中川繁夫写文集

中川繁夫の写真と文章、フィクションとノンフィクション、物語と日記、そういうところです。

カテゴリ: 写真評論

フォトハウス写真評論-3-

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2004.07.07
写真の歴史-1-写真発明のころ

写真発明のころっていうと19世紀前半です。
英国やフランスで写真術研究がおこなわれていたんです。
1839年にフランスアカデミーがダゲレオタイプの写真術に特許権を与えたので、
写真の発明はフランス、ということになっています。

写真の発明っていうのはフィルム、印画紙にあたる感光材料の開発だったんですね。
装置としてのカメラは、カメラ・オブ・スキュラといっている暗箱で、
すでに絵描きさんが下絵かきに使ってたんです。

いまの状況でいえば、フィルムがデジタルになる、
デジタル装置の開発とでもいえますかね。

最初の頃って大変だったと思いますね。
フィルムにあたる支持体に銅版使ったりガラス版使ったりですね。
感光材料を混ぜる定着剤(材)に卵白使ったりゴム使ったりですね。

工業製品となった現在のフィルムは、
セルロイドに銀を混ぜたゼラチンを塗ったものです。
ですから、この材料をつかった写真プリントを「ゼラチン・シルバー・プリント」といいます。

その当時の写真術っていうのは、化学実験とでもいえばいいのでしょうかね。
あの手この手を使って、光を定着させようと努力しています。

趨勢がデジタル写真に移行していく現在から近未来において、
フィルムを使った写真が行くべき方向として、
この発明前後の原点回帰の方へという指向があります。
つまりカメラと感光材料であるフィルム(印画紙)を手作りしていこうとの指向ですね。

この傾向は身体行為としての写真作業が根底にあります。
心と身体のことが論じられる昨今の思考の流れとの合流ですね。
野菜を有機栽培する手作り的な傾向と同じような傾向ですね。

写真が発明されるころって19世紀前半から半ばです。
そのころの工業力ってまだまだ未熟時代だったんですが、
未熟だったからこそ、まだ心と身体が融合していた時代だったのかも知れませんね。

フィルム写真の160年余りをいまあらためて遡っていこうとの思考が、
デジタル写真時代のフィルム写真が残る手立てなのかもしれないと思っています。

2004.07.12
写真の歴史-2-発明の頃

写真が発明される19世紀の前半から半ばにかけての時代って、
どんな状態だったんでしょうかね?

写真が発明される1839年頃のフランスです。
農業国から工業国への変化が起こってくる時期だといいます。
交通の便がよくなり、都市が形成されて来て、近代国家が誕生してくる時期ですかね?

1850年代にはパリの都市改造計画(オスマン計画)は行われて、
幹線道路や上下水道が整備される時期にあたります。
そういう時代に写真術が発明されるんです。

市民層人々の意識のなかでの欲求も増大してくる時代だったのでしょうね。
所有や娯楽への欲求がそれまで以上に増大してきたんでしょうね。
そんな欲求・欲望のなかで写真が誕生してきます。

市民が絵描きに肖像画を描いてもらって、自分の姿を残しておくという欲求もありますね。
でも絵描きに肖像画を描いてもらえるのは富をもたなければ実現できなかったでしょうね。

写真の発明によって、肖像画が肖像写真になります。
その他大勢市民層にとってお手軽で自分の姿を残すことができるんですから、
新しい需要拡大をもたらしたんでしょうね。
写真術を学んで肖像写真館開業が新商売として出てきたんですね。

なんだか今、21世紀に入った私たちの生活のなかの欲求・欲望と、
余り変わらない人間の心の内側だったのでしょうかね。
たしかにまだ工業力は小さく、自動車産業とかIT産業とかはなかったとしても、
人間の欲望レベルでみるとよく似たものか~って思います。

デジタルビデオやデジタルカメラという新商品を手に入れる私たち市民。
IT家電製品やパソコンを使いこなす市民。
外見上の生活スタイルは違っても、内面の構図はその時代の発展系だと思います。

新たな写真術、デジタル写真発展の頃、っていうのが現在です。
そのように捉えると、165年前の歴史的事実を今に引き寄せて考えることができますよね。

写真ワークショップ京都に集う人たちが、カメラの需要者、写真の消費者にとどまらず、
こういった方面への研究、分析をおこなって未来を予測するという、
研究作業を始めていってほしいな~って思うのです。

2004.07.08

写真で気持を伝える

人が自分の体験したことを人に伝えようとするときってどうしますか?

会って言葉で話すというのがあります。
電話で話をするということがあります。
手紙、最近ならメールですね、これで文章にする、ということがあります。

この方法の中心にあるのは、音声(言葉)とか文章(書き言葉)です。
言葉や文章で状況説明すると同時に、体験したときの気持をつけますよね。

たとえばこんな話:
さっきね、道を歩いていたら乗用車と単車がぶつかるのを目撃したんです。
単車に乗ってた男の人がすっ飛んで、ああ、怖かったな~、心臓ドキドキしてしまって~~

今日は「写真で気持を伝える」という題なんですが、
写真では、交通事故が起こった瞬間の写真は理屈として撮ることができます。
でも、たいがいはその後の写真ですね。
ロバート・キャパっていう写真家が、
弾があたって倒れる瞬間の兵士を撮った写真がありますが、
これは運よくカメラを向けていたら、兵士が倒れた、その瞬間が撮れた、
だから貴重な写真として今に残されていて展覧会などで観る機会も多いですね。

でもその倒れる兵士の写真を見て、現実として写真家の気持まで伝わってきますか?
たぶんそこまで感じない人が多いんじゃないかと思います。

写真って具体的な光景が写ってるから状況ていうのは判りやすいです。
でも、撮ったときの気持を伝えるっていうのは、きっと苦手なんですね。

苦手だといいながらも、写真を撮ってるみなさん、気持を伝えたいと思っているんですね。
そうなんです、写真って、こころとこころのコミュニケーションなんです。
でも、これは究極の写真のあり方を言っているんだと思います。

客観的な事実を伝えることは得意です(といいながらこの言い方には異論があります)
でも一応ここでは、事実を伝えることが得意な写真、としておきます。

で、写真を撮った人のそのときの気持、これを伝えようとするんですが、
おっとどっこい、そうは簡単にいきませんね。
言葉や文章なら「哀しい」「楽しい」の言葉で伝わることが、写真ではなかなか伝わらないです。
「哀しい」とか「楽しい」なら、お葬式の場面とか、子供が遊園地でいもいっきり遊んでる表情、
これで気持が伝わってきます。
その場面を共有することで、一定の社会的に創られた気持の読み方を知っていますからね。

でも、そうはいかない場合が多いんではないですかね?
写真に写ってるものは判る(判らない写真も多々ありますが・・・)
でも、その写真を撮った人の気持がどうも判りにくい・・・
気持が伝わってこない・・・

でも写真ってやっぱり気持を伝えることなんだと思っています。
わたしとあなたが、気持や感情を共有することだと思っています。

そしたら、どうすりゃいいの?
これが、本題です。
今日は問題提起だけした感じですね。
追って、ああでもないこうでもないと、ぐるぐる回りながら、
わたしの気持をあなたに伝える方法を探っていきましょう・・・・。

2004.07.09

写真学校の設計図(1)

写真学校「写真ワークショップ京都」が10月からプレ開校します。
月1回のセミナーを半年間実施して、来年4月に正式開校します。
とはいっても大々的広報をやるわけではありません。

綜合ゼミコースで定員10名の少数教育です。
通信学習と現場学習の組み合わせで年間120時間。
個別のメールやりとりは際限なしという設定で経費76,000円です。
お金の換わりに自分の作った生産物を経費として収めてもよい設定です。

内容のボリュームとしては集団指導数十万円というのが世間相場ですね。
それを個別対応で極力経費がかからないシステムをつくろうとしています。
安くて内容の高いものをめざします。
技術も理論も既存学校に劣らない内容のものを設計しています。

京都発の写真学校です。
設計図は3年前2001年夏から着手しました。
開校は写真の学校ですが、並列して文学校とか音学校とか農学校とかを開校したいのです。
それはなによりも、個人がこの先を生きていくことの意味を、
自分なりに見つけていく場としたいからなのです。

すでにある価値軸の上に学校を創ろうというのではないんです。
新しい時代を創り出す、新しい人材を育てていきたいと目論むんです。
この新しい時代っていうのは未知なんですね。
その未知なる未来をイメージするためにも、写真だけではなくて、
文学校とか音学校とか農学校を並立させる必要があるんです。

こういったコンセプトの学校が各地に出来ていくといいんです。
その先鞭をつける意味もあって、設計図を公開でつくっています。

必要のむきにはリンク「写真ワークショップ京都」させていますのでご覧ください。
そしてあなたの参加を心待ちしていますね^o^:

2004.07.18
写真学校の設計図(2)

新しく写真学校を京都に開校する。
写真学校っていってますが、
写真の技術と理論をマスターするだけではないんです。

それと学費というか諸経費ですね。
これにどういう名目を立てるかです。

写真学校の目標とするところは、
技術と理論は時代の最高レベルを保証し、経費は最低を目指す。

ここでいう技術は写真を作るための技術ノウハウです。
工業製品としてのカメラや感材だけでなく、
カメラも感材も自作するところまでの技術ノウハウです。

理論は何が時代の最高レベルかっていうのは難しいですね。
主流となる理論が最高とは思っていませんから、
ここから新しい写真・哲学者(笑)が出てこないかな~っていう期待です。
この期待があります。

つぎは経費のことです。
勉強するという場を商品化しないこと。
この場所で教える立場で生活費を生み出さないこと。
つまり商品パッケージとして講座を売らないことと、
講師(アドバイザー)は給与をもらわない。

こういう方針を立てました。
既存の学校運営・経営者からみたら、これは学校ではない!
同好会かカメラクラブの類だ!!!サロン程度でしょ?

でもね、人間って不思議で、こういう方針だからこそ、
参加してもいいな、って思う気持があるんです。
教育ということ、学校ということの本質を考えると、
こういう立場に行き着いてしまったんです。

本質的には1968年にあった教育という問題を再燃させたいんです。
あらためてこの教育本質論を問いなおす学校にしようと思うのですね。



フォトハウス写真評論-4-
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2004.07.11

写真とこころ-心-

写真っていったい何なの?
という判ったようで判らない話をいろんな角度から話題としています。

写真について、いろいろとテーマを羅列していくことでおぼろげながらでも
「写真の現在」という立場を浮上させられたらいいな~と思っているんです。
そこで今日は、写真と人のこころとの関係の外形を少し探ってみたいと思います。

人の「こころ」の解明ということが現代的なテーマとなっています。
生命科学の領域で脳の構造解明や記憶生成のメカニズムなどがあります。
心理学の領域では無意識領域の深層の解明などがテーマですね。

これまで非科学的な領域とされていた宗教や芸術領域というのも、
科学的手法で論じられるようになってきているように思います。
科学の現代的なテーマのひとつが「こころ」の解明に向かってきていると思います。

人間とは何ぞや、という問いが永年の課題で、
これは哲学や文学の立場から思考されてきました。
現在では人間の二面、身体と心(精神)を統合していく方向で
「こころ」とは何ぞや?ですね。

写真という手法が現れてきたの19世紀半ば、写真もこの問題を孕んできたんですね。

写真を撮ることと見ることの間に、コミュニケーションが成立するという立場からは、
写真の介在は、こころとこころのコミュニケーションの形、として論じることができます。

では、こころとこころのコミュニケーションの形ってどういうことを指すのでしょうか?

これまで言語学・言語論の立場を援用しながらの写真論として語られてきたんですが、
いまこれからの論立てはこの拘束から解かれていくようにも感じています。

個の立場ということを基軸に置いた論から共同の立場への移行かとも思います。
個が個であって、自己と他者との明確な分離のなかでの言語・写真の立場が、
微妙にづれてきているのではないかと思うのです。

自己と他者という身体性を基本においた論から解き放たれて、
こころが交わる磁場のような場所でのコミュニケーションの成立ですね。
自然現象や生命現象の全体性のあらたな組みなおしにもつながるものです。

このことは感覚・感性のあり様の捉え方の移行のなかで、
個を超えるコミュニケーション、
境界のない意識感覚の発生としてとらえられないでしょうか。
写真がその先鋒に立っているのではないかとも感じています。

かってあったメッセージの他者への伝達という方式で捉えることが困難な写真群。
プリクラ、写メール、デジタル写真の時代の写真群。

写真においてコミュニケーションの形が変容してきていることは確かなようです。

2004.07.13

写真と宇宙(1)

なぜ写真学校のはなしに宇宙なのか、というとですね。

写真を勉強するというきっかけによって、
参加する一人ひとりの時間と空間が変化して
新たに一つの場所が出来るわけですね。

写真ワークショップ京都という学校は、狭い限定空間としての教室(対面講義)です。
通信制のあい写真学校は、ネットワーク空間としての教室(通信講義)になります。
そういうふたつの学校形態を想定するなかで出てきたのが<宇宙>です(笑)

写真という場が拡がって最大限拡げてみたらどのへんまで拡がるのかな~
そうしたら<宇宙>というイメージにまで拡がってしまった、というのです。

写真という装置をつくる基本はカメラという箱です。
このカメラという箱は物理科学の領域で組み立てられています。
ですから宇宙を物理の領域で捉えて、写真と宇宙をドッキングさせます。

岩波新書に「ハッブル望遠鏡が見た宇宙」という本があります。
そこに「ハッブルの最深宇宙像」という写真があります。

その写真の一点を矢しるして写真説明に
「宇宙誕生から6億年」のときの銀河ではないか、とあります。

つまり宇宙誕生から140億年」といいますから、
今から134億年前の光が捉えられた写真!!です。

たぶん人類が見た一番遠いところです。
それもコンピューターの合成写真とはいえ可視光線なんですよ。
コンピュータグラフィックではないんです。

この視点から写真を見ると、
写真は発明のときから、
遠くのものを近くへ引き寄せる道具として使われてきたんです。
そして現在といっても10年ほど前(1994年)に、
「最深宇宙像」にまで行き着いた遠さなんですね。

今日は写真の行き着いたマクロな世界を見てみました。
次回は人体の内部に入った写真、ミクロな世界をみようかな~です。

2004.07.14
写真と宇宙(2)人体

宇宙がマクロの世界だとすると、人体というのはミクロの世界です。

電子顕微鏡で遺伝子を撮影する、
電磁波で子宮内部の赤ちゃんの生成を撮影する。
そういう微粒の世界や透視で内部をみることの出来る装置と技術が確立されてきています。

人体内部の物質が写真に撮られている、ミクロな世界を拡大して写真にする。
そこから生み出される画像を「静止画」といっていますが、写真ですね?

写真の定義で、なにをもって写真とするのか、ということを話題にしましたけれど、
大宇宙も人体内部も、現実に物質として存在する「もの」を撮っています。

写真装置は、カメラ(暗箱)とフィルムのセットから、
今は、光のデジタル信号変換とコンピューターのセットになってきています。
写真の拡大の現在の状況ですね。

これらの写真は写真装置も含め、近代科学の進歩の成果です。

写真というものが、遠くのものを近くへ引き寄せる道具の役割を担ってきた、
という社会における写真の役割論があります。

写真発明以後の時代には、
探検写真家がカメラを携えて旅行に出かけて写真を撮りました。
写真家は旅先で見た光景を写真に収めてパリに持ち帰ってきて、
写真をみた市民たちが好奇心をかき立てられるということが起こりました。

一般には、現在においても、このような写真の使われ方が主流であるかのようです。
宇宙や人体内部にまで入り込んだ写真。
まだ見ぬ世界を見たいという好奇心を満たしてくれる写真の存在なんです。

写真は記録であると同時に学術的価値を提供するものでもあったわけです。
宇宙開発の現場で、医学の現場で、農業の現場で、社会の隅々で、
近代科学の枠組みで、研究開発の只中で写真が貢献することは多大です。

でも写真、写真表現っていうときには、ちょっと違った意味をもってきますね。

ここでは様々な切り口で試論の入り口をつくってきています。
写真というものが持っている用途があまりにも多様化しているから、
その多様性のそれぞれを分類していく作業でもあると思っています。



フォトハウス写真評論-5-
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2004.07.15
写真表現とは?その1

写真表現とはどのようなことを指して写真表現というのでしょうか?

読んで字のごとく、写真で表現することやないのですか?
そりゃそういうことなんですが、「何を」ということが必要でしょ?
じゃ~何を表現するんですか?
ムムッ、なんとなんと、何をって、そりゃ自分のこころじゃないですか?

じゃ~訊きますけど、こころってナンなんですか?
こころって人間の内側にある、ほれキミにもあるでしょ、そのこころだよ!
・・・・・・・・

そうですね、いま写真の表現の中味を問われたら「自分の心」
つまり自分の気持を相手に伝える手段として、写真というものを使うんですよ。
ひとまず、このように記しておこうと思います。

写真の公的な役割としては記録ですね。
文書と写真(映像)が記録として保存されていきます。
この用途は19世紀半ばのパリでのオスマン計画の記録や
20世紀前半の恐慌時の米国・農業安定局(FSA)の写真記録があります。

でもね、写真は個人の営みのなかから出てくるものです。
近代的個人というのは自分を社会的存在として自覚しますから、
写真は写真家と社会との接点なんです。

写真家と社会とのかかわりを写真家の側からとらえていくと、
そこには個人の考え方や捉え方が出てきます。
また、その時々の社会の中心的モラルに密接しているんです。

この中心的モラルに対して自分の位置を確認していく作業として
写真家は写真を使うことになります。
ここに表現という場所があるんです。
中心となるモラルに対してどういう位置を担保するのか、ですね。

写真家と社会の向き合い方が時代と共に変わってきます。
個人と社会との関係の形がそこには見て取れます。
そのような位置関係から言うと、現在は非常に個的(プライベート)になってきています。

カメラの普及だけでは捉えられない問題がここにあります。
ひとまず写真表現とは、自分の気持を表すことだ、といっておきます。

2004.07.16

写真表現とは?その2

写真表現とは自分の気持を表すことです、と規定しました。
そうするとこの「気持」ということが何を指すかですね。

わたしは情動、情を動かされるものに注目しています。
この情動のところが感情を形成し気持をつくりだすとしたら、
もう論理の世界では計り知れないです。
このようにして考えてくると、
写真表現とは、自分の情動をとらえることが必要だということになります。

むかし洞窟の壁面に絵を描いた痕跡を、見ることができます。
ここでの注目は、その絵を描いたヒトの衝動というか情動というか、
その行為をつき動かせていた心の営みそのものなんです。

例えば高松塚古墳やキトラ古墳には、
死者への守りという描く目的があったと考えますが、
その制作者の意識の奥の深いところにあった情動に注目するんです。

いま写真家はカメラをもって絵を描く人です。
写真は死者への贈り物ではなくて生者への贈り物です。
それは何よりも私の気持を贈りだすものです。

たしかに一枚の写真には論理世界の認識が込められています。
戦争はいけません、の立場から、その「いけません」の態度表明として、
写真をその文脈に整理して他者に贈りだすものです。
なおその背後には、被写体が置かれている歴史的意味をも贈りだします。

ロラン・バルトは、教養文化のなかでの理解のされ方に着目もしていますが、
<私を突き刺すもの>としてとらえる捉え方を提示しています。
バルトの、この立場は写真を見る側の立場として述べられていますが、
わたしは写真を撮るということのも被写体を選ぶ目安となるものだと思っています。

現代の写真が、教養文化のなかで理解されることを前提としたうえで、
そこに、私を突き刺してくるもの、をメッセージとして込めるものだとしたら、
はたして教養文化の文脈をどのように扱うのかが、
写真家に意識されなければならないと思います。

でも、未来を志向する写真の役割が、
必ずしもそういう完璧さに裏打ちされなければならない、
という前提にはならないような気もします。

インテリジェンスに裏打ちされない立場で、
カメラを情動発露の道具として使っていくというのもあるのかな?
そこから生み出される写真が未来志向の写真なのかも知れないな~
このように思うことにも、最近は強度が増してきています。

2004.07.17

写真表現とは?その3

写真を撮ることって非常に個人的な作業なんですね。
写真を撮っていくことで表現するというのは個人的なんです。

映画やTVで制作する集団作業とは少しちがいますね。
会社勤め(パートタイマー、フリーター含め)の集団作業でもないですね。
そういうことからいうと、写真を作る作業は、プライベート作業です。

いま個人が、自分の居場所がわからなくなる、という訴えを聞きます。
自己と他者との関係が掴めないという自覚です。
自己と他者との境界面をインタフェースという言い方しますが、
写真を撮り他者に見せることがこのインタフェースの役割をはたしている。

自分を見つめる、抽象的な言い方になりますが、自己を観察する行為。
この観察する手段としてカメラの目があるように思います。
自分という存在がいったい何者なのか?というような問いかけですね。

このような問いかけは、今はじまったわけではなくて、昔からありますよね。
西欧哲学の源流から近代哲学まで・・・
東洋思想の源流から近代思想まで・・・

写真表現もこの文脈上に置かれていると思っています。

これまで、この系のなかにおいて「写真表現」というのもカテゴリー化されてきました。
現在は、デジタル写真が隆盛をきわめてフィルム写真にとって換わる時代です。
としても、これは書式形式の変換の部分ですね。
人と社会構造の表層部分ですね。

写真表現は言語表現ではないからといって、
写真表現だけが固有に在るとはいえないです。
哲学や政治学の潮流と接触しながら、
まだ現在は、言語によって基本理解認識をする人間の時代です。

でも、内面と外面のインタフェースとして、
こころのなか、情動の源泉を表出していくことって、言葉では届かないですね。

この言葉ではできない感情レベルでのイメージ交換が写真です。
そこの場にこそ、プライベート・ツールである写真の現在的意味が垣間見えるように思います。

フォトハウス写真評論-6-

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2004.07.19
写メの現在

写メってわかりますか?
携帯電話の写真機能を使って画像をメールで送ることです。
「写メする」っていうのが流通しはじめてるんですね~。

写真の現在的視点を確保していくのに、この現象をどのように取り込んでいくか。
これがけっこう重要な視点になるかな~って思っています。
コミュニケーション・ツールとしての携帯電話で「写メ」です。

写真制作者がより高い質感を求めてアート化していく道筋があります。
オリジナル・プリントへの方向ですね。

その流れからいえば、写メは写真制作の新しい方向をつくってきています。
個人の、自己と他者をつなぐ、あるいは分断する、インタフェース役割です。

遠方にいる個人へのメッセージは、
郵便での手紙に始まって、
文字によるメール(パソコン通信)になって、
いまは携帯電話で画像が添付できる写メールになっています。

この先には、画像の質が向上していくだろうし、
動画が主流になったりしていきますね。

こうした技術上の進展が新しい需要を生み出していって、
デジタル写真産業が拡大していきます。

でも、メディアとしての「写メ」の出現は写真のあり方を大きく変えていくと思います。
個人と個人のあいだのコミュニケーション・ツールとして、
言葉と画像が一体のものになります。
絵文字と画像の組み合わせで気持を伝える!!

他者へのメッセージとしての写メの使い方は
これから絵文字と組になって多様に拡大していくと思います。

そこに何を見いだすかですね。
写メは、失われてきた個人の存在感覚を、
あらためて得ていくツールとして機能していくでしょうね。

そのとき私という存在のありかを探ることができる、
コミュニケーション・ツールとなりますね。

写真という概念が大きく変化しています。

2004.07.20
写真は身近な表現手段

カメラで写真を撮って誰かに見せる。写真ってこのように使いますよね。
この「誰か」というのは不特定多数の人々のこともあるし、
好きな人へということもあるし、自分自身へというのも理屈上はなりたちます。

カメラの位置っていうのは、ふつうは自分の手の先までに置かれます。
そうして目で確認して自分の外に拡がる光景を撮るんですね。
自分という立場から捉えると、自分の身体があって、その先にカメラが在る。

自分とカメラの一体感と異物感ですね。
自分の身体の一部である「こころ」が異物として感じることがあります。
カメラは異物なんだけれど身体の一部であるように感じることがあります。

自己と他者という関係がさまざまな場面で論じられていますが、
たぶんにもれず写真もこの関係を有しているのです。
私とあなたとのインタフェースとしての役割を写真が持っている。

言葉と同じレベルで写真が自分の表現手段となる。
もう写真って決して特殊な装置でもなんでもありませんね。
言葉と同列にあります。

というのも写メールというコミュニケーション・ツールを引き合いにだしてのことです。
写メールでは、写真と絵文字と言葉の組み合わせです。
この三者の全体が私自身の表現手段として使われているのです。

デジタル化によって開発された携帯電話の「写メール」!
新しいコミュニケーション・ツールとして登場しているんだと思っています。
写真の新しい捉え方のなかに、このツールを付け加えたいですね。

写メール・・・これは写真の研究対象です。

2004.06.29
写真と文章

写真を語るのにわたしは言語、言葉、文章を使っています。
まさにいま、ここでやってることが、そのことなんです。

今日は「写真と文章」とタイトルしましたが、
「写真と言語」でもいいし「イメージと言説」でもいいんですよ。
「写真と文学」としてもいいわけなんですが、ここでは写真と文章です。
写真は「イメージ言語」なんていう言い方もされているんですけれどね。

ここでは写真の見方、捉え方という写真を語る語り口ではなくて、
写真というイメージと言語というものの関係を簡単に枠つけます。

写真に写った「愛犬」はそのものずばり「愛犬」なるものの姿が写真としてあります。
これを言葉で「愛犬」を伝えようとすると、なかなか大変ですね。
相手が私の愛犬を知っていてくれればイメージできますからことは簡単ですが、
そうでない場合っていうのは、いっぱい修飾語をつけて説明しなければいけないし、
そうしても実在の愛犬または写真に写った愛犬を語りつくすことって困難です。

これ、あたりまえのことなんですが、写真と文章の決定的な違いなんです。

言語や文の分析でメッセージとかコードという言葉を使いますが、
写真の場合「コードのないメッセージ」なんてバルトって言う人はいいました。
写真って直接性なんですね、
なによりも現物が本物ではないですが、その現物の形で確認できる。
そういう代物なんです、写真っていうのはね。

文章っていうのは、読んで(読ませて)イメージ化する代物ですね。
現物を目の前において会話するのなら、写真を前において会話する、と同じ構図ですが、
現物のないところで文章を読むときって、これはイメージをつくる空想領域でやりとりする。

写真に先行する言語、というのが現状の認識かな、と思っています。
コミュニケーションのなかに言語作用があって、
そのうえに写真でのコミュニケーションが成立する。

でもね、言語優先から、写真含む映像が言語と並列になるだけでなく、
映像だけでこころを繋ぐコミュニケーションが成立する・・・・

未来に向けてはその方向なんですね。
わたしはデジタル写真の将来的展開としてこの可能性を大きく開いたと、
このように仮説しているんです。
デジタル写真とデジタルネットワーク環境ですね、
これらハード環境が融合していくことで、中味(コンテンツ)が発信されていく、
そこにヴァーチャルではありますがコミュニケーションが成立する。

文学作品が読むことでイメージを醸成させて感動を起きさせるように、
写真がヴァーチャルネットワーク環境のなかで人のこころに感動を起こさせる。
そのような可能性を仮説しています。

わかったようなわからないようなお話ですがね(笑)

2004.07.23
写真と文章-2-

写真学校では写真表現を学ぶ、これ当然の話なんですが、
文章表現を学ぶ学校というのも同じレベルで考えています。

写真も文章も自己表現ということでいえば並列にあるツールです。
これに音楽表現をも加えたいところですが、いまこれは置いときます。

わたしたちは、学校教育で知識だけではなくて、
自分の気持をあらわす教育も受けてきています。
その教育の中心は言葉で表現することを基本トレーニングとしてきています。

ですから、写真表現が成立するというのは、言葉表現があって写真表現がある、
という図式が、社会の中での写真と文章の位置関係です。

でもそういう位置関係ではなくて、
写真と文章が、並列において一体のものとして表現ツールとしていく、
その方向がこれからの主流となるありかたではないかと思っています。

絵日記という自分を記録し表現する方法があります。
その方法のバリエーションとして、写真と文章を組み合わせることで、
自分を記録し表現していくという手法です。

現在の写真家としての写真、小説家としての文章、という枠組みではなくてです。
いま世の芸術概念のなかでの写真や文学という枠組みではなくてです。
また、写真や文章トレーニングを積むことでメジャー化、
つまり職業化するという方向ではなくてです。

日常生活のレベルで自己表現するためのツールとしての写真と文章です。
わたしの念頭には、写メールの使われ方があります。
この写メールでのコミュニケーションのしかたに興味があるのです。

写真学校をはじめますが、そこに集まってくる人たちを想定すると、
写真を撮ることでメジャーになりたい!という欲求を持つ人たちであろうと思います。
その欲求を持つ人たちが、その欲求にしたがってメジャーを目指すことを否定しません。

でも基本はメジャーをめざす以前の自己表現ツールとしての写真と文章です。
その表現技法をもって自分のこころのあり方を表にだしてあげる、というところですね。
このことが結果としてメジャーになっていくということは十分にありえることです。

大事なことは、写真や文章で自己表現していくことで、
自分の欲求が満たされていくことです。
得ていくものは自分のなかでの充実感と幸福感です。

フォトハウス京都HP

フォトハウス写真評論-7-

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2004.07.27
ドキュメントな写真

写真を語る語り口に、ドキュメント写真という言葉があります。
ドキュメントとは公的な記録文書のことをいいます。

一般には「写真」が記録として認知されていますから、
ドキュメント写真とは、単純に記録写真といえばいいのかも知れません。

ドキュメントな写真、というタイトルをつけましたので、
公的記録のような写真と置き換えられるかも知れませんね。

そうなんですね、写真の本質は、そこにあった物が写っています。
ある時間の瞬間が定着されているのです。
有名写真家の写真を、時代の証言!なんていって展覧会をしています。

いくつもの系に分岐した写真表現ですが、その基本形はやはりドキュメントです。
写真の発明以降今日まで、やっぱり主流となる使用方法はドキュメントでした。
でも、最近はこの「ドキュメント」という言葉自体が色あせていますね。

ドキュメント写真が成立しなくなった時代。
ドキュメントはテレビカメラにお任せ!
21世紀にはいった写真のいくつかの大きな賞でも、
受賞傾向は非ドキュメント写真ですね。

ひとつの表現ツールが多様化して様々な系に発展していく・・・
これは必然の結果で、写真の役割の代替品としてテレビが登場して半世紀ですから、
いまやテレビ放送自体が変容していく時代でもあります。

そうすると写真はいまや二世代前のドキュメント方法になるのですかね。
パソコンメディアでいえばフロッピーデスク?的存在ですね。

でもでも写真です!
ドキュメントの方法論が変わってきただけで、
本質は健在です、そのように理解しています。
ただ、ありのままを写して社会告発の道具として使う、
という取り扱い説明は変更余儀なくされているんでしょうね。

このように考えてくると、あらためてドキュメントとは何?
って問いなおさなければいけないようない思います。


2004.07.28
アートな写真


写真がアートであるかアートでないのか、という議論があります。
この場合、アートとは何か、という議論を先行させなければいけないんです。
そのアート定義の系にそって語られるべき写真の議論です。

アートの定義を自分流で言っちゃいます。
-自分のこころで感じる美の発見を相手に感じさせること-

抽象的すぎますね、では、もう一度、
-自分が感動した気持を相手と共有すること-
うんうん、気持はわかるけど、具体的でないですね~

写真って「光と対象物それに時間」を扱って作り出すものです。
作家はその3つの組み合わせで、想像力をたくましくして表現します。
見る人は自分の想像力でその写真から感動を受けます。

おおむねこのような図式でコミュニケーションが成立していくことです。
そのとき生じる感動の身体感覚ですね、アートとはこのことです。
バロメーターは、どれだけ感動を高ぶらせたか、という強度です。

このように考えると、写真は記録である、という前提が無くても写真は成立します。
1978年、ニューヨーク近代美術館において開催された「Mirrors and Windows展」は、
このことを明確にしたものだと解釈しています。

現時点で、わたしの内心は、ドキュメントやアートといった区分がすでに、無効になってる。
もっと別のフレームで捉えなおししないといけないな~、なんです。

自分の感情を相手に伝えて感情を共有する。
その手段として写真を使う。

プリクラや写メールという手段がこのことを具体化してるとすれば、
アートな写真とは、そこに現れた画像そのものを指して言ってもいいかな~
そんな感じがしないでもないですね。

でも大きな場所でのアートな写真とは、経済システムに組み込まれた商品価値です。
張りぼて、でっち上げ、そのことで商品価値を捏造する手法を編み出すことですね。
断片的ですが、そのように思っておりますので、申し上げておきます。

2004.08.01
写真の体験

世界で最初に撮られた写真は1826年です。
1839年が写真発明の年ですから、実験成功から商品化まで13年です。
光をアスファルト版定着させたのは、ニエプスという人です。
現在2004年ですから、光を最初に定着させてから178年がたっています。

この178年間というのがわたしたちの写真の体験年月です。
初期のころは様々な感光材料がつくられましたが、
銀を使ったフィルムが開発されてきて工業製品となります。
フィルムの時代です。

ここで得られてきた知識や経験が今の写真を形成しています。
カメラ、現像プロセスといった加工技術の体系が作られてきたんです。

その178年間には、単に加工技術の体系が作られてきただけではなくて、
その背後に写真をめぐる思想形成の営みがありました。

写真発明の時代には、すでに絵を描くカメラ・オブスキュラという道具があり、
その知識や道具を転用してフィルムに当たる感光材を作り出せばよかったんです。
写真制作のための諸条件が備わっていたんです。

このように写真発明を捉えると、デジタル写真に移行している現状が見えます。

言い換えれば、デジタル写真を生み出す諸条件が備わっていて、
フィルムに変わるデジタルデータ処理の開発があればよかった。
デジタルデータ処理のノウハウはビデオ技術が先行していましたね。

このようにしてデジタルカメラとデジタル写真が誕生してきたわけですが、
フィルムによる写真制作の経験が長年あったから、フィルムの代用になっているんです。

写真の歴史からいま学ぶことは、
デジタル写真がどのような展開をしていくのか、を想定することです。
フィルム写真の代用として出発していますが、併走ではないですね。
フィルムはフィルムの未来がありますし、
デジタルにはデジタルの未来があります。

写真は、パソコン、インターネット、携帯電話といったツールと一体化しています。
すでに発売10年を経ずして新しいメディアのなかに写真があるんです。
写真の新しい体験は、このようなツールと共にある体験なんです。

ツールが人間の生活環境や生活感覚を変えて新しい人格形成を促すとすれば、
写真も新しい人格形成のツールとして作用していきます。

いまあるギャラリーシステムとか写真雑誌システムは、
フィルムをベースとすることで構築されてきたシステムです。
デジタル写真は、新たに別の枠組みが形成されなければいけないんです。
このことを考えていきたいと思っているんです。


2004.08.05
写真が向う場所


写真はドキュメントだ、という文脈で考えていくと、
その向う対象は社会現象を写すということになります。

この方向は、写真に限らず、文学においても映像においても、あります。

社会の構造を私の側にひきつけて、私の意識構造を分析する。
この場所からの作品制作、という作家態度・様態があらわれてくるように思います。

意識の中に、高尚・低俗、という捉え方があります。
アートは高尚なものです!という暗黙の了解なされていると思っています。
社会のモラルにおいて、低俗なるものをアートという網をかぶせることで高尚化する。
このような位置転換作業が行われています。

私見ですが、
本能の赴くままに・・・というとだいたい低俗だ、ってゆわれる方に向っています。
本能を覆い隠す方に向うと、だんだんと高尚なレベルに達していきます。

写真が、社会現象を写すことによって写真として成立するものとするドキュメント。
このドキュメントという手法での写真制作という立場を考えてみると、
この意識の変換作用をおこなわしめるもの、との見解がでてきます。

破壊して生産するという立場を作家が担うとしたら、
この立場は、モラルをスクラップして、そこからビルドすることです。

ドキュメント写真は、その時々の社会の諸現象を写しこんで、
社会の中心となるモラル形成の役割を担ってきました。
1968年のプロヴォーグは、そのことの解体を意図として持ったと思います。

いま求められている写真が向う場所というのは、
社会の不条理の確認場としてのドキュメント写真から、
人の内面の階層意識構造を組みなおすためのドキュメントとして、
写真というものが登場する必要があるのではないかと思います。

フォトハウス京都HP


フォトハウス写真評論-8-
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2004.08.17
写真の背後に何がある?

写真をとらえる視点として、
ヴァルター・ベンヤミンさんは1930年代に「アウラ」ということばを使いましたし、
ロラン・バルトさんは1970年代に「プンクトウム」ということばを使いました。
メルロ・ポンティさんは1960年代に「見えるものと見えないもの」って言ってます。

そうなんです、写真はいつも見えるものを写すんですが、
いつも、見えないものを見えるようにしよう、との思いがあったようです。
現在ならどういうことばをつむぎ出したらいいんでしょうか。

作家にとって写真が表現の対象になるということは、
その作家において、この視点が必要なんだと思います。

その場所はいつも朦朧としていて明確でない場所なんです。
大きな枠組みとしての人間社会の出来事をつなぎ合わせていって、
見るひとの無意識に存在している朦朧を明確にしてあげること・・・

その中心となる視点は時代を反映しています。
いまなら、この中心となる視点が何なのでしょうね。
私は、自然、生命、欲望・・・この3つの組み合わせのように感じます。

ふっと思う想いの中に、生命の不思議を感じて自然の方へ向って欲望を満たしていく・・・
こんなイメージがおぼろげながらたちのぼってくるんです。
写真に撮られる光景の背後にあるものについて思いをめぐらすこと。
その何かを解明していく作業として、写真を撮るという行為があるのではないかな~

2004.08.18
写真現場は明るい場所

写真が撮られる現場には光があります。
この光は抽象的な光ではありません。
太陽の光または電灯の光のことです。

ですから「明るい場所」というのは、
抽象的な場所ではなくて具体的な光のある場所なんです。
これが写真現場の第一義的な撮影場所なんです。

つまり屋外に出て撮影する、太陽の下で撮影する。
室内でも光のある場所をしつらえて撮影する。
光の届く場所での身体行為として現場があります。

写真の現場での、このことは重要な意味を持っています。
原則として写真は写される現場があります。
イメージ像、想像の像は写らないんです。
現実にあるモノしか写らないんです。

次に現場を創ることもあれば、そのままの状態を撮影することもあります。
この場合でも現場は現実のモノがあります。
まえに写真の定義で、CG画像を写真とするか否か、なんて話もしましたが、
ここでは、現場のある実写画像の世界です。

この作業工程は、文学作業とは違うんです。
文学作業っていうのはむしろ密室作業ですね。
原稿用紙とペン、最近ならパソコンとキーボードですね。
このツールのなかで、頭のなかのイメージを言語化する作業です。

ぼくは、写真作業と文学作業を、ヒト個人として合流させようと考えています。
それにプラスして、身体作業としての「農作業」です。

ここでは、何をつくりだすか、その心は?ということには言及していませんが、
作業現場の区分をしておかなくてはいけませんから、ここでしておきます。
絵画や版画ではなくて、なぜ写真なの?ということへの回答でもあるんです。

写真の現場というのはおおむね、
部屋の中、密室作業ではなくて、明るい場所、屋外作業なんです。
(文学だって屋外でつくることもあり、写真だって室内でつくることもあり、です)

2004.08.19
写真の目的って何かな~

写真が撮られる。
何のために撮られるの?その目的は何なの?
この設問に対していくつかの答えが導きだせると思います。

そりゃカタログの写真ですよ!
通販で写真が無けりゃどんな商品だかわからないじゃん。

そりゃ雑誌の写真ですよ!
記事を読ませるより写真をみせた方が具体的イメージじゃないですか。
ファッション、コマーシャル、夢を売るんだよ購買欲高めるためにさ~。

写真を使うということには、確かにそんな役割を持たせています。

でもね、たとえば文学が、小説を単行本にして売り出すように、
写真も、写真を単独で本にしたり展示したりして売り出します。
これは絵画や版画の類も同じ形態をとりますね。
これをもって「・・作品」っていってますよね。

でも、これら作品は流通のなかでの出来事であって、
これが目的となるのではないんです。
むしろその背後にあるもの、それを考えて目的としないといけません。

人間の営みのなかには知覚作用があります。
ある「モノ」を見て、その「モノ」が何であるかを認知することです。
記憶という得体の知れない「もの」があります。
知覚・認知の作用は、この記憶との関係ですね。

写真がヒトの記憶に訴えかけるモノであるとしたら、
写真の目的は、この記憶を引き出すモノであることです。
記憶を引き出すと同時に、感情と論理を引き出されます。

写真を撮る側(写真家)からいえば、
写真によってどのような感情と論理を導き出すのかということです。
感情の引き出しを優先させる、論理の引き出しを優先させる、
その優先順位は写真を撮る側の認識に委ねられます。

感情と論理を引き出すその背後に何があるのでしょうかね。
それ(背後)は、世界の構造を明らかにして注視させる作用だと思うのです。
世界の構造を注視させてなお、感情のレベルで感動を起こさせるもの、
これが写真のあり方、目的とするところかな~って思っています。

世界とは、論理構造をもった人間中心の社会の全体、とでもいえばいいのでしょうか。
(本には、世界の枠組は、特異点、基本要素、基本原理、自己展開の4点を持つ、とありました)
この世界の全体枠組みを明視するための視点の当て方なんですね。
大きな世界概念レベルからヒト個人の感情レベルまで多様ですね。

※この論は、これからの作家論、作品論の足がかりにする視点です。

2004.08.26
写真はエロスをめざす

いまの時代は身体感覚取り戻しの時代なのかな~と思います。
本屋さんに入って写真集のコーナーを見てみると何が主流ですかね。
アイドル写真集が多いですね。
その世界はエロスなんですね。

写真は感覚と感覚が錯綜する場所です。
私的エロス的写真が多く撮られ発表され写真集となって販売される。
写真集に限りません、文学・小説だってよく似た現象ですよね。
この流れがいっそう強まる可能性は多分にあります。

情報をインターネットにより手に入れることがあたり前の現在。
これまで対面・恥じらいの領域としてきたエロス領域が、
ネットを使えばいとも簡単に手に入るようになったんですね。

写真や小説がハメハメの代償品として享受される。
この兆候は写真においては写真発明直後には存在します。
いつも表裏とか第一線以下以上とかいう線引きすれば、
裏・以下が並行して膨大に存在するんです。

これが現実の写真というメディアの姿なんですね。

テーマが私的領域に入ってきた昨今です。
これから先に向けて写真がめざすところっていえばやっぱりエロス。
現代写真を評論し、この先を見極めていく作業っていうのは、
この領域を見ずして語れない時代になってしまいました。

デジタル時代の写真評論とは、この領域への論及が不可欠ですね。
フォトハウス京都HP



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