ぼしてきたメディアだと思うんですけど
学校で教えてないですよ
写真が発明されてどれくらいの年月がたっているか知ってる?って聞いてみて
たいがいはきょとんとしてしまって、さあね~どれくらいなんやろ~戸惑ってしまうね
これが現実の認識度合いです
べつにこんなことどうでもいいことや、って言ってしまえばどうでもいいことかも知れませんけど
カメラを持つこと写真を撮ることが英会話すること以上に現代生活に入り込んでるのに
どうもいけませんね~
でもでも最近は写真の美術館もできてきたし展覧会も頻繁に開催されてるし、
表面にはだいぶん現れてきたな~~
でも見せてもらう側にしてみれば解釈の尺度がないもんだから
どのように解釈したらいいのかわからないんです
だって学校で教えてないんですから
いやはやこんなこと必要ないんかも知れませんね
写真って消費されればいいものであって学問の体系に組み込む必要なんてないのかもね
でも大学の社会学部あたりで文化論の論文書くときに困ってる学生もあるんですよね(笑)

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フォトハウス写真評論-1-

2004.05.23

デジタルカメラ

写真好き好きの知り合いと話していて、当然のようにデジカメ買った話になりました。
一眼レフデジタルカメラで700万画素のをやっと買った(けっこう高価)っていってました。

それからハードウエアーのはなしが、つまりデジカメの性能についての講釈があって
フィルムカメラとデジタルカメラの比較検討(あくまでカメラの話)の講釈があって
まあね、最新機材をもったことの自慢話ってわけです(笑)
そういえば私のデジカメはキャノンの500万画素、昨年10月に購入しました。
けっこう使い勝手いいです、小型だし、素人さんのように見てもらえるしいいですね^o^

こういう話ってけっこう主流なんですよね消費者業界ではね
でもちょっと違うんじゃない?って申したいわけ
それは道具のはなしであって何をつくるの?ってことに話がおよばないとね、って思うんです。
それは料理人が包丁の話をするのとおなじだよ
絵描きさんが筆と絵の具の話吟味するのとおなじだよ
そういう話題も当然必要だけど肝心なのは中味の問題でしょ?

形骸化してるな~肝心なのは中味をどうするのか、ってことですよね
この中味をどうする?ってことを話したいんです。
「写真ワークショップ」っていうのは、この中味をどうする?ってことを話する場なんです。
そのように組み立てていくんです。

ハードウエアー・デジタルカメラの使いこなしは当然だけど
それだけじゃないいんですよ、というところから始めないといけないみたいですね。
これは入り口です。

2004.5.21
デジタル写真の時代

写真って映像文化の原点の形だと思うのですが
いま、フィルム時代からデジタル時代に移ってきています。

写真のデジタル領域では、デジタルカメラとパソコンとインターネットがあります。
明らかにこれまでの写真の社会的存在の形式が変わったと認定できると思います。
写真に撮られる内容は置くとしても、処理方法と発表形態が一変してるんです。

このような場所からみるとネット上で多くの写真が発表されています。
カメラメーカーはそれぞれに個人が写真アルバムをもてるようにしています。
個人がそれぞれにホームページをもつことが当たり前になりましたし
そこには自分で撮った写真が多く掲載されています。

これまでのフィルムベースの写真の制作プロセスと発表形態がよいのか
それともデジタル領域での制作プロセスと発表形態がよいのか
文化の過渡期にあってあたらしいデジタル領域は
従前のフィルム写真の方に回帰しようとしているようにも見受けられるます。

これは価値の軸をどこに置くのかということなんですが、
わたしたちの写真経験160年余はフィルムベースだったから
その領域で培われたノウハウに価値軸を見ているんですね、きっとね。

デジタル写真にはデジタル写真固有の場があるはずです。
その場所を作り出していくことが新しい写真学校には求められていると思います。

写真の内容が求めていくテーマにおいても
デジタル時代だからこそのテーマが導かれてくるものと思います。

写真がギャラリーやミュージアムの壁面を飾っていた形態から
バーチャル空間へ解き放たれていくとき
そこに新たなコミュニケーションの形が生成してくるものと思います。
この新たなコミュニケーションの形にこそ注視していくことが大切だと思います。

2004.5.18
デジタル写真のはなし

デジタル写真が主流になってきました。もうフィルムの時代は終わった、って感じです。
どこの家庭にもカメラがあって、子供の成長記録とかペットの写真とかを撮って、
そのフィルムを写真屋さんに外注していた時代から、手元のPCに取り込んで処理できる時代になってきました。

そのうちの何人かは写真を自己表現の手段として使いたい欲求が芽生えてきます。
そこで待ち受けているのが商売やさん、カメラと写真産業はおおきなマーケットです。
ひところはビデオに移行していた消費者がデジタルカメラを使いはじめました。

もう家電製品ですね。
そこでカメラの形が高級イメージのある一眼レフ型に移行し始めているようですね。
価格もけっこう高くなっていきます。
消費者としても高級カメラを持つと自分も高級写真が撮れるような思いが出てきます。

そんなんじゃないんよな~ってところからの出発。
写真って何ナノかな~
ふっとそんな思いが立ち上ってきたときに商業の枠ではなしに
写真というものを考え捉えていくフレームが必要なのですね。

そのことを基本軸において写真を考え学ぶ場所「学校」が必要なわけです。

2004.5.17
デジタル時代の写真

写真の学校をつくる計画の中でなにが中心かといいますと、
デジタル時代の写真表現とはどういうものだろうか、ということです。
写真術が発明されたのが1839年です。
それから160年余りが経つなかで
映画が生み出され、テレビが生み出されてきました。

いまデジタル時代に写真が一番古いメディアとなった感がありますが
これはフィルムの時代における捉え方だと思っています。
静止画像としてのデジタル写真は、おそらくフィルムとは違うものです。
その違うものだ、ということを軸に考えをめぐらせていくこと。
これが必要な視点ではないかと思うのです。

写真が発明当初の英国でタルボットという人が
「自然の鉛筆」という写真集を編みます。
そこには写真の効用というか利用方法が書き述べられています。

いまあらためてそのことを思うと、フィルムとデジタルは似て非なるのも、
そういう論の立て方もあるのではないかと思われるのです。

新しい表現の方法がどんなものかの想定はこれからの作業です。
ネット上では「あい写真学校」を、
実地では「写真学校・写真ワークショップ京都」を、
その相互共通カリキュラムをこれから組み立てていきたいと思っています。

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2004.06.25
写真を展示する場所

写真が紙(印画紙)の上に定着された擬似イメージだということで壁面に飾られる。
ギャラリーやミュージアムの壁面に展示される。
これが一般的な写真の展示方法でした。
いまの時期、あえて過去形で書くしかない現状なのかも知れないですね。

デジタル写真の時代だからネットワーク上で発表するというのも手だと思います。
とはいえ写真を撮る人が発表する場として、まだまだギャラリー優先ですね。
具体的な数値を基に分析してるわけではなく雑感ですけどね。

といいながらもホームページにも作品いっぱい発表されています。
たしかにギャラリーでの展示というとそれなりにセレクトしますから、
それなりに見栄えする写真となっているようです。
ホームページに発表される写真は家庭のアルバム帖といったところかも知れません。

善し悪しべつにして、いまはこのふたつの展示する場所があることの確認です。
美術館を頂点とする場というのは作品収納の場として歴史がありますし、
それだけで価値を構成する仕組みを創っているんですが、
この価値の突き崩しっていうのがまもなく現れてくるのではないか、という予感がします。

つまり写真の価値という意味の見直しですね。
大きくは1960年代に立ち現れた価値軸変更の時代のように・・・
いまあらためて写真の価値軸変動の時代に入ったという感じです。

この現象は写真に限ったことではないですね。
1968年問題という言い方でわたしは見ておりますが、
社会制度のありかた論が活発になってきている背景をもって、
当然、写真のありかた論に及んでしかるべき時期がきている。

ちょうど新しい展示場所としてのデジタルネットワークが写真において意識されるように、
写真を撮る人と撮られる対象の位置関係もわたしの内部に向かうことがいっそう顕著になっています。

きっと、写真の社会的存在の位置が微妙にずれてきているんですよね。


2004.06.30
写真と社会

写真がこれまで存立してきた165年(1839年発明)のあいだ、
いつも話題となってきたのが「写真の社会的存在」というテーマです。

ここでいう「社会」とは何をさすかというと「人間を中心とした人間関係の全て」です。
とくに、ドキュメントまたはドキュメンタリーって言われている
写真の手法に限定して写真と社会との関係をみてみるとですね、
(ここでは総論ですから、ことの細部はいまは入れません。)

20世紀社会の大きな出来事っていうと、
第一次、第二次世界大戦の出来事が20世紀の前半です。
米ソ冷戦構造を受けた国際社会構造から起こる出来事が20世紀後半です。
それから20世紀の終わり近く1989年のベルリンの壁崩壊以後の国際社会の出来事。
これがいま2004年6月末日の今日の大きな出来事の結果の枠組みですね。

ここでね、現在の大きな出来事を伝えるメディアというのはTV映像ですよね。

でもね、まだTVが主流でなかったころの1950年代から60年代までの映像イメージは主に写真でした。
アメリカではグラフ雑誌(LIFEが有名)には写真がいっぱい掲載されていて、
社会に大きく世論形成を仕掛けていたんです。

そうしたら60年代以降、現在まで、写真の役割はなくなったのかというと、
決してそうではないと思っています。
ただ、即物的な現場報告はもうTV映像になりましたね、というのがホンネです。

この国が高度成長を始める1960年代以降ですね、
どういうことが起こるかというと商業ベースでいうと、
ファッション雑誌の盛隆とか旅行ブームとかですね、
お金が多様に社会の中にまわり出す背景に、
写真の役割がけっこう多くあったんだと思っています。

社会が人間の欲望を刺激してきて、人々は現在と未来に夢をいだいてきます。
衣服を買ったり、旅行したり、いやはや日常生活に必要な食べ物の購入において・・・
豊かな生活を満喫させてくれるように思ってしまうその背景に写真があった。

そうなんですよ、雑誌には写真がいっぱい詰まっていて、その写真を見て、
わたしたちは消費する気持を刺激されて、その写真のイメージに引き込まれていきます。

ちょっと、こんな経験ありませんか?
旅行に行って観てみたい場所とかっていうのは、写真で観た場所、だってこと。
それに旅行先で見た光景が、あ、写真に写ってた場所や!!っていう感動です。

こんなふうに社会での写真の役割って内容こそ、
その時代によって変化してきていますが、
社会の合意というかコンセンサスというか支持っていうか、
言い方いろいろあると思いますが、
世論を作っていくのに大きな役割を果たしているんですね。

今日は、写真というものが社会的存在である、ということについてのお話でした。
写真を撮る人と社会との関係ということは、全くオミットしています。
あしからずご了承ください(笑)
そのうち、そのうち、作家と社会なんてことにも及んでいきますからね。

2004.06.29
写真と文章

写真を語るのにわたしは言語、言葉、文章を使っています。
まさにいま、ここでやってることが、そのことなんです。

今日は「写真と文章」とタイトルしましたが、
「写真と言語」でもいいし「イメージと言説」でもいいんですよ。
「写真と文学」としてもいいわけなんですが、ここでは写真と文章です。
写真は「イメージ言語」なんていう言い方もされているんですけれどね。

ここでは写真の見方、捉え方という写真を語る語り口ではなくて、
写真というイメージと言語というものの関係を簡単に枠つけます。

写真に写った「愛犬」はそのものずばり「愛犬」なるものの姿が写真としてあります。
これを言葉で「愛犬」を伝えようとすると、なかなか大変ですね。
相手が私の愛犬を知っていてくれればイメージできますからことは簡単ですが、
そうでない場合っていうのは、いっぱい修飾語をつけて説明しなければいけないし、
そうしても実在の愛犬または写真に写った愛犬を語りつくすことって困難です。

これ、あたりまえのことなんですが、写真と文章の決定的な違いなんです。

言語や文の分析でメッセージとかコードという言葉を使いますが、
写真の場合「コードのないメッセージ」なんてバルトって言う人はいいました。
写真って直接性なんですね、
なによりも現物が本物ではないですが、その現物の形で確認できる。
そういう代物なんです、写真っていうのはね。

文章っていうのは、読んで(読ませて)イメージ化する代物ですね。
現物を目の前において会話するのなら、写真を前において会話する、と同じ構図ですが、
現物のないところで文章を読むときって、これはイメージをつくる空想領域でやりとりする。

写真に先行する言語、というのが現状の認識かな、と思っています。
コミュニケーションのなかに言語作用があって、
そのうえに写真でのコミュニケーションが成立する。

でもね、言語優先から、写真含む映像が言語と並列になるだけでなく、
映像だけでこころを繋ぐコミュニケーションが成立する・・・・

未来に向けてはその方向なんですね。
わたしはデジタル写真の将来的展開としてこの可能性を大きく開いたと、
このように仮説しているんです。
デジタル写真とデジタルネットワーク環境ですね、
これらハード環境が融合していくことで、中味(コンテンツ)が発信されていく、
そこにヴァーチャルではありますがコミュニケーションが成立する。

文学作品が読むことでイメージを醸成させて感動を起きさせるように、
写真がヴァーチャルネットワーク環境のなかで人のこころに感動を起こさせる。
そのような可能性を仮説しています。

わかったようなわからないようなお話ですがね(笑)
2004.06.28
写真と絵画

写真のかたちが絵画と酷似しているがゆえ、写真と絵画の関係をさぐる話は多くあります。
写真の発明以後、形式が平面であるがゆえ、写真は絵画と比較して語られてきました。

写真を絵画の下絵として(スケッチの換わり)の目的で撮っていたアジェ(20C前期)
写真を絵画に近づけようとして模索したピクトリアリズム(19C後期)
それから1世紀以上の時間経過があったいま、
あらためて写真と絵画の類似性ゆえ、絵画の追随をしている傾向もあります。

光が勝手に描いてくれる絵画としての写真
花の季節に神社仏閣を詣でるとそこにカメラを携えた人が多くいます。
そのそばに画布をしつらえて絵を描いている人が多くいます。

カメラの時間と絵画の時間を考えてみると
カメラは多くて1秒、絵画は・・・時間、という差
カメラは軽い絵画装置なんかな~なんて思ってしまいます。

もちろん写真が成してきた役割はもっと多くの系をつくっています。
ドキュメント、報道、瞬間記録、等々さまざまな分野で有効かつ必要に使われています。
また芸術?作品としても多くの潮流をつくってきました。

でも一方で写真を社会的有用性の観点から見るだけでなくて、
人間の創造物としての写真作品のあり方を見るとき、
ステーグリッツ以後、そこに独自の制作方法が導かれてきたことがあります。
人間の内面を描き出す装置としての写真(カメラワーク)です。


デジタル処理の時代に入った写真!
フィルム160年余の年月を経過していま、
あたらしい時代に入っています。

160年余前には、絵画のような「光が描く絵画」として登場した写真でした。
いまフィルム写真のような「デジタルをベースにした写真」が登場したデジタル写真です。

さてさてどうなんでしょうね、単にメモリの形式が変わっただけ?なのか、
それとも全く新しい領域だけどフィルム写真と併走している時期?なのか。
このあたりの考証考察がいま必要とされていることなのかも知れないですね。

写真を考える上で解くべく問題を提起しておきますね(笑)
2004.06.26
写真と映像

写真の発明が1839年ですね。
それから半世紀のちの19世紀末に映画が作られる。
そこから写真術の発展系として映画が誕生してきます。

ここで「写真」は静止画で、「映画」は静止画の連続したもの(動画)として捉えます。
静止画と動画という区分でいいですね。
このことが基本です。

人間の欲望という側面から観ると、
静止画より動画のほうが動く現実に即していますから、
動画のほうにリアリティを感じるようになりますね。
古いメディアがが新しいメディアに淘汰される。
とは言いながらも静止画である写真が存続しています。

写真も映像(ビデオ映像含む)も並立しています。
社会の商業システムでは、印刷媒体と電波媒体のふたつの系がありますから、
並立は当然といえば当然なんですが・・・

個人ユースとしての写真と映像という観点から見てみます。
どちらも工業製品としてのカメラとメモリ(フィルム含む)を使います。
個人の利用の仕方については産業体からの供給によって選択する。
そこに写真カメラとビデオカメラが並立してあります。
いまなお写真カメラが衰退しない状況です。

単に経済システムの生産と消費という図式のなかでの解析だけでは測れない、
写真需要の秘密が「写真」というものにあるのだろうと思います。
このことを解き明かしていくことが必要だと思っています。

システムとしての美術館や映画館やお茶の間TVスタジオのあり方だけではないもの。
人間の欲望の根源を探り出す方向での解析が求められてきていると思っています。
この「人間の欲望」という観点からの認識が「写真」に求められるとき、
写真の学習はようやく社会性をもつことになりますね。
つまり写真のことを考えるのには、
写真以外のことを知って写真に照射しなおすという視点です。

もちろんこれは映像をテーマに考えるときの視点でもありますけれどね。


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フォトハウス写真評論-2-

2004.06.24
写真の歴史-01-通史

写真学校のカリキュラムを作っていてこのサイトに記事をアップしています。
毎日少しづつ書きためながらテキストにまとめていこうと思っています。
これらのシリーズはいずれも草稿段階です。

今日からは写真の歴史を登場させることになります。
いくつかの単位が出来てきています。
デジタル写真領域、フィルム写真領域、写真の現在的意味という枠が提示されています。
写真の歴史シリーズは、断続的に書き記していきます。

通史としての写真史。

写真の歴史をどのように捉えるかということですが、
いくつもの系の捉え方があります。

(1)には、道具としての発達史、
つまり発明当初のカメラオブスキュラから一眼レフカメラまで、
また手作りカメラから工業生産へというように、
時代の科学工業との並列でみる写真史。

(2)には、写真の捉え方として、アートとしての系とドキュメントとしての系として、
発明当初からの絵画的指向(ピクトリアリズム)から、
20世紀初頭のステーグリッツを起点として、ジャーナリズムとしての写真などを、
大きな流れを捉えていく写真史。
この系には、ポートレートやファッション等の商業系をも含め社会学的な写真史。

(3)には、写真と人間という視点の系から捉える写真史です。
この系は「私」という撮影者の私性の視点から生み出された写真を捉える捉え方。
それぞれの時代区分のなかでの社会的背景(思想)を軸に捉えます。
「私性」の問題は、この思想動向を抜きにして捉えられないように思いますが、
外に向かっていたカメラが次第に個の内へ向かってく系として捉えることができると思います。

このようないくつかの視点から写真の歴史を紐解いて新たな織物に仕上げていく作業が、
フィルム写真の時代160年余とデジタル写真の時代開始のいま、求められているんだと思います。

特に(2)(3)の視点に重点をおいて捉えることで、
現代の写真の位置とこれからの写真が向かう方向を探っていきたいと思っています。

2004.06.23

写真は芸術?

さあ、写真という言葉と芸術っていう言葉とが並んで?ですね。
それぞれに確定した定義ってものがあるのかな~と見渡したところ、ありませんね~
明確な「芸術」という定義もいまどうなんでしょか、やっぱり不明ですね、実感です。

ここで経済システムの中での「写真と芸術」のあり方から、
「写真は芸術?」っていうことを捉えていければな~と思います。
写真が消費対象になり、芸術が擬似貨幣対象になることで、
経済システムに組み込まれるとしたら、写真が売買されることで芸術作品になれる!?

写真が美術館にコレクションされ、オリジナルプリントという考えが出てくるのは、
けっこう新しいことです、わが国ではだいたい1980年前後だと認識してます。
四半世紀25年ほどですね、経済構造的には高度成長期です。

ここでは写真の本質?とか芸術の本質?とかの議論でなしに、
商品として捉えてみるなかでのあり方を想定しています、念のため。

平面作品の芸術作品化をみる(美術館がコレクションする)と絵画があって、
その次に複製可能な版画があって、その次に写真という流れになります。
わが国の美術館で写真のコレクションがはじまるのは1980年代後半です。
(米国での流れが遅れて定着するパターン)
写真専門美術館ができるのは1990年代です。

一方美術界でも変化がおこってきます。
美術家がカメラ装置を使って作品を作り始め1970年代に表面にでてきます。
美術の側からの写真へのアプローチ、写真の側からの美術へのアプローチ。
こういう流れが1980年代に顕著になってきたように解釈しています。

そして現在、写真は芸術かどうかなんて議論そっちのけで、写真が撮られていますね。
どんどん雑誌メディアやwebメディアのなかに浸透していますね。

さて、こういう観点にたってみて、タイトルにした「写真は芸術?」っていうこと自体、
まだ有効なことなのか、すでに無効な議論なのか、という議論からはじめないとね、
いけない時代にさしかかってきてるのかな~なんて思っています(笑)

2004.06.22

露出あわせも写真の基礎

写真撮影時の基礎になることがいくつかあります。
ピントを合わせる話はこの前したので今日は露出の話です。

露出って光の量をコントロールすることなんですけれど、
最近のカメラって全自動だから何も悩むことないんですね。
カメラのなかのコンピュータが全部計算してくれて適正値を出してくれる。

そのとおりなんですが、でも写真を撮ってそれなりに見ると
ちょっと思ったのと出来上がりが違うな~って思ったことありませんか?
人物の顔が暗くなってしまったり黒いはずが灰色になったり・・・・

露出の適正値というのは、
写したいと思った被写体に最適値を与えてあげること
フィルムとかCCDの能力を最高に発揮させてあげること

ここから導き出されることは、
写したい被写体(部分)に対して最高の能力を発揮させること、ということです。
そうするとカメラが判断する適正値が、撮影者が判断する適正値とは限らない。
こういう論法になりますね。

そこで露出の補正ということが必要になってくるんですね。
露出あわせ、ということはこの補正をおこなう要領を知るということですかね。
たしかに沢山写真を撮ることで実践的に感覚でわかってくることもあります。
この場合はちょっとプラスへあるいはマイナスへ、というふうにです。

大雑把な話ですが、ちょっとアドバイス的にいうと、
背景が明るいときはプラス補正、暗いときはマイナス補正。
案外このこと、わかってるようでわかってない人が多いように思うので
ここでさわりのとこだけ申し添えておきます。

2004.06.21
写真の定義

いまさらなにが写真なのっていう向きも多いなかで、写真って何?って問うこと。
写真の定義なんてあまり見かけないでしょ~
定義するまでもなく見たら写真だってわかる代物だもんね(笑)

でもあらためて写真の定義をするとなるとけっこうややこしいんです。
それではここで試しにやってみましょうか。

写真ってカメラという道具をつかって作る一枚の絵のようなもの。
絵のようなものだけど「光」が自動的に描き出すもの。

これって正解ですか?どうなんでしょうね。

とするとよく似たものにコンピュータグラフィックス、
俗に「CG」っていってるあの代物のことです。
そりゃCGにもいろいろありますけれど、
まった光学機器のカメラを使わなくてコンピュータの中で基絵からつくる。

こうして出来上がって紙にプリントアウトしてくると、
これはあたかも写真のような姿になっていますよ~

実写の写真を取り込んで加工しているCGもあれば
同様にして写真を加工して「写真」っていうときもありますよ~

こうなってくるとですね
写真とコンピュータグラフィックの境界線は何処なんでしょうかね。
かってあったと思われる写真の定義がぐらついていませんか?

そんなことどうでもいいんや~写真は写真なんやから~ね~
といって済ますこともありですが、そうとばかりもいってられない時代ですよね。
やっぱり理屈として定義しておかないといけませんよね~

結論はでません、ボクが定義したって学者先生ではないですから(笑)
広辞苑にはどのように表記していくんでしょうね??
だれか学識経験者って言われているヒトさんよろしくお願いしますね。

2004.06.20

写真の中味

写真を愛好する人たちが大勢います。
写真ってなによりもとっつき易いしバックアップ体制も完備されていますしね。
写真を撮るという目的をもつだけで旅行の中味も豊かになるようだし、
子供の成長記録だとかで家族が歩んできた足跡をアルバムに残しますから、
現代人にはなにかと重宝なツールだと思っています。

そういった愛好家たちの層に支えられて作家と名乗る人たちが存在します。
人間の欲求のなかの自己実現を果たしてくれるツールとしての写真。
そのような営みとしての写真制作作業の中味、
つまり写真に撮られる被写体の中味といえばいいでしょうか。

この中味をどうするのか?という問題に直面したとき、
カメラを持ったひとは、写真というものが社会的存在としてあることに気づくのです。
さて、何を撮ろうかな~~、って詮索して何かを撮り始めます。

大きな物語としての戦争の現場や小さな物語としての私とあなたがいる現場。
写真には160年余りの歴史がありますが、いつもその中味をどうするのかが、
その時代時代のテーマとなってきたように把握しています。

現代はよりいっそう写真の大衆化時代です。
携帯電話の普及数以上にカメラ台数はあるわけです。
「写メール」時代なわけです。

プリクラ、写メールといった写真のある日常のなかにこそ、
写真の中味が生成しているように感じますね。
概念でいえば「小さな物語」なんですね。
写真の主たる中味はこの小さな物語のなかそのものなのかも知れませんね。

生活スタイルそのものが多様化しているとはいえ、平均フラット化してます。
そこでこの時代に有効な存在感っていうのが「私とあなた」のリアリティ関係。
そんな視点で写真テーマの動向をみていくことから何を見るか、が課題なのかも知れないですね。

その根底に「記憶」と「記録」ということの意味再構成があるように思っています。

2004.06.19

写真の理論

ある展覧会の会場でルーマニア育ちで留学中の人とこんな話を交わしました。

・写真の理論ってロラン・バルトがありますよね
・そうそうロラン・バルトの「明るい部屋」でしたね
・実際、理論を勉強しても役にたたないです
・そうですね~写真の理論って写真のことでしょ?
・だいたい写真の中味って写真以外のものだから写真のこと考えていても役にたちませんね
・そうかも知れませんね
・ロラン・バルトさんだって、たまたま写真というモノを出してるけど語る背景は別理論でしょ
・それにそれってもう20年以上まえの理論というか分析でしょ?時代かわってるよね
・そうだね、世界の構造が変わったですよね
・ルーマニアも変わったでしょ?体制の根底そのものが・・・
・だとしたら、いまの世界の構造にたった写真の理論ってのが必用なのかもね


なんか訳のわかったような判らないようなお話ですが
写真のことを考えるのにどうしたらいいんでしょうかね?ってよく訊かれます。
そんなとき、写真を見ていても技術のことしか出てこないです、
写真を捉えるのは、その時々の哲学的風潮とか、経済的風潮とか~
社会の風潮を分析する学問の援用をうけてしか成立しないのではないですか~
こんな答えを用意しています。

わかったような判らないようなお話なんですが
写真ってなんか学者先生から継子扱いされてるみたいなんですね
そんな感じをうけています。

社会の動向と風潮ですね、
現在だったらローカル化とかルーラル化の流れがありますから
この枠組みのなかで写真というものを捉えてみるのも方法かも知れないんです。
新しい写真学校では、こんなふうに提案しようと思っています。

2004.06.17

写真のテーマが向かうもの

写真のことについて考えていくとハードウエアとソフトウエアのことに二分されます。
ここではソフトウエア、写真のテーマについて少し考えたいんです。

写真のテーマが個人の内面を照射してそこから感情を交えたイメージをつくる。
こんな風な方向にきているような気がしています。

いまは、撮られた写真に大きな物語を感じさせるかどうかは置くとしてですね。
非常に個人的な体験を中心として写真が撮られてきているように見受けるんです。

個人の内面が置き去りにされている時代って言えばよいのでしょうか?
ふっと気がつけば私は孤独、なんてことありますよね。

特に最近の傾向として自分自身を考えるということがあるようです。
しかし自分自身を考えるなんていう枠組みが希薄な社会のようです。
そこで悩んでしまう人たちが多いと思うんです。

自分を告白したい衝動に駆られる!
ネット上の個人ホームページの匿名記事が告白に満ちていると思いませんか?
内なる衝動を匿名のままだったらさらけ出せる!

この自己表出の形式には次のようなものがあります。
日記体文学という形式をとったり写真・映像という形式をとったりです。

かってはノートに日記を書くという行為が詩作や小説につながっていったのですが、
いまの時代はパソコンツールで日記ホームページが簡単に作れてしまうので、
一定の形式を踏まないと出来なかった作品レベル以前の文章や写真が公表される。

こんな時代なんかな~って思っています。
そうだとしたら発表の場が一気に拡大しているわけですから、
ここでは写真。写真のテーマが個人のプライベートな露出に向かってきたことも理解できます。

こういうデジタルネットワークの時代の写真のテーマが「私」そのものであることは、
ハードウエア側面からの援護で一気に顕著になってきたようにも思います。

学校カリキュラムとして、この現象を精確にとらえていくことが必要だと考えています。

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フォトハウス写真評論-3-

2004.07.03

写真と文化

大きなタイトルをつけていますが内容は小さなお話です。

写真は光が描いてくれる絵です。
写真がなかった時代というのは絵を描いていました。

その絵の歴史をひもとくと、
わが国では飛鳥時代の古墳の壁画や
玉虫厨子に描かれた絵を思い出します。
西欧では洞窟壁画(ラスコーの洞窟が有名です)があります。

人の意識が確立してくる過程で人の行為として絵を描くことがでてきます。
その原形からさまざまに発展継承してきて、
現在の先端では写真、映像がそれに対置できる代物ですね。

そのイメージ(描かれた像)にはメッセージがこめられています。
その時代その時代の或る意味で神話的な物語がこめられる。
この作用っていうのは文化の力です。

このようにして考えてくると、現在の写真のテーマは何か?っていうのが、
あんがい導き出しやすいかもしれませんね。
いやはやここで、物語についての是非を論じ出すときりがないですから、
ここではいったん物語性の是非ということはオミットしておいて(笑)

写真の内容がこの時代の物語に由来する。
この物語が、中心的なものであるか周縁的なものであるかですね。
と、言い出すと中心的とか周縁的というのは写真以前の領域作業ですね。
わかりますよね、この話って?

写真とはカメラを使って作り出す「存在物を定着させた平面」(と定義しときます)です。
その-撮られた存在物-を認知していくのは文化の力です。
そこで、この存在物の背後の意味をつむぎ出そうとするのが作家さんの仕事です。
という論法になってきますね。

このことってけっこう難しいと思いますよ。
でもね、絵巻物ってあるでしょ、北野天神縁起とか源氏物語絵巻とか、とか・・です。
曼荼羅っていうのもありますよね。
それらイメージでしょ、描かれたイメージなんです。

絵巻は風説や物語を絵に置き換えていく作業ですよね。
曼荼羅ってのはこころのイメージ化の作業でしたよね。
なにか、写真を撮ってるひとにはこの形式がヒントになりそうですよ。

こうしてここでいろいろと話題を提供していますが、
これでもやっぱりまだなんです。
気づいておられますか?
写真の内容、中味についての話です。
これがまだ出てきていないんですね(笑)

ここで作家さんの登場となるわけです。
評論っていうのはけっきょく言葉をつむぎ出して作家さんを触発する。
そんな役割ですね。

この写真学校フォトハウスの毎日の記事も、
行ったり来たり、ぐるぐる回っていま外堀を掘っています。
まるでフーガやロンドみたいな形式ですね(笑)

でも少しずつ輪郭が作られてきているようにも思っています。
引き続き、文字ばっかりの写真のサイトですが、
これからも続けていきます。

あわせて「あい写真学校&綜合文化研究所」のサイトもご覧ください。

2004.07.02
写真を誰に見せる?

みなさん!自分が撮った写真って誰に見せます?
写真撮ることを仕事にしている人は別ですが、家族とか友達とかが多いですよね。
でも、仕事にしていなくっても、俗に趣味で・・・っていって
写真を撮ってる人がたくさんいます。

ここでは、プロとアマチュアなんて区別はしませんけれど、
写真を撮り出して、写真コンテストというのが方々であって、
そのコンテストというのに応募してみようかな~なんて思い出して、
写真グループの一員となって、せっせと写真を撮りはじめる。
また、写真を教えてくれるスクールを探して学ぶというのもありますね。

いずれにしても写真を専門に教える学校を出た人があり、
専門の学校は出てないけれど写真を撮ってる人があり、
写真をたしなむ人は、もうべらぼうに多い!

で、撮った写真を誰に見せる?っていうのが今日のタイトルなんですが、
ホント、誰に見せます?
家族の中でだけというのが多いですか?
旅行とかの記念写真類は旅行に同行した人がみますよね。
というように、身内や同僚や友達といった関係者の間で見る。

でも、コンテストに応募するとなると、第三者に見せることになりますね。
つまり、あかの他人さんに見せる、ということですね。
そのうち写真を撮ることが仕事になったらいいな~って思う人も多いです。
でも、これはほとんど実現しないです。
でも実現させる人もいますよね。

写真を撮ることが仕事になるというのは、見せる相手は不特定多数です。
雑誌とかギャラリーとかのメディアを通じて不特定多数を相手にします。
わたしは最近、写真をホームページに発表しています。
新しく学校をやろうとか、自分の考えを知って欲しいとか、
見知らぬ人に見てもらって、私の方へ振り向いてほしい!との願望があるからです。

このように見てくると、見せる相手は、
身近なひと=私とあなた=二人称の関係の中で見せる
知らない人=私と第三者=三人称の関係の中で見せる

でもでも、私が撮って私だけが見る写真っていうのありませんか?
私だけの秘密の写真?!=一人称の関係の中で見せる

この見せる相手の想定で、最近の傾向はというと、
二人称の写真が多くなっていますね。
「わたしとあなた」の関係の中に写真がある、という図式ですね。

写真の現在っていうとき、この「わたしとあなた」という水平感覚ですね。
これが基点であり、ここからの写真作りが始まるような気がします。
見せる人が見る人である、という関係のなかです。
二人の関係は、カメラを持ったか持たないかではないんです。
二人の関係のなかにカメラがあるという関係なんです。

このような写真の移転には、
上下から水平へという人間関係の変容も背後にあると認識しています。

2004.07.03
写真を私に見せる?

前回は、写真を誰に見せるの?ということでしたが、
そこでは、あなたに見せる写真、ということを導きました。

写真は自分を見つめていく鏡だ!っていうのが今日のテーマです。

自分っていったい何、または何者なんだろう?って・・・
こんな疑問を抱いたことありませんかね。
社会の器の中で相対として他人がいて自分がいる。
その自分っていう中味のことです。

写真に限らず芸術という行為にもおよぶことなのだと思っていますが、
この「自分を見つめる」ということが必要なんですね。
これは解けそうでなかなか解けないですよね、きっと。
でもこの「自分とはなに?」っていう問いを解いていく道筋が必要なんです。

他人のことはよくわかる、といいます。
他人を理解するのには、もちろんその時々の価値観に基づいて、
それに照らし合わせて、外面のこと、どこどこの学校出てるとか、
どこどこの会社でこんな仕事していて、立派やね、とか。
その反対の「けなし」もやりますよね。

でも自分のことを自分で考えてごらんなさい。
たしかに家族がいて、学校に行っていて、アルバイトして・・・とか、
自分の外回りの環境はわかります。

でもでもね、ここでも、そんな自分っていったい何?っていう疑問がでませんか?

写真を撮るっていうのは、いろいろ考えるんです。
何を撮ろうかな?自分の好きなアレを撮ろう!
そうして撮ったモノをみて、そのモノの自分が撮った意味を問い、
社会通念の枠にそって理解していきます。

やさしい気持を表現したい!楽しい気持を表現したい!
そうして、そのやさしさや楽しさの中味を撮ろうとするんです。
自分との対話っていいますが、写真というものを介して対話するんです。

こうして自分を知っていくプロセスのなかで、
作り出されてくる写真が作品となって残るんですね。
けっきょく自分とは何?っていう
最終の解答は見つけられなかったとしても、
自分の撮った写真を自分に見せていくことで自分を知っていくことになる。

まあね、判ったような判らないような、ぐるぐる回りのお話ですが、
自分に注目することって、けっこう現在的なテーマなんですよ!

2004.07.06
写真学校の役割

写真というメディアが現代生活に占める役割を考えてみますと、
これまでにもここで見てきたように、生活者の人格形成に大きな影響力を持っています。

でも、大きな影響力をもっているメディアであるのに、
そのことを学術レベルで捉える視点というのは希薄です。

既存の写真学校がこの視点からの言及がいたって少ないのが現状です。

市中に技術を教えてくれる学校があります。
けっこういい値段ですね(笑)
公共のセンターが写真教室を開催しています。
これは市民相手だから格安です(笑)
カメラメーカーや量販店が写真教室を開催しています。
消費を促す目的だから無料に近いですね(笑)

芸術系大学や専門学校がありますね。
ここで学ぶには膨大な経費と時間がかかります。
といって職業人として自立できるかといえば必ずしもそうでない。

とくに写真を撮る技術ではなくて、社会学や心理学の分野として学ぶとしても、
なかなか文献がみつからないというのが現状です。

こうした現状の中での新しい写真学校の役割とはナンだろ~って考えるのです。
そうすると見えてくるのは、生きることの技術を教えるのではなくて、
生きることの意味を考えることをベースにおいて、
写真というメディアを使いこなしていく人を育てることだ、との答えが出てくるんです。

食べることと写真を撮ることを同じレベルで考えていくことや、
写真という手段が生きることの意味を考えさせてくれるものであることなどを、
ベースにおきながら、あるべき自分のあり方を探っていく、
このような役割を果たせたらいいな~と思っています。

学校ってどう在るのが望ましいの?っていうことも含めて、
考えていく必要があるんですね。

新しい写真学校のコンセプトは、ここからの出発だと考えています。

フォトハウス写真評論-3-

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2004.07.07
写真の歴史-1-写真発明のころ

写真発明のころっていうと19世紀前半です。
英国やフランスで写真術研究がおこなわれていたんです。
1839年にフランスアカデミーがダゲレオタイプの写真術に特許権を与えたので、
写真の発明はフランス、ということになっています。

写真の発明っていうのはフィルム、印画紙にあたる感光材料の開発だったんですね。
装置としてのカメラは、カメラ・オブ・スキュラといっている暗箱で、
すでに絵描きさんが下絵かきに使ってたんです。

いまの状況でいえば、フィルムがデジタルになる、
デジタル装置の開発とでもいえますかね。

最初の頃って大変だったと思いますね。
フィルムにあたる支持体に銅版使ったりガラス版使ったりですね。
感光材料を混ぜる定着剤(材)に卵白使ったりゴム使ったりですね。

工業製品となった現在のフィルムは、
セルロイドに銀を混ぜたゼラチンを塗ったものです。
ですから、この材料をつかった写真プリントを「ゼラチン・シルバー・プリント」といいます。

その当時の写真術っていうのは、化学実験とでもいえばいいのでしょうかね。
あの手この手を使って、光を定着させようと努力しています。

趨勢がデジタル写真に移行していく現在から近未来において、
フィルムを使った写真が行くべき方向として、
この発明前後の原点回帰の方へという指向があります。
つまりカメラと感光材料であるフィルム(印画紙)を手作りしていこうとの指向ですね。

この傾向は身体行為としての写真作業が根底にあります。
心と身体のことが論じられる昨今の思考の流れとの合流ですね。
野菜を有機栽培する手作り的な傾向と同じような傾向ですね。

写真が発明されるころって19世紀前半から半ばです。
そのころの工業力ってまだまだ未熟時代だったんですが、
未熟だったからこそ、まだ心と身体が融合していた時代だったのかも知れませんね。

フィルム写真の160年余りをいまあらためて遡っていこうとの思考が、
デジタル写真時代のフィルム写真が残る手立てなのかもしれないと思っています。

2004.07.12
写真の歴史-2-発明の頃

写真が発明される19世紀の前半から半ばにかけての時代って、
どんな状態だったんでしょうかね?

写真が発明される1839年頃のフランスです。
農業国から工業国への変化が起こってくる時期だといいます。
交通の便がよくなり、都市が形成されて来て、近代国家が誕生してくる時期ですかね?

1850年代にはパリの都市改造計画(オスマン計画)は行われて、
幹線道路や上下水道が整備される時期にあたります。
そういう時代に写真術が発明されるんです。

市民層人々の意識のなかでの欲求も増大してくる時代だったのでしょうね。
所有や娯楽への欲求がそれまで以上に増大してきたんでしょうね。
そんな欲求・欲望のなかで写真が誕生してきます。

市民が絵描きに肖像画を描いてもらって、自分の姿を残しておくという欲求もありますね。
でも絵描きに肖像画を描いてもらえるのは富をもたなければ実現できなかったでしょうね。

写真の発明によって、肖像画が肖像写真になります。
その他大勢市民層にとってお手軽で自分の姿を残すことができるんですから、
新しい需要拡大をもたらしたんでしょうね。
写真術を学んで肖像写真館開業が新商売として出てきたんですね。

なんだか今、21世紀に入った私たちの生活のなかの欲求・欲望と、
余り変わらない人間の心の内側だったのでしょうかね。
たしかにまだ工業力は小さく、自動車産業とかIT産業とかはなかったとしても、
人間の欲望レベルでみるとよく似たものか~って思います。

デジタルビデオやデジタルカメラという新商品を手に入れる私たち市民。
IT家電製品やパソコンを使いこなす市民。
外見上の生活スタイルは違っても、内面の構図はその時代の発展系だと思います。

新たな写真術、デジタル写真発展の頃、っていうのが現在です。
そのように捉えると、165年前の歴史的事実を今に引き寄せて考えることができますよね。

写真ワークショップ京都に集う人たちが、カメラの需要者、写真の消費者にとどまらず、
こういった方面への研究、分析をおこなって未来を予測するという、
研究作業を始めていってほしいな~って思うのです。

2004.07.08

写真で気持を伝える

人が自分の体験したことを人に伝えようとするときってどうしますか?

会って言葉で話すというのがあります。
電話で話をするということがあります。
手紙、最近ならメールですね、これで文章にする、ということがあります。

この方法の中心にあるのは、音声(言葉)とか文章(書き言葉)です。
言葉や文章で状況説明すると同時に、体験したときの気持をつけますよね。

たとえばこんな話:
さっきね、道を歩いていたら乗用車と単車がぶつかるのを目撃したんです。
単車に乗ってた男の人がすっ飛んで、ああ、怖かったな~、心臓ドキドキしてしまって~~

今日は「写真で気持を伝える」という題なんですが、
写真では、交通事故が起こった瞬間の写真は理屈として撮ることができます。
でも、たいがいはその後の写真ですね。
ロバート・キャパっていう写真家が、
弾があたって倒れる瞬間の兵士を撮った写真がありますが、
これは運よくカメラを向けていたら、兵士が倒れた、その瞬間が撮れた、
だから貴重な写真として今に残されていて展覧会などで観る機会も多いですね。

でもその倒れる兵士の写真を見て、現実として写真家の気持まで伝わってきますか?
たぶんそこまで感じない人が多いんじゃないかと思います。

写真って具体的な光景が写ってるから状況ていうのは判りやすいです。
でも、撮ったときの気持を伝えるっていうのは、きっと苦手なんですね。

苦手だといいながらも、写真を撮ってるみなさん、気持を伝えたいと思っているんですね。
そうなんです、写真って、こころとこころのコミュニケーションなんです。
でも、これは究極の写真のあり方を言っているんだと思います。

客観的な事実を伝えることは得意です(といいながらこの言い方には異論があります)
でも一応ここでは、事実を伝えることが得意な写真、としておきます。

で、写真を撮った人のそのときの気持、これを伝えようとするんですが、
おっとどっこい、そうは簡単にいきませんね。
言葉や文章なら「哀しい」「楽しい」の言葉で伝わることが、写真ではなかなか伝わらないです。
「哀しい」とか「楽しい」なら、お葬式の場面とか、子供が遊園地でいもいっきり遊んでる表情、
これで気持が伝わってきます。
その場面を共有することで、一定の社会的に創られた気持の読み方を知っていますからね。

でも、そうはいかない場合が多いんではないですかね?
写真に写ってるものは判る(判らない写真も多々ありますが・・・)
でも、その写真を撮った人の気持がどうも判りにくい・・・
気持が伝わってこない・・・

でも写真ってやっぱり気持を伝えることなんだと思っています。
わたしとあなたが、気持や感情を共有することだと思っています。

そしたら、どうすりゃいいの?
これが、本題です。
今日は問題提起だけした感じですね。
追って、ああでもないこうでもないと、ぐるぐる回りながら、
わたしの気持をあなたに伝える方法を探っていきましょう・・・・。

2004.07.09

写真学校の設計図(1)

写真学校「写真ワークショップ京都」が10月からプレ開校します。
月1回のセミナーを半年間実施して、来年4月に正式開校します。
とはいっても大々的広報をやるわけではありません。

綜合ゼミコースで定員10名の少数教育です。
通信学習と現場学習の組み合わせで年間120時間。
個別のメールやりとりは際限なしという設定で経費76,000円です。
お金の換わりに自分の作った生産物を経費として収めてもよい設定です。

内容のボリュームとしては集団指導数十万円というのが世間相場ですね。
それを個別対応で極力経費がかからないシステムをつくろうとしています。
安くて内容の高いものをめざします。
技術も理論も既存学校に劣らない内容のものを設計しています。

京都発の写真学校です。
設計図は3年前2001年夏から着手しました。
開校は写真の学校ですが、並列して文学校とか音学校とか農学校とかを開校したいのです。
それはなによりも、個人がこの先を生きていくことの意味を、
自分なりに見つけていく場としたいからなのです。

すでにある価値軸の上に学校を創ろうというのではないんです。
新しい時代を創り出す、新しい人材を育てていきたいと目論むんです。
この新しい時代っていうのは未知なんですね。
その未知なる未来をイメージするためにも、写真だけではなくて、
文学校とか音学校とか農学校を並立させる必要があるんです。

こういったコンセプトの学校が各地に出来ていくといいんです。
その先鞭をつける意味もあって、設計図を公開でつくっています。

必要のむきにはリンク「写真ワークショップ京都」させていますのでご覧ください。
そしてあなたの参加を心待ちしていますね^o^:

2004.07.18
写真学校の設計図(2)

新しく写真学校を京都に開校する。
写真学校っていってますが、
写真の技術と理論をマスターするだけではないんです。

それと学費というか諸経費ですね。
これにどういう名目を立てるかです。

写真学校の目標とするところは、
技術と理論は時代の最高レベルを保証し、経費は最低を目指す。

ここでいう技術は写真を作るための技術ノウハウです。
工業製品としてのカメラや感材だけでなく、
カメラも感材も自作するところまでの技術ノウハウです。

理論は何が時代の最高レベルかっていうのは難しいですね。
主流となる理論が最高とは思っていませんから、
ここから新しい写真・哲学者(笑)が出てこないかな~っていう期待です。
この期待があります。

つぎは経費のことです。
勉強するという場を商品化しないこと。
この場所で教える立場で生活費を生み出さないこと。
つまり商品パッケージとして講座を売らないことと、
講師(アドバイザー)は給与をもらわない。

こういう方針を立てました。
既存の学校運営・経営者からみたら、これは学校ではない!
同好会かカメラクラブの類だ!!!サロン程度でしょ?

でもね、人間って不思議で、こういう方針だからこそ、
参加してもいいな、って思う気持があるんです。
教育ということ、学校ということの本質を考えると、
こういう立場に行き着いてしまったんです。

本質的には1968年にあった教育という問題を再燃させたいんです。
あらためてこの教育本質論を問いなおす学校にしようと思うのですね。



フォトハウス写真評論-4-
  IMG_8543
2004.07.11

写真とこころ-心-

写真っていったい何なの?
という判ったようで判らない話をいろんな角度から話題としています。

写真について、いろいろとテーマを羅列していくことでおぼろげながらでも
「写真の現在」という立場を浮上させられたらいいな~と思っているんです。
そこで今日は、写真と人のこころとの関係の外形を少し探ってみたいと思います。

人の「こころ」の解明ということが現代的なテーマとなっています。
生命科学の領域で脳の構造解明や記憶生成のメカニズムなどがあります。
心理学の領域では無意識領域の深層の解明などがテーマですね。

これまで非科学的な領域とされていた宗教や芸術領域というのも、
科学的手法で論じられるようになってきているように思います。
科学の現代的なテーマのひとつが「こころ」の解明に向かってきていると思います。

人間とは何ぞや、という問いが永年の課題で、
これは哲学や文学の立場から思考されてきました。
現在では人間の二面、身体と心(精神)を統合していく方向で
「こころ」とは何ぞや?ですね。

写真という手法が現れてきたの19世紀半ば、写真もこの問題を孕んできたんですね。

写真を撮ることと見ることの間に、コミュニケーションが成立するという立場からは、
写真の介在は、こころとこころのコミュニケーションの形、として論じることができます。

では、こころとこころのコミュニケーションの形ってどういうことを指すのでしょうか?

これまで言語学・言語論の立場を援用しながらの写真論として語られてきたんですが、
いまこれからの論立てはこの拘束から解かれていくようにも感じています。

個の立場ということを基軸に置いた論から共同の立場への移行かとも思います。
個が個であって、自己と他者との明確な分離のなかでの言語・写真の立場が、
微妙にづれてきているのではないかと思うのです。

自己と他者という身体性を基本においた論から解き放たれて、
こころが交わる磁場のような場所でのコミュニケーションの成立ですね。
自然現象や生命現象の全体性のあらたな組みなおしにもつながるものです。

このことは感覚・感性のあり様の捉え方の移行のなかで、
個を超えるコミュニケーション、
境界のない意識感覚の発生としてとらえられないでしょうか。
写真がその先鋒に立っているのではないかとも感じています。

かってあったメッセージの他者への伝達という方式で捉えることが困難な写真群。
プリクラ、写メール、デジタル写真の時代の写真群。

写真においてコミュニケーションの形が変容してきていることは確かなようです。

2004.07.13

写真と宇宙(1)

なぜ写真学校のはなしに宇宙なのか、というとですね。

写真を勉強するというきっかけによって、
参加する一人ひとりの時間と空間が変化して
新たに一つの場所が出来るわけですね。

写真ワークショップ京都という学校は、狭い限定空間としての教室(対面講義)です。
通信制のあい写真学校は、ネットワーク空間としての教室(通信講義)になります。
そういうふたつの学校形態を想定するなかで出てきたのが<宇宙>です(笑)

写真という場が拡がって最大限拡げてみたらどのへんまで拡がるのかな~
そうしたら<宇宙>というイメージにまで拡がってしまった、というのです。

写真という装置をつくる基本はカメラという箱です。
このカメラという箱は物理科学の領域で組み立てられています。
ですから宇宙を物理の領域で捉えて、写真と宇宙をドッキングさせます。

岩波新書に「ハッブル望遠鏡が見た宇宙」という本があります。
そこに「ハッブルの最深宇宙像」という写真があります。

その写真の一点を矢しるして写真説明に
「宇宙誕生から6億年」のときの銀河ではないか、とあります。

つまり宇宙誕生から140億年」といいますから、
今から134億年前の光が捉えられた写真!!です。

たぶん人類が見た一番遠いところです。
それもコンピューターの合成写真とはいえ可視光線なんですよ。
コンピュータグラフィックではないんです。

この視点から写真を見ると、
写真は発明のときから、
遠くのものを近くへ引き寄せる道具として使われてきたんです。
そして現在といっても10年ほど前(1994年)に、
「最深宇宙像」にまで行き着いた遠さなんですね。

今日は写真の行き着いたマクロな世界を見てみました。
次回は人体の内部に入った写真、ミクロな世界をみようかな~です。

2004.07.14
写真と宇宙(2)人体

宇宙がマクロの世界だとすると、人体というのはミクロの世界です。

電子顕微鏡で遺伝子を撮影する、
電磁波で子宮内部の赤ちゃんの生成を撮影する。
そういう微粒の世界や透視で内部をみることの出来る装置と技術が確立されてきています。

人体内部の物質が写真に撮られている、ミクロな世界を拡大して写真にする。
そこから生み出される画像を「静止画」といっていますが、写真ですね?

写真の定義で、なにをもって写真とするのか、ということを話題にしましたけれど、
大宇宙も人体内部も、現実に物質として存在する「もの」を撮っています。

写真装置は、カメラ(暗箱)とフィルムのセットから、
今は、光のデジタル信号変換とコンピューターのセットになってきています。
写真の拡大の現在の状況ですね。

これらの写真は写真装置も含め、近代科学の進歩の成果です。

写真というものが、遠くのものを近くへ引き寄せる道具の役割を担ってきた、
という社会における写真の役割論があります。

写真発明以後の時代には、
探検写真家がカメラを携えて旅行に出かけて写真を撮りました。
写真家は旅先で見た光景を写真に収めてパリに持ち帰ってきて、
写真をみた市民たちが好奇心をかき立てられるということが起こりました。

一般には、現在においても、このような写真の使われ方が主流であるかのようです。
宇宙や人体内部にまで入り込んだ写真。
まだ見ぬ世界を見たいという好奇心を満たしてくれる写真の存在なんです。

写真は記録であると同時に学術的価値を提供するものでもあったわけです。
宇宙開発の現場で、医学の現場で、農業の現場で、社会の隅々で、
近代科学の枠組みで、研究開発の只中で写真が貢献することは多大です。

でも写真、写真表現っていうときには、ちょっと違った意味をもってきますね。

ここでは様々な切り口で試論の入り口をつくってきています。
写真というものが持っている用途があまりにも多様化しているから、
その多様性のそれぞれを分類していく作業でもあると思っています。



フォトハウス写真評論-5-
  PICT2091
2004.07.15
写真表現とは?その1

写真表現とはどのようなことを指して写真表現というのでしょうか?

読んで字のごとく、写真で表現することやないのですか?
そりゃそういうことなんですが、「何を」ということが必要でしょ?
じゃ~何を表現するんですか?
ムムッ、なんとなんと、何をって、そりゃ自分のこころじゃないですか?

じゃ~訊きますけど、こころってナンなんですか?
こころって人間の内側にある、ほれキミにもあるでしょ、そのこころだよ!
・・・・・・・・

そうですね、いま写真の表現の中味を問われたら「自分の心」
つまり自分の気持を相手に伝える手段として、写真というものを使うんですよ。
ひとまず、このように記しておこうと思います。

写真の公的な役割としては記録ですね。
文書と写真(映像)が記録として保存されていきます。
この用途は19世紀半ばのパリでのオスマン計画の記録や
20世紀前半の恐慌時の米国・農業安定局(FSA)の写真記録があります。

でもね、写真は個人の営みのなかから出てくるものです。
近代的個人というのは自分を社会的存在として自覚しますから、
写真は写真家と社会との接点なんです。

写真家と社会とのかかわりを写真家の側からとらえていくと、
そこには個人の考え方や捉え方が出てきます。
また、その時々の社会の中心的モラルに密接しているんです。

この中心的モラルに対して自分の位置を確認していく作業として
写真家は写真を使うことになります。
ここに表現という場所があるんです。
中心となるモラルに対してどういう位置を担保するのか、ですね。

写真家と社会の向き合い方が時代と共に変わってきます。
個人と社会との関係の形がそこには見て取れます。
そのような位置関係から言うと、現在は非常に個的(プライベート)になってきています。

カメラの普及だけでは捉えられない問題がここにあります。
ひとまず写真表現とは、自分の気持を表すことだ、といっておきます。

2004.07.16

写真表現とは?その2

写真表現とは自分の気持を表すことです、と規定しました。
そうするとこの「気持」ということが何を指すかですね。

わたしは情動、情を動かされるものに注目しています。
この情動のところが感情を形成し気持をつくりだすとしたら、
もう論理の世界では計り知れないです。
このようにして考えてくると、
写真表現とは、自分の情動をとらえることが必要だということになります。

むかし洞窟の壁面に絵を描いた痕跡を、見ることができます。
ここでの注目は、その絵を描いたヒトの衝動というか情動というか、
その行為をつき動かせていた心の営みそのものなんです。

例えば高松塚古墳やキトラ古墳には、
死者への守りという描く目的があったと考えますが、
その制作者の意識の奥の深いところにあった情動に注目するんです。

いま写真家はカメラをもって絵を描く人です。
写真は死者への贈り物ではなくて生者への贈り物です。
それは何よりも私の気持を贈りだすものです。

たしかに一枚の写真には論理世界の認識が込められています。
戦争はいけません、の立場から、その「いけません」の態度表明として、
写真をその文脈に整理して他者に贈りだすものです。
なおその背後には、被写体が置かれている歴史的意味をも贈りだします。

ロラン・バルトは、教養文化のなかでの理解のされ方に着目もしていますが、
<私を突き刺すもの>としてとらえる捉え方を提示しています。
バルトの、この立場は写真を見る側の立場として述べられていますが、
わたしは写真を撮るということのも被写体を選ぶ目安となるものだと思っています。

現代の写真が、教養文化のなかで理解されることを前提としたうえで、
そこに、私を突き刺してくるもの、をメッセージとして込めるものだとしたら、
はたして教養文化の文脈をどのように扱うのかが、
写真家に意識されなければならないと思います。

でも、未来を志向する写真の役割が、
必ずしもそういう完璧さに裏打ちされなければならない、
という前提にはならないような気もします。

インテリジェンスに裏打ちされない立場で、
カメラを情動発露の道具として使っていくというのもあるのかな?
そこから生み出される写真が未来志向の写真なのかも知れないな~
このように思うことにも、最近は強度が増してきています。

2004.07.17

写真表現とは?その3

写真を撮ることって非常に個人的な作業なんですね。
写真を撮っていくことで表現するというのは個人的なんです。

映画やTVで制作する集団作業とは少しちがいますね。
会社勤め(パートタイマー、フリーター含め)の集団作業でもないですね。
そういうことからいうと、写真を作る作業は、プライベート作業です。

いま個人が、自分の居場所がわからなくなる、という訴えを聞きます。
自己と他者との関係が掴めないという自覚です。
自己と他者との境界面をインタフェースという言い方しますが、
写真を撮り他者に見せることがこのインタフェースの役割をはたしている。

自分を見つめる、抽象的な言い方になりますが、自己を観察する行為。
この観察する手段としてカメラの目があるように思います。
自分という存在がいったい何者なのか?というような問いかけですね。

このような問いかけは、今はじまったわけではなくて、昔からありますよね。
西欧哲学の源流から近代哲学まで・・・
東洋思想の源流から近代思想まで・・・

写真表現もこの文脈上に置かれていると思っています。

これまで、この系のなかにおいて「写真表現」というのもカテゴリー化されてきました。
現在は、デジタル写真が隆盛をきわめてフィルム写真にとって換わる時代です。
としても、これは書式形式の変換の部分ですね。
人と社会構造の表層部分ですね。

写真表現は言語表現ではないからといって、
写真表現だけが固有に在るとはいえないです。
哲学や政治学の潮流と接触しながら、
まだ現在は、言語によって基本理解認識をする人間の時代です。

でも、内面と外面のインタフェースとして、
こころのなか、情動の源泉を表出していくことって、言葉では届かないですね。

この言葉ではできない感情レベルでのイメージ交換が写真です。
そこの場にこそ、プライベート・ツールである写真の現在的意味が垣間見えるように思います。

フォトハウス写真評論-6-

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2004.07.19
写メの現在

写メってわかりますか?
携帯電話の写真機能を使って画像をメールで送ることです。
「写メする」っていうのが流通しはじめてるんですね~。

写真の現在的視点を確保していくのに、この現象をどのように取り込んでいくか。
これがけっこう重要な視点になるかな~って思っています。
コミュニケーション・ツールとしての携帯電話で「写メ」です。

写真制作者がより高い質感を求めてアート化していく道筋があります。
オリジナル・プリントへの方向ですね。

その流れからいえば、写メは写真制作の新しい方向をつくってきています。
個人の、自己と他者をつなぐ、あるいは分断する、インタフェース役割です。

遠方にいる個人へのメッセージは、
郵便での手紙に始まって、
文字によるメール(パソコン通信)になって、
いまは携帯電話で画像が添付できる写メールになっています。

この先には、画像の質が向上していくだろうし、
動画が主流になったりしていきますね。

こうした技術上の進展が新しい需要を生み出していって、
デジタル写真産業が拡大していきます。

でも、メディアとしての「写メ」の出現は写真のあり方を大きく変えていくと思います。
個人と個人のあいだのコミュニケーション・ツールとして、
言葉と画像が一体のものになります。
絵文字と画像の組み合わせで気持を伝える!!

他者へのメッセージとしての写メの使い方は
これから絵文字と組になって多様に拡大していくと思います。

そこに何を見いだすかですね。
写メは、失われてきた個人の存在感覚を、
あらためて得ていくツールとして機能していくでしょうね。

そのとき私という存在のありかを探ることができる、
コミュニケーション・ツールとなりますね。

写真という概念が大きく変化しています。

2004.07.20
写真は身近な表現手段

カメラで写真を撮って誰かに見せる。写真ってこのように使いますよね。
この「誰か」というのは不特定多数の人々のこともあるし、
好きな人へということもあるし、自分自身へというのも理屈上はなりたちます。

カメラの位置っていうのは、ふつうは自分の手の先までに置かれます。
そうして目で確認して自分の外に拡がる光景を撮るんですね。
自分という立場から捉えると、自分の身体があって、その先にカメラが在る。

自分とカメラの一体感と異物感ですね。
自分の身体の一部である「こころ」が異物として感じることがあります。
カメラは異物なんだけれど身体の一部であるように感じることがあります。

自己と他者という関係がさまざまな場面で論じられていますが、
たぶんにもれず写真もこの関係を有しているのです。
私とあなたとのインタフェースとしての役割を写真が持っている。

言葉と同じレベルで写真が自分の表現手段となる。
もう写真って決して特殊な装置でもなんでもありませんね。
言葉と同列にあります。

というのも写メールというコミュニケーション・ツールを引き合いにだしてのことです。
写メールでは、写真と絵文字と言葉の組み合わせです。
この三者の全体が私自身の表現手段として使われているのです。

デジタル化によって開発された携帯電話の「写メール」!
新しいコミュニケーション・ツールとして登場しているんだと思っています。
写真の新しい捉え方のなかに、このツールを付け加えたいですね。

写メール・・・これは写真の研究対象です。

2004.06.29
写真と文章

写真を語るのにわたしは言語、言葉、文章を使っています。
まさにいま、ここでやってることが、そのことなんです。

今日は「写真と文章」とタイトルしましたが、
「写真と言語」でもいいし「イメージと言説」でもいいんですよ。
「写真と文学」としてもいいわけなんですが、ここでは写真と文章です。
写真は「イメージ言語」なんていう言い方もされているんですけれどね。

ここでは写真の見方、捉え方という写真を語る語り口ではなくて、
写真というイメージと言語というものの関係を簡単に枠つけます。

写真に写った「愛犬」はそのものずばり「愛犬」なるものの姿が写真としてあります。
これを言葉で「愛犬」を伝えようとすると、なかなか大変ですね。
相手が私の愛犬を知っていてくれればイメージできますからことは簡単ですが、
そうでない場合っていうのは、いっぱい修飾語をつけて説明しなければいけないし、
そうしても実在の愛犬または写真に写った愛犬を語りつくすことって困難です。

これ、あたりまえのことなんですが、写真と文章の決定的な違いなんです。

言語や文の分析でメッセージとかコードという言葉を使いますが、
写真の場合「コードのないメッセージ」なんてバルトって言う人はいいました。
写真って直接性なんですね、
なによりも現物が本物ではないですが、その現物の形で確認できる。
そういう代物なんです、写真っていうのはね。

文章っていうのは、読んで(読ませて)イメージ化する代物ですね。
現物を目の前において会話するのなら、写真を前において会話する、と同じ構図ですが、
現物のないところで文章を読むときって、これはイメージをつくる空想領域でやりとりする。

写真に先行する言語、というのが現状の認識かな、と思っています。
コミュニケーションのなかに言語作用があって、
そのうえに写真でのコミュニケーションが成立する。

でもね、言語優先から、写真含む映像が言語と並列になるだけでなく、
映像だけでこころを繋ぐコミュニケーションが成立する・・・・

未来に向けてはその方向なんですね。
わたしはデジタル写真の将来的展開としてこの可能性を大きく開いたと、
このように仮説しているんです。
デジタル写真とデジタルネットワーク環境ですね、
これらハード環境が融合していくことで、中味(コンテンツ)が発信されていく、
そこにヴァーチャルではありますがコミュニケーションが成立する。

文学作品が読むことでイメージを醸成させて感動を起きさせるように、
写真がヴァーチャルネットワーク環境のなかで人のこころに感動を起こさせる。
そのような可能性を仮説しています。

わかったようなわからないようなお話ですがね(笑)

2004.07.23
写真と文章-2-

写真学校では写真表現を学ぶ、これ当然の話なんですが、
文章表現を学ぶ学校というのも同じレベルで考えています。

写真も文章も自己表現ということでいえば並列にあるツールです。
これに音楽表現をも加えたいところですが、いまこれは置いときます。

わたしたちは、学校教育で知識だけではなくて、
自分の気持をあらわす教育も受けてきています。
その教育の中心は言葉で表現することを基本トレーニングとしてきています。

ですから、写真表現が成立するというのは、言葉表現があって写真表現がある、
という図式が、社会の中での写真と文章の位置関係です。

でもそういう位置関係ではなくて、
写真と文章が、並列において一体のものとして表現ツールとしていく、
その方向がこれからの主流となるありかたではないかと思っています。

絵日記という自分を記録し表現する方法があります。
その方法のバリエーションとして、写真と文章を組み合わせることで、
自分を記録し表現していくという手法です。

現在の写真家としての写真、小説家としての文章、という枠組みではなくてです。
いま世の芸術概念のなかでの写真や文学という枠組みではなくてです。
また、写真や文章トレーニングを積むことでメジャー化、
つまり職業化するという方向ではなくてです。

日常生活のレベルで自己表現するためのツールとしての写真と文章です。
わたしの念頭には、写メールの使われ方があります。
この写メールでのコミュニケーションのしかたに興味があるのです。

写真学校をはじめますが、そこに集まってくる人たちを想定すると、
写真を撮ることでメジャーになりたい!という欲求を持つ人たちであろうと思います。
その欲求を持つ人たちが、その欲求にしたがってメジャーを目指すことを否定しません。

でも基本はメジャーをめざす以前の自己表現ツールとしての写真と文章です。
その表現技法をもって自分のこころのあり方を表にだしてあげる、というところですね。
このことが結果としてメジャーになっていくということは十分にありえることです。

大事なことは、写真や文章で自己表現していくことで、
自分の欲求が満たされていくことです。
得ていくものは自分のなかでの充実感と幸福感です。

フォトハウス京都HP

フォトハウス写真評論-7-

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2004.07.27
ドキュメントな写真

写真を語る語り口に、ドキュメント写真という言葉があります。
ドキュメントとは公的な記録文書のことをいいます。

一般には「写真」が記録として認知されていますから、
ドキュメント写真とは、単純に記録写真といえばいいのかも知れません。

ドキュメントな写真、というタイトルをつけましたので、
公的記録のような写真と置き換えられるかも知れませんね。

そうなんですね、写真の本質は、そこにあった物が写っています。
ある時間の瞬間が定着されているのです。
有名写真家の写真を、時代の証言!なんていって展覧会をしています。

いくつもの系に分岐した写真表現ですが、その基本形はやはりドキュメントです。
写真の発明以降今日まで、やっぱり主流となる使用方法はドキュメントでした。
でも、最近はこの「ドキュメント」という言葉自体が色あせていますね。

ドキュメント写真が成立しなくなった時代。
ドキュメントはテレビカメラにお任せ!
21世紀にはいった写真のいくつかの大きな賞でも、
受賞傾向は非ドキュメント写真ですね。

ひとつの表現ツールが多様化して様々な系に発展していく・・・
これは必然の結果で、写真の役割の代替品としてテレビが登場して半世紀ですから、
いまやテレビ放送自体が変容していく時代でもあります。

そうすると写真はいまや二世代前のドキュメント方法になるのですかね。
パソコンメディアでいえばフロッピーデスク?的存在ですね。

でもでも写真です!
ドキュメントの方法論が変わってきただけで、
本質は健在です、そのように理解しています。
ただ、ありのままを写して社会告発の道具として使う、
という取り扱い説明は変更余儀なくされているんでしょうね。

このように考えてくると、あらためてドキュメントとは何?
って問いなおさなければいけないようない思います。


2004.07.28
アートな写真


写真がアートであるかアートでないのか、という議論があります。
この場合、アートとは何か、という議論を先行させなければいけないんです。
そのアート定義の系にそって語られるべき写真の議論です。

アートの定義を自分流で言っちゃいます。
-自分のこころで感じる美の発見を相手に感じさせること-

抽象的すぎますね、では、もう一度、
-自分が感動した気持を相手と共有すること-
うんうん、気持はわかるけど、具体的でないですね~

写真って「光と対象物それに時間」を扱って作り出すものです。
作家はその3つの組み合わせで、想像力をたくましくして表現します。
見る人は自分の想像力でその写真から感動を受けます。

おおむねこのような図式でコミュニケーションが成立していくことです。
そのとき生じる感動の身体感覚ですね、アートとはこのことです。
バロメーターは、どれだけ感動を高ぶらせたか、という強度です。

このように考えると、写真は記録である、という前提が無くても写真は成立します。
1978年、ニューヨーク近代美術館において開催された「Mirrors and Windows展」は、
このことを明確にしたものだと解釈しています。

現時点で、わたしの内心は、ドキュメントやアートといった区分がすでに、無効になってる。
もっと別のフレームで捉えなおししないといけないな~、なんです。

自分の感情を相手に伝えて感情を共有する。
その手段として写真を使う。

プリクラや写メールという手段がこのことを具体化してるとすれば、
アートな写真とは、そこに現れた画像そのものを指して言ってもいいかな~
そんな感じがしないでもないですね。

でも大きな場所でのアートな写真とは、経済システムに組み込まれた商品価値です。
張りぼて、でっち上げ、そのことで商品価値を捏造する手法を編み出すことですね。
断片的ですが、そのように思っておりますので、申し上げておきます。

2004.08.01
写真の体験

世界で最初に撮られた写真は1826年です。
1839年が写真発明の年ですから、実験成功から商品化まで13年です。
光をアスファルト版定着させたのは、ニエプスという人です。
現在2004年ですから、光を最初に定着させてから178年がたっています。

この178年間というのがわたしたちの写真の体験年月です。
初期のころは様々な感光材料がつくられましたが、
銀を使ったフィルムが開発されてきて工業製品となります。
フィルムの時代です。

ここで得られてきた知識や経験が今の写真を形成しています。
カメラ、現像プロセスといった加工技術の体系が作られてきたんです。

その178年間には、単に加工技術の体系が作られてきただけではなくて、
その背後に写真をめぐる思想形成の営みがありました。

写真発明の時代には、すでに絵を描くカメラ・オブスキュラという道具があり、
その知識や道具を転用してフィルムに当たる感光材を作り出せばよかったんです。
写真制作のための諸条件が備わっていたんです。

このように写真発明を捉えると、デジタル写真に移行している現状が見えます。

言い換えれば、デジタル写真を生み出す諸条件が備わっていて、
フィルムに変わるデジタルデータ処理の開発があればよかった。
デジタルデータ処理のノウハウはビデオ技術が先行していましたね。

このようにしてデジタルカメラとデジタル写真が誕生してきたわけですが、
フィルムによる写真制作の経験が長年あったから、フィルムの代用になっているんです。

写真の歴史からいま学ぶことは、
デジタル写真がどのような展開をしていくのか、を想定することです。
フィルム写真の代用として出発していますが、併走ではないですね。
フィルムはフィルムの未来がありますし、
デジタルにはデジタルの未来があります。

写真は、パソコン、インターネット、携帯電話といったツールと一体化しています。
すでに発売10年を経ずして新しいメディアのなかに写真があるんです。
写真の新しい体験は、このようなツールと共にある体験なんです。

ツールが人間の生活環境や生活感覚を変えて新しい人格形成を促すとすれば、
写真も新しい人格形成のツールとして作用していきます。

いまあるギャラリーシステムとか写真雑誌システムは、
フィルムをベースとすることで構築されてきたシステムです。
デジタル写真は、新たに別の枠組みが形成されなければいけないんです。
このことを考えていきたいと思っているんです。


2004.08.05
写真が向う場所


写真はドキュメントだ、という文脈で考えていくと、
その向う対象は社会現象を写すということになります。

この方向は、写真に限らず、文学においても映像においても、あります。

社会の構造を私の側にひきつけて、私の意識構造を分析する。
この場所からの作品制作、という作家態度・様態があらわれてくるように思います。

意識の中に、高尚・低俗、という捉え方があります。
アートは高尚なものです!という暗黙の了解なされていると思っています。
社会のモラルにおいて、低俗なるものをアートという網をかぶせることで高尚化する。
このような位置転換作業が行われています。

私見ですが、
本能の赴くままに・・・というとだいたい低俗だ、ってゆわれる方に向っています。
本能を覆い隠す方に向うと、だんだんと高尚なレベルに達していきます。

写真が、社会現象を写すことによって写真として成立するものとするドキュメント。
このドキュメントという手法での写真制作という立場を考えてみると、
この意識の変換作用をおこなわしめるもの、との見解がでてきます。

破壊して生産するという立場を作家が担うとしたら、
この立場は、モラルをスクラップして、そこからビルドすることです。

ドキュメント写真は、その時々の社会の諸現象を写しこんで、
社会の中心となるモラル形成の役割を担ってきました。
1968年のプロヴォーグは、そのことの解体を意図として持ったと思います。

いま求められている写真が向う場所というのは、
社会の不条理の確認場としてのドキュメント写真から、
人の内面の階層意識構造を組みなおすためのドキュメントとして、
写真というものが登場する必要があるのではないかと思います。

フォトハウス京都HP


フォトハウス写真評論-8-
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2004.08.17
写真の背後に何がある?

写真をとらえる視点として、
ヴァルター・ベンヤミンさんは1930年代に「アウラ」ということばを使いましたし、
ロラン・バルトさんは1970年代に「プンクトウム」ということばを使いました。
メルロ・ポンティさんは1960年代に「見えるものと見えないもの」って言ってます。

そうなんです、写真はいつも見えるものを写すんですが、
いつも、見えないものを見えるようにしよう、との思いがあったようです。
現在ならどういうことばをつむぎ出したらいいんでしょうか。

作家にとって写真が表現の対象になるということは、
その作家において、この視点が必要なんだと思います。

その場所はいつも朦朧としていて明確でない場所なんです。
大きな枠組みとしての人間社会の出来事をつなぎ合わせていって、
見るひとの無意識に存在している朦朧を明確にしてあげること・・・

その中心となる視点は時代を反映しています。
いまなら、この中心となる視点が何なのでしょうね。
私は、自然、生命、欲望・・・この3つの組み合わせのように感じます。

ふっと思う想いの中に、生命の不思議を感じて自然の方へ向って欲望を満たしていく・・・
こんなイメージがおぼろげながらたちのぼってくるんです。
写真に撮られる光景の背後にあるものについて思いをめぐらすこと。
その何かを解明していく作業として、写真を撮るという行為があるのではないかな~

2004.08.18
写真現場は明るい場所

写真が撮られる現場には光があります。
この光は抽象的な光ではありません。
太陽の光または電灯の光のことです。

ですから「明るい場所」というのは、
抽象的な場所ではなくて具体的な光のある場所なんです。
これが写真現場の第一義的な撮影場所なんです。

つまり屋外に出て撮影する、太陽の下で撮影する。
室内でも光のある場所をしつらえて撮影する。
光の届く場所での身体行為として現場があります。

写真の現場での、このことは重要な意味を持っています。
原則として写真は写される現場があります。
イメージ像、想像の像は写らないんです。
現実にあるモノしか写らないんです。

次に現場を創ることもあれば、そのままの状態を撮影することもあります。
この場合でも現場は現実のモノがあります。
まえに写真の定義で、CG画像を写真とするか否か、なんて話もしましたが、
ここでは、現場のある実写画像の世界です。

この作業工程は、文学作業とは違うんです。
文学作業っていうのはむしろ密室作業ですね。
原稿用紙とペン、最近ならパソコンとキーボードですね。
このツールのなかで、頭のなかのイメージを言語化する作業です。

ぼくは、写真作業と文学作業を、ヒト個人として合流させようと考えています。
それにプラスして、身体作業としての「農作業」です。

ここでは、何をつくりだすか、その心は?ということには言及していませんが、
作業現場の区分をしておかなくてはいけませんから、ここでしておきます。
絵画や版画ではなくて、なぜ写真なの?ということへの回答でもあるんです。

写真の現場というのはおおむね、
部屋の中、密室作業ではなくて、明るい場所、屋外作業なんです。
(文学だって屋外でつくることもあり、写真だって室内でつくることもあり、です)

2004.08.19
写真の目的って何かな~

写真が撮られる。
何のために撮られるの?その目的は何なの?
この設問に対していくつかの答えが導きだせると思います。

そりゃカタログの写真ですよ!
通販で写真が無けりゃどんな商品だかわからないじゃん。

そりゃ雑誌の写真ですよ!
記事を読ませるより写真をみせた方が具体的イメージじゃないですか。
ファッション、コマーシャル、夢を売るんだよ購買欲高めるためにさ~。

写真を使うということには、確かにそんな役割を持たせています。

でもね、たとえば文学が、小説を単行本にして売り出すように、
写真も、写真を単独で本にしたり展示したりして売り出します。
これは絵画や版画の類も同じ形態をとりますね。
これをもって「・・作品」っていってますよね。

でも、これら作品は流通のなかでの出来事であって、
これが目的となるのではないんです。
むしろその背後にあるもの、それを考えて目的としないといけません。

人間の営みのなかには知覚作用があります。
ある「モノ」を見て、その「モノ」が何であるかを認知することです。
記憶という得体の知れない「もの」があります。
知覚・認知の作用は、この記憶との関係ですね。

写真がヒトの記憶に訴えかけるモノであるとしたら、
写真の目的は、この記憶を引き出すモノであることです。
記憶を引き出すと同時に、感情と論理を引き出されます。

写真を撮る側(写真家)からいえば、
写真によってどのような感情と論理を導き出すのかということです。
感情の引き出しを優先させる、論理の引き出しを優先させる、
その優先順位は写真を撮る側の認識に委ねられます。

感情と論理を引き出すその背後に何があるのでしょうかね。
それ(背後)は、世界の構造を明らかにして注視させる作用だと思うのです。
世界の構造を注視させてなお、感情のレベルで感動を起こさせるもの、
これが写真のあり方、目的とするところかな~って思っています。

世界とは、論理構造をもった人間中心の社会の全体、とでもいえばいいのでしょうか。
(本には、世界の枠組は、特異点、基本要素、基本原理、自己展開の4点を持つ、とありました)
この世界の全体枠組みを明視するための視点の当て方なんですね。
大きな世界概念レベルからヒト個人の感情レベルまで多様ですね。

※この論は、これからの作家論、作品論の足がかりにする視点です。

2004.08.26
写真はエロスをめざす

いまの時代は身体感覚取り戻しの時代なのかな~と思います。
本屋さんに入って写真集のコーナーを見てみると何が主流ですかね。
アイドル写真集が多いですね。
その世界はエロスなんですね。

写真は感覚と感覚が錯綜する場所です。
私的エロス的写真が多く撮られ発表され写真集となって販売される。
写真集に限りません、文学・小説だってよく似た現象ですよね。
この流れがいっそう強まる可能性は多分にあります。

情報をインターネットにより手に入れることがあたり前の現在。
これまで対面・恥じらいの領域としてきたエロス領域が、
ネットを使えばいとも簡単に手に入るようになったんですね。

写真や小説がハメハメの代償品として享受される。
この兆候は写真においては写真発明直後には存在します。
いつも表裏とか第一線以下以上とかいう線引きすれば、
裏・以下が並行して膨大に存在するんです。

これが現実の写真というメディアの姿なんですね。

テーマが私的領域に入ってきた昨今です。
これから先に向けて写真がめざすところっていえばやっぱりエロス。
現代写真を評論し、この先を見極めていく作業っていうのは、
この領域を見ずして語れない時代になってしまいました。

デジタル時代の写真評論とは、この領域への論及が不可欠ですね。
フォトハウス京都HP



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